病室から出た〝太宰あい〟を、森さんは大層心配していたようだった。やっと兄から離れる様子を見せた妹に安堵したものの、彼女の表情を見て凍りついた彼の表情ときたら…写真に収めていなかったのが悔やまれるくらいだ。

「あいちゃん、明日は学校に行くかい？」

その質問に、彼女は答えた。

「勿論」

笑っていた。自然に。不自然過ぎるくらいに。


　暦を確認したら、いつの間にか十一月に突入していたようだった。久しぶりに魔法処行の列車に乗った。改札の前で見知った萌葱髪の少年が立っていたから、〝私〟は思わず声をかけた。

「国木田君！」

あちらも私に気付いたようで、駆け寄って来た。

「あい！」

「うん、どうしたの？こんな所で」

「そ、それは…どうしてこんなに休んでた？何があった！太宰は？」

無理矢理話を変えた少年に私は苦笑しつつ、「ちょっと治と二人で風邪をひいたの。ほら、季節の変わり目でしょ？治はもう少し休んだら復帰出来るって」とべらべら噓を並び立てた。

＿噓を突き通す…〝君〟が起きるまでは。
それまでは、誰にも秘密を知られてはならない。

国木田少年は複雑な表情をして見せたが、私の話を信じる事にしたようだった。

「もう行こうよ、列車に乗り遅れる」

私は、これまた見知った胡桃色の頭をホームの向こう側で見た。けれど無視した。


　今日は火曜日だ。算数と妖精の呪文の授業がある。他は生徒会の業務に追われるだろう。つまり私に与えられた時間は二時間だ。その間に…否、もう関係ない。

　私は異変を悟られないように、敢えてホームルームに出席した。何だかラドヤード先生も私に憐憫の瞳を向けていた気がする。正直鬱陶しかったが、私はこの〝目〟が強ち役に立たないわけでもない事に気が付いた。
まず、誰がその目をしているかによって、誰が〝あの事〟を知っているかを判断出来た。例えばラドヤード先生と国木田少年では大分違う。
私の数少ない特技の一つに、『人を見極める力に長けている』というものが＿前世の人々のお墨付きの能力が一応ある。自分で云うのも何だが、これはかなり便利な能力で、論理的根拠こそないにしろ正確なものだ。つまり＿今のところではあるが＿私が確実に善人だと判断した相手が善人でなかった例は一度たりともない。
　この能力が備わっている事にこれほど感謝した日は今までで一度も無かった。おそらくこの能力は、役に立つだろう。明確な自信があった。

　一、二限の間は机上に教本と鉛筆を置くだけで、頭はずっと違う事を考えていた。教師に気づかれない程度に、偶に頁も捲った。

　黒幕の身になって考え始めた…そもそも始まりは何だったのか。そこから遡ってみた。何の始まりからか…そう、例えば〝太宰兄妹〟の命が脅かされ始めた時。

＿私の迫害が始まった、あの夜から。

そうだ、その件を通じて思い出した。
屍食鬼に襲われたあの晩、校長達の繰り広げていた密談の内容だ。

『この前の件もそうです…小栗君の調査によると、ラドヤードと佐々城先生の私物の至る所に睡眠薬の類が塗られていたとか』

『あの晩であの兄妹は孤立した』

黒幕はそもそもあの時点から動いていた。標的を孤立させておけば仕事が捗り易かっただろう。けれど相手にとって予想外だったであろう事はある。
それは、〝太宰あい〟の生徒会入部だ。
この事によって、彼女の完全孤立は一先ず免れた。
けれど太宰治の方は？おそらく相手の標的には彼も含まれているのだろう。現に今、彼は眠っている。

　…おそらく三つの襲撃は同一犯によるものだ。証拠はない。だがどことなく手口が似ている。
一つ目は新庄達を使った。彼らを唆したのか、あるいは誘導したのかは判らない。でも黒幕はあの日見回りだったラドヤード先生と佐々城先生に睡眠薬を盛った。私物の至る所に。
ここから推測出来るのは、犯人がおそらく職員室にも自由に出入できる教員関係者なのではないかという事だ。
半年間登校して判った事だが、職員室は必要の部屋にあって、しかもその上更に複雑な魔法をかけられていて、児童生徒の出入は容易ではない。それに薬を盛るには本当に至る所（、、、）に薬を塗らなければならない。例えば手が触れやすい＿机上とか机の引き出しだ。それが指にでも付着して、その後何かを触れて食べたりすれば犯人の望んだ状況に仕立て上げる事が出来る！

二つ目は…屍食鬼を使った。この時犯人はかなりズボラな手に出たと云える。どんな手段を使ったにしろ、屍食鬼を複数集めるには、使役するにはそれなりの専門知識と魔法の力量が要る。単純に考えて、ここで容疑者として浮かんでくるのはラドヤード・キップリングだが…彼ではないだろう。もし彼が犯人だったとしたら、自分に真っ先に疑いの目が向けられるような手管を使った相当な間抜けという事になる。同じ事を云えば、他の魔法生物飼育学の教師も違う。それにそうだとしたらあの夜で私は仕留められていたろう。キップリングの魔法生物飼育学の腕は本物だ。標的を二人のみに絞って襲い掛かるように調教するなど意図も容易く出来るに違いない(あの夜、屍食鬼は他の生徒も襲っていた)。

三つ目＿これは犯人も予想外だったろう。標的の一人が突然、一人になった。つまりどんな手段を使うのも容易い事だった筈だ。いきなり襲撃するもいい。錯乱の呪文をかけるもいい。でも太宰治があのような事になったのは＿

私はギュッと拳を握りしめた。皮膚に爪が食い込んだ。

太宰治は、犯人に唆されたと考える。自ら薬を飲んだのだ。ここから考えられるに、正常でない精神状態だった太宰治を、犯人が洗脳したのだ。どんな手段を使ってかはわからない。魔法か、それとも頭を弄ったのか＿否、そこはさして問題じゃない。
　…おそらく犯人はとても狡猾だ。新庄達の悪意を利用し、自らの手を汚す事なく人を自発的に動かした。その犯人の標的も今や一つのみ。

(つまり、私はここにいるだけでいい。ここにいさえすれば、自然と犯人も接触して来る…間接的若しくは直接的に。それは間違いない)

来い。今すぐにでもいい。返り討ちにしてやる。
お前が私に与えた苦しみを、お前にも味あわせてやる。

来い、来い来い！早くしろ＿


　「＿？あい？」肩に手が置かれた。

煩い！
〝私〟はすぐさま眼光を投げやり＿後悔した。そこには怯えたような瞳をこちらに向ける国木田少年がいた。肩が小刻みに震えている。

(彼を怖がらせてどうするんだ…)

私は取り繕うように笑って、「どうしたの、国木田君」と云った。少年の震えはまだ収まっていなかった。

「何って…もう授業終わってるぞ」

ハッとして辺りを見渡した。教師の姿はなく、児童はまばらになっている。国木田少年も私物を鞄に全てしまったようだった。

「ごめん、気が抜けてた」

「…お前、少し顔色が悪いんじゃないか。休んだ方が…」

「そうだね。じゃあ、保健室でも行こうかな」

付き添うと云ってくれた少年をやんわり断って、私は廊下に出た。

　…きっと彼とこう話せる日も少なくなるだろう。


　頭の回転をもう一度。

　…生ける屍の水薬は調合に、かなりの技術が要る。それこそ初等部中等部の児童生徒がそう易々と調合出来るわけがない。ここで職員が犯人なのではないかという疑惑がまた浮上して来た。それに魔法薬学に最も精通している＿魔法薬学の教師達に。だとすると最も疑わしいのは…

(小栗虫太郎…か)

その名前が出た次の瞬間には、頭を横に振った。
…安直過ぎる。これではラドヤード・キップリングだって容疑者のリストに入れられる。確かにあの男の日常的ないびり具合は教師として問題だが、流石に殺人に手を出す事はない…筈だ。
　しかし私の足は、思惑に反して地下室へと向かっていた。地下室の物置＿ではなく、魔法薬学の教室へ。室内は相変わらず陰気臭くて、陰湿な小栗には合っていると思った。私は壁に接した棚の中を確認した。

(確か薬の材料は…アスフォデルの球根にニガヨモギ…催眠豆やナマケモノの脳味噌…カノコソウも＿)

「…ですから、貴方の心配なさっているような事は何もありませんよ」

私は反射的に地面に伏せた。教室の奥から聞こえた声は、あまりに嫌い過ぎて逆に脳裏に焼き付いた声だった。この部屋で何度も聞いた、小栗虫太郎の声。

私は机の物陰からそっと顔を出した。教卓より更に向こうの、小栗の私室に繋がる扉の前、そこに二人の人影が立っていた。一人は小栗、もう一人は…

「ですからいい加減、初等部をこそこそ嗅ぎ回る行為は控えた方がいいと思うのですがね、織田先生？」

私の視界に、赤銅色の頭髪が入った。

「そういうわけにはいかない。俺は＿」「相変わらず前校長の優秀な走狗だな。君は」

その云い方がおそろしく厭味ったらしくて、小栗が好ましくない態度を取るのは自分だけでない事を初めて知った。

「それで、犯人の目星はついたのかね？探偵（ディテクティブ）君」

こんな状況でなければ、二人が何の話をしているのか見当もつかなかったろう。生憎、私は天然でもなければ鈍感でもない。

二人が話してるのは太宰少年の話だ。私には確信があった。

「それを貴方に話すわけにはいきません」

「これはこれは！どうやら私もお疑いのようですな、校長は。ならお尋ねするが、この私が譲渡した魔法薬など、果たしてあの少年が素直に口にすると思いますか、ん？」

私の予想の確証が出た。
小栗はおそらく＿犯人ではない。

　「再三云わせて頂くが、これ以上私に付きまとおうものなら…こちらにも考えがあるぞ」

小栗は苛立ちの帯びた声を吐き捨ててから、奥の自分の私室へと引っ込んでしまった。扉を閉じる際、爆音のような大きな音がした。辺りが静寂に包まれる…

「…いつまでそこにいる気だ？」

私は口を突いて出ようとした吐息を無理矢理飲み込んだ。ため息が聞こえたような気がする。

「出て来い、太宰」

私は諦めて、物陰から出て来た。私の姿を見て先生はまた、ため息を吐いた。

「一応云っておくが、俺の位置からはばっちり見えていたぞ。ここで何をしていた？」

私が返答に困って何も云えずとも、先生はすべてを判っているようだった。

「…これ以上、妙な事をするな。聞き入れないようなら俺はお前に罰則を与えなくては…」「どうぞご自由に」

するりと、まるで風のように口から言葉が出た。先生は思わず言葉を失ったようで、唇を引き結んだ。

「今回の事で気づけました。私は＿私の中で、命には優先順位がある。先日までは確かに自分の命が最上位であった筈なのに＿おかしな事に今は最下位にあるようだ」

私は続けた。

「もう、これ以上の望みなんかない。残った望みは＿至って単純なものだけだ」

　太宰治を永眠させた人間への報復＿そして、太宰治の目を覚まさせる事。
これ以上に優先させるべき事は、他にない。

「…」

私の目は今、どうなっているのだろう。熱い。燃えるように熱かった。でもその熱さえ、今は些細な問題だ。
　先生が、口を開いた。

「太宰…まずは聞いてくれ。その後はどうしようがお前の自由だ」

私の眼球はまだ熱を引っ込めなかった。

「俺も＿昔、お前と同じ思いをした。否、おそらく今もそうだ。きっと。でもその果てに一つだけ判った事がある」

先生と目が合った。青い瞳だ。この目が苦手だった。自分の中の、誰かを見る目。この人は〝太宰あい〟も〝私〟すらも見ていないのだ。

「復讐は＿全てを奪う。過去（人格）も未来（時間）も…だから俺はお前に、復讐に時間を費やしてほしくない」

「…それで、貴方は復讐を止めたのですか？」

沈黙は肯定かそれとも＿
私は肩を竦めた。

「ご教授感謝しますよ、先生」言葉ばかりの、感謝だった。

　私は彼を残し、地下室を出た。ふと廊下にかかっていた鏡に映った自分の瞳が＿嘗て見たこともないような赤色だった事に、私は気付きもしなかった。


　翌日、明後日、三日、一週間＿面白い事にそれから一か月は過ぎていた。私は思い通りにいかない現状にやきもきしていた。

(黒幕は〝太宰あい〟も標的に入れているのではないのか？！)

そうでなければ、自ら動くしかない。犯人を見つけるしか…。

「…難解だな。思い通りにいかない…」

それが人生だとは判っている。けれど私がこうして生きている間にも、太宰少年の時間は奪われていく一方だ。私が物を口にしている間にも、彼は＿。
　私の中で憎悪は増していく一方だ。時間が解決するなんて言葉が今では信じられない。
国木田少年は最近、やたらと私に「大丈夫か？」と質問する。その度に私は大丈夫だと笑って答えている。今ではその気遣いが煩わしいくらいだ。どうやら彼も、だんだん太宰少年が風邪で欠席しているわけではないと勘づいているようだった。


　…時間は砂時計のように流れて、もう翌日には冬期休暇に入ってしまうという時になってしまった。その日は朝から雪が降っていた。私は内心、好都合だとも思っていた。休暇中でも生徒会の職務はある。登校しても不自然には見えない。けれど犯人捜しにそんな時間は取れないだろうな…。

ドンッ、と何かにぶつかった。「ああ、ごめんなさい」

私はハッとした。今、どこを歩いているか全くもって判らなかった。心ここにあらずの状態がここ一か月も続いているからか、生徒会の仕事にも粗が出ている。与謝野先輩と花袋先輩は心配していたし、乱歩会長は怒っていた。
ここは廊下だった。そして私は二組へ向かう途中だった。何にぶつかったのか＿私は思わず目を剥いた。
それは人だった。私にぶつかった衝撃からか、地面に尻餅をついている。

「中原君…？」

中原少年は口に何か詰まっているような声しか出さなかった。そればかりか私と目が合うと、慌てたように視線だけ逸らした。

「…」

私は何故だかその態度を見て、この少年を穴が開くまで見つめてやろうという気持ちになった。この少年の嫌がる事ならしつくしてやる、という気概も持ち合わせていた。
きっとここが一組の教室と距離があるからだろう。

(何で君がここにいるのよ)「ぶつかってごめんなさいね、じゃあ」

私は倒れている彼を助け起こす事もしなかった。以前の私ならそうしたろうに、でもそうするわけにはいかなかった。
そうしたら＿してしまえば＿

＿あいつだってそうだ！あいに散々助けてもらった癖に！あいが死ぬかもしれなかったのに、どうしてあいつだけ！

＿あいは僕のことなんかどうでもいいんだ！僕なんかよりあの蛞蝓の方が大事なんだ…。

…あの晩、太宰少年は泣いていた。そして、誰かをひどく妬んでいた。今になって漸く判った。あれはきっと中原少年の事だったんだ。

(〝片割れ〟が死ぬかもしれなかった…それなのに肝心の片割れは君の心配を毛ほどもしなかった…悲しかっただろうな)

思えば私は、中原少年を庇ってばかりだった気もする。どうして太宰少年の擁護はいつもしなかったのだろう。どうして太宰少年に守られてばかりの状況に甘んじていたのだろう。後悔しても、もう遅い。

「お、おい！」

考えていた最中に呼びかけられ、私は些か機嫌が悪くなった。振り返って一応聞く姿勢だけは整えてやった。

「…何？」

こんな冷たい声を中原少年にかけるだなんて、一か月前の私なら予想さえしなかっただろう。どうやら表情もそれ相応のものらしい、中原少年の表情が凍りついている。

(＿逆にどうしてそんな顔ができるのよ)

私は貴方に殺されかけたのに！
貴方に酷い事だって散々された！
命だって助けたのに！

どうして貴方が＿私はそこまで考えてから、内心で首を振った。こんな事考えたって仕方ないじゃないか。

「…あ、」

中原少年は言葉を詰まらせたように、口をモゴモゴさせていた。私は苛立ちが収まらなかった。

「へえ、今度はそうやって私の〝時間〟を奪う気なの？」

中原少年は何故か驚いたように目を丸くさせた。それで、私の怒りは沸点に達した。

「ちが…」

「違う？何が？それ本気で云ってるわけ？」

中原少年が押し黙ったのをいいことに、私は捲し立てた。

「貴方が私の命を奪いかけたの、忘れたとは云わせないから。一度私の命を救ったからってそれでチャラになるとでも思ったの？貴方が忘れただけで、他にも色々奪ったわよね？そうね、例えば＿」「ごめん！」

不覚にも、私は次の瞬間には驚きに飲まれていた。

中原少年が、土下座をしている＿。

額と十指を床に擦り付けて、「ごめんなさい…ごめんなさい」と繰り返している。涙を孕むその声を聞いても、何の憐みも感じなかったけれど。

「許してくれなんて云わねぇ、けど…」「けど、何？じゃあ云ってみてよ、貴方が私から奪ったものの一つくらい」

私は少年の返答を待った。今の私は十秒も待っていられなかったけど。

侮蔑の思いを隠さずに云った。「やっぱりね。判らないんだ」
中原少年は必死に、私の期待する答えを探そうとしたようだけれど、焦りが駆け巡るだけで何も浮かんでこなかったらしい。視線を泳がせていた。口を開きかけては、口を閉じる＿その繰り返しだった。
私はその反応が許せなくて、力の限り怒鳴っていた。

「じゃあ、じゃあ教えてあげるわよお莫迦さん＿貴方が私から奪ったのは、友人よ！私の一番最初に出来た、友達を！！」

私はそれだけ怒鳴って、踵を返した。

「太宰＿！」少年の声に、私は耳も貸さなかった。

＿私は今更になって判った。どうして私が中原少年を憎む事なく、いつも擁護していたのかを。
それは私が、彼と友人になれるかもしれないという思いを捨てられなかったからだ。
あの日、商店街で会ったあの日から、私は彼と友人になりたいと思っていた。願っていた。けれど＿彼は何も云わずに私から離れてしまった。せめて何か一言でも云ってくれれば！私も諦めがついたかもしれない。

＿あい、今度クィディッチやろうぜ。

＿この前約束したろ？箒なら俺が教えてやるよ。

＿これでもういいだろ。もう俺には話しかけてくんなよ、〝出来損ない〟。

彼に投げられた言葉の数々が、脳裏を駆け巡る…もう駄目だった。


　教室に着くと、ラドヤード先生はもう既に教卓の前に腰掛けていた。いつも早い私が遅れて来た事に、先生は何やら感じたようだったが…気付かないふりをしてくれているようだった。
そして朝の通達が始まった。

「…今日は終業式だ。身なりを整えてから行くように。…それと」

いきなり先生は私の頭に掌を乗せて来たかと思うと、ポンポン撫でた。若干躊躇いがちで、撫でている最中は髪の生え際まで赤くなっていた。恥ずかしがるくらいなら、何故こんな事をしたのだろう…？その答えはすぐに判った。

「おめでとう、君の飛び級が決まった」

…あまり実感が湧かなくて何も云えずにいると、ラドヤード先生は続けた。

「とはいっても、確定じゃない。試験を受けて、その成績で飛び級をさせるか否か、どのくらい飛ばして進級する許可を与えるのか決める…試験は年明けの二月に行う」

全力で励めよ、と云って先生は頭から手を離した。

「はい…」

私は忘れていなかった。
魔法の使えない私は学ぶ教科が少ない分、進級も簡単なのだ、と。決して私が優秀なわけではない。決して。


　「…行こう。早めに行かなくては…ここからでは遅れてしまうから…」

先生はゆっくりと腰を上げて、扉に向かって歩いた。先生は閉じている引き戸の取っ手に触れる＿その瞬間だった。

「＿！？太宰、逃げろ＿！」

先生が途端に振り返った、かと思うと＿風が唸り、先生が渦を巻いて、消えた。あまりに一瞬の事だったので、私はただただ目を丸くするしかなかった。口もあんぐりと開いてしまう。

今のは、何だったんだ＿？

私の口がすぐに答えを出した。「姿くらまし…？違う、移動キー…」

そうだ。きっと、扉の取っ手が移動キーにすり替わっていたんだ。それで先生は飛ばされてしまった。

＿誰に？
誰がこんなことをしたのか？

逃げろ。そう先生は云った。つまり彼は誰がこれをしたのか、知っている。それはきっと私にも判る筈だ。すぐに判った。

(〝黒幕〟が＿遂に動き出したんだ！)

この一ヶ月、私が会いたくて堪らなかった人物だ。
次の瞬間、私の身体に震えが走った。決して恐怖から来る震えではない。

(来い、来い、〝略奪者〟め…！返り討ちにしてやる！！)

刺し違えても構わない。相手を確実に＿

ふと、耳に足音が聞こえた。廊下の方からだ。だんだんと、この教室に近づいて来る…ゆっくりとした足取りで。確信した。これはきっと…
ピタリ。足音が止んだ。ちょうど、扉の前で。私の震えが止んだ。今、扉を一枚挟んで敵がいるのだ。やっと、一矢報いる事が出来るんだ。

　ガラガラと、扉が開いた。いつも私やラドヤード先生が開くみたいに、普通に開いた。

「！？あなたは…！」

私は目を剥いた。それが〝思いがけない人物〟であったからだ。

開いた扉から現れたのは＿佐々城先生その人だった。

「貴女が！」息を飲んだ。驚きのあまり、復讐の『ふ』の字も忘れていた。
佐々城先生は先生は一笑もせずに、云った。

「ええ…貴女の予想通りですよ、太宰さん。貴女の兄君に薬を渡したのは、この私です」

私は乾いた喉に何とか鞭を打って、尋ねた。「生徒を嗾けて私を襲わせたのも、屍食鬼を学校に引き入れたのも…？」

「ええ」

「どうしてです！？治は＿私だって、貴女には何もしていない！」

思わず叫んでいた。そうだ、もしそうだったとしたらこの世の、なんて理不尽な事だろう。私に慈悲を与える事もなく、先生は＿佐々城は冷たく云い放った。

「ええ、そうでしょうね。貴女達は何もしていない。そして何も知らないだけなのです」