あるときのこと
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降りしきる雨に、がたんごとんと外を騒がせる強風、ぐずぐずに濡れた互いの履物。持っていた傘は駅を出てすぐにばきりと折れて役に立たなかった。いつも霧絵の両親が車をつける場所は他の車で溢れかえっていて、弱気になっていたらしい霧絵は唇をかんだ。すぐさま鳴り響く携帯を取ると、向こうからも、叫ぶような声が聞こえる。言われた場所へ走ると、見慣れた車が停まっていた。
「こっちだ!」
叫ぶ声に駆けていく霧絵。じゃあこれで、と声を張った一郎を振り返り、霧絵が踵を返す。え、と思ったときには腕を引かれ、走っていた。
「何から何まですみません」
出されたコーヒーをいただき、一郎は頭を下げた。身に纏っているのは、先ほど封を切ったばかりのシャツに下着、それから、父親のものと思しきジャージだ。足が長いから裾が足りないね、なんて笑いかけられ、曖昧に笑った。なんという状況だ、と思う。先ほどまで一郎が使っていた風呂にいる霧絵にひっそりと、助けを求めた。
車で家まで送ってもらえたらそれで良かったのだ。そう断ったはずなのに、車が進んでいくのは何度か見た牧野家のマンションであった。今月のお礼もまだお渡しできていないだろう。ついでだから、あったまってから帰りなさい。そう言われ、オートロックの向こう側へ初めて踏み入り、玄関で靴を脱いでいる間にタオルを投げ渡され、そのまま風呂へと押し込められた。脱衣所だけで十分生活できそうな広さのそこでびしょびしょの服を脱ぎ、軽く絞る。すぐに扉をノックされ、服は洗濯籠に。乾燥機付きだから、洗ったのを着て帰りなさい。と言われ、なんだかもう翻弄されっぱなしの一郎は考えることをやめ、その声に従った。
湯船には湯が張られていた。どうぞご自由に、と言われた通り借りたシャンプーやボディソープは、ひどく髪や肌を柔らかくした。足を伸ばしても十分ゆとりのある湯船で冷え切った体をほぐし、ほくほくで風呂を上がると、洗濯籠はからで、洗濯機がごうんごうんと回っていた。代わりにふかふかのタオルと着替えが目に見える場所に置かれており、封を切っていないシャツと下着さえあった。まさか霧絵が買ったわけではないだろう。どぎまぎしながらありがたく服を着る。脱衣所を出ると、あ、という声がした。そちらを向くと、髪をまとめ、首にタオルをかけた霧絵が、玄関で新聞を丸めていた。靴に詰めていたらしい。
「サイズ大丈夫?」
「え、あっ、おう」
「父さんのお客様用に買ってたやつだから、小さいかもだけど」
「全然」
「父さんがコーヒー淹れてくれてるから、どうぞ」
「ほんとうに、何から何まで」
「全然」
あいまいに笑い、ひらひら手を振る。早く行け、ということだろう。まっすぐ廊下を進んだ先、リビングでは、たしかに、彼女の父親がソファに腰掛けていた。
出された焼き菓子をつまみ、洗濯機が仕事を終えるのを待つ。彼女の父親は特に一郎に構うことなく、のんびりと読書をしていた。こっそりと、部屋を見回す。整理整頓の行き届いた部屋。家具は多くはなく、どれもシックなデザインだ。それでいてどこか、生活感に溢れている。部屋の隅では昼寝をしているらしい犬が一匹横たわっていた。
「まさか娘と同い年の男が、こうも早くうちに来るとは思っていなかったな」
「……ご迷惑をおかけしております」
「気にしないでください。私は人付き合いがうまい方ではないが、誰かをもてなしたい気持ちだけは立派でね。そう多くはないが、よく友人を泊めたりしているんですよ」
あの新品のシャツと下着は、そのためのものだったのかもしれない。困ったように笑うその顔は、どこか霧絵に似ていた。
「いつも、娘の面倒を見てくださり、ありがとうございます。いいや、それだけではない。あの日、あなたがいなければ、娘はもっと酷い目に遭っていた」
「いいえ、そんな。とんでもない。……俺は、ただの不良です。もっとうまいやり方があったはずです。みだりに、怖がらせるような真似もしました」
「それでも、私たちは、娘を救えたのはあなたしかいないと思っています」
彼が啜ったコーヒーから立ち上る湯気が、眼鏡を曇らせた。柔和な表情。顔立ちが整っているかどうかではない、美しく老いた姿だった。
「いつも、あなたの話をしています。娘にとって、あなたはヒーローのような存在なのでしょう。あんなによく話す娘は久しぶりです」
「……そんなに、ですか」
「はい。初めて連れて行ってもらった軽食に、壊れた時計を直してもらったこと、私や妻への贈り物を選ぶのに付き合ってもらった話。数え切れないくらい」
顔に熱が集まる。誤魔化すようにコーヒーカップに口をつけ、息を吐く。自分の父親ほどの年齢の人に、こうも丁寧に接せられた機会は、そう多くなかった。鼻つまみ者だった一郎に、こうも丁寧な言葉をかけてくれる人は、それこそ、遠い記憶の果てにある、父親くらいだった。
「いつだって、あなたには感謝しています。言葉では足りないくらい。これを表せるものが、あなたにお渡しする少ない謝礼でしかないことが、心苦しい」
「……あの、ここまでお世話になっていながら、厚かましいお願いであることは百も承知なのですが、教えていただきたいことがあります」
「……私に答えられそうなことなら、どうぞ」
「経営について、教えてもらいたいんです」
彼はちいさく首を傾げ、ややあって、ふわりと笑った。
「僕でよければ、なんなりと」
「……なにしてるの」
「おかえり。見ての通り、時計を修理してもらってる」
頬杖をついて、一郎の手元を覗き込む父親に、霧絵は首を傾げた。真剣な一郎を見てはぁ、とあいまいに頷き、コーヒーいる人、と尋ねた。はーい、と手を挙げた父親のカップを攫い、とくになにも言わなかった一郎の分まで、暖かなそれを淹れなおしてくれた。
父親のとなりに腰を下ろした彼女は、コーヒーをすすりながら、一郎の手元を見る。一郎が直しているのは、父親の書斎で使っている壁掛け時計だ。貰い物ゆえ大切に使っていたのだが、少し前から調子がおかしいらしい。ドライバーでネジを外し、慎重に様子を見れば、原因はすぐわかった。てきぱきと弄る一郎に彼は笑いかける。
「一郎くんのその技術は宝、資本だ。ふさわしい報酬が払われてしかるべきです」
「……変なことに巻き込んでない?」
「いや、むしろこっちからお願いしたことですから」
はい、直りました。手渡したそれを見て、彼はパァっと笑顔になる。ありがとう。さっそく飾ってくるよ。リビングを抜けた彼を見送り、向かいの霧絵に視線を戻す。髪はしっかり乾いている。すこしサイズの大きいパーカーに、ゆったりとしたハーフパンツ。きっかりとした服装でない彼女を見るのは初めてで、一郎はすこしどぎまぎした。
「服、もうすぐ乾くみたいです」
「そうか。ほんとうにありがとう」
「こちらこそ。父さんが迷惑をかけたみたいで」
「いいや。……ひさびさに、あんなに丁寧に接してくれる大人にあった」
「……そう」
お菓子、いります?誤魔化すように立ち上がられる。その耳はわずかに赤く、彼女も彼女で、いろんなことに照れているようだった。
紙袋に詰められた一郎の服と、たっぷり菓子の詰まった土産袋、弟たちが家で待っていると告げれば持たされた大きなタッパーにたっぷり詰まった豚の角煮。車を取ってくる、と出て行った父親を待つため、エントランスに霧絵とふたりで並んだ。
「ほんとうに、ありがとう」
「長時間、拘束してごめんなさい」
「いや、楽しかったし」
「……ありがとう」
もぞもぞとパーカーのポケットに手を突っ込んだままの霧絵に、らしくないと思う。ややあって、決心したかのように、彼女は口を開いた。
「山田くん」
「ん?」
「……お風呂上がり、しっかり髪を乾かしてくださいね」
「……悪い、どっか濡らしてたか?」
「そうじゃなくて……なんでもないです。風邪ひかないように」
「おう、牧野さんも」
外に、一台の車が走った。そろそろか、と思ったところ、霧絵に腕を引かれる。外から見えない角度に連れ込まれ、そっと、前腕に手をかけられる。つい、と背伸びした体。香るシャンプー、唇に当たったやわらかな感触。わずかに、時が止まる。
「……今日はありがとうございました」
「……は、え、あの」
「……私もこのあと、どぎまぎするので、一郎くんもどぎまぎしてください。では」
霧絵はエントランスをくぐる。ぶわ、と吹いた突風が彼女の髪を巻き上げられた。その様を目に焼き付け、追いかけるように、一郎は顔を赤くした。
「こっちだ!」
叫ぶ声に駆けていく霧絵。じゃあこれで、と声を張った一郎を振り返り、霧絵が踵を返す。え、と思ったときには腕を引かれ、走っていた。
「何から何まですみません」
出されたコーヒーをいただき、一郎は頭を下げた。身に纏っているのは、先ほど封を切ったばかりのシャツに下着、それから、父親のものと思しきジャージだ。足が長いから裾が足りないね、なんて笑いかけられ、曖昧に笑った。なんという状況だ、と思う。先ほどまで一郎が使っていた風呂にいる霧絵にひっそりと、助けを求めた。
車で家まで送ってもらえたらそれで良かったのだ。そう断ったはずなのに、車が進んでいくのは何度か見た牧野家のマンションであった。今月のお礼もまだお渡しできていないだろう。ついでだから、あったまってから帰りなさい。そう言われ、オートロックの向こう側へ初めて踏み入り、玄関で靴を脱いでいる間にタオルを投げ渡され、そのまま風呂へと押し込められた。脱衣所だけで十分生活できそうな広さのそこでびしょびしょの服を脱ぎ、軽く絞る。すぐに扉をノックされ、服は洗濯籠に。乾燥機付きだから、洗ったのを着て帰りなさい。と言われ、なんだかもう翻弄されっぱなしの一郎は考えることをやめ、その声に従った。
湯船には湯が張られていた。どうぞご自由に、と言われた通り借りたシャンプーやボディソープは、ひどく髪や肌を柔らかくした。足を伸ばしても十分ゆとりのある湯船で冷え切った体をほぐし、ほくほくで風呂を上がると、洗濯籠はからで、洗濯機がごうんごうんと回っていた。代わりにふかふかのタオルと着替えが目に見える場所に置かれており、封を切っていないシャツと下着さえあった。まさか霧絵が買ったわけではないだろう。どぎまぎしながらありがたく服を着る。脱衣所を出ると、あ、という声がした。そちらを向くと、髪をまとめ、首にタオルをかけた霧絵が、玄関で新聞を丸めていた。靴に詰めていたらしい。
「サイズ大丈夫?」
「え、あっ、おう」
「父さんのお客様用に買ってたやつだから、小さいかもだけど」
「全然」
「父さんがコーヒー淹れてくれてるから、どうぞ」
「ほんとうに、何から何まで」
「全然」
あいまいに笑い、ひらひら手を振る。早く行け、ということだろう。まっすぐ廊下を進んだ先、リビングでは、たしかに、彼女の父親がソファに腰掛けていた。
出された焼き菓子をつまみ、洗濯機が仕事を終えるのを待つ。彼女の父親は特に一郎に構うことなく、のんびりと読書をしていた。こっそりと、部屋を見回す。整理整頓の行き届いた部屋。家具は多くはなく、どれもシックなデザインだ。それでいてどこか、生活感に溢れている。部屋の隅では昼寝をしているらしい犬が一匹横たわっていた。
「まさか娘と同い年の男が、こうも早くうちに来るとは思っていなかったな」
「……ご迷惑をおかけしております」
「気にしないでください。私は人付き合いがうまい方ではないが、誰かをもてなしたい気持ちだけは立派でね。そう多くはないが、よく友人を泊めたりしているんですよ」
あの新品のシャツと下着は、そのためのものだったのかもしれない。困ったように笑うその顔は、どこか霧絵に似ていた。
「いつも、娘の面倒を見てくださり、ありがとうございます。いいや、それだけではない。あの日、あなたがいなければ、娘はもっと酷い目に遭っていた」
「いいえ、そんな。とんでもない。……俺は、ただの不良です。もっとうまいやり方があったはずです。みだりに、怖がらせるような真似もしました」
「それでも、私たちは、娘を救えたのはあなたしかいないと思っています」
彼が啜ったコーヒーから立ち上る湯気が、眼鏡を曇らせた。柔和な表情。顔立ちが整っているかどうかではない、美しく老いた姿だった。
「いつも、あなたの話をしています。娘にとって、あなたはヒーローのような存在なのでしょう。あんなによく話す娘は久しぶりです」
「……そんなに、ですか」
「はい。初めて連れて行ってもらった軽食に、壊れた時計を直してもらったこと、私や妻への贈り物を選ぶのに付き合ってもらった話。数え切れないくらい」
顔に熱が集まる。誤魔化すようにコーヒーカップに口をつけ、息を吐く。自分の父親ほどの年齢の人に、こうも丁寧に接せられた機会は、そう多くなかった。鼻つまみ者だった一郎に、こうも丁寧な言葉をかけてくれる人は、それこそ、遠い記憶の果てにある、父親くらいだった。
「いつだって、あなたには感謝しています。言葉では足りないくらい。これを表せるものが、あなたにお渡しする少ない謝礼でしかないことが、心苦しい」
「……あの、ここまでお世話になっていながら、厚かましいお願いであることは百も承知なのですが、教えていただきたいことがあります」
「……私に答えられそうなことなら、どうぞ」
「経営について、教えてもらいたいんです」
彼はちいさく首を傾げ、ややあって、ふわりと笑った。
「僕でよければ、なんなりと」
「……なにしてるの」
「おかえり。見ての通り、時計を修理してもらってる」
頬杖をついて、一郎の手元を覗き込む父親に、霧絵は首を傾げた。真剣な一郎を見てはぁ、とあいまいに頷き、コーヒーいる人、と尋ねた。はーい、と手を挙げた父親のカップを攫い、とくになにも言わなかった一郎の分まで、暖かなそれを淹れなおしてくれた。
父親のとなりに腰を下ろした彼女は、コーヒーをすすりながら、一郎の手元を見る。一郎が直しているのは、父親の書斎で使っている壁掛け時計だ。貰い物ゆえ大切に使っていたのだが、少し前から調子がおかしいらしい。ドライバーでネジを外し、慎重に様子を見れば、原因はすぐわかった。てきぱきと弄る一郎に彼は笑いかける。
「一郎くんのその技術は宝、資本だ。ふさわしい報酬が払われてしかるべきです」
「……変なことに巻き込んでない?」
「いや、むしろこっちからお願いしたことですから」
はい、直りました。手渡したそれを見て、彼はパァっと笑顔になる。ありがとう。さっそく飾ってくるよ。リビングを抜けた彼を見送り、向かいの霧絵に視線を戻す。髪はしっかり乾いている。すこしサイズの大きいパーカーに、ゆったりとしたハーフパンツ。きっかりとした服装でない彼女を見るのは初めてで、一郎はすこしどぎまぎした。
「服、もうすぐ乾くみたいです」
「そうか。ほんとうにありがとう」
「こちらこそ。父さんが迷惑をかけたみたいで」
「いいや。……ひさびさに、あんなに丁寧に接してくれる大人にあった」
「……そう」
お菓子、いります?誤魔化すように立ち上がられる。その耳はわずかに赤く、彼女も彼女で、いろんなことに照れているようだった。
紙袋に詰められた一郎の服と、たっぷり菓子の詰まった土産袋、弟たちが家で待っていると告げれば持たされた大きなタッパーにたっぷり詰まった豚の角煮。車を取ってくる、と出て行った父親を待つため、エントランスに霧絵とふたりで並んだ。
「ほんとうに、ありがとう」
「長時間、拘束してごめんなさい」
「いや、楽しかったし」
「……ありがとう」
もぞもぞとパーカーのポケットに手を突っ込んだままの霧絵に、らしくないと思う。ややあって、決心したかのように、彼女は口を開いた。
「山田くん」
「ん?」
「……お風呂上がり、しっかり髪を乾かしてくださいね」
「……悪い、どっか濡らしてたか?」
「そうじゃなくて……なんでもないです。風邪ひかないように」
「おう、牧野さんも」
外に、一台の車が走った。そろそろか、と思ったところ、霧絵に腕を引かれる。外から見えない角度に連れ込まれ、そっと、前腕に手をかけられる。つい、と背伸びした体。香るシャンプー、唇に当たったやわらかな感触。わずかに、時が止まる。
「……今日はありがとうございました」
「……は、え、あの」
「……私もこのあと、どぎまぎするので、一郎くんもどぎまぎしてください。では」
霧絵はエントランスをくぐる。ぶわ、と吹いた突風が彼女の髪を巻き上げられた。その様を目に焼き付け、追いかけるように、一郎は顔を赤くした。