第二〇話 優しい悪魔

 雨が強く降る夕暮れだった。
 とある高校の近くにある路地に、高校生の少年が一人で座り込んでいた。
「…畜生…。」
 少年の体は傷だらけ、服も血だらけでボロボロだった。身体中を痛みに苛まれながら、少年が何とか視線を上げると、傘を差した二人組の少女と目が合った。少女達は顔を強張らせると、ひそひそと話をする。
「…ねえ、あの人…。」
「関わらない方いいよ…。」
「怖い噂あるし…。」
 少女達は足早にその場から歩き去った。それを見送り、少年は自嘲気味にクッと喉の奥で笑う。

 …まあ、こんなもんだよな…。

 雨は強くなる一方だった。
 傷だらけの少年に意識を向ける通行人は誰も無く、皆傘を差し、家路を急ぐ。
 少年の体の痛みは徐々に鈍くなり、視界もぼやけ始めていた。

 …目の前、霞んできた…今度こそ、オレ…。

「…おい。」
 不意に声がかかった。
 傷だらけの少年は辛そうに顔を上げる。傘を差していない人影が見えた。傷だらけの少年が疑問符を浮かべると、人影は彼と同じ年頃の、緑色の髪と瞳を持った少年だった。
 緑色の少年は激しい雨に濡れながら、再び声をかけた。
「お前、大丈夫か…?」

 アトラスは鼎を前に、自身の過去の話をしていた。
「声かけてきたそいつは、ぼろぼろのオレを自分の暮らしてる部屋に連れてって、篤く手当てした。」
「…それが、あのメルクリウスって人?」
「…そうだな。」
 アトラスの口元には、小さく笑みが浮かんでいた。

 とあるアパートの一室。
 雨の中、傷だらけで倒れていた少年は、身体中の傷を手当てされて布団の中にいる。彼は明らかに不機嫌な表情でいた。
「…食べられるか?」
 傷だらけの少年を手当てした、この部屋の借り主である緑色の少年が、小さな鍋と器を持って現れた。緑色の少年は傷だらけの少年のそばに座ると、鍋から器におかゆを盛り、手渡す。傷だらけの少年はおかゆをひったくるようにして食べた。
 緑色の少年は、ホッとしたように表情を緩めた。
「食べられるか。なら大丈夫だな。少し安心した。」
 傷だらけの少年は緑色の少年を一瞬睨み、またおかゆをガツガツと食べた。
 相手の態度に構う様子もなく、緑色の少年は改めて話し出した。
「そうだ、挨拶していなかったな。オレの名前は…。」
「言うな。」
 即座に返って来た言葉に、緑色の少年は疑問符を浮かべる。傷だらけの少年は、おかゆを口にかき込みながら言った。
「どうせお前も、死ぬか離れるかする奴だ。名乗らなくていい。」
 緑色の少年は僅かの間黙ってから、穏やかに返した。
「…そうか。なら名乗らない。」

 鼎は黙って話を聞く。眉間に僅かにしわが寄っていた。アトラスは鼎に苦笑して、話をした。
「…続けるぞ。」

 数日後。
「傷口、少し良くなってきたな。」
 緑色の少年が、傷だらけの少年の包帯を取り替えている。傷だらけの少年は大層機嫌が悪そうな顔で、黙って包帯を取り替えられていた。
 包帯を取り替え終わると、緑色の少年は部屋にあるちゃぶ台を指差した。
「そこに朝食を用意しておいたから、後で食べるといい。」
 傷だらけの少年はまだ機嫌が悪そうにしていたが、不意に口を開いて問うた。
「…お前は食ったのか?」
「……ああ、さっき食べた。」
 少しの間の後、緑色の少年は小さく笑んでみせた。
「じゃあ、オレは学校に行くから…。」
「お前、いつまでオレをここに置いとくつもりだ?」
 傷だらけの少年が強く睨む。睨まれた少年は、緑色の瞳で不思議そうに見る。
「お前の傷が良くなるまで…だが?」
「お前、オレの噂知らないのか。学校で言われてんだろ。」
 傷だらけの少年が吐き出した言葉を受け、緑色の少年は目の前の相手に関する噂を思い出しながら話した。
「…いつも喧嘩ばかりしてて…人を殺したこともあって…ヤクザと付き合っている…?」
「知ってんじゃねえか。」
 傷だらけの少年が心底呆れた様子を見せると、緑色の少年はますます不思議そうにした。
「だから、何だ?」
 傷だらけの少年は相手から視線を逸らし、それ以上は何も言わなかった。

「オレは平然とそんなこと言うあいつに、腹が立って仕方なかった。オレは機会を伺って、金目の物持って逃げると決めて、自分の回復を待ってた。」
「恩を仇で返そうとしたわけだね。」
 鼎の遠慮がない感想に、アトラスはまた苦笑いした。
「…そのつもりだった。あの時までは。」

 さらに数日経った頃。
「バイトに行ってくる。」
 緑色の少年は傷だらけの少年に言い、部屋を出て行った。緑色の少年の足音が聞こえなくなるのを、傷だらけの少年は黙って待った。
 足音が聞こえなくなり、傷だらけの少年は布団から出、立ち上がった。腕をぐるぐると回す。
「…よし、動く。」
 緑色の少年が巻いた包帯を解いてしまうと、傷だらけの少年は小さな部屋の中を漁った。
「通帳は…確かここだよな…。」
 傷だらけの少年がタンスの引き出しを漁ると、一冊の通帳がいとも簡単に出て来た。
「…あった。もうここには用済みだな。じゃあな、偽善者で世間知らずのお坊ちゃん。」
 傷だらけの少年が顔を歪め、嗤いながら通帳を開くと。
「…残高が…三桁だ…!?」
 あまりに少ない残高に少年が驚いた直後。
「ちょっと! あんたいい加減にしなさいよ!!」
 女性の怒鳴り声が遠く聞こえた。傷だらけの少年は窓から覗き見る。アパートの玄関先で、緑色の少年が大家と思われる中年女性に叱責されていた。
「あんたがヤクザの仲間拾って来てるって、みんな知ってんだからね! 何考えてんだか知らないけど、さっさと追い出してよ!!」
「…すみません。」
 緑色の少年は下を向き、蚊の泣くような声で謝る。
 大家の女性は大げさに嘆くように、緑色の少年を罵った。
「ったく、家賃は滞納するし…親戚の子だからって置いたのが間違いだった! あんたの母親も大概変わり者だけど、あんたもか!!」
「……ごめんなさい。」
「そう思うんだったら、さっさと学校卒業してここ出てってよね!!」
 大家はアパートに入り、ドアを乱暴に閉めた。
 アパートの他の住人や、近所の住民は迷惑そうな顔をして一部始終を見ていたが、すぐに自分達の用事に戻って行った。
 緑色の少年は僅かの間、俯いて立っていたが、やがてバイト先に向かって歩いて行った。
 傷だらけの少年はその全てを見ていた。息をすることも出来ず、瞳を見開いて。

 鼎が小さな声を出す。
「…それって…。」
「そうだ。…あいつは自分も経済的、精神的な余裕がない中、オレを助けてくれてたんだ。」
 アトラスは俯き加減で、僅か痛むように笑んでいた。

「…ただいま…。」
 緑色の少年が疲れ切った様子で帰宅すると、目の前で傷だらけの少年が睨んでいた。緑色の少年はわずか驚いて問う。
「…動いて大丈夫なのか?」
 傷だらけの少年は構わず、吐き出すように口にした。
「どうしてだよ。」
「何がだ?」
 緑色の少年が首を傾げると、傷だらけの少年は睨みを深くした。
「お前、ろくに食べてないだろ。オレがここでお前が何か食ってるの見たのなんて、片手で数える程しかない。」
「それが、どうしたんだ?」
 緑色の少年がますます不思議そうな様子を見せると、傷だらけの少年は今までの苛立ちを思い切り捲し立てた。
「…お前金無いんだろ!? オレを拾ってきたこと責められてんだろ!? それで何で、お前はオレを助け続けるんだよ!! 言っとくが、なんか見返り求めてんなら大間違い…。」
「お前を見た時、怪我をして苦しそうで、放っておけないと思ったからだ。」
 緑色の少年の落ち着いた声音に、傷だらけの少年は目を点にした。
「…え…?」
「お前を手当てした理由だろう?」
 傷だらけの少年が大いに戸惑っていると、緑色の少年は柔らかく笑んだ。
「手当て出来て、元気になってくれて、良かったと思う。」
 傷だらけの少年はぎり、と歯を食い縛る。
 そして緑色の少年を突き飛ばし、部屋を飛び出して行った。
 …一人になった緑色の少年は、何も言わずゆっくりと立ち上がると、静かに部屋のドアを閉めた。

 三日後。
 緑色の少年がバイトを終えて帰宅したのは、深夜だった。陰りが見える表情でドアの前に立ち、ため息をつく。鍵を開け、部屋に入ると。
「…よう。」
「!? …お前…!」
 部屋には三日前に出て行った少年が、新しい生傷だらけで居た。緑色の少年は慌てて駆け寄った。
「どうしてまた、こんな…。」
「気にすんな。色んな所と縁切って来たんだ。今までが今までだったから、ツケが回ってきたようなもんだ。…でも、お前といるためには、こうした方が良かった。」
 体の痛みを堪えながら、傷だらけの少年は笑った。
「今、手当てする。」
 緑色の少年はすぐに救急箱を取り出した。その様子を見る、傷だらけの少年の眼差しは穏やかだった。
「…ありがとう。」

 緑色の少年に手当てをされながら、傷だらけの少年が切り出した。
「…なあ、教えてくれよ。」
「何をだ?」
「お前の名前。」
「…え…?」
 緑色の少年は目を丸くして、傷だらけの少年を見た。
 あまりに驚いている様子の相手に笑うと、傷だらけの少年は名乗った。
「オレの名前は森下もりしたせつ。お前は?」
 緑色の少年はゆっくりと傷だらけの少年…雪の言葉を理解すると、嬉しそうに笑み、自身の名を口にした。
「…中川なかがわ千幸ちゆきだ。」

 暖かな陽光が差す春の日、千幸は高校を卒業した。
 僅かな荷物を持ち、住んでいたアパートを出たところで声をかけられた。
「千幸、卒業おめでとう。」
 千幸は声をかけてきた人物が雪であることを確認すると、ホッとしたように笑んだ。
「…ありがとう。お前も出れば良かったのに、卒業式。」
「オレみたいなのが出ても、学校に迷惑がられるだろ。」
 千幸の言葉に雪は笑いながら言い切る。二人は卒業式の話をそこで終わらせた。
 雪は改めて話し出す。
「…で、お前これから、行く当てあるのか?」
「…いいや。」
 寂しそうに笑った千幸に向かい、雪はさらりと言葉を続けた。
「だろうと思って、住むとこ探しといた。」
「…え?」
 千幸が目を丸くしていると、雪はおかしそうに少し笑った。
「前にお前が不動産屋と交渉してるの見て、こりゃ無理だなと思ってな。お前はまず、他人と話しするの苦手だもんな。オレと同居で悪いけど、良かったら暮らしてくれ。」
「そんな、いいのか…? オレは…。」
 大いに戸惑う千幸に、雪が向けた眼差しは暖かかった。
「いいんだよ。オレが好きで、お前の苦手な分野の面倒見ようと思ったんだ。」
 千幸は僅かの間俯いて、荷物を持った手をぎゅっと握った。
 やがて上げられた瞳は、僅かに潤んでいた。
「…ありがとう、雪。」

「…そんな感じで、オレ達はお互い苦手な部分補い合って、何とか暮らしてた。オレが外で仕事して、あいつが家事して家を守るって分担して。」
 アトラスの話を聞いていた鼎は、少し思うように黙ってから、問うた。
「…めでたしだね。…それが、どうしてこんなことになったの。」
「そうだな。…このままめでたしで続いて行ければよかった。五年前のアレさえなかったら…。」
 五年前。
 鼎にとって、それで思い至ることは一つだった。
「…赤い稲妻?」
「…そうだ。」
 雪の表情は、思い返す痛みに歪んでいた。

 その日。
 雪は仕事が休みだった為、昼間に部屋にいたが、不意に窓の外が真っ暗になったのに気づいた。
「? 暗い…?」
 不思議に思い、雪が窓のそばに寄ると間も無く、赤い光が雪の目を襲った。
「何だ!?」
 雪は慌てて目を凝らし、窓の外を見る。
 窓の外では、真っ暗になった空から赤い光…稲妻の雨が降り注いでいた。
 雪がその光景から目を離せずにいると、幾らもしないうちに赤い稲妻は収まり、空は先程と同じ静かな青空になった。
「…収まった…。」
 ほっと息を吐いた次に雪が思ったのは、外に買い出しに出た同居人のことだった。
「千幸の奴、大丈夫か…?」
 雪はすぐに玄関に向かった。

 雪が千幸を探しに外に出てから、すぐだった。
「!! 千幸!!」
 部屋のあるアパートのすぐそば、道路の端に千幸は倒れていた。雪はすぐさま駆け寄り、千幸を助け起こす。
「千幸、大丈夫か!? しっかりしろ!!」
「あか…あか、い…。からだ、かきかえ、られ…。」
 千幸は焦点の合わない瞳を雪に向け、うわ言のように呟くと、かくりと首を落とした。
「千幸!?」
 雪が慌てて千幸の顔に触れると、千幸の体は酷い高熱を出していた。
「…すごい熱だ…! とにかく医者…!!」
 雪は千幸の体を担ぎ上げると、近くの医院に向かって歩き出した。

 赤い稲妻の雨から、一週間後。
「う…。」
 千幸がぼんやりと目を開けると、見慣れた家の天井と、雪の顔が見えた。
「! 千幸! 目え覚ましたか!?」
「…雪? どうしたんだ? オレは…。」
 千幸がゆっくりと体を起こす。雪は心底ホッとした表情を見せた。
「心配したんだぞ!! 医者には何で熱出してるのか全然解らないとか言われるし!! よかった…!」
 千幸は無言で、自身の体に触れる。続けて手を握ったり開いたりした。…何かを考えながら。
 千幸はぽつりと呟く。
「…生きているのか、オレは…。」
「千幸、お前何言って…!」
「赤い稲光に打たれたから…死んだかと思って…。」
 千幸が小さな声で続けた言葉に、雪は疑問符を浮かべた。雪の不安げな様子を見ると、千幸は気遣うように笑んでみせた。
「…大丈夫な様だ。ありがとう、雪。ずっと付いていてくれたんだろう?」
「…ああ、そう、だな…。」
 雪は戸惑いながら、ぎこちなく頷いた。

 数日後。
 千幸は街に外出していた。そばには千幸の身を心配した雪もいた。
 買い出しの為に千幸が書いたメモを見ながら、雪は問う。
「買うもんこれでいいんだよな?」
「ああ。」
 頷いた千幸の視界、隅の方に一人の小さな少女が入る。千幸が何気なく少女に意識をやった次の瞬間、千幸の視界が変わった。
 千幸の目の前に広がっていたのは、ここではないどこか。そこでは小さな少女が車に轢かれ、大量に血を流して倒れていた。
「…!? …!! ああ、あ!!」
 突然千幸が上げた怯え声に、雪は驚いた。
「千幸!?」
「! …雪…っ。」
 雪の声で我に返った千幸は、ふらつきながら雪を見上げた。雪は千幸の体をしっかりと支える。
「どうした? 大丈夫か?」
「…今…。」
 千幸の震える声に、雪が疑問符を浮かべる。
 千幸は無理やり呼吸を整えると、自力で立ち上がった。
「…何でも…ない。行こう。」
 ゆっくりと歩き出した千幸に戸惑いながら、雪も付いて行った。

 数時間後。
 千幸は雪と共に帰宅し、テレビの画面を何気無しに見ていた。放送されていたのは、夕方のニュース番組だった。
 アナウンサーが機械的に次のニュース原稿を読んだ。
「今日午後四時ごろ、帰宅途中の小学生がひき逃げされ、死亡しました。死亡したのは狩野澪さん一〇歳で…。」
 ニュースの画面に出た顔写真に、千幸は息を飲んだ。次いで呼吸も身体も微かに震え始める。
 顔写真の主は、先程千幸が見た光景…車に轢かれた少女その人だった。
 千幸はやっとの思いで、掠れた声を出した。
「…さっき、の…!」

 アトラスは苦しげに、眉間にしわを寄せた。
「あの辺りでオレがちゃんと気づいてれば、何とかなったかもしれないのに…。」
 鼎はわずか思う様に黙ってから、言葉を紡いだ。
「…植えつけられた能力は、どうにも出来ないだろ。」
「それでも…それでもだ…!」
 アトラスの拳は強く握られていた。

 街角を大きなバッグを持って歩いている男が一人いた。男が信号で立ち止まっていると、不意に声をかけられた。
「…あ…すみません。」
「はい、何でしょう。」
 男が笑顔で応じると、緑の髪の青年が気後れした様子でいた。青年…千幸は男に言った。
「…えっと…強盗に気をつけたほうがいい、です…。」
「? はい…。」
 男が疑問符を浮かべながらも頷くと、千幸は少し離れて待っていた雪の元に戻った。
 信号が青になり、人々が渡り出す。遠くなっていく男を見送る様に視線を向けている千幸に、雪は問うた。
「どうしたんだ、千幸。」
「…何がだ?」
「いや、お前が自分から人に声かけるなんて、珍しいと思ってな。」
 雪が苦笑しながら話すと、千幸の表情が陰りを見せた。黙っている千幸に不安になった雪は、再び声をかける。
「千幸?」
「…何でもない。多分、大丈夫だろう。」
 千幸は顔を上げ、雪を気遣う様に笑んだ。

 翌日。
 朝刊を読みながら雪が話し始めた。
「…この近所で強盗…金取られた奴が大怪我…物騒だな。」
 千幸は一瞬目を見開き、体を強張らせた。雪が気づかずに新聞を読んでいる中、やっとの思いで返事を返した。
「……そう、か…。」

「それからあいつの笑顔が見られなくなって、喋ることもほとんどなくなった。オレは変だと思いつつも、どうしようもなかった。」
 鼎はアトラスの言葉を聞き、またしばらく考える様に黙ってから、先を促した。
「…続けてよ。」

 ある日の、雪が仕事から帰って来た時だった。
 自分達の住むアパートの部屋を指差して、何人かの学生がひそひそと話をしている。
「…ねえ、あの部屋だよ。」
「悪魔の予言する人がいるって話?」
「そうそう。うちの親も言ってるもの。疫病神がいるから近づくなって。」
「あそこの人が悪いこと言うと、それが現実になるんだって。ホントかなあ。」
「確かめに行ってみればあ?」
「やだよー、死にたくなーい。」
 耳障りな声で笑い、その場から歩き去って行った学生達を、雪は怪訝そうな表情で見送った。

 それから数日後。
 千幸と雪が暮らす部屋の呼び鈴が鳴った。
「? 何だ、珍しい。」
 雪は玄関に歩いて行き、ドアを開ける。
「はーい。」
「疫病神出せ!!」
 玄関先にいたのは、明らかに頭に血を上らせている男女数名だった。雪が混乱している間に、彼らは部屋の中に踏み込み、中にいた千幸の腕を捻り上げた。
「…っ!!」
「この疫病神!!」
「悪魔!! あんたのせいで!!」
 千幸が乱暴されるのを見、雪は思わず怒声を上げた。
「てめえら、何す…!!」
「雪っ…行ってくるから、待っていてくれ。」
 千幸は雪を落ち着かせる様に言うと、男女数名に引きずられ、部屋を出て行った。
「お、おい、千幸!!」

 雪が慌てて千幸達の後を追うと、近所の墓地に着いた。
 千幸はある墓の前に引きずり出され、頭を地面に押さえつけられる。男女数名は千幸に殴る蹴るの暴行を加え始めた。
「お前がうちの息子に声掛けなけりゃ、こんなことにならなかったんだ!!」
「この悪魔!! 私の息子を返して!!」
「死ね疫病神!! 死んであの子に詫びろ!!」
 彼らは叫びながら、容赦無く千幸を痛めつける。
 その光景を見た雪の瞳に、カッと熱い光が宿った。
「…止めろお!!」
 雪は集団の中に飛び込んだ。千幸を暴行する男の一人にタックルを食らわせて倒す。彼らが怯んだ隙に千幸の手を握って駆け出した。
「お、おい!」
「この…畜生おお!!」
「うわあああ…。」
 二人の背中に、数名の絶叫がぶつかって来た。

 雪は千幸を部屋に連れ帰り、椅子に座らせた。次いで救急箱を持って来て開けた。
「ほら、どこやられた。見せろ。」
 千幸は黙って首を横に振った。
「じゃあ、オレが解るところだけやる。」
 雪は目に見える範囲にある千幸の怪我を消毒し、脱脂綿を貼り付けていった。
 怪我の手当てを一通り終えると、雪は改めて千幸と向かい合った。
「…千幸。一体何があったんだよ。何でお前があんな目に…。」
 千幸は黙っている。雪は千幸を見据え、辛抱強く言葉を待った。
 やがて千幸は観念した様に、掠れた声で話し始めた。
「…未来が、視えるようになった。」
「未来…?」
「時々、視える。オレが見た人間の一、二時間先位の…未来が視える。大抵、悪いことで…怪我をしたり、何かを取られたり…死んだり…。」
 千幸の手が微かに震え始める。声も震えていた。
「…気をつけて、何とか回避して欲しかったから、声をかけた。でも…結局は、視えたままになる。」
 雪は唇を噛む。きつい声で千幸に問うた。
「…何で、オレに言わなかったんだよ。」
「お前に言ったところで、何がいい方に変わる?」
 返された千幸の言葉に、雪は思わず目を見開いた。再び口を開こうとした時、千幸が叫んだ。
「お前はこの力を気持ち悪がるだけだろう!? どうすることもできないだろう!? お前にまで悪魔と罵られたら、オレは…!!」
「千幸…。」
 雪は目を見開き、呆然とした声で呼んだ。千幸は両手を前に出し、雪を押し遣る仕草をした。
「…雪。お前もオレから離れた方がいい。オレは疫病神で、悪魔で…。」
「何で…!」
「視たくないんだ!! …お前が死ぬ未来なんて、視たくない…。」
 千幸は項垂れて、それ以上何も言わなくなった。

「その日から、あいつは部屋に引きこもって…一歩も出てこない毎日が始まった。」
 鼎は黙って話を聞き続けている。アトラスの眼差しはどこか遠くを見ているように、自身の手の平を見ていた。
「あいつなりに、未来を変えようとしたけど上手くいかなかった。その結果、あいつは悪魔にされた。…ここから先の話は、かなり後になってから聞いた話だ。」

 千幸は自室で、一人パソコンに向かい合っていた。
 千幸の体は傷だらけだった。手首、首、顔。彼の手の届く、体のあらゆるところに切り傷があった。
 千幸が見ていたのはインターネット上にある、集団自殺者を募るサイトだった。
 千幸は少し前からここにアクセスし、書き込みをしていたが、応える人間はいなかった。
「…一緒に死んでくれる人も、いない…。…悪魔だからなあ…。」
 千幸の口からそんな呟きが漏れ、次いで震える笑い声が出て来た。
「…はは…。」
 笑いながら、掲示板の更新ボタンを押す。
 すると、千幸の書き込みにレスポンスが届いていた。

「一緒に話さない?」

 レスポンスに書かれていたツールを使い、千幸は自分に話しかけた何者かにアクセスした。何者かはすぐに応えた。

「…来てくれたね。オレのことはジェミニって呼んで」
「…一緒に死んでくれるんですか?」

 開口一番、問うた千幸に、何者かは話して来た。

「…辛かったね」

「え…?」
 千幸はパソコンの前で、思わず惚けた声を出した。
 ジェミニと名乗った何者かは、続けて千幸に言葉を投げかける。

「本当に辛い思いしたんだね。本気で死にたいと思う位まで…」

 千幸が何も返せずにいると、ジェミニは更に話し出した。

「オレはとても寂しいんだ」
「大切な人が悪い奴に捕まって、オレはどうすることも出来ない。取り返そうにも、悪い奴が邪魔をするんだ。オレは独りぼっちにされたんだ」
「君、死ぬ前に、オレと友達になって」
「オレと友達になってよ」

 千幸はしばらく動けずにいたが、やがて意を決した様にキーボードを叩いた。ネット回線の向こうにいる相手に、今までの自分の身に起こった出来事を送った。

「そう。未来が視える能力か…」
「オレが外に出れば、誰かを殺してしまう。だから、オレは死なないといけない」
「どうしてさ。君は勇気を出して行動しただけだ。君は最悪の未来を回避しようと頑張ったんだろ?」

 ジェミニの返信に、千幸はわずかに瞳を潤ませた。唇を噛みながら、言葉を打ち込む。

「…でも、結局死んだ」
「未来を変えるのは難しいだろ。でも君は、救おうと頑張ったんだろ? 見ず知らずの人間だったろうけど、死ぬのが嫌だったんだろ? 君は優しい人だ。優しい人が、死んでいいことなんてない」

 ジェミニのメッセージを読んだ千幸の目から涙が溢れ出た。パソコンの前で、千幸は肩を震わせて涙を流し続けた。

 それから千幸は毎日の様に、ジェミニにメッセージを送った。ジェミニは千幸からの言葉を逐一受け止めて、返し続けた。
 …ある時、ジェミニから千幸に新たなメッセージが送られて来た。

「知ってる? 赤い稲妻に打たれて生き残った人間が、君の他にもいるってこと」
「…他にもいるのか?」
「そう。それでみんな、不思議な力を持ったって」
「…そうなのか」
「うん。たくさんいて、みんな辛い思いをしているんだ。君みたいにね」

 千幸がしばらく言葉を返さずにいると、ジェミニから続けてメッセージが来た。

「君達能力者は、この世界では本当に弱い。でも弱い人間だって生きてる。…弱いオレ達はどんな手段を使っても、いじめてくる奴らに対抗して生きなきゃいけない」
「…ジェミニ。お前も能力者なのか?」
「うん。オレは赤い稲妻に身体も取られたよ」

 千幸は思わず息を飲む。
 そして、更にジェミニから送信されて来たメッセージに戸惑った。

「いじめられている能力者を、君なら救えるんじゃないかな。優しい君なら」
「オレは何も出来ない悪魔で…」
「何も出来ないこと無いじゃない。…ネットが使えるっていうのは、それだけで武器だよ」

「それからあいつとジェミニは一緒になって、能力者を募る掲示板を立ち上げた。あいつやジェミニ自身も、ネットであちこち回って営業して…掲示板にはたくさんの能力者達が集まった。」
 アトラスの言葉に少しの間考え、鼎は問う。
「…それがアポロ?」
「その前身だ。…そんであいつは、ようやく部屋から出てきた。」

「雪。」
 背後から呼ばれ、雪がハッとして振り返ると、そこには千幸が立っていた。
「…千幸…。」
 部屋から出て来た千幸は、ゆっくりと話した。
「…今まで世話になった、雪。」
 疑問符を浮かべる雪に、千幸は静かな、はっきりとした声で言った。
「近々、この部屋を出ようと思う。」
 千幸の言葉を聞いた雪は堪える様にぐっと唇を噛んでから、冷静に問うた。
「…理由は?」
「能力者の組織を立ち上げる。」
 千幸の唐突な答えに、雪は更に疑問符を浮かべる。千幸は真っ直ぐに雪を見、話をした。
「赤い稲妻に打たれ、なお生き残った人間達は、みんな特殊能力を植え付けられてしまった。みんな辛い思いをしている。そんな能力者達が集まり、守り合うための組織を作る。」
 黙っている雪に、千幸は寂しそうに笑んでみせた。
「雪。お前には本当に世話になった。…どうか元気で…。」
「…オレも付いて行ったらダメなのか?」
「…え…?」
 千幸が目を丸くする。雪はもう一度問うた。
「だから、オレもその組織に協力したらダメなのか?」
「…雪。これは能力者の問題で…。」
 千幸が戸惑いながら返そうとすると、雪も千幸を真っ直ぐに見返し、言い切った。
「能力者とか関係なく、オレは千幸の力になりたい。それだけだ。ダメなのか?」
 千幸の瞳が少しずつ潤んでいく。千幸は俯き、小さな声で発した。
「…嫌な思いをするかもしれないぞ。オレは悪魔だから。」
「覚悟してる。このまま何だか解らない内に離れられるよりは、ずっといい。」
 雪の言葉は力強く響いた。千幸は掠れた、震える声でやっと返した。
「…ありがとう。」

 雪は千幸のパソコンの画面を共に見ている。
 映し出されているのはネット上にある掲示板。千幸がジェミニと共に作った、赤い稲妻の能力者達が交流するためのモノだった。
 たくさんの書き込みを見ながら、千幸は雪に説明する。
「この集まりでは、皆コードネーム…偽名で呼び合っている。」
「ふーん…。じゃあ、オレにも何か偽名がいるってことか。…何がいいと思う?」
 雪の問いに千幸はわずか考えると、一つの言葉を提案した。
「…『アトラス』。」
「意味は?」
「『支える者』。」
 雪…アトラスは苦笑すると、また千幸に問うた。
「そうか。お前のコードネームは?」
「『メルクリウス』だ。」
「意味は?」
 千幸…メルクリウスは寂しそうに笑み、答えた。
「…『嘘つきの神』だ。」

「それで、アポロが立ち上がったわけだ。」
 鼎はじっと話を聞いている。アトラスは更に話を続ける。
「色んな連中が集まった。いざこざも起こったけど、メルが一生懸命まとめているのを見ると、みんな一つになった。…あいつは優しいから。誰に何を…それこそジェミニの奴に言われようと、一度関わった能力者は全力で守った。」
 そこまで言い、アトラスは眉間にしわを寄せた。
「…でも、アポロが軌道に乗ってきた頃、ジェミニが本性を現し始めた。」

 アポロ立ち上げから一年程過ぎたある時だった。
 メルクリウスのパソコンに、ジェミニからメッセージが届いた。

「メルクリウス。君に手伝って欲しいことがあるんだ」
「何だ? オレに出来ることなら」

 メルクリウスが返信すると、すぐにまたメッセージが来た。

「出来るさ。オレの大切な人、ライカ姉さんを、悪い奴から救い出して欲しい」

 メルクリウスは一瞬、息を呑んだ。少しの間の後、キーボードを叩く。
「そんなことが出来るのか、オレに…」
「だから出来るって。…ていうか、この位出来ないと。オレが見込んだ君なんだからさ」

 メルクリウスはまた少し思う様に黙った後、ジェミニに問うた。
「何をすればいいだろうか」
「ライカ姉さんはユーリィとかいう奴のところにいるんだ。でもオレからは近づけないようになってる。ユーリィって奴は、ボストークっていう能力者グループのリーダーだ。まずボストークの奴らを捕まえて、そいつの居場所を見つけることだね」

 メルクリウスが戸惑いながら画面を見ていると、ジェミニは念を押す様に、もう一度メッセージを送って来た。
「君だけが頼りなんだからね。メルクリウス」

 鼎が口を開いた。
「…その結果、言いなりになってるってこと?」
「そうだな。」
 眉間にしわを寄せたままのアトラスは、悔しそうに鼎に映った。
「ジェミニのクソ野郎は言葉巧みにメルを動かして、ここまで来た。…でもジェミニがあのライカとかいう女を手に入れた今、メルはいくらもしない内に切り捨てられる。」
 アトラスは顔を上げ、鼎を見た。
「あいつが深く傷つく前に、あいつを救いたい。」
 鼎は不機嫌そうな表情になり、刺す様に問うた。
「…僕にどうしろっていうのさ。」
「さっきも言ったが…知恵を貸して欲しい。」
 アトラスの言葉に鼎はハッと声を上げ、苛立たしげに吐き出した。
「こんな状態の僕に、どうやってさ。僕は一人で敵陣に取っ捕まって、誰も助けになんか来られない…。」
「…お前を必死で探してる奴がいる。」
 アトラスが発した言葉に、鼎は思わずバッと顔を上げた。
 アトラスは鼎から視線を外さず、もう一度話す。
「お前と一緒にいた…能力のない人間。あいつが懸命に、お前を探し続けている。」
 鼎は徐々に視線を落とし、やがて掠れた声で呟いた。
「……朔…逃げろって言ったのに…。」
 鼎は改めてアトラスを見る。何かを確認する様にじっと見ると、呆れ顔で口にした。
「…ていうか、そうしたいなら最初から言えばいいのに。」
「悪いな、回りくどくて。どこでジェミニが嗅ぎつけるか解ったモンじゃないし、メルにはもう、必要以上に傷ついて欲しくない。」
 アトラスが苦笑してみせると、鼎はその辺にあった紙とペンを手に取り、何かを書いた。アトラスに向かい合って座り直すと、書いた紙をアトラスに渡す。
 そして祈りにも似た気持ちを込め、アトラスに言葉を向けた。
「…能力のない僕の友達、朔と会ってみて。何か力になってくれると思う。」
 紙に書かれていたのは、悠里のメールアドレスだった。

 ネット空間でライカの閉じこもる大きな繭を見上げ、ジェミニは楽しそうに独り言を発した。
「エンタープライズ達、着実に進めてるかな。あいつとは大違いだね。」
 そして、大きな繭を改めてじっと見る。
「…姉さんの意思表示ね…。」
 ジェミニは繭に唇を近づけると、語りかけた。
「…姉さん、聞こえてる?」
 続けて言葉を発したジェミニの瞳は昏く光り、笑みを形作っていた。
「そんなに意地張ってると…姉さんの彼氏と仲間がどうなっても知らないよ。」
 大きな繭が、微かに震えた。

 To be continued
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