こばなしむかしばなし
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電話が震えることはなかった。パン屋の前を通っても、彼女をみかけることはなかった。そういえば、彼女が普段食べているのはどのパンだったか。店内に入り、ショーケースを眺める。適当にパンを三人分買って、家路につく。出迎えてくれた兄弟たちはにおいを嗅ぎつけるなり腹を鳴らし、夕飯前だけど食っちまうか、と、三人でもそもそと洒落たパンを噛んだ。
確かに安くて、うまいな。確かにそう感じるのに、気持ちが満たされないのはどうしてだろう。
携帯が鳴った。手に取ると、神宮寺の名前。珍しいこともあるもんだと画面をタップすると、いつもどおり、落ち着き払った声が響いた。
「どうしたんスか?」
「ああ、ちょっと一郎君にお願いしたいことがあってね。実は、今日うちに来院予定の患者さんを最寄り駅まで送ってほしいんだ」
「ん?足が悪いとかスか?」
「まあそんなところだよ。一郎君と最寄り駅が一緒なんだ。そこからはご家族がお迎えに来てくれるらしいから、よろしく頼むよ。時間は……」
本当は、すこし期待したのだ。霧絵じゃないのかと、彼女と会うことができるのではないかと。ただ、勝手に期待し、それがしぼむのは少し疲れている。足の悪いばあさんとかだろう。そう言い聞かせ、新宿へと向かった。
心の底の期待は、通った。山田さんですね。看護師に声をかけられたとき、その傍に立っていたのはたしかに、牧野霧絵であった。今度は、息をのむ音は聞こえない。手だって、ちいさく振ってくれた。ただ、その笑顔はぎこちなかった。
「今日はご両親迎えにこなかったのか?」
「……はい、最近はずっと、学校まで迎えに来てもらってたんですけど、今日は私が断りました」
「調子はどうだ?」
「少しずつ、また、前の生活に戻ってきてます。ご飯も食べられるし、夜も眠れています」
入ったのは、いつものパン屋だ。両親が迎えに来るまで、あと一時間ほどあるらしい。おそらく、さきほどまで、長い期間経過を話し続けていた神宮寺といたからだろう。以前は食事も睡眠もままならなかったという事実をようやっと知った。そして、それがまだ十分ではないことも。目の下に浮いた隈は色濃く、体は前にも増して痩せていた。
「……ずっと、話したいと思っていたんです」
「……電話してくれてもよかったんだぜ」
「…………勇気が出ませんでした」
俯いたとき、髪がさらりと滑って落ちた。紙コップを持つ手はわずかに震えている。彼女が、神宮寺に山田を呼ぶよう頼んだことはわかっている。たった十一文字の数字を自分で打つことができないほど、きっと、この娘はうちひしがれていた。
そもそも、この娘と自分の関係はなんだろう。たまたま耳にした悲鳴を聞いて駆け付けた不良と、不良たちに暴行を受けていた少女。話はしないが、笑いかけて手を振る関係、同い年の男女。そのどれもが、彼女に一歩届かない。
「私は、山田さんに気づいてもらえなければ、もっとひどい目に遭っていました。それも二度も。こんな奇跡ありません。……私にお返しできるものはありません」
そういって、彼女が取り出したのは、厚みのある封筒だった。ずい、と差し出される。
「彼らから提示された示談金の総額と同額です。これまでの貯金から出してきました。思いはお金に変えることはできません。でも、お金にしか変えられないものでもあると思います。……今後は、両親が学校まで送り迎えしてくれることになっています。病院にも……。だから、もうお会いすることはないと思います。本当に、ありがとうございました」
息を吸い、吐く。しばらく考え込んで、もう一度、霧絵を見た。たとえ俯いていても、その背筋がぴんとのびている。姿勢のきれいな娘だった。言いたいことが三つある。そういったとき、びくりと体を震わせた。真剣な男の声音は、彼女にとって恐怖の対象でしかない。
「ひとつは、俺の気持ちを勝手に決めんじゃねぇよってことだ」
「……すみません」
「……そうじゃなくてさ。いつ俺がお前との関係を切りたいっつったよ」
「…………」
「お前はもう俺に会いたくないかもしんねぇけどよ。俺はお前が心配だし、飯食えるなら安心するし、夜眠れてるって聞いたらほっとするし、笑ってるところを見たら嬉しくなるんだよ。お前が勝手にすんなら、俺だって勝手してやる。毎日、寂雷さんとこに張り込んで、一目見てやるからな」
「……それは困ります」
「じゃあ金はいらねぇな。ほい。つーか、やっぱおまえお嬢様なんだな」
「……そんなんじゃないです」
「まぁいいや。ふたつめ。長々しゃべってはいたが、ごめんなさいより先にありがとうって言ってくれて、ありがとう」
このあたりで、彼女の肩は震え始めた。俯き、顔を手で覆う。細い指の隙間からこぼれる雫を隠してしまうよう、その手に、自分のごつごつとした指を重ねた。
「みっつめなんだが」
「お前が好きだよ」
確かに安くて、うまいな。確かにそう感じるのに、気持ちが満たされないのはどうしてだろう。
携帯が鳴った。手に取ると、神宮寺の名前。珍しいこともあるもんだと画面をタップすると、いつもどおり、落ち着き払った声が響いた。
「どうしたんスか?」
「ああ、ちょっと一郎君にお願いしたいことがあってね。実は、今日うちに来院予定の患者さんを最寄り駅まで送ってほしいんだ」
「ん?足が悪いとかスか?」
「まあそんなところだよ。一郎君と最寄り駅が一緒なんだ。そこからはご家族がお迎えに来てくれるらしいから、よろしく頼むよ。時間は……」
本当は、すこし期待したのだ。霧絵じゃないのかと、彼女と会うことができるのではないかと。ただ、勝手に期待し、それがしぼむのは少し疲れている。足の悪いばあさんとかだろう。そう言い聞かせ、新宿へと向かった。
心の底の期待は、通った。山田さんですね。看護師に声をかけられたとき、その傍に立っていたのはたしかに、牧野霧絵であった。今度は、息をのむ音は聞こえない。手だって、ちいさく振ってくれた。ただ、その笑顔はぎこちなかった。
「今日はご両親迎えにこなかったのか?」
「……はい、最近はずっと、学校まで迎えに来てもらってたんですけど、今日は私が断りました」
「調子はどうだ?」
「少しずつ、また、前の生活に戻ってきてます。ご飯も食べられるし、夜も眠れています」
入ったのは、いつものパン屋だ。両親が迎えに来るまで、あと一時間ほどあるらしい。おそらく、さきほどまで、長い期間経過を話し続けていた神宮寺といたからだろう。以前は食事も睡眠もままならなかったという事実をようやっと知った。そして、それがまだ十分ではないことも。目の下に浮いた隈は色濃く、体は前にも増して痩せていた。
「……ずっと、話したいと思っていたんです」
「……電話してくれてもよかったんだぜ」
「…………勇気が出ませんでした」
俯いたとき、髪がさらりと滑って落ちた。紙コップを持つ手はわずかに震えている。彼女が、神宮寺に山田を呼ぶよう頼んだことはわかっている。たった十一文字の数字を自分で打つことができないほど、きっと、この娘はうちひしがれていた。
そもそも、この娘と自分の関係はなんだろう。たまたま耳にした悲鳴を聞いて駆け付けた不良と、不良たちに暴行を受けていた少女。話はしないが、笑いかけて手を振る関係、同い年の男女。そのどれもが、彼女に一歩届かない。
「私は、山田さんに気づいてもらえなければ、もっとひどい目に遭っていました。それも二度も。こんな奇跡ありません。……私にお返しできるものはありません」
そういって、彼女が取り出したのは、厚みのある封筒だった。ずい、と差し出される。
「彼らから提示された示談金の総額と同額です。これまでの貯金から出してきました。思いはお金に変えることはできません。でも、お金にしか変えられないものでもあると思います。……今後は、両親が学校まで送り迎えしてくれることになっています。病院にも……。だから、もうお会いすることはないと思います。本当に、ありがとうございました」
息を吸い、吐く。しばらく考え込んで、もう一度、霧絵を見た。たとえ俯いていても、その背筋がぴんとのびている。姿勢のきれいな娘だった。言いたいことが三つある。そういったとき、びくりと体を震わせた。真剣な男の声音は、彼女にとって恐怖の対象でしかない。
「ひとつは、俺の気持ちを勝手に決めんじゃねぇよってことだ」
「……すみません」
「……そうじゃなくてさ。いつ俺がお前との関係を切りたいっつったよ」
「…………」
「お前はもう俺に会いたくないかもしんねぇけどよ。俺はお前が心配だし、飯食えるなら安心するし、夜眠れてるって聞いたらほっとするし、笑ってるところを見たら嬉しくなるんだよ。お前が勝手にすんなら、俺だって勝手してやる。毎日、寂雷さんとこに張り込んで、一目見てやるからな」
「……それは困ります」
「じゃあ金はいらねぇな。ほい。つーか、やっぱおまえお嬢様なんだな」
「……そんなんじゃないです」
「まぁいいや。ふたつめ。長々しゃべってはいたが、ごめんなさいより先にありがとうって言ってくれて、ありがとう」
このあたりで、彼女の肩は震え始めた。俯き、顔を手で覆う。細い指の隙間からこぼれる雫を隠してしまうよう、その手に、自分のごつごつとした指を重ねた。
「みっつめなんだが」
「お前が好きだよ」