一歩前進
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届いたメールを何度も目を通して、これまたご丁寧な、と目を細める。パソコンの端に表示されたカレンダー、一週間後はクリスマス。なにか準備すべきなんだろうか、とため息を吐いた。
「すっかりこのやりとりも慣れましたね」
新宿の寂雷が勤める病院から池袋のふたりの最寄り駅まで付き添い、どこかの飲食店にて軽食をつまみ、霧絵の両親の迎えを待つ。夏、二度目の事件があってからはや数ヶ月、あたりの手ごろな値段で時間を潰せる場所はたいてい制覇した。制服はふたたびブレザーに戻り、すこし前からはダッフルコートを纏うようになっていた。マフラーをするする解き、畳み、リュックと黒鞄とともに椅子に降ろす。コートを椅子に掛け、ようやっと席に落ち着いた霧絵は困ったように笑った。
「クリスマスにすみません」
「はは、全然。みんな、楽しみなのはイブから今日にかけてだろう。別にいいよ」
「山田くんはどう過ごしてた?」
「昨日は弟たちとケーキ作って、今日は前から予約してたピザ食べ放題の店でたっぷり元取るまでピザ食ってた」
「そんなお店あるの」
「めっちゃうめぇの」
「行ってみたいな」
「予約すぐ埋まるから、行きたいときは早めにな。牧野さんは?」
「うん、まぁ知っての通り、うちの親が今日から出張だったから、あんまり夜更かしはできなかったけど、ケーキ食べて、チキン食べて、シャンメリー飲んでた」
「プレゼントはなんかもらったのか?」
「ピアスをもらいました」
「……ピアス?」
「実は開けているんです」
ふふふ、と秘密を明かすかのように、髪を耳にかけた。よくよく目を凝らすと、たしかに彼女の耳朶にはちいさく、ぷつりとホールが開いていた。
「14才のとき開けたんです」
「校則的には大丈夫なのか?」
「まー当時は怒られました。でも、中高一貫なので、もはや諦められてます。さすがに学校にはつけてはいけませんが」
嬉しくて写真撮ったんです。取り出したスマホで見せてくれたそれには、ブランドものとおぼしきぶら下がり型のピアスをつけている霧絵と、微笑む彼女の両親が映っていた。来ているシックな黒のワンピースも含め、よくよく似合っている。今度見せてくれよ、と言えば、お正月明けですかね、と笑い返された。
霧絵の両親はそれなりに忙しいひとのようで、話を聞いていると入れ替わりで出張に出たり、遅くなったりするということが多いようだった。彼女の送迎はそれなりに無理をしてのことのようで、今回は何度目かの、両親が迎えに来れない日だった。
一度目、二度目はタクシーで帰っていた。三度目はひとりで帰って、四度目からは一郎が家のすぐ近くまで送っている。この後の予定は、と尋ねると、これまたご機嫌に、同じマンションに住んでる友達の家に遊びに行くんです、と言われた。じゃあ今日は家までなんだな。確認の言葉に、あいまいに視線を手元のシェイクにずらされた。彼女気に入りのそれは、あの一件がなければ、飲むことはおろか、こうしてハンバーガーショップで時間を潰すようなこともなかっただろう。鞄の中身を思い出し、口をつぐむ。そろそろ行こうか。誤魔化すように立ち上がった。
あの一件、勢いに任せてうっかり口走った思いの答えを、霧絵は返していない。現在進行形でPTSDの治療中の人間に、異性を好きになってくださいなんて言える方がおかしいと思う。答えを返さないことに、彼女は少しずつ罪悪感を覚えるようになったらしい。道行く人の数が減れば、彼女の口数も減る。山田さんという呼び方はあまりにも他人行儀で、一度、不良に絡まれている優等生と勘違いされたのか、見知らぬ中年女性に声をかけられて以来、山田君と呼ぶようになった。そのささやかな進歩に心から喜んで、あいまいなことは気にしないことにした。
マンションのエントランスまで送り、ありがとうございました、と頭を下げられる。少しだけ迷って、鞄からくだんの紙袋を取り出した。
「ん」
「……あの、これは」
「プレゼント。ご両親からもらったもんに比べれば大したもんじゃねえけど、よかったら」
ためらう視線。腕を降ろさぬ一郎に一歩歩み寄り、ちいさな手がそっとそれを受け取る。恥ずかしいから家に帰ってから開けて、という言葉に、きゅう、と目を伏せられる。
「あの」
「ん?」
「五分……いや、三分で帰って来るので、待っててもらっていいですか」
「は」
だっと駆けて、すばやくオートロックを解除し、また走っていく。前に聞いた話では、彼女の住む階は十五階だったはずだが、ほんとうに彼女は五分以内に帰ってきて、切らした息のまま、ぐい、と、同じように紙袋を突き出した。
「プレゼントです!」
「うお、え、あ、ありがとう」
「あと、ずっとお返事できてなくてごめんなさい!」
「……素直に言われるのもなかなか来るな」
「……ごめんなさい」
「良いよ別に。そっちからしたら突然殴られたようなもんだろうし」
「……私は、親や山田君に送り迎えしてもらえないと、ろくな下校もできないような人間です。まだ、突然変わった環境に、どうすればいいかもわかっていません。……でも、山田君に出会えなかった未来と言うのも、私にはわかりません」
きっと、見上げられる。うっすら涙すら浮いた瞳で、震える唇で、それでも決して逸らすことなく、力強く見つめられる。その瞳に、あの日怯え切って震えていた影はない。ただ、睫毛の長さだけが、あのときと同じで、やっぱり一郎は、綺麗な顔だと思った。
「絶対、ひとりで立てるようになります。少しでも近づけるように頑張ります。……だから、いまよりもましな自分になれたら、そのときは、ちゃんと私から告白するので、返事を考えててください」
頭をさげて、ぎゅ、と胸に紙袋を押し付けられる。紙紐を握る手は震えていた。手ごと掴んで、ひとまず礼を言う。あ、とつぶやいた腕を引いて、距離を詰める。真っ赤な顔が見えた。
「んじゃ、今日から敬語抜きで」
「うぇ、え」
「俺からしたら、あんたが俺より下だとか、後ろだとかにいるとは思わねぇけど、近づきたいってんなら、その距離感バシバシのしゃべり方から詰めてほしいな」
「……はい」
「はいじゃなくて」
「…………恥ずかしい」
「もっと恥ずかしいこと言おっか」
「勘弁してください……」
「……霧絵」
掴まれていないほうの手で、口元を覆っている。目はほんとうにもう泣きそうなくらい潤んでいて、耳まで真っ赤だった。
家に帰って袋を開けると、それは上等な皮の手袋だった。しっとりと手になじみ、意味もなく、ぐーぱーぐーぱーを繰り返してしまった。そののち、掴んでいた彼女の手首の細さを思い出して、あつい息を吐いた。ちっさくて、熱かった。にやける口元をだれにかは分からないが隠すように手を当てると、手袋に唇が当たって、気障なことしてんな、と小さく笑った。
「すっかりこのやりとりも慣れましたね」
新宿の寂雷が勤める病院から池袋のふたりの最寄り駅まで付き添い、どこかの飲食店にて軽食をつまみ、霧絵の両親の迎えを待つ。夏、二度目の事件があってからはや数ヶ月、あたりの手ごろな値段で時間を潰せる場所はたいてい制覇した。制服はふたたびブレザーに戻り、すこし前からはダッフルコートを纏うようになっていた。マフラーをするする解き、畳み、リュックと黒鞄とともに椅子に降ろす。コートを椅子に掛け、ようやっと席に落ち着いた霧絵は困ったように笑った。
「クリスマスにすみません」
「はは、全然。みんな、楽しみなのはイブから今日にかけてだろう。別にいいよ」
「山田くんはどう過ごしてた?」
「昨日は弟たちとケーキ作って、今日は前から予約してたピザ食べ放題の店でたっぷり元取るまでピザ食ってた」
「そんなお店あるの」
「めっちゃうめぇの」
「行ってみたいな」
「予約すぐ埋まるから、行きたいときは早めにな。牧野さんは?」
「うん、まぁ知っての通り、うちの親が今日から出張だったから、あんまり夜更かしはできなかったけど、ケーキ食べて、チキン食べて、シャンメリー飲んでた」
「プレゼントはなんかもらったのか?」
「ピアスをもらいました」
「……ピアス?」
「実は開けているんです」
ふふふ、と秘密を明かすかのように、髪を耳にかけた。よくよく目を凝らすと、たしかに彼女の耳朶にはちいさく、ぷつりとホールが開いていた。
「14才のとき開けたんです」
「校則的には大丈夫なのか?」
「まー当時は怒られました。でも、中高一貫なので、もはや諦められてます。さすがに学校にはつけてはいけませんが」
嬉しくて写真撮ったんです。取り出したスマホで見せてくれたそれには、ブランドものとおぼしきぶら下がり型のピアスをつけている霧絵と、微笑む彼女の両親が映っていた。来ているシックな黒のワンピースも含め、よくよく似合っている。今度見せてくれよ、と言えば、お正月明けですかね、と笑い返された。
霧絵の両親はそれなりに忙しいひとのようで、話を聞いていると入れ替わりで出張に出たり、遅くなったりするということが多いようだった。彼女の送迎はそれなりに無理をしてのことのようで、今回は何度目かの、両親が迎えに来れない日だった。
一度目、二度目はタクシーで帰っていた。三度目はひとりで帰って、四度目からは一郎が家のすぐ近くまで送っている。この後の予定は、と尋ねると、これまたご機嫌に、同じマンションに住んでる友達の家に遊びに行くんです、と言われた。じゃあ今日は家までなんだな。確認の言葉に、あいまいに視線を手元のシェイクにずらされた。彼女気に入りのそれは、あの一件がなければ、飲むことはおろか、こうしてハンバーガーショップで時間を潰すようなこともなかっただろう。鞄の中身を思い出し、口をつぐむ。そろそろ行こうか。誤魔化すように立ち上がった。
あの一件、勢いに任せてうっかり口走った思いの答えを、霧絵は返していない。現在進行形でPTSDの治療中の人間に、異性を好きになってくださいなんて言える方がおかしいと思う。答えを返さないことに、彼女は少しずつ罪悪感を覚えるようになったらしい。道行く人の数が減れば、彼女の口数も減る。山田さんという呼び方はあまりにも他人行儀で、一度、不良に絡まれている優等生と勘違いされたのか、見知らぬ中年女性に声をかけられて以来、山田君と呼ぶようになった。そのささやかな進歩に心から喜んで、あいまいなことは気にしないことにした。
マンションのエントランスまで送り、ありがとうございました、と頭を下げられる。少しだけ迷って、鞄からくだんの紙袋を取り出した。
「ん」
「……あの、これは」
「プレゼント。ご両親からもらったもんに比べれば大したもんじゃねえけど、よかったら」
ためらう視線。腕を降ろさぬ一郎に一歩歩み寄り、ちいさな手がそっとそれを受け取る。恥ずかしいから家に帰ってから開けて、という言葉に、きゅう、と目を伏せられる。
「あの」
「ん?」
「五分……いや、三分で帰って来るので、待っててもらっていいですか」
「は」
だっと駆けて、すばやくオートロックを解除し、また走っていく。前に聞いた話では、彼女の住む階は十五階だったはずだが、ほんとうに彼女は五分以内に帰ってきて、切らした息のまま、ぐい、と、同じように紙袋を突き出した。
「プレゼントです!」
「うお、え、あ、ありがとう」
「あと、ずっとお返事できてなくてごめんなさい!」
「……素直に言われるのもなかなか来るな」
「……ごめんなさい」
「良いよ別に。そっちからしたら突然殴られたようなもんだろうし」
「……私は、親や山田君に送り迎えしてもらえないと、ろくな下校もできないような人間です。まだ、突然変わった環境に、どうすればいいかもわかっていません。……でも、山田君に出会えなかった未来と言うのも、私にはわかりません」
きっと、見上げられる。うっすら涙すら浮いた瞳で、震える唇で、それでも決して逸らすことなく、力強く見つめられる。その瞳に、あの日怯え切って震えていた影はない。ただ、睫毛の長さだけが、あのときと同じで、やっぱり一郎は、綺麗な顔だと思った。
「絶対、ひとりで立てるようになります。少しでも近づけるように頑張ります。……だから、いまよりもましな自分になれたら、そのときは、ちゃんと私から告白するので、返事を考えててください」
頭をさげて、ぎゅ、と胸に紙袋を押し付けられる。紙紐を握る手は震えていた。手ごと掴んで、ひとまず礼を言う。あ、とつぶやいた腕を引いて、距離を詰める。真っ赤な顔が見えた。
「んじゃ、今日から敬語抜きで」
「うぇ、え」
「俺からしたら、あんたが俺より下だとか、後ろだとかにいるとは思わねぇけど、近づきたいってんなら、その距離感バシバシのしゃべり方から詰めてほしいな」
「……はい」
「はいじゃなくて」
「…………恥ずかしい」
「もっと恥ずかしいこと言おっか」
「勘弁してください……」
「……霧絵」
掴まれていないほうの手で、口元を覆っている。目はほんとうにもう泣きそうなくらい潤んでいて、耳まで真っ赤だった。
家に帰って袋を開けると、それは上等な皮の手袋だった。しっとりと手になじみ、意味もなく、ぐーぱーぐーぱーを繰り返してしまった。そののち、掴んでいた彼女の手首の細さを思い出して、あつい息を吐いた。ちっさくて、熱かった。にやける口元をだれにかは分からないが隠すように手を当てると、手袋に唇が当たって、気障なことしてんな、と小さく笑った。