あるときのこと
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「助けてほしいんだ」
真剣な顔つきでそう言われたとき、霧絵の頭にはあらゆる恐ろしい可能性が過った。なにかの事件に巻き込まれたとか、起こしてしまったとか。そもそも彼が霧絵を頼るなんてこと自体が珍しい、というかはじめてだ。力になりたいという思いよりも、なんということだろうという不安がわずかに勝る。神妙にこくり、と頷いた霧絵に、ほっとしたように笑ったその顔は、ひどくうつくしかった。
「……違いますね」
「ですね」
ある程度悟っていたようで、一郎はくるくるとペンを回すと小さく唸った。余白ぎりぎりまで埋められた数式はしかし答えにはたどり着かず、半端なところで途切れている。どこから違うんだ、と呻く声はいつになく弱弱しかった。
留年の危機、さすがにそれはヤバい。勉強を教えてほしい。そう頼まれた霧絵は、とんでもない事件でないことにまず息を吐き、私にできることならと喜んで引き受けた。約束した日の夕方から、図書館の閉館時間まで。つきっきりで見た勉強であったが、しかしこれはこれでとんでもない事件であることを、霧絵は開始一時間ほどで悟った。
現代文はそこまでひどくはない。漢字の読み書きと四字熟語慣用句の誤用が少々あるが、読解問題はすらすら解ける。英語も、基本的な文法を説明すれば読解力はぐんと飛躍した。問題は数学だ。たしかにこれはだいぶヤバいというやつだ。どこかで躓いて、以来置いていかれたような理解の状況だった。それがどこなのかが特定できない。霧絵も一緒になって唸りながらも、引っかかった場所のヒントを与える。
「使っている式はあってる。どこかで単純なミスをしてます」
「ここはあってる……ここ、も。うん……?あ、ここか」
「いえ、そこもあってる」
「え、……ほんとうだ。あっわかったぜ、ここだここ」
「そそ。もっかい丁寧に解きなおしていって」
よっしゃとふたたび向き合うが、書くスピードは始めに比べればだいぶ落ちた。疲れているのだろう。腕時計を見ると、閉館まであと三十分ほどだった。
彼が霧絵の送迎にきてくれるとき、学ランを着ていても、教科書の入っていそうな鞄を持っているところは見たことがなかった。複雑な家庭環境であるらしいことも、神宮寺先生との会話で垣間見えている。彼の名前を知ったとき、自分なりに彼のことを調べた。イケブクロで有名な不良少年。それが、こうも真面目に課題に取り組んでいる。すこしだけ、一郎のことを知って、かえって彼のことが分からなくなったような気がした。そっと、彼の手元を見つめる。ペンの持ち方にすこし癖がある。綴られる文字は決して整っているわけではなかったが、丁寧だった。
自分の手元にある課題を見る。一郎の勉強をみつつ、進める予定だったそれはまっさらなままだ。彼が集中している間、問題くらいは見ようか。文字が目を滑る。設問1を埋めるころに、牧野さん、と呼ばれる。
「解けた」
「…………あってる」
「よっしゃ!!」
は、と慌てて手を口に当てる。閉館直前、人の少なくなった館内に彼をとがめるものはいなかった。帰りましょうか。ペンを片し、立ち上がる。いつもより大きなカバンを持った彼は、それでも霧絵の持つ黒鞄をさらりと持ってくれて、霧絵はぎゅう、と唇を噛んだ。
「牧野さんは文系なの?」
「どちらかと言えば」
「俺はどっちだろうな。そんなことも分からないくらいには、もう長いこと、勉強してなかったんだな」
「……嫌いですか?」
「正直なところ、嫌いなのかどうかすらわからん。恥ずかしいことに」
そういう彼の笑顔と、先ほど、よっしゃと叫んだ彼の笑顔がずれる。ぶれる。それでも重なる。あんなに嬉しそうに笑えていたのに。彼は自信にあふれている。迷うことなく一歩を踏み出す。けれど時折、ひどく傷つくことになれているようなそぶりをみせる。それが、もどかしい。
「……私、先生になりたいんです」
「へぇ、なんの?」
「高校生の、国語の先生です」
「俺みたいなのを毎日相手しなきゃいけないかもしれねぇよ?」
「それでもいいんです。私は、この夜をあてもなく歩くようなひとが、少しでも減ればいいと、思うんです」
「…………それは、牧野さんが怖い思いをしたから?」
「……自分の世界を面白くするためにです。こんなご時世でも、文字が分かれば、数字が分かれば、音楽が分かれば、あてもなく夜を歩かなくても、面白い何かを見つけられるかもしれないじゃないですか」
「……じゃ、俺は手ごわい生徒一号ってことで」
数学を面白くしてくれよ。頭を混ぜ返される。揺れる視界のなか、先をゆく彼の後ろ姿。学校で習うことが、彼の隣に並ぶことに役立つのだろうか。歯噛みする。それでも確かに、机に向かい合って座り、彼とひとつの数式と向き合ったあのとき、ようやく、近くにいられたと思ったのだ。
真剣な顔つきでそう言われたとき、霧絵の頭にはあらゆる恐ろしい可能性が過った。なにかの事件に巻き込まれたとか、起こしてしまったとか。そもそも彼が霧絵を頼るなんてこと自体が珍しい、というかはじめてだ。力になりたいという思いよりも、なんということだろうという不安がわずかに勝る。神妙にこくり、と頷いた霧絵に、ほっとしたように笑ったその顔は、ひどくうつくしかった。
「……違いますね」
「ですね」
ある程度悟っていたようで、一郎はくるくるとペンを回すと小さく唸った。余白ぎりぎりまで埋められた数式はしかし答えにはたどり着かず、半端なところで途切れている。どこから違うんだ、と呻く声はいつになく弱弱しかった。
留年の危機、さすがにそれはヤバい。勉強を教えてほしい。そう頼まれた霧絵は、とんでもない事件でないことにまず息を吐き、私にできることならと喜んで引き受けた。約束した日の夕方から、図書館の閉館時間まで。つきっきりで見た勉強であったが、しかしこれはこれでとんでもない事件であることを、霧絵は開始一時間ほどで悟った。
現代文はそこまでひどくはない。漢字の読み書きと四字熟語慣用句の誤用が少々あるが、読解問題はすらすら解ける。英語も、基本的な文法を説明すれば読解力はぐんと飛躍した。問題は数学だ。たしかにこれはだいぶヤバいというやつだ。どこかで躓いて、以来置いていかれたような理解の状況だった。それがどこなのかが特定できない。霧絵も一緒になって唸りながらも、引っかかった場所のヒントを与える。
「使っている式はあってる。どこかで単純なミスをしてます」
「ここはあってる……ここ、も。うん……?あ、ここか」
「いえ、そこもあってる」
「え、……ほんとうだ。あっわかったぜ、ここだここ」
「そそ。もっかい丁寧に解きなおしていって」
よっしゃとふたたび向き合うが、書くスピードは始めに比べればだいぶ落ちた。疲れているのだろう。腕時計を見ると、閉館まであと三十分ほどだった。
彼が霧絵の送迎にきてくれるとき、学ランを着ていても、教科書の入っていそうな鞄を持っているところは見たことがなかった。複雑な家庭環境であるらしいことも、神宮寺先生との会話で垣間見えている。彼の名前を知ったとき、自分なりに彼のことを調べた。イケブクロで有名な不良少年。それが、こうも真面目に課題に取り組んでいる。すこしだけ、一郎のことを知って、かえって彼のことが分からなくなったような気がした。そっと、彼の手元を見つめる。ペンの持ち方にすこし癖がある。綴られる文字は決して整っているわけではなかったが、丁寧だった。
自分の手元にある課題を見る。一郎の勉強をみつつ、進める予定だったそれはまっさらなままだ。彼が集中している間、問題くらいは見ようか。文字が目を滑る。設問1を埋めるころに、牧野さん、と呼ばれる。
「解けた」
「…………あってる」
「よっしゃ!!」
は、と慌てて手を口に当てる。閉館直前、人の少なくなった館内に彼をとがめるものはいなかった。帰りましょうか。ペンを片し、立ち上がる。いつもより大きなカバンを持った彼は、それでも霧絵の持つ黒鞄をさらりと持ってくれて、霧絵はぎゅう、と唇を噛んだ。
「牧野さんは文系なの?」
「どちらかと言えば」
「俺はどっちだろうな。そんなことも分からないくらいには、もう長いこと、勉強してなかったんだな」
「……嫌いですか?」
「正直なところ、嫌いなのかどうかすらわからん。恥ずかしいことに」
そういう彼の笑顔と、先ほど、よっしゃと叫んだ彼の笑顔がずれる。ぶれる。それでも重なる。あんなに嬉しそうに笑えていたのに。彼は自信にあふれている。迷うことなく一歩を踏み出す。けれど時折、ひどく傷つくことになれているようなそぶりをみせる。それが、もどかしい。
「……私、先生になりたいんです」
「へぇ、なんの?」
「高校生の、国語の先生です」
「俺みたいなのを毎日相手しなきゃいけないかもしれねぇよ?」
「それでもいいんです。私は、この夜をあてもなく歩くようなひとが、少しでも減ればいいと、思うんです」
「…………それは、牧野さんが怖い思いをしたから?」
「……自分の世界を面白くするためにです。こんなご時世でも、文字が分かれば、数字が分かれば、音楽が分かれば、あてもなく夜を歩かなくても、面白い何かを見つけられるかもしれないじゃないですか」
「……じゃ、俺は手ごわい生徒一号ってことで」
数学を面白くしてくれよ。頭を混ぜ返される。揺れる視界のなか、先をゆく彼の後ろ姿。学校で習うことが、彼の隣に並ぶことに役立つのだろうか。歯噛みする。それでも確かに、机に向かい合って座り、彼とひとつの数式と向き合ったあのとき、ようやく、近くにいられたと思ったのだ。