沈むような恋を
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帰宅とともに鞄を放り投げて、カーペットの上に横になる。気だるい体は指の一本だって動かすのが億劫だ。制服が皺になるのも構わず、藤花は目を伏せる。
体が重くなったのはいつからだろう。母とともに交通事故に遭ってから。違う。あの頃、母と二人して、体調が悪かった。普段ならなんでもないような道で、普段の体調なら、車の急ブレーキ音に気づけたはずだ。ずっと、体の調子が良くなかった。父を失い、母とふたりで生きていくのに必死だったからだろうか。ちがう。亡くなる前の父だって、やつれていた。仕事が忙しくなって、なんて言いながらふらふらと家を出て、そのまま帰ってこなかった。そして、ここ一年、ずっと届き続ける郵便物。考えたくないことが頭をぐるぐる回る。そうやっていつも、ふつりと意識が沈んで、気付いた時にはまた、夢を見る。
夢では幼馴染が笑っている。クリーンルームに入ったきり出てこられなかった幼馴染だ。いつだって服の袖の下に隠していたけれど、二の腕のところに細い管が入っていて、血管を通って胸の奥まで点滴を運んでいるらしかった。治療の副作用で食事も食べられなくなって、どんどんと痩せていった。そんな姿を、見せたくはなかったのだろう。だから、夢に出てくる彼はいつも、制服を着てこちらに笑いかけてくる姿ばかりだった。
「藤花は波羅夷が好きなんでしょ」
そう、笑いかけられた夏の日のことを忘れられない。蝉の鳴き声も、教室の中の蒸した暑さも、全部吹き飛ぶような一言。何も返せない藤花を見て、ちょっと、泣きそうな顔をした。
言わないで欲しかった。誰かに言われなかったら、忘れられた初恋だったのに。そんな顔をされなかったら、幼馴染から向けられる視線も、自分の勘違いだと思い込むことができたのに。
幼馴染を続けられなくなった。ぎくしゃくして、避けるようになった。彼が入院してから、家族に連れられる形で見舞いに行った。やつれた姿に、彼を避け続けていたことを償うように、通い詰めるようになった。そのまま気づけば面会を制限されて、その後は御影石になった彼に会うことしか許されない。
彼の父親に話しかけられたのは、父の葬式だった。この度は御愁傷様です、と声をかけられて、雑談に移行した。制服姿の藤花を見て、目を細めながら、もうすぐ16歳だね、と言われた。
「君ももう高校生になるんだね。あの子もきっと、君と同じ制服を着て、また学校に行きたかっただろうな。一年しか同じ学校には通えないけれど、お付き合いしているのだから問題はないか」
彼の言葉が右から左に流れてゆく。なんなのだ、この人。そばにいた母が割って入って、なんとか穏便に話を終わらせようとした。その先の会話はあまりよく覚えていないけれど、去り際、耳元でかけられた一言は頭にこびりついて離れない。
「女性は16歳で結婚できるからなぁ。ゆっくりと、素敵な花嫁姿であの子のところへおいで」
それからだ。身の回りで変なことが起き始めたのは。
何気ない日々の中で常に視線を感じる。覚えのない言いがかりをつけられて諍いに巻き込まれる。やけに体調を崩しやすくなって、体の疲れが取れなくなる。父が死んで、母が死んだ。親戚中から気味悪がられて、友人とも疎遠になった。ひとり、母と引っ越してきたアパートにて過ごす。郵便受けには白紙の婚姻届が投函され続けている。眠れば夢に彼が出てくる。繰り返される夏の日の言葉。
「藤花は波羅夷が好きなんでしょ」
「女性は16歳で結婚できるからなぁ。ゆっくりと、素敵な花嫁姿であの子のところへおいで」
携帯のバイブレーションで目がさめる。慌てて跳ね起き、画面を確認する。浮かんだ文字は、「空厳寺」。震える指先でタップして、耳に当てた。
「もしもし、藤花さんかい?」
「……灼空さん?」
思っていた人の声じゃないことに、ひどく安心する。携帯を持ち替えて深呼吸する。紡いだ言葉は少し震えていたと思う。
「突然すみません。うちの空却がそちらに伺っておりませんかな?」
「……空却さんですか?いえ……」
「そうですか。なに、今日は小坂さんちに経をあげに行ってくる、なんて言って出ていったきり、帰ってきていないのですよ。そちらで何か粗相をしていないか心配でして……」
世界の時が、止まったような心地がした。
体が重くなったのはいつからだろう。母とともに交通事故に遭ってから。違う。あの頃、母と二人して、体調が悪かった。普段ならなんでもないような道で、普段の体調なら、車の急ブレーキ音に気づけたはずだ。ずっと、体の調子が良くなかった。父を失い、母とふたりで生きていくのに必死だったからだろうか。ちがう。亡くなる前の父だって、やつれていた。仕事が忙しくなって、なんて言いながらふらふらと家を出て、そのまま帰ってこなかった。そして、ここ一年、ずっと届き続ける郵便物。考えたくないことが頭をぐるぐる回る。そうやっていつも、ふつりと意識が沈んで、気付いた時にはまた、夢を見る。
夢では幼馴染が笑っている。クリーンルームに入ったきり出てこられなかった幼馴染だ。いつだって服の袖の下に隠していたけれど、二の腕のところに細い管が入っていて、血管を通って胸の奥まで点滴を運んでいるらしかった。治療の副作用で食事も食べられなくなって、どんどんと痩せていった。そんな姿を、見せたくはなかったのだろう。だから、夢に出てくる彼はいつも、制服を着てこちらに笑いかけてくる姿ばかりだった。
「藤花は波羅夷が好きなんでしょ」
そう、笑いかけられた夏の日のことを忘れられない。蝉の鳴き声も、教室の中の蒸した暑さも、全部吹き飛ぶような一言。何も返せない藤花を見て、ちょっと、泣きそうな顔をした。
言わないで欲しかった。誰かに言われなかったら、忘れられた初恋だったのに。そんな顔をされなかったら、幼馴染から向けられる視線も、自分の勘違いだと思い込むことができたのに。
幼馴染を続けられなくなった。ぎくしゃくして、避けるようになった。彼が入院してから、家族に連れられる形で見舞いに行った。やつれた姿に、彼を避け続けていたことを償うように、通い詰めるようになった。そのまま気づけば面会を制限されて、その後は御影石になった彼に会うことしか許されない。
彼の父親に話しかけられたのは、父の葬式だった。この度は御愁傷様です、と声をかけられて、雑談に移行した。制服姿の藤花を見て、目を細めながら、もうすぐ16歳だね、と言われた。
「君ももう高校生になるんだね。あの子もきっと、君と同じ制服を着て、また学校に行きたかっただろうな。一年しか同じ学校には通えないけれど、お付き合いしているのだから問題はないか」
彼の言葉が右から左に流れてゆく。なんなのだ、この人。そばにいた母が割って入って、なんとか穏便に話を終わらせようとした。その先の会話はあまりよく覚えていないけれど、去り際、耳元でかけられた一言は頭にこびりついて離れない。
「女性は16歳で結婚できるからなぁ。ゆっくりと、素敵な花嫁姿であの子のところへおいで」
それからだ。身の回りで変なことが起き始めたのは。
何気ない日々の中で常に視線を感じる。覚えのない言いがかりをつけられて諍いに巻き込まれる。やけに体調を崩しやすくなって、体の疲れが取れなくなる。父が死んで、母が死んだ。親戚中から気味悪がられて、友人とも疎遠になった。ひとり、母と引っ越してきたアパートにて過ごす。郵便受けには白紙の婚姻届が投函され続けている。眠れば夢に彼が出てくる。繰り返される夏の日の言葉。
「藤花は波羅夷が好きなんでしょ」
「女性は16歳で結婚できるからなぁ。ゆっくりと、素敵な花嫁姿であの子のところへおいで」
携帯のバイブレーションで目がさめる。慌てて跳ね起き、画面を確認する。浮かんだ文字は、「空厳寺」。震える指先でタップして、耳に当てた。
「もしもし、藤花さんかい?」
「……灼空さん?」
思っていた人の声じゃないことに、ひどく安心する。携帯を持ち替えて深呼吸する。紡いだ言葉は少し震えていたと思う。
「突然すみません。うちの空却がそちらに伺っておりませんかな?」
「……空却さんですか?いえ……」
「そうですか。なに、今日は小坂さんちに経をあげに行ってくる、なんて言って出ていったきり、帰ってきていないのですよ。そちらで何か粗相をしていないか心配でして……」
世界の時が、止まったような心地がした。