左様ならばお元気で

これの続きです。時系列は数十年後を想定

来年、この桜の木の下でまた会おう。そんな約束を交わしてから早48週、あっという間に季節は巡り巡ってまた春を迎えた。去年と同じ様に春風が穏やかに吹いて私の頬を撫で、背もたれにしている後ろの桜の木からは花弁がはらはらと風に舞い、青い空に桃色の彩りを添えて何処かへ飛んで行く。桜はその美しさで様々な生き物を虜にすると言うが、まさかそれに神も当てはまっているとは驚きだ。

そんな幻想的な風景に目を奪われて暫く呆けていると、後ろの茂みからガサ、と明らかに人為的な音が聞こえてきた。その微かな音は私の獣特有の聴力によってあっという間に拾われ、私を現実世界に引き戻すのに十分な効力を発揮した。…だが、私はそんな不可解な音にも特に動じないまま、慣れた様子でその揺れる茂みを眺めていた。まるで、何度もそれを経験しているかのように。

「…いい加減、出て来たらどうだ」

私がそんな言葉を茂みに向かって投げかけたと同時、茂みがもう一度大きく揺れたと思うと、中から上品な佇まいの老婦人が、悪戯が成功した時の子供のような表情を浮かべながら静かに出て来た。片方の腕には木製の杖を付いていて、もう片方の手からは何やら大きい箱のようなものを風呂敷に包んでぶら下げている。私はそんな老婆の姿を一目見た途端、呆れたようにフッと口元を緩め、静かに彼女の手を引いて己の傍らへ座らせた。そこは一番桜の木を綺麗に見ることの出来る、私と彼女の昔からのお気に入りの場所であった。

「あらアルセウス、すっかり私より早く来るようになったのね。前までは私の方が先に来てたのに」

「女を待たせるのは男の恥だと、私に教えたのはお前だろう」

「あら、そんなの教えた事あったかしら、昔の事だからすっかり忘れてしまったわ」

目を細めて穏やかにそう言って笑い、手に持っていた風呂敷から箱を取り出して静かにそれを開いた彼女。そこには様々な具材が挟まれた沢山のサンドイッチが均等に並べられていて、その美味そうな匂いと見た目は見ているだけで食欲がそそられる。一年に一度しか食べることの叶わない、私の一番の好物である、彼女の作ったサンドイッチ。初めて出会ったあの頃と比べ、遥かに料理の腕が上達している。確か初めて彼女に食べさせてもらったサンドイッチは、半分に切られてすらいない食パンの間に薄切りのハム1枚適当に挟まれただけの、最早食文化への冒涜とでも言った方が正しい位の杜撰な物であったが、長い年月を経て、大分彼女の料理の腕も上達したらしい。端の耳を取り除かれ、美しい三角の形に切られた2枚のパンの間に、瑞々しい果物と生クリームが形を崩すことなく丁寧に挟まれたフルーツサンドを味わいながら、ふとそんな事を思った。

そんな私の横顔を眺めながら、不意に彼女が一言。

「随分美味しそうに食べるね、アルセウス。それに表情も昔と比べて大分豊かになった」

「…私は何も変わらない。それに昔と言っても、たった数十年前の話だろう」

「いいや、君は確かに変わっているよ。以前はもっと固い表情で…態度だって今より傲慢で、いかにも"自分は神様だ"と言わんばかりの上から目線で…鉄面皮を具現化したような雰囲気を醸し出してて…」

「…昔の私が大分横暴だった事は良く分かった。だからもう口を閉じてくれ」

耳を塞ぎたくなる気持ちをグッと堪えながら、彼女の口にサンドイッチを強引に捩じ込んで強制的に黙らせる。全く言いたい放題言ってくれるじゃないかこの女。そういう無神経な所は昔とちっとも変わっていないなと思わず乾いた笑いが漏れたが、今更指摘する気も全く起きない。例え髪が白くなって、顔の皺が増えたとして、彼女は彼女なのだから。…このわたしが唯一愛した、一年に一度だけ、桜の木の下でしか出会えない女。

「ちょっと、老体になんて事するのよ………あら、さすが私の作ったサンドイッチ。美味しいわね」

「単純すぎないかお前。昔はもっとギャンギャン煩く吠え回っていただろう 」

「年取れば性格も幾分か落ち着くのよ」

そんな風に互いに減らず口を叩き合いながら、桜の木に背を預け、2人並んでひたすらサンドイッチを貪る。出会ったばかりの頃は、自分の分しかサンドイッチを作って来なかった彼女。今よりだいぶ小さかった弁当箱に、お世辞にも美味そうとは言い難い杜撰な有様のサンドイッチを詰めていた彼女。それを口に放り込みながら、彼女は「この桜を見る為なら、苦手な料理も頑張れるの」とか何とか語っていた。美しくもどこか儚い、私と彼女だけの思い出だ。

「そういえば私、去年の秋から息子夫婦と同居し始めたのよ。母さんももう歳なんだから、そろそろ俺達と暮らさないか…ですって。昔は何も親孝行してくれなかった癖に、今になって何考えてるんだか」

「…人間とは、歳を取るとまた子供と共に暮らすのか?折角独り立ちさせたというのに」

「…きっと遺産多く貰おうとしてんのよあの子。昔からお金には本当にだらしのない息子でね…夫が亡くなった時の葬式でも、ずっと遺産相続の話ばかりしてるのよ。お陰で私本当に恥ずかしかったんだから」

「空気の読めない所は若い頃のお前にそっくりではないか」

「私はもう少し周りに配慮できたわよ」

そう言って女は口を尖らせ、拗ねたように顔を背けてしまった。いくら歳を取ったとして、口の減らない意地っ張りな所は何も変わっていないらしい。昔も良くこうして下らない言い合いを繰り返しては、最終的には呑気に2人して笑いあっていた。桜の花弁が舞う青空を背景に、眩しい笑顔を浮かべる女と、硬い表情筋を精一杯緩めて笑顔を作ろうと奮闘する男。そんな男の様子を見て、また笑い始める女…忘れたくとも忘れられない、美しい思い出。

「ほら、私の顔でも見て機嫌を直してくれ。お前はよく、この顔を綺麗だと褒めてくれただろう」

「神様が自分の顔を安売りしないの。全くもう、貴方と話していたら些細な事なんてすぐに忘れちゃうわね」

「機嫌が直った様で何よりだ」

お互いにまたそんな減らず口を叩き合いながら、すっかり空になってしまった弁当箱と下に引いていたレジャーシートを風呂敷の中にしまい込んで立ち上がる。そうしてお互い何も言わないまま、名残惜しむ様に桜の木を見つめていると、不意に彼女が私に向かって口を開いた。

「もし、来年私が来なかったら貴方はどうする?私が忘れているだけだと信じて、ずっと待っててくれる?それとも、私がもう死んだのだと悟って、次の年からはもうここに来なくなる?」

どこか落ち着いた態度で、微笑を浮かべながら私に対してそんな疑問を投げかけた彼女。その瞳はまっすぐな光を放ち、私を試すように輝いている。その瞳の光に射抜かれながらも、私は慣れた様子で口を開けた。彼女がこうして返答に困るような質問を投げ掛けてくる事なんて、もう慣れた事だったから。

「…お前が来年からここに来なかったとして、その結果私が、お前がこの世にもう居ないと悟ったとして。私はずっとここで待ち続けるだろう。意地っ張りで生意気な女と、そんな女の作ってくる美味いサンドイッチを」

「本当に待っててくれる?」

「男に二言は無い」

私のその言葉を聞いた途端、女は私を試すような表情をやめ、今度はどこか安堵した様な顔をして、「そっか」とだけ呟いた。その言葉に乗せられた嬉しさとほんの少しの悲しみを、桜の花弁と共に春風がどこかへ飛ばす。やがて彼女は私に「またね」とだけ言って、去年と同じように杖を付いて茂みをくぐって家へと帰って行ってしまった。そんな彼女の背を眺めながら、いずれ来るであろうその時を思い浮かべて、私は胸が締め付けられる様な感情に襲われながら立ち尽くす事しか出来なかった。

あの時、もし「共に暮らせば良いじゃないか」と言っていれば、何か変わっていたのだろうか?そんなありもしない事を思い浮かべながら、私は今年も来るはずの無い女を桜の木の下で待ち続ける。