沈むような恋を
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金曜日の夕方。約束の時間に小坂のアパートに行けば、私服に着替えた藤花が玄関のドアを開けた。一目空却を見るなり、ふふ、と笑った。小馬鹿にしたような表情になんだよ、と睨めば誤魔化すように口元に手を当てた。
「空却くんもマスクするんだなって」
「拙僧がマスクして何が悪りぃんだよ」
「健康優良児って感じだから」
父親に言われて病院に行けば、体の重さは夏風邪だろうということで、内服薬をもらい、点滴をすれば一晩でもとの調子に戻った。藤花も藤花でストレス性の胃潰瘍という診断を下され一週間ほど入院したが、今では元気に学校へ通っている。あの日、派手に転びはしたが、外傷もほとんどない。
ふたり、天国法律事務所に向かえば、いくらか愛想のよい獄が出迎えた。ぺこりとお行儀よくお辞儀した藤花をソファに勧め、ふたり向き合う。私物化した棚から湯呑みを出して、緑茶を淹れる。睨む獄を無視して藤花に聞けば、遠慮がちに茶を所望した。変な遠慮の抜けた藤花の態度は、中学どころか小学生の頃の距離感だ。
くだんの男との一件は、迷惑行為防止条例違反やらストーカー規制法違反あたりでケリをつけようとしていたところを、向こうから殺人未遂にしてブタ箱行きが決定した。諸々の手続きを粛々と済ませる藤花の顔は随分と健康的だ。夜もよく眠れてます、なんてにこにこと笑っている。眠れてなかったのかよ、と突っ込めば、バツが悪そうに目を逸らされた。
「まだ細々とした手続きは残っているけれど、確実に終わりに近づいている。お疲れさん」
「ありがとうございました」
ちょうど、藤花の携帯が震え始めた。ふたりに目で促され、藤花はぺこりと頭を下げながら席を外した。獄がじとりと空却を見やる。なんだよ、と睨めばくっと唇の端を歪めて笑った。
「なんとかは風邪を引かないって言うからな」
「うるせぇ。こちとら変な呪いかけられてたかもしれねぇんだぞ」
「……例の幽霊の話か?」
「さぁな」
小坂家に行くたび、藤花に会うたびに体に張り付いた重苦しい空気や体の重さは、事件の解決とともに解消された。藤花にしたってそうだ。空却の場合、ただの夏風邪だったのかもしれないし、藤花の場合、ストレス源がなくなったからとも言える。幽霊の不在の証明なんてできない。結局、生者が都合よく見る願望の形でしかないのだ。
取り押さえられた男は、冥婚の逸話と、いかに息子と藤花が愛し合っていたかを語りつづけているという。藤花の両親の死に関与したかも調査はされているが、立証は難しいだろう。それこそ不能犯というやつだ。
「この世は諸行無常。どれだけあいつに恋してた男が誠実であれ、生きるあいつを恨む日が来るのかもしれねぇ」
「……だが、嬢ちゃんはそうは思ってないらしいぜ。あの人が助けてくれたって」
あの日、凶器を持った男に追いかけられた時、藤花は派手に転んだ。まだまだ体が本調子じゃないからだと思っていたが、藤花は語る。「車が突っ込んでくる前、あの人が腕を前に引いてくれたから、車に轢かれずに済んだ」と。空却は幽霊を信じない。けれど、それを信じる藤花や、あの日の少年のことを否定することはしない。それで二人が救われているのは事実だから。いずれにせよ、藤花が何を見たのかなぞ、空却は知ることはできない。
携帯を片手に戻ってきた藤花は困ったように、しかし嬉しそうに微笑みながら獄に頭を下げた。
「すみません、失礼しました」
「ああ、構わない。随分嬉しそうだな?」
「実は明日、友人に遊びに誘われまして。私、高校に入ってすぐに入院したから、あまり友達がいなかったんですけど…。最近、仲良くなった人が多くて、それが嬉しくて」
ふふ、と笑った藤花は年相応の少女らしさがあり、獄も表情を柔らかくした。うし、と空却は立ち上がる。
「飯行くぞ。銭ゲバ弁護士が奢るとよ」
「は!?」
「藤花、何食いたい?拙僧は肉が食いてえ」
「灼空さんに怒られるよ」
「そういう問題じゃねぇ!」
キレ散らかす獄をよそに、藤花の手を引く。藤花はぱちくり、と大きくまばたきしたのちに、驚くほど優しく微笑んだ。柔らかなその表情は、十年以上前、初めて会った時、空却が恋をしたそれとよくよく似ていた。
「空却くんもマスクするんだなって」
「拙僧がマスクして何が悪りぃんだよ」
「健康優良児って感じだから」
父親に言われて病院に行けば、体の重さは夏風邪だろうということで、内服薬をもらい、点滴をすれば一晩でもとの調子に戻った。藤花も藤花でストレス性の胃潰瘍という診断を下され一週間ほど入院したが、今では元気に学校へ通っている。あの日、派手に転びはしたが、外傷もほとんどない。
ふたり、天国法律事務所に向かえば、いくらか愛想のよい獄が出迎えた。ぺこりとお行儀よくお辞儀した藤花をソファに勧め、ふたり向き合う。私物化した棚から湯呑みを出して、緑茶を淹れる。睨む獄を無視して藤花に聞けば、遠慮がちに茶を所望した。変な遠慮の抜けた藤花の態度は、中学どころか小学生の頃の距離感だ。
くだんの男との一件は、迷惑行為防止条例違反やらストーカー規制法違反あたりでケリをつけようとしていたところを、向こうから殺人未遂にしてブタ箱行きが決定した。諸々の手続きを粛々と済ませる藤花の顔は随分と健康的だ。夜もよく眠れてます、なんてにこにこと笑っている。眠れてなかったのかよ、と突っ込めば、バツが悪そうに目を逸らされた。
「まだ細々とした手続きは残っているけれど、確実に終わりに近づいている。お疲れさん」
「ありがとうございました」
ちょうど、藤花の携帯が震え始めた。ふたりに目で促され、藤花はぺこりと頭を下げながら席を外した。獄がじとりと空却を見やる。なんだよ、と睨めばくっと唇の端を歪めて笑った。
「なんとかは風邪を引かないって言うからな」
「うるせぇ。こちとら変な呪いかけられてたかもしれねぇんだぞ」
「……例の幽霊の話か?」
「さぁな」
小坂家に行くたび、藤花に会うたびに体に張り付いた重苦しい空気や体の重さは、事件の解決とともに解消された。藤花にしたってそうだ。空却の場合、ただの夏風邪だったのかもしれないし、藤花の場合、ストレス源がなくなったからとも言える。幽霊の不在の証明なんてできない。結局、生者が都合よく見る願望の形でしかないのだ。
取り押さえられた男は、冥婚の逸話と、いかに息子と藤花が愛し合っていたかを語りつづけているという。藤花の両親の死に関与したかも調査はされているが、立証は難しいだろう。それこそ不能犯というやつだ。
「この世は諸行無常。どれだけあいつに恋してた男が誠実であれ、生きるあいつを恨む日が来るのかもしれねぇ」
「……だが、嬢ちゃんはそうは思ってないらしいぜ。あの人が助けてくれたって」
あの日、凶器を持った男に追いかけられた時、藤花は派手に転んだ。まだまだ体が本調子じゃないからだと思っていたが、藤花は語る。「車が突っ込んでくる前、あの人が腕を前に引いてくれたから、車に轢かれずに済んだ」と。空却は幽霊を信じない。けれど、それを信じる藤花や、あの日の少年のことを否定することはしない。それで二人が救われているのは事実だから。いずれにせよ、藤花が何を見たのかなぞ、空却は知ることはできない。
携帯を片手に戻ってきた藤花は困ったように、しかし嬉しそうに微笑みながら獄に頭を下げた。
「すみません、失礼しました」
「ああ、構わない。随分嬉しそうだな?」
「実は明日、友人に遊びに誘われまして。私、高校に入ってすぐに入院したから、あまり友達がいなかったんですけど…。最近、仲良くなった人が多くて、それが嬉しくて」
ふふ、と笑った藤花は年相応の少女らしさがあり、獄も表情を柔らかくした。うし、と空却は立ち上がる。
「飯行くぞ。銭ゲバ弁護士が奢るとよ」
「は!?」
「藤花、何食いたい?拙僧は肉が食いてえ」
「灼空さんに怒られるよ」
「そういう問題じゃねぇ!」
キレ散らかす獄をよそに、藤花の手を引く。藤花はぱちくり、と大きくまばたきしたのちに、驚くほど優しく微笑んだ。柔らかなその表情は、十年以上前、初めて会った時、空却が恋をしたそれとよくよく似ていた。
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