魔法処での夏休みは思ったよりも快適だった。
生徒会の先輩たちは人として出来ている(会長のいびりを除けば)から一緒に仕事をやっていて楽しいし、私をいじめてくる児童生徒はもういない。役員専用の部屋で寝泊まりした。偶に手の空いた先生たちが特別講義を開いてくれる事があって、私は進んでそれらに出席していた(勿論、小栗の受け持つ講義には欠席したが)。特別講義は動物もどきについてのものや日本魔法界の職業のものなど為になったりならなかったりする面白いものが多かった。そしてこれはいつもの事だったが、私の出席は太宰少年の出席、私が講義に出れば少年もついてきた。後々知ったが、初等部の児童で進んで講義を受けに行くのは私だけだった。
　今日はキップリング先生が海辺までわざわざ下りて、水域に生息する魔法生物と妖についての講義を開いた。その間、先生は飼育小屋で世話をしているケルピーやレモラを海に放していた＿校外で特別講義が開かれた理由の大半はこれか。

「・・・それとこれは非常に稀な事だが、浜辺にGhoul・・・屍食鬼がいる事がある。滅多にない事だろうがもし遭遇してしまった場合は鉄か何かで殴るといい」

いつものぼそぼそ声で、キップリング先生が云う。

　屍食鬼（ししょくき）についてなら文献で目にした事がある。グールお化けとは違い、よくテストでも引っかかる生徒が多いようだ。何でも砂漠に住む人喰いの魔法生物らしい。しかし砂漠に生息すると読んだが。
先生はそれに関しても補足した。

「屍食鬼は以前までは砂漠にのみ生息したが・・・最近になって人に化けて人間社会に溶け込んだり、砂漠以外の地域でも生息が可能となった。環境に合わせて進化した生物の例だ」

なるほど、と私は持ち込んだノートに書き込む。

「他にも、屍食鬼は非魔法族の伝承にも登場したり、諺にも登場したりと興味深い生物だ。高等部の卒業論文でも魔法族の中では多く論題にされている。
・・・しかし食人性のある危険な生物であり、諸君らにとっても身近な存在である事をくれぐれも忘れないように。数値で危険性を表せばXXXにもなる。
今日の講義は以上だ」

全員砂浜から立ち上がって、校舎へ帰ったり、その場で一休みしたりと往々の反応を見せた。初等部の児童が私たち以外いないから静かな賑やかさだった。しかしすぐにそれは私の認識の誤りだったと気づく。

(…中原少年だ)

今日は一人だった。友人の白瀬少年が家に帰ってしまったからだろう。橙色の彼の髪が太陽の金色を写して、輝いていた。それに反して哀愁を帯びた背中。暫しの間、彼を眺めていたら、隣の太宰少年が何やら勘違いしたらしい、鼻で笑った。

「ほらね。あいつ、友達がいないんだ」

その小馬鹿にしたような口調に、私は何故だか＿面白さを感じられなかった。どうしてだか、理由はすぐにわかった。

「友達がいないっていうなら、私だってそうだよ」

私の嫌悪感を滲ませた声に気付いたのか、太宰少年は急に決まり悪そうな顔をした。

「で、でも、君には私がいるでしょう」

「治は友達じゃないよ」私は事実を述べたまでだった。けれど少年は死刑宣告を受けた囚人のような表情を見せた。それを見て罪悪感を覚えなかったわけではない、けど私は舌を止めなかった。

「友達がいないからって馬鹿にするなら、治は私も馬鹿にしてる事になるね」

「僕、そんなつもりじゃ、」

太宰少年は今にも泣きそうになっていた。今の私にはその顔も煩わしくて、鬱陶しかった。
　私はこの場にいるのも嫌になって、校舎に戻ろうと駆け出した。珍しく治は私の後を付いてこなかった。最初は気にしなかった。けれど昼食時に大広間で姿を見かけなかった時は流石にひやりとした。午後は生徒会の仕事があるから、彼と必然的に会えなくなるのだ。自分でも意識しない内に私は彼うを心配していて、仕事で二度もミスをしてしまっていた。
　けれど心配は杞憂だった、少年は夕食時にちゃんと来たからだ。少しばかり居心地悪そうにしていたけれど。しかしそれも私の機嫌が悪くないと知れると、徐々に調子を取り戻していった。
内心ほっとした。愚かにも私はその理由に気づけないままだった。
　考える時間も与えてくれずに、事件が起こったからだ。

　私がちょうど煮物に箸をつけようとした時の事だった。

…侵入者ダ！侵入者ァ！

広間中に響く鳥の鳴き声が、危険を知らせた。入学式の日、私が密かに〝号令鳥〟と名付けたキップリング先生の鳥だ。本当はオーグリーというらしい。本来は雨天になる事を予報するだけの鳥だが、品種改良の結果によって、こういったふうに様々な事を鳴き声を発せられるようになったようだ。
号令鳥は主人公のキップリング先生の右肩に止まった。先生がなにやらぼそぼそと鳥に向かって口を動かすと、鳥は低く鳴る声を発した。

…屍食鬼ヲ中庭ニテ発見。至急、応援ヲ要請ス。

屍食鬼。人喰いの怪物が、校内にいる。
忽ち広間は大混乱になった。

　…バァン！

突然、広間の扉が開いた。誰もがそちらに注目した。そこに立っていたのは、騒ぎを聞きつけたらしい、副校長だった。

「全員、落ち着きなさい」

凛とした声は決して大きいものでない筈なのに、その場の全員を押し黙らせる力が込められていた。
副校長はキビキビとした歩調で、部屋の中央まで進んだ。そして周囲を見渡した後、全員に指示を出した。

「生徒会役員は児童を引率して寮に戻りなさい。決して一人にならないように。
先生方は二人一組になって屍食鬼を探してください。迅速な対応を期待しております」

私はすぐに立ち上がって与謝野先輩から指示を仰いだ。

「花袋とあいは低学年を引率しな、妾は高学年を引率する。アンタら間違っても死ぬンじゃないよ！」

「はい！」

私は前方で一年生たちから引率する役目を担った。田山先輩は最後尾に付いた。

「私についてきて！絶対に離れないでください！」

私はなるべく自分が頼りになる役員に見えるようにふるまった。そうする事で彼らの恐怖心が少しでも軽減出来ると思ったのだ。

　しかし彼らの恐怖の種が間近に迫っている事に、私は気づかなかった。

　吹き抜けに面する廊下を歩いていた時だ。声変わり前の少年の悲鳴が廊下に響いた。全員が事態を理解して＿それとも理解出来ていないまま、蜘蛛の子を散らすようにして逃げた。

「皆、四方に逃げるな＿！ああ、こら！」

田山先輩が必死で呼び止めるも、パニックに陥った者の耳に入るわけもなし。それよりも私は先程上がった悲鳴のもとへと駆け出した。

(やっぱり＿！)

少年は、吹き抜けから這い上がって来た屍食鬼に襲われたらしい。床上に押し倒されていて、赤黒い涎を口から垂らす屍食鬼に、今にも喰われそうな勢いだった。校内に潜り込んだ人喰いの怪物は一体何体いるのだろう。けれど今はそんなことよりも目の前の敵を追っ払う事が先決だ。

　私は勢いよく踏み出したが、背後からそれを阻む者がいた。肩を思い切り掴まれてそれ以上先へ進めない＿こんな時に！

「どうして止めるの、治！」

そう、それは太宰少年だった。彼は私の肩を更に強く引っ張った。

「だって、あんな〝奴〟助ける必要なんてないじゃないか！」

太宰少年がそう云うのも無理はなかった。今正に屍食鬼に襲われているのが＿中原少年だったから。

「どうして助けようとするの？あいつのせいで、君は今まで死に目に遭ったのに・・・散々な目に遭ってきたじゃないか！」

太宰少年の目が、私を捉えた。何かを訴えてきていた。・・・それでも私は、その要望に応える事が出来なかった。

応えてしまったら、最後私は…＿

私は太宰少年の手を振り払った。「先に逃げてて、治」

「あい！」太宰少年の声が背中越しで聞こえる。その声も振り払わなくてはならない。
これだけは絶対にやりたくない手段だったというのに、そうせざるを得なくなるとは。神様は本当に私が大嫌いなんだろう。それを再確認する。

私は地面を思い切り蹴った。目の前の柔らかい肉を今にも喰わんとする屍食鬼に、抵抗しようともがく中原少年。私は躊躇なくその間に向かって突進した。私は最早無我夢中だった。
ドン！と屍食鬼に体当たりすると、怪物の身体は意外と軽かった…三米（メートル）程先に吹っ飛んでしまった。けれど受けたダメージは然程のようで、すぐに体勢を整え、此方を睨め回してきた。
なんて恐ろしい見てくれをしているんだろう！屍食鬼の姿を思わず確認してしまった私は、そう思わずにはいられなかった。何日も洗っていないんであろう頭髪は、浴びた血が乾いた後のような褐色だ。身体は血の気を帯びていないような蒼白だし、怪物から漂ってくる腐った臓腑と鉄の臭いを混ぜたような悪臭が鼻につく。耳まで裂けた口から覗く黄ばんだ歯の間には＿おそらく人間のものであろう＿肉片が挟まっていた。卑しい赤い目は、食事を取り上げた私を恨みがましそうに射抜いてくる。唸り声からも、不機嫌さが滲み出ていた。

「中原君、立てる？」

私は屍食鬼に対しての警戒を怠る事なく、起き上がった少年の容態を確認する…幸い、目立った外傷はないようだった。けれど彼の負った精神的外傷は計り知れない。当然だろう、あんなグロテスクな怪物に馬乗りされたなんて、私だったら一日中寝込んでいるところだ。残念ながら今寝込んでいられる時間はまったくもってないのだけれど。
…グラァアア！！！
本当に気を抜いている暇などなくて、瞬く間に屍食鬼は咆哮を上げながら、私の方へと襲いかかって来た。突き出された鋭い爪が私に向かって来た。あれに引っかかれたら大怪我どころじゃ済まないだろうという程度には、殺傷能力が見て取れた。私は距離を推し量って後退した後、怪物の脇腹目掛けて前蹴りを喰らわしてやった。めりっ、と肉に埋まる感触が脚に伝わってくる。歯応えあった。
屍食鬼は思った以上に飛んでいき、近くの障子を突き破って、すぐに姿が見えなくなった。
　あの恐ろしい怪物が見えなくなって…私は勇敢とも間抜けとも云える行動に出た。いや、矢張り私は間抜けだった。屍食鬼が作った障子の穴に近づき、あろうことか覗き込んだのである。副校長の言葉を借りるなら…あまりに軽率な行い、だったろう。すぐに逃げるべきだったのに、高が怪物の生死を確認したかったが為に己の身を危険に晒した。
　…それはあまりに一瞬だった。覗き込んだ穴から、突然〝何か〟が飛び出してきた。その正体は言わずともわかるだろう、まだ再起可能だった屍食鬼だ。
怪物は攻撃された時から、もう見境なくなっていた。私を獲物と捉えていた。鬼の鋭い凶牙が、私の片肩に喰らいついてきた！

「うあぁぁああ！！！」

痛みに比例して、口から迸る悲鳴が大きくなっていった。ゴリッ、という嫌な音は、おそらく鬼の凶牙が私の骨に到達した故に発せられた音だろう。それを聞くだけで失神しそうだ。これから自分が死ぬ事を想像してしまう。否、それが現実になる。ぞくりと鳥肌が立った。その程度には私も臆病だった。

　臆病。そう、私は臆病だった。
私の兄として懸命に闘ってくれる太宰少年に秘密を打ち明ける事もせず、私と仲良くしてくれようとした中原少年にも本当の事を云おうとしなかった。生徒会に入ったのも、魔法を使える他の子たちを見返したかったから、ただそれだけだった。きっと会長はそれに気づいていたんだ。だから私にあんな態度をとってたんだ。こんな打算的な奴、神聖な生徒会に入る資格もなかったろうに。

何だ。私、死んで当然の存在だったんじゃないか。

逃げるだけの臆病者。剰え、死の淵に立たされてからの後悔だ。自業自得にも程がある。


　でも、でも。

ガルァ！？

屍食鬼が驚いた声を上げた。それもそうだろうなあ。だって死にかけだった筈の〝餌〟がいきなり腕を首根っこに巻き付けてきたんだから。
私はおそらく二度目の生を受けてから＿最大の諦めの悪さを見せていた。両腕に火事場の馬鹿力を発揮していた。

　これがおそらく私の最期の功績となるだろう。児童が全員が安全地帯に逃げ切るまで、この場でこの襲撃者を食い止める。それこそ最期はこいつの腹の中に納まっているんだろう。それでもいい。〝出来損ない〟の命一つと何人もの〝将来有望の命〟とでは価値の重さが違う。それにこれは私の勝手な判断だが…こうする事で今までの罪の償いが出来るというのなら…こんな事、容易いものだ。

　私も覚悟を決めた。
血が身体から消えていく感覚がして…私の気も遠のいて…私は目を閉じた。

「ステューピファイ！！」

遠くから野太い声が聞こえた。ああ、失神呪文だ。それに気がつくと、胸の上に圧し掛かっていた重さもなくなった。思わず目を開けると、私から五米先程離れた廊下の床に、屍食鬼が転がっていた。
一体どうしたっていうんだろう。そう思っていたら、反対側の廊下からバタバタと騒がしい足音が聞こえてきた。そちらの方に喘ぎ喘ぎ顔を向けた…霞む視界の中に、赤銅色の髪と砂色のローブが入って来た。その人物は一目散に私のもとへ駆け付けた。

「しっかりしろ＿〝あい〟！」

私はその時思った＿彼は苦手だ。やっぱり彼は、私を通して＿私の中の誰かを見ていた。決して私ではなく。

この、織田作之助という男は。

その背後から今度は見慣れた小さい影が飛び出てくる。

「あい、しっかりして、あい！」

太宰少年だ。泣きじゃくって、哀れな姿だ。私の意識を取り戻させるためなんだろう、両頬を頻りに叩かれる。

「太宰、あまり揺らすな。出血量が大分多いな・・・化膿してないといいが・・・」

ばあか、私は内心悪態を吐いた。
あんな何日も歯磨きしていないだろう歯に、雑菌が生息していないわけがない。私は潔癖症ではないが、そうでなくとも何の罰ゲームかと思った。

　バタバタと、他にも大勢の足音が聞こえてきた。

「織田先生！太宰さんは＿」

凛とした声。副校長の声だ。彼女の息を吞む声に、(そんなに今の私の姿は酷いのだろうか)と思った。確かに副校長の前では大抵の美人も凡人となってしまうが。

「容態は？」

「左肩から二の腕にかけての傷が酷い。感染のおそれもあります。すぐに山本先生に診せないと」

「そうですか…先程校長から連絡が来ました。幸いにも全ての屍食鬼の駆除に成功したと。怪我人も太宰さんのみのようです」

副校長の報告を聞いて、私は少なからず安堵した。私がその結果にどれ程貢献できたのかは判らない。でも＿傷ついたのが私だけでよかった＿。
私が自然と笑顔を溢したのを見ていたらしい。太宰少年が遣る瀬無そうな顔をしているのを見た。彼の気持ちはわからないでもなかった。けれど今の私には彼の心まで気遣える余裕が＿まだなかった。

「織田先生、太宰さんを保健室に。私は凡ての侵入者を警察に引き渡しますので」