カロスの棚
お客様のお名前。
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
Fさんと喧嘩するお話。
おまけもあります。
カラスバ・ジプソ・ジガルデ出演あり。
ーーーーーーーー
ミアレシティ、ベール9番地の小さな広場は、昼の喧騒に包まれていた。屋台から漂う甘い香り、子供たちの笑い声、観光客の足音。プリズムタワーの影がゆっくりと石畳を横切る。そんな平和な光景の真ん中で、彼女の声が弾けた。
「もういい!Fさんなんて……Fさんなんて――」
人々の視線が一斉に集まる。
「大っ嫌いですっ!」
涙を溜めた瞳で叫び、リリィはその場を駆け出した。
驚きと戸惑いの声が背後で上がるが、彼女は振り返らない。ただ、胸の奥に溜まった何かを吐き出すように、走った。
取り残されたFは、その場に立ち尽くしていた。
指先が僅かに震え、言葉が出てこない。
広場の喧騒が、遠ざかっていく。
まるで自分だけが世界から切り離されたかのように。
やがて彼は、ゆっくりと額を押さえた。
「……理解が、追いつかない」
取り残されたFは、広場の中心で静止したまま、ゆっくりと呼吸を整えていた。
周囲のざわめきは戻りつつあるのに、自分の内側だけが異様な静けさに沈んでいる。逃げていく背中を追うべきだと、理性は告げている。だが身体が動かない。
「……」
額に指を当てたまま論理的に整理すれば、答えは明白だった。ジガルデ・セルの回収は、ミアレを守るための己の使命。遅延は許されない。個人の約束よりも、世界の秩序を優先するのは合理的選択。
――にもかかわらず。
胸の奥に、説明不能な違和感が残る。
それが「後悔」と呼ばれる感情であると理解するまで、数拍の時間を要した。
「……私は」
呟いた声は、喧騒に溶けて消えた。
ーーーーーーーー
リリィは、ただ走っていた。
行き交う人々をすり抜け、橋を越え、明るい通りから陰の路地へ。息が切れても止まらない。止まれば、言ってしまった言葉が追いかけてくる気がした。
「……っ、はぁ、はぁ……はぁっ…」
やがて、ジョーヌ5番地の入り組んだ路地裏。
行き止まりの壁にぶつかり、ついに足が止まる。
膝に手をつき、荒い呼吸を吐き出す。
石畳の冷たさも、スカートが汚れることも、どうでもよかった。その場にへたり込み、背中を壁に預ける。胸が上下し、視界がにじむ。
「……なんで……」
声が、震えた。
頭では分かっている。
ジガルデ・セルの回収がどれほど重要か。
Fが背負っている使命がどれほど大きいか。
それでも。
「……私との約束、なのに……」
期待していた。
恋人として、選ばれたかった。
世界よりも、使命よりも、ほんの少しだけ、自分を。
その期待が裏切られた気がして、心が追いつかなかった。
「……大嫌い、なんて……」
自分で言った言葉が、胸に突き刺さる。
本当は、そんなはずない。
誰よりも大切で、誰よりも好きなのに。
「……ひっ……」
嗚咽がこぼれ、視界が歪む。
膝を抱え込み、顔を埋める。
「……ごめんなさい……」
誰に向けた謝罪かも分からないまま、涙が落ちていった。
ーーーーーーーー
それから、どれ程の時間が経ったのだろうか。
行き止まりの壁に背中を預けたまま、リリィはずっと俯き膝を抱えていた。
目は赤く腫れ、涙はまだ止まっていない。
頬を伝う雫を拭っても、すぐに次の涙が零れ落ちる。
呼吸が乱れ、喉が詰まる。
泣くまいとするほど、涙が増えていった。
――その時。
路地の入口側から、靴音が近づく。
「……なんや、あれ」
少し訛った男の、低い声。
コガネ弁特有の軽さを帯びた響き。
「……人影です。女の方、でしょうか」
続くように、落ち着いた声がその男の後ろから返る。
「……リリィさん、の可能性がありますね。確証はありませんが」
「せやな。行こか」
二人の足音が、路地裏に踏み入ってくる。
その足音にリリィは顔を上げた。
突然現れた見慣れた二人の姿に、驚きよりも困惑が先に来る。
「……カラスバさん。に、ジプソさん……?」
「合っとったか」
カラスバは短く言って、彼女に近づく。
「えらい顔やで。どないしたん?」
「……大丈夫ですか?リリィさん」
ジプソはカラスバより先に一歩前に出て、彼女の前に屈み込んだ。目線をなるべく合わせ、呼吸の乱れを確かめる。だが、何も差し出さず、ただ静かに観察しているに留める。
そんなジプソにカラスバは少し呆れ混じりに一瞥し、自分のポケットからハンカチを取り出し、リリィの前に差し出した。自分の手持ちポケモンでもあるアーボックを模した柄の布から、毒っぽく甘いムスクの香りが仄かに漂う。
「ほら。拭き」
「……ありがとうございます」
リリィは受け取り、目元を押さえた。
「泣くほどのこと、あったんやろ。話してみ」
責める声ではない。
当然のように、聞く声。
リリィはしばらく黙っていたが、やがて小さく口を開いた。
「……約束、してたんです…」
「約束?」
「今日……一緒に街を回るって。ずっと前から……」
声が震える。
涙が止まらず、頬を伝って落ちる。
「でも……忘れられてて。気づいてもらえなくて……」
カラスバは何も言わず、ただ耳を傾ける。
路地裏の空気だけが重く沈黙する。
「忙しいのは、分かってるんです。でも……私は、ちゃんと約束してたのに……」
言葉が詰まり、涙がこぼれた。
「……大嫌いって、言ってしまいました…」
消え入るようなリリィの声。
カラスバはすぐには答えず、視線だけを落とした。
それから一度目を閉じて、何かを察したように短く溜め息を吐く。
「……なんや、フラダリさんの事かいな…」
呆れたような、けれど、どこか納得した声だった。
そうしてカラスバはリリィと同じく行き止まりの壁に背を預け、腰に手を当てて細い路地の上に切り取られた空を見上げながら目を細める。
その行動は、どこか言葉を探しているような仕草だった。
「……そらまぁ、泣くわなぁ…」
低く、短く。
感情のない声ではない。
だが、慰めようとする声でもなかった。
ジプソは屈んだまま、ただ黙ってリリィを見ている。視線だけが、ハンカチを握る指先に落ちた。介入せず、観察者の距離を保ったままで。
「……私、子どもみたいですよね」
声が掠れる。喉が詰まり、言葉が途切れがちになる。
「分かってるんです。Fさんが忙しいことも……忘れる人じゃないってことも」
言葉の途中で、涙が落ちた。
ハンカチに新しい染みが広がる。
「でも……私だけ、後回しにされたみたいで……」
リリィの肩が小さく震える。
言葉にはしないが、後悔が声より先に滲んでいた。
カラスバは何も言わず、壁にもたれたまま腕を組んだ。路地裏の影に溶けるような姿勢で、そして見上げた空から視線を落とし、リリィを見るでもなく石畳の一点を見る。
「せやけど、相手が約束忘れたくらいで、そこまで自分責めることやないやろ」
声は低く、軽口に近い。
だが笑いは含まれていなかった。
リリィの肩が、小さく揺れた。
泣き止もうとするほど、呼吸が細かく刻まれる。
「それに、忘れたんやのうて、抜け落ちただけや」
カラスバは淡々と言葉を続けた。
「仕事しとる連中の頭ん中は常にせめぎ合いや。優先順位なんて日替わりで書き換えられる」
「決して、オマエの価値が軽かったわけやない」
短く、断定的に。
「ただ、タイミングが悪かっただけや」
ジプソは屈んだまま、そのやり取りを黙って聞いている。視線だけが、わずかにリリィの手元に落ちた。
濡れた布を、指先が強く握りしめている。
「せやけどな。『大嫌い』言うたんは、オマエが本気やった証拠や」
乾いた声で、そう切り捨てる。
「どうでもええ相手に、そこまで言葉は出えへん」
一拍置く。
「腹立つほど、大事やったんやろ?」
リリィの睫毛から、また雫が落ちた。
それを、彼女は拭わなかった。
「約束ってのはな……破られると、思ってる以上に効く」
ぽつりと、独り言のように言った。
「相手が悪気なくても、関係なく効く」
一拍置く。
そして、ようやく彼女を見る。
「オマエが悪い話ちゃう」
慰めではなく、結論。
余計な言葉を削ぎ落とした断定。
「好きやから腹立つ。期待したから傷つく。それだけや」
それ以上も、それ以下もないと言わんばかりに。
「嫌いやったら、泣きもせん」
その言葉に、リリィの睫毛がまた震える。
路地裏に、再び沈黙が落ちる。
昼の喧騒はここまで届かない。
ただ、三人の呼吸音だけが、壁に反射している。
それから沈黙が更に伸び。
カラスバはまた腕を組み直す。
視線を逸らしながら、この沈黙を破るように声だけを落とした。
「……で」
短く区切る。
空気を切るような音だった。
「泣いて終わり、って顔やな?」
リリィの肩がわずかにピクリと動く。
否定する言葉は出てこない。
「泣くんは悪ない。オマエの感情や」
淡々とした口調。
慰めるでも、責めるでもない。
「せやけどな。泣いたままやと、相手は何も分からん」
ジプソは屈んだ姿勢のまま、視線だけを上げた。
言葉を挟まない。
ただ、カラスバの声とリリィの反応を静かに追っている。
「腹立ったなら、腹立ったって言え。傷ついたなら、傷ついたって言え」
「察してほしい、なんてのはな……恋人でも、神様でも無理や」
カラスバは彼女から逸らせた視線だけを細い路地の先に落とした。それでも、声の向こうにある感情だけは切り離さず。
「オマエは言葉にした。大嫌いやって言うた」
短い沈黙。
「それでええ」
突き放す言葉なのに、声は低く、落ち着いていた。
「本音出したんや。ほな、次は責任取る番や」
リリィは膝に落としていた視線を、わずかに上げた。
指先が、膝を抱える腕の布地を掴み直す。
逃げ出したい衝動を、握り潰すような仕草。
その指先は、まだ路地裏に留まることを選んでいた。
暫しの沈黙がまた生まれ。
路地裏の空気が、張り詰める。
次の瞬間。
路地の入口側で、気配だけが歪んだ。
「ーーゼドッ!」
突然、ノイズ混じりの低く澄んだ鳴き声が響いた。
生物のものとは思えない、乾いた短音。
その音の様な声にカラスバの肩がわずかに跳ね、ジプソは即座に立ち上がり、リリィの前に一歩出る。
目線を向けた先。
いつの間にか、路地の影に獣の輪郭が立っていた。
黒い身体に緑の結晶を宿した、現実離れしたドーベルマンのようなその姿。
そこにはジガルデと呼ばれるポケモンがいた。
いつ移動したのか、誰にも気づかれず、瞬間的に視界の外から踏み込んできたかのような速度。
ジガルデは臨戦態勢を取るカラスバとジプソを横目にリリィの姿を確認すると、続けてやれやれと言わんばかりに首だけをわずかに傾け、視線を背後へと向けた。
ジガルデの視線の先。
その背後に、人影があった。
足音が一つ。
遅れて、硬質な靴音が石畳に落ちる。
リリィの呼吸が凍り付く。
昼の喧騒から切り離された路地裏に、その男の気配だけが、理屈を無視して差し込んできた。
まるで、この場所だけ別の世界に接続されたかのように。
ーーーーーーーー
白い影が路地の入口に輪郭を結ぶ。
ジガルデの背後で、男の姿がゆっくりと現れた。
影に溶け込むような白髪。
背筋はわずかに前屈みで、石畳に長い影を落としている。
足取りは急いでいるようでいて、乱れてはいない。
そんな彼を目の前にして、リリィの胸がひくりと跳ねた。呼吸が、胸の奥で止まりかける。
「……F、さん……」
掠れた声が、かろうじて形になる。
だが、名を呼んだ瞬間に思わず視線が落ちた。
今は、彼の目を見ることが出来ない。
泣いた痕跡も、吐き出した言葉も、すべてを曝け出してしまう気がして、リリィは思わず顔を伏せた。
そんな彼女に対して、カラスバは構えていた力を抜き、ゆっくりと肩の緊張を解いた。
白髪の男から視線を逸らさず、見知った人物の登場に、胸の奥で小さく息を吐く。
ジプソも前に立ったままだが、カラスバとは違いわずかに姿勢を緩めるに留まった。それでも、リリィを背にする位置だけは崩さない。
白髪の男――Fは、ジガルデへと視線を落とし、小さく頷いた。
「……ありがとうございます。追跡してくれたのですね」
低く、抑制された声。
感情は表に出さない。
それでも、呼吸だけがわずかに乱れていた。
ジガルデが顔を小さく頷かせる。
「ゼフッ」
そうだ、と伝えるような短い声。
Fの視線が、ジガルデから路地の奥へ移った。
壁際に膝を抱えたままの少女へ。
「……リリィ、さん」
名前を呼ぶまでに、わずかな間があった。
躊躇いというより、距離の測定。
踏み込むべきか、留まるべきかを計算する沈黙。
リリィは顔を上げられなかった。
ハンカチを握る指先だけが、僅かに震える。
「……探しました」
事実だけを告げる声。
言い訳も謝罪も、まだ形になっていない。
カラスバが小さく鼻で笑った。
「遅刻やな」
Fの視線が、わずかに揺れた。
否定も反論もせず、ただ事実として受け取る。
「……そうですね」
ジプソは一歩退き、三人の位置関係を整える。
介入者から観測者へ戻る動き。
この場の主役は、もう決まっている。
沈黙が落ちた。
昼の喧騒から切り離された路地裏に、四人分の呼吸だけが残る。
リリィの胸の奥で、心臓の音だけが異様に大きく響いていた。
ーーーーーーーー
カラスバは小さく息を吐き、ジプソと視線を交わす。
言葉は要らない。二人の間で、即座に判断が共有された。ジプソがわずかに首を縦に振る。
「……我々は退きます」
ジプソの言葉に続くように、カラスバは肩をすくめるように笑った。
「せやな。こっから先の主役はオマエらや」
その言葉にリリィは顔を上げる。
去ってほしくない、という感情が、言葉になる前に目に滲む。だが、何も言えなかった。
カラスバはその視線を見逃さない。
一歩近づき、屈み込んだままの彼女の前に立つ。
乱暴でも優しくもない手つきで、彼女の頭に手を置いた。
ぽん、と軽く。
兄貴分の距離感で。
「……大丈夫や。泣いた分だけ、ちゃんと話せ」
それだけ言って、手を離す。
ジプソは静かに立ち上がり、Fに向けて一礼した。カラスバもそれに倣い、視線だけで会釈する。
「後は任んます」
そう一言だけを添えて。
二人の足音が、来た道を戻っていく。
路地の影が、彼らの背中を飲み込んだ。
その直後。
いつの間にか、ジガルデも消えていた。
気配だけを残し、路地裏の空気に溶けるように。
沈黙が落ちた。
三人ではなく、二人だけの沈黙。
Fはその沈黙の中で、彼女との距離を縮める為もう少しという距離まで近付いてから立ち止まった。
そうして未だにきちんと踏み込めず、距離を測るように立ち尽くす。
「……すみません」
ポツリと、低く、抑えた声。
謝罪の言葉だけが、先に落ちた。
リリィは何も言わない。
膝を抱えたまま、視線を落とし、身を縮める。
拒絶ではない。
だが、受け入れでもない沈黙。
Fは一歩進み、彼女の前で跪いた。
視線の高さを合わせるように、石畳に片膝をつく。
「リリィ」
名を呼ぶ声は、慎重で、恐る恐るだった。
叱責でも命令でもなく、ただ確認するように。
彼女の肩が、わずかに動く。
それでも、言葉は出てこない。
沈黙が伸びる。
Fはそれ以上踏み込まない。
ただ、待った。
やがて、リリィが息を吸い込む。
「……私も」
声は小さく、掠れている。
だが、逃げない声だった。
「私も……大人気なかったです」
言葉を選びながら、ゆっくりと続ける。
「優先順位があるのは、分かっていました。Fさんの立場も……責任も」
一度、言葉を切る。
「それでも……期待してしまって」
「……ごめんなさい」
Fの瞳が揺れる。
「……こちらこそ」
リリィは俯いたまま、しばらく動かなかった。
だが、やがて小さく息を吸い、ゆっくりと顔を上げる。
その視線を、Fは逸らさなかった。
二人の視線が絡み合う。
沈黙はまだある。
だが、先ほどの重さとは違う沈黙だった。
そして互いに、どちらともなく、ほんのわずかに、微笑みが交差する。
Fが立ち上がり、手を差し出した。
躊躇いのない動作だった。
リリィはすぐに指先を重ねる。
引かれ、立ち上がる。
「……もう一度、デートをしませんか?」
提案ではなく、願いに近い声。
「……回収は、大丈夫なんですか?」
真っ直ぐに、Fを見つめて問う。
彼女の声には、躊躇いではなく配慮だけがあった。
そんな彼女を安心させるように、Fは小さく頷く。
「すでに、ジガルデから許可は得ています」
それだけで十分だった。
二人の指が絡み、どちらともなく手を繋ぐ。
「じゃあ……ミアガレット、食べたいです」
リリィが小さく言う。
Fは、ほんの少しだけ笑った。
「今日は、あなたの望みを優先しましょう。……いくらでも」
約束の言葉。
路地裏を抜ける二人の足音が、並んで石畳を叩く。
影から光へ。
昼のミアレの喧騒へと、二人の背中が溶けていった。
ーーーーーーーー
ここから先は
おまけのエピローグ
ーーーーーーーー
路地裏を出たあと。
街の光に溶ける人波の中で、リリィはふと足を止めた。
掌の中に残る柔らかな感触。
蛇柄の布。かすかに残る香り。
「……あ」
思い出す。
差し出されたまま、返しそびれたハンカチ。
Fの手を握ったまま、もう一方の手でそれを握りしめる。指先に残る湿り気と、香りだけが現実感を持っていた。
「……洗って、返さないと……」
小さく零れた言葉は、独り言に近い。
やってしまった、という感覚が声に混じる。
Fは一拍置き、視線を前に向けたまま答える。
「そうすると良いでしょう」
穏やかで、淡々とした声。
過剰な感情を含ませない、理性的な肯定。
だが、絡めた指先の圧だけが、わずかに強まった。
――自分で渡すべきだった。
そう思う感情を、彼は正確に認識している。
認識したうえで、表に出す価値はないと判断する。
(……些末な感情です)
そう断じながらも、胸の奥に薄くざらついた違和感が残る。論理では処理できる。だが感情は、必ずしも論理に従わない。結論だけを下し、彼は歩調を変えなかった。
ーーーーーーーー
サビ組事務所、二階オフィス。
カラスバは椅子に座り、デスクに広げた書類に目を落としていた。背後、少し距離を取ってジプソが立って控えている。
「……ッハックシュン……ッ!」
突然のくしゃみに、カラスバの背筋がわずかに震えた。
「風邪ですか?」
ジプソが淡々と問いかける。
「ちゃう。誰かに念でも飛ばされとる気ぃするだけや」
冗談めかした口調。
だが、妙な確信があった。
「念は非科学的ですが、否定は出来ませんね」
否定もせずに、ジプソは頷く。
「……あいつらやな」
誰の名も出さない。
だが、誰を指しているかは自分で分かっている。
「まあええ。生きとる証拠や」
小さく鼻を啜りながらカラスバは椅子に深く腰を落とし、再び書類に視線を戻した。
ペン先が紙の上を走る。
ほんの一瞬だけ、動きが止まる。
路地裏に残した少女の表情が、脳裏をかすめた。
――ちゃんと話せたやろ。
――あの人も、逃げんやろ。
口には出さない。
願いでも、祈りでもなく、ただの事実確認の延長のように。
「ま…あの2人なら大丈夫やな」
小さく独り言を落とし、再び書類へ没頭した。
おまけもあります。
カラスバ・ジプソ・ジガルデ出演あり。
ーーーーーーーー
ミアレシティ、ベール9番地の小さな広場は、昼の喧騒に包まれていた。屋台から漂う甘い香り、子供たちの笑い声、観光客の足音。プリズムタワーの影がゆっくりと石畳を横切る。そんな平和な光景の真ん中で、彼女の声が弾けた。
「もういい!Fさんなんて……Fさんなんて――」
人々の視線が一斉に集まる。
「大っ嫌いですっ!」
涙を溜めた瞳で叫び、リリィはその場を駆け出した。
驚きと戸惑いの声が背後で上がるが、彼女は振り返らない。ただ、胸の奥に溜まった何かを吐き出すように、走った。
取り残されたFは、その場に立ち尽くしていた。
指先が僅かに震え、言葉が出てこない。
広場の喧騒が、遠ざかっていく。
まるで自分だけが世界から切り離されたかのように。
やがて彼は、ゆっくりと額を押さえた。
「……理解が、追いつかない」
取り残されたFは、広場の中心で静止したまま、ゆっくりと呼吸を整えていた。
周囲のざわめきは戻りつつあるのに、自分の内側だけが異様な静けさに沈んでいる。逃げていく背中を追うべきだと、理性は告げている。だが身体が動かない。
「……」
額に指を当てたまま論理的に整理すれば、答えは明白だった。ジガルデ・セルの回収は、ミアレを守るための己の使命。遅延は許されない。個人の約束よりも、世界の秩序を優先するのは合理的選択。
――にもかかわらず。
胸の奥に、説明不能な違和感が残る。
それが「後悔」と呼ばれる感情であると理解するまで、数拍の時間を要した。
「……私は」
呟いた声は、喧騒に溶けて消えた。
ーーーーーーーー
リリィは、ただ走っていた。
行き交う人々をすり抜け、橋を越え、明るい通りから陰の路地へ。息が切れても止まらない。止まれば、言ってしまった言葉が追いかけてくる気がした。
「……っ、はぁ、はぁ……はぁっ…」
やがて、ジョーヌ5番地の入り組んだ路地裏。
行き止まりの壁にぶつかり、ついに足が止まる。
膝に手をつき、荒い呼吸を吐き出す。
石畳の冷たさも、スカートが汚れることも、どうでもよかった。その場にへたり込み、背中を壁に預ける。胸が上下し、視界がにじむ。
「……なんで……」
声が、震えた。
頭では分かっている。
ジガルデ・セルの回収がどれほど重要か。
Fが背負っている使命がどれほど大きいか。
それでも。
「……私との約束、なのに……」
期待していた。
恋人として、選ばれたかった。
世界よりも、使命よりも、ほんの少しだけ、自分を。
その期待が裏切られた気がして、心が追いつかなかった。
「……大嫌い、なんて……」
自分で言った言葉が、胸に突き刺さる。
本当は、そんなはずない。
誰よりも大切で、誰よりも好きなのに。
「……ひっ……」
嗚咽がこぼれ、視界が歪む。
膝を抱え込み、顔を埋める。
「……ごめんなさい……」
誰に向けた謝罪かも分からないまま、涙が落ちていった。
ーーーーーーーー
それから、どれ程の時間が経ったのだろうか。
行き止まりの壁に背中を預けたまま、リリィはずっと俯き膝を抱えていた。
目は赤く腫れ、涙はまだ止まっていない。
頬を伝う雫を拭っても、すぐに次の涙が零れ落ちる。
呼吸が乱れ、喉が詰まる。
泣くまいとするほど、涙が増えていった。
――その時。
路地の入口側から、靴音が近づく。
「……なんや、あれ」
少し訛った男の、低い声。
コガネ弁特有の軽さを帯びた響き。
「……人影です。女の方、でしょうか」
続くように、落ち着いた声がその男の後ろから返る。
「……リリィさん、の可能性がありますね。確証はありませんが」
「せやな。行こか」
二人の足音が、路地裏に踏み入ってくる。
その足音にリリィは顔を上げた。
突然現れた見慣れた二人の姿に、驚きよりも困惑が先に来る。
「……カラスバさん。に、ジプソさん……?」
「合っとったか」
カラスバは短く言って、彼女に近づく。
「えらい顔やで。どないしたん?」
「……大丈夫ですか?リリィさん」
ジプソはカラスバより先に一歩前に出て、彼女の前に屈み込んだ。目線をなるべく合わせ、呼吸の乱れを確かめる。だが、何も差し出さず、ただ静かに観察しているに留める。
そんなジプソにカラスバは少し呆れ混じりに一瞥し、自分のポケットからハンカチを取り出し、リリィの前に差し出した。自分の手持ちポケモンでもあるアーボックを模した柄の布から、毒っぽく甘いムスクの香りが仄かに漂う。
「ほら。拭き」
「……ありがとうございます」
リリィは受け取り、目元を押さえた。
「泣くほどのこと、あったんやろ。話してみ」
責める声ではない。
当然のように、聞く声。
リリィはしばらく黙っていたが、やがて小さく口を開いた。
「……約束、してたんです…」
「約束?」
「今日……一緒に街を回るって。ずっと前から……」
声が震える。
涙が止まらず、頬を伝って落ちる。
「でも……忘れられてて。気づいてもらえなくて……」
カラスバは何も言わず、ただ耳を傾ける。
路地裏の空気だけが重く沈黙する。
「忙しいのは、分かってるんです。でも……私は、ちゃんと約束してたのに……」
言葉が詰まり、涙がこぼれた。
「……大嫌いって、言ってしまいました…」
消え入るようなリリィの声。
カラスバはすぐには答えず、視線だけを落とした。
それから一度目を閉じて、何かを察したように短く溜め息を吐く。
「……なんや、フラダリさんの事かいな…」
呆れたような、けれど、どこか納得した声だった。
そうしてカラスバはリリィと同じく行き止まりの壁に背を預け、腰に手を当てて細い路地の上に切り取られた空を見上げながら目を細める。
その行動は、どこか言葉を探しているような仕草だった。
「……そらまぁ、泣くわなぁ…」
低く、短く。
感情のない声ではない。
だが、慰めようとする声でもなかった。
ジプソは屈んだまま、ただ黙ってリリィを見ている。視線だけが、ハンカチを握る指先に落ちた。介入せず、観察者の距離を保ったままで。
「……私、子どもみたいですよね」
声が掠れる。喉が詰まり、言葉が途切れがちになる。
「分かってるんです。Fさんが忙しいことも……忘れる人じゃないってことも」
言葉の途中で、涙が落ちた。
ハンカチに新しい染みが広がる。
「でも……私だけ、後回しにされたみたいで……」
リリィの肩が小さく震える。
言葉にはしないが、後悔が声より先に滲んでいた。
カラスバは何も言わず、壁にもたれたまま腕を組んだ。路地裏の影に溶けるような姿勢で、そして見上げた空から視線を落とし、リリィを見るでもなく石畳の一点を見る。
「せやけど、相手が約束忘れたくらいで、そこまで自分責めることやないやろ」
声は低く、軽口に近い。
だが笑いは含まれていなかった。
リリィの肩が、小さく揺れた。
泣き止もうとするほど、呼吸が細かく刻まれる。
「それに、忘れたんやのうて、抜け落ちただけや」
カラスバは淡々と言葉を続けた。
「仕事しとる連中の頭ん中は常にせめぎ合いや。優先順位なんて日替わりで書き換えられる」
「決して、オマエの価値が軽かったわけやない」
短く、断定的に。
「ただ、タイミングが悪かっただけや」
ジプソは屈んだまま、そのやり取りを黙って聞いている。視線だけが、わずかにリリィの手元に落ちた。
濡れた布を、指先が強く握りしめている。
「せやけどな。『大嫌い』言うたんは、オマエが本気やった証拠や」
乾いた声で、そう切り捨てる。
「どうでもええ相手に、そこまで言葉は出えへん」
一拍置く。
「腹立つほど、大事やったんやろ?」
リリィの睫毛から、また雫が落ちた。
それを、彼女は拭わなかった。
「約束ってのはな……破られると、思ってる以上に効く」
ぽつりと、独り言のように言った。
「相手が悪気なくても、関係なく効く」
一拍置く。
そして、ようやく彼女を見る。
「オマエが悪い話ちゃう」
慰めではなく、結論。
余計な言葉を削ぎ落とした断定。
「好きやから腹立つ。期待したから傷つく。それだけや」
それ以上も、それ以下もないと言わんばかりに。
「嫌いやったら、泣きもせん」
その言葉に、リリィの睫毛がまた震える。
路地裏に、再び沈黙が落ちる。
昼の喧騒はここまで届かない。
ただ、三人の呼吸音だけが、壁に反射している。
それから沈黙が更に伸び。
カラスバはまた腕を組み直す。
視線を逸らしながら、この沈黙を破るように声だけを落とした。
「……で」
短く区切る。
空気を切るような音だった。
「泣いて終わり、って顔やな?」
リリィの肩がわずかにピクリと動く。
否定する言葉は出てこない。
「泣くんは悪ない。オマエの感情や」
淡々とした口調。
慰めるでも、責めるでもない。
「せやけどな。泣いたままやと、相手は何も分からん」
ジプソは屈んだ姿勢のまま、視線だけを上げた。
言葉を挟まない。
ただ、カラスバの声とリリィの反応を静かに追っている。
「腹立ったなら、腹立ったって言え。傷ついたなら、傷ついたって言え」
「察してほしい、なんてのはな……恋人でも、神様でも無理や」
カラスバは彼女から逸らせた視線だけを細い路地の先に落とした。それでも、声の向こうにある感情だけは切り離さず。
「オマエは言葉にした。大嫌いやって言うた」
短い沈黙。
「それでええ」
突き放す言葉なのに、声は低く、落ち着いていた。
「本音出したんや。ほな、次は責任取る番や」
リリィは膝に落としていた視線を、わずかに上げた。
指先が、膝を抱える腕の布地を掴み直す。
逃げ出したい衝動を、握り潰すような仕草。
その指先は、まだ路地裏に留まることを選んでいた。
暫しの沈黙がまた生まれ。
路地裏の空気が、張り詰める。
次の瞬間。
路地の入口側で、気配だけが歪んだ。
「ーーゼドッ!」
突然、ノイズ混じりの低く澄んだ鳴き声が響いた。
生物のものとは思えない、乾いた短音。
その音の様な声にカラスバの肩がわずかに跳ね、ジプソは即座に立ち上がり、リリィの前に一歩出る。
目線を向けた先。
いつの間にか、路地の影に獣の輪郭が立っていた。
黒い身体に緑の結晶を宿した、現実離れしたドーベルマンのようなその姿。
そこにはジガルデと呼ばれるポケモンがいた。
いつ移動したのか、誰にも気づかれず、瞬間的に視界の外から踏み込んできたかのような速度。
ジガルデは臨戦態勢を取るカラスバとジプソを横目にリリィの姿を確認すると、続けてやれやれと言わんばかりに首だけをわずかに傾け、視線を背後へと向けた。
ジガルデの視線の先。
その背後に、人影があった。
足音が一つ。
遅れて、硬質な靴音が石畳に落ちる。
リリィの呼吸が凍り付く。
昼の喧騒から切り離された路地裏に、その男の気配だけが、理屈を無視して差し込んできた。
まるで、この場所だけ別の世界に接続されたかのように。
ーーーーーーーー
白い影が路地の入口に輪郭を結ぶ。
ジガルデの背後で、男の姿がゆっくりと現れた。
影に溶け込むような白髪。
背筋はわずかに前屈みで、石畳に長い影を落としている。
足取りは急いでいるようでいて、乱れてはいない。
そんな彼を目の前にして、リリィの胸がひくりと跳ねた。呼吸が、胸の奥で止まりかける。
「……F、さん……」
掠れた声が、かろうじて形になる。
だが、名を呼んだ瞬間に思わず視線が落ちた。
今は、彼の目を見ることが出来ない。
泣いた痕跡も、吐き出した言葉も、すべてを曝け出してしまう気がして、リリィは思わず顔を伏せた。
そんな彼女に対して、カラスバは構えていた力を抜き、ゆっくりと肩の緊張を解いた。
白髪の男から視線を逸らさず、見知った人物の登場に、胸の奥で小さく息を吐く。
ジプソも前に立ったままだが、カラスバとは違いわずかに姿勢を緩めるに留まった。それでも、リリィを背にする位置だけは崩さない。
白髪の男――Fは、ジガルデへと視線を落とし、小さく頷いた。
「……ありがとうございます。追跡してくれたのですね」
低く、抑制された声。
感情は表に出さない。
それでも、呼吸だけがわずかに乱れていた。
ジガルデが顔を小さく頷かせる。
「ゼフッ」
そうだ、と伝えるような短い声。
Fの視線が、ジガルデから路地の奥へ移った。
壁際に膝を抱えたままの少女へ。
「……リリィ、さん」
名前を呼ぶまでに、わずかな間があった。
躊躇いというより、距離の測定。
踏み込むべきか、留まるべきかを計算する沈黙。
リリィは顔を上げられなかった。
ハンカチを握る指先だけが、僅かに震える。
「……探しました」
事実だけを告げる声。
言い訳も謝罪も、まだ形になっていない。
カラスバが小さく鼻で笑った。
「遅刻やな」
Fの視線が、わずかに揺れた。
否定も反論もせず、ただ事実として受け取る。
「……そうですね」
ジプソは一歩退き、三人の位置関係を整える。
介入者から観測者へ戻る動き。
この場の主役は、もう決まっている。
沈黙が落ちた。
昼の喧騒から切り離された路地裏に、四人分の呼吸だけが残る。
リリィの胸の奥で、心臓の音だけが異様に大きく響いていた。
ーーーーーーーー
カラスバは小さく息を吐き、ジプソと視線を交わす。
言葉は要らない。二人の間で、即座に判断が共有された。ジプソがわずかに首を縦に振る。
「……我々は退きます」
ジプソの言葉に続くように、カラスバは肩をすくめるように笑った。
「せやな。こっから先の主役はオマエらや」
その言葉にリリィは顔を上げる。
去ってほしくない、という感情が、言葉になる前に目に滲む。だが、何も言えなかった。
カラスバはその視線を見逃さない。
一歩近づき、屈み込んだままの彼女の前に立つ。
乱暴でも優しくもない手つきで、彼女の頭に手を置いた。
ぽん、と軽く。
兄貴分の距離感で。
「……大丈夫や。泣いた分だけ、ちゃんと話せ」
それだけ言って、手を離す。
ジプソは静かに立ち上がり、Fに向けて一礼した。カラスバもそれに倣い、視線だけで会釈する。
「後は任んます」
そう一言だけを添えて。
二人の足音が、来た道を戻っていく。
路地の影が、彼らの背中を飲み込んだ。
その直後。
いつの間にか、ジガルデも消えていた。
気配だけを残し、路地裏の空気に溶けるように。
沈黙が落ちた。
三人ではなく、二人だけの沈黙。
Fはその沈黙の中で、彼女との距離を縮める為もう少しという距離まで近付いてから立ち止まった。
そうして未だにきちんと踏み込めず、距離を測るように立ち尽くす。
「……すみません」
ポツリと、低く、抑えた声。
謝罪の言葉だけが、先に落ちた。
リリィは何も言わない。
膝を抱えたまま、視線を落とし、身を縮める。
拒絶ではない。
だが、受け入れでもない沈黙。
Fは一歩進み、彼女の前で跪いた。
視線の高さを合わせるように、石畳に片膝をつく。
「リリィ」
名を呼ぶ声は、慎重で、恐る恐るだった。
叱責でも命令でもなく、ただ確認するように。
彼女の肩が、わずかに動く。
それでも、言葉は出てこない。
沈黙が伸びる。
Fはそれ以上踏み込まない。
ただ、待った。
やがて、リリィが息を吸い込む。
「……私も」
声は小さく、掠れている。
だが、逃げない声だった。
「私も……大人気なかったです」
言葉を選びながら、ゆっくりと続ける。
「優先順位があるのは、分かっていました。Fさんの立場も……責任も」
一度、言葉を切る。
「それでも……期待してしまって」
「……ごめんなさい」
Fの瞳が揺れる。
「……こちらこそ」
リリィは俯いたまま、しばらく動かなかった。
だが、やがて小さく息を吸い、ゆっくりと顔を上げる。
その視線を、Fは逸らさなかった。
二人の視線が絡み合う。
沈黙はまだある。
だが、先ほどの重さとは違う沈黙だった。
そして互いに、どちらともなく、ほんのわずかに、微笑みが交差する。
Fが立ち上がり、手を差し出した。
躊躇いのない動作だった。
リリィはすぐに指先を重ねる。
引かれ、立ち上がる。
「……もう一度、デートをしませんか?」
提案ではなく、願いに近い声。
「……回収は、大丈夫なんですか?」
真っ直ぐに、Fを見つめて問う。
彼女の声には、躊躇いではなく配慮だけがあった。
そんな彼女を安心させるように、Fは小さく頷く。
「すでに、ジガルデから許可は得ています」
それだけで十分だった。
二人の指が絡み、どちらともなく手を繋ぐ。
「じゃあ……ミアガレット、食べたいです」
リリィが小さく言う。
Fは、ほんの少しだけ笑った。
「今日は、あなたの望みを優先しましょう。……いくらでも」
約束の言葉。
路地裏を抜ける二人の足音が、並んで石畳を叩く。
影から光へ。
昼のミアレの喧騒へと、二人の背中が溶けていった。
ーーーーーーーー
ここから先は
おまけのエピローグ
ーーーーーーーー
路地裏を出たあと。
街の光に溶ける人波の中で、リリィはふと足を止めた。
掌の中に残る柔らかな感触。
蛇柄の布。かすかに残る香り。
「……あ」
思い出す。
差し出されたまま、返しそびれたハンカチ。
Fの手を握ったまま、もう一方の手でそれを握りしめる。指先に残る湿り気と、香りだけが現実感を持っていた。
「……洗って、返さないと……」
小さく零れた言葉は、独り言に近い。
やってしまった、という感覚が声に混じる。
Fは一拍置き、視線を前に向けたまま答える。
「そうすると良いでしょう」
穏やかで、淡々とした声。
過剰な感情を含ませない、理性的な肯定。
だが、絡めた指先の圧だけが、わずかに強まった。
――自分で渡すべきだった。
そう思う感情を、彼は正確に認識している。
認識したうえで、表に出す価値はないと判断する。
(……些末な感情です)
そう断じながらも、胸の奥に薄くざらついた違和感が残る。論理では処理できる。だが感情は、必ずしも論理に従わない。結論だけを下し、彼は歩調を変えなかった。
ーーーーーーーー
サビ組事務所、二階オフィス。
カラスバは椅子に座り、デスクに広げた書類に目を落としていた。背後、少し距離を取ってジプソが立って控えている。
「……ッハックシュン……ッ!」
突然のくしゃみに、カラスバの背筋がわずかに震えた。
「風邪ですか?」
ジプソが淡々と問いかける。
「ちゃう。誰かに念でも飛ばされとる気ぃするだけや」
冗談めかした口調。
だが、妙な確信があった。
「念は非科学的ですが、否定は出来ませんね」
否定もせずに、ジプソは頷く。
「……あいつらやな」
誰の名も出さない。
だが、誰を指しているかは自分で分かっている。
「まあええ。生きとる証拠や」
小さく鼻を啜りながらカラスバは椅子に深く腰を落とし、再び書類に視線を戻した。
ペン先が紙の上を走る。
ほんの一瞬だけ、動きが止まる。
路地裏に残した少女の表情が、脳裏をかすめた。
――ちゃんと話せたやろ。
――あの人も、逃げんやろ。
口には出さない。
願いでも、祈りでもなく、ただの事実確認の延長のように。
「ま…あの2人なら大丈夫やな」
小さく独り言を落とし、再び書類へ没頭した。
4/5ページ