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夢主視点・F視点あり。
恋人同士。
夢主過去のFに片想い描写あり。
ーーーーーーーー
夜のミアレシティは静かで、街灯の橙色が石畳に柔らかな影を落としていた。
遠くから、乾いた衝撃音が断続的に響いてくる。
ポケモンの技がぶつかり合う音。 バトルゾーンで繰り広げられている戦いの余韻が、夜気に溶けて街へと流れ込んでくる。
それでも、今私たちが歩くこの通りだけは、まるで何かに切り取られたみたいに不思議なほど静かだった。
二人並んで歩く帰り道。
久しぶりに、Fさんと並んで歩いている。
それだけで胸の奥が少しだけあたたかくなって、くすぐったい。
それに彼は私の歩調に合わせて、ほんのわずかに歩幅を落としている。
たぶん、私の都合のいい考えなのだろうけれど――私たちは恋人なのだから、きっと、それくらい分かっていてくれているはずだ。
自惚れているだけかもしれないのに、そう思うだけで胸の奥がやわらかくほどけていく。
私は足元の石畳を見つめながら、指先を軽く握りしめた。この静けさが、夜のどこかに溶けてしまうのが惜しくて。彼の隣にいるという事実を、もう一度確かめたくて。
「……今日は、本当に楽しかったです」
夜空を見上げながら、そう言った。
「最近、ちゃんと会えなかったから……余計に、嬉しくて」
少しだけ照れくさくて、視線を逸らす。
それでも、彼の反応が気になって横目で覗いた。
「……ええ。私も、同じ気持ちです」
低く落ち着いた声。
それだけで胸がじんわりと温かくなる。
「最近は互いに忙しく、こうして二人きりで過ごす時間が減っていましたから」
確かにここ最近、私はMZ団の手伝いで街を走り回ってばかりだった。バトルの後処理や、暴走したポケモンの対応、街の人々への説明。息をつく暇もなく、それが日常になっていた。それでも、こうしてFさんの隣を歩いていると、その慌ただしさが遠い出来事のように感じられる。
同じ気持ちを共有出来た、と。
その言葉が…私の胸に落ちて、小さく花が咲いたみたいに嬉しい。
今日の、今の、この夜だけは。
誰にも邪魔されたくないと思った。
「ですから…」
言いかけたところで、Fさんの足が止まった。
それにつられて、私も足を止める。
まるで、私の反応を確かめるように、わざと歩みを断ったみたいに。
「今夜は、もう少しだけ、あなたのお時間を頂けますか?」
その一言に、心臓が跳ねる。
「……静かな場所で、腰を落ち着けて話したい」
彼は振り返り、穏やかにそう言った。
街灯の光が、彼の金色の髪に淡く反射している。
「歩きながらでは、落ち着いて話せないでしょう」
言葉は柔らかいのに、選択肢を削いでいくような確信がある。
胸の奥が、じわりと熱を帯びた。
「……今夜でなければ、いけませんか?」
自分でも驚くほど小さな声で、そう尋ねていた。
逃げ道を探すような問いなのに、答えを聞くのが怖い。彼は一瞬だけ視線を細め、わずかに笑った。
「ええ。今夜が、よろしい」
即答だった。
ためらいも、逡巡もない。
「実は、近くに私が予約しているホテルがあります。プリズムタワーがよく見える、静かな部屋です」
淡々と告げながらも、その声にはどこか楽しげな響きが混じっている。
「ワインも用意してあります。あなたがお酒は初めてだと伺っていましたから」
胸の奥が、さらに強く鳴った。
どうしてそんなことまで覚えているのか。
どうしてそんな準備までしているのか。
「初めてを経験するなら……信頼できる相手と、落ち着いた場所で、が望ましいでしょう」
その言葉は、正論で、紳士的で、優しい。
でも同時に、逃げ道を閉ざす呪文みたいだった。
「それに……久しぶりに、こうして二人で歩けた夜です。もう少し、あなたと過ごしたい」
そう言って、彼はまっすぐに私を見た。
恋人の目で。
それ以上の意味を含ませたまなざしで。
「私の個人的な我儘ですが……聞いていただけますか」
胸が締め付けられる。
断るべきだと、どこかで分かっているのに。
でも、彼の“我儘”を拒む理由を、私は持っていなかった。
――ずるい。
こんな言い方、断れるわけがない。
「……少しだけ、ですよ。お話しするだけですから」
自分に言い聞かせるように言った。
それでも胸の奥のざわめきは消えなくて、視線を逸らしたまま指先を握りしめる。
足を踏み出すことが、こんなにも重たいなんて。
それでも、彼の前では逃げたくなかった。
彼の望みを拒むことが、怖かった。
小さく息を吸い込み、覚悟を固める。
「……良いですよ」
「ありがとうございます。無理をさせるつもりはありません」
その言葉のあと、彼はほんの一瞬だけ視線を伏せた。
「……あなたが望むなら、私は従います」
穏やかな声色なのに、胸の奥に沈み込むみたいに重くて。
まるで選択肢を与えているようでいて、逃げ道を塞ぐ宣告みたいだった。
その言葉に、私は一瞬だけ視線を伏せる。
胸の奥で、小さく息が詰まるような感覚がした。
「……はい」
消え入りそうな声で答えると、彼はほんの僅かに目を細めた。どこか安堵したように、そして――嬉しそうに。
「では、行きましょうか」
そう言って、彼は静かに身体の向きを変え、ホテルへ続く道を示すように手を差し出した。
手を取るためではない。
あくまで「こちらです」と導くための、紳士的で控えめな仕草。けれど、その仕草がなぜか、逃げ道を塞がれた合図のように感じられた。
私はその動作に導かれるように歩き出す。
気づけば、歩調はまた揃っていた。
彼の歩幅に合わせようとしているのは、私なのか、それとも彼なのか。そんなことすら分からなくなるほど、並んで歩く距離が自然になっている。夜気の冷たさとは裏腹に、胸の内側だけが熱を帯びていく。
足元の石畳がやけに遠く感じられて、踏み出す一歩一歩が現実感を失っていく。
勧められるままに歩きながら、私は自分の胸の音を意識してしまう。鼓動が早いのか、夜が静かすぎるだけなのか。彼に聞こえてしまいそうで、無意識に呼吸を浅くした。
静かな夜だからこそ、逃げ場がない。
彼の横顔は、街灯の橙色に縁取られている。
穏やかで、落ち着いていて、いつも通りの優しい恋人の表情。なのに、その奥に何か別の意図が潜んでいるような気がして、視線を逸らせなかった。
「今からでも、お戻りになることは出来ますが……?」
低く、静かな声。
問いかけの形をしているのに、拒否されることを想定していない響き。
彼は立ち止まり、私にだけ向き直る。
街灯の影が足元に長く伸びて、二人の影が絡み合う。
「迷いがあるのなら、無理強いはいたしません。まだ……間に合います」
そう言いながら、彼は一歩だけ近づいた。
距離が縮むだけで、胸の奥がざわめく。
「それでも、行くことを選ばれるのであれば……私は、それを尊重します」
その言葉は、選択肢を与えているようでいて、
“選ばせる”という形で責任を私に預けてくる。
ずるい大人の言葉だと、分かっているのに。
「……もう、決めたことですから」
私は小さく息を吸い込み、そう言った。
声は震えていないはずなのに、耳の奥がじんわりと熱くなるのを自覚する。
「Fさんが……もっと話したいって、言ったんでしょう?」
言い切るように言ってから、視線を逸らさないように彼を見つめた。
強がりだと、自分でも分かっている。でも、ここで引き返したら、きっと一生後悔する気がした。
彼は、ほんの一瞬だけ目を細めた。
それは満足の色にも、安心にも、どちらにも見えた。
「……ありがとうございます」
その声は静かで、優しくて、そしてどこか深い。
再び歩き出す。
ホテルのエントランスは、もうすぐそこだった。
ーーーーーーーー
ガラス越しに見えるロビーの灯りは柔らかく、夜の街とは切り離された別の世界みたいに見えた。さっきまで歩いていたミアレの通りが、もう遠い過去のように感じられる。自動扉が静かに開くと、外の夜気とは違う、ひんやりと澄んだ空気が肌に触れた。
足元の絨毯は音を吸い込み、私たちの足音さえ溶かしてしまう。隣を歩くFさんの歩幅は、やっぱり私に合わせられている。急ぐでもなく、遅れるでもなく。自然に、当たり前のように。
――こういうところ、本当にずるい。
会話は、いつの間にか途切れていた。
ホテルに向かう道では、他愛もない話をしていたのに、ロビーに足を踏み入れた途端、言葉が見つからなくなる。
何か喋った方がいいのだろうか。
でも、何を?
天気の話? 今日のバトルのこと?
こんな夜に、そんな話をしてしまっていいのか分からない。
沈黙が、思ったよりも重たかった。
Fさんは何も言わず、フロントの横を通り過ぎてエレベーターへ向かう。私を置いていくことはなく、歩調は最後まで揃えたまま。それが余計に、胸の奥をくすぐった。
エレベーターの扉が開き、二人で乗り込む。
鏡張りの壁に、並んだ私たちの姿が映った。
彼の隣に立つ自分が、どこか現実感を失っている。
まるで誰かの人生を、第三者の目で覗いているみたいだ。
扉が閉まり、小さな機械音とともに上昇が始まる。
狭い箱の中で、沈黙がさらに濃くなる。
……何か、言わなくちゃ。
でも、声を出す勇気が出ない。
Fさんは腕を組み、視線を落として何か考え込んでいる。その横顔は、いつもの穏やかな恋人の表情なのに、私には少し遠い人みたいに見えた。
――何を考えているのだろう。
そう思った瞬間、胸の奥がひやりとした。
答えを知ってしまったら、戻れなくなる気がして。
やがて、静かな音とともにエレベーターが止まった。
扉が開くと、柔らかな照明に照らされた廊下が広がっている。
絨毯に足音が吸い込まれていく。
Fさんが先に一歩踏み出し、私は自然と半歩後ろについた。狭い廊下で並ぶより、その方が落ち着く。
彼の背中が、静かに私を導いてくれる。
歩きながらも、会話は戻らなかった。
急に距離が生まれたみたいで、胸の奥がそわそわする。
やがて、ある扉の前でFさんが足を止めた。
カードキーを取り出し、静かに端末へかざす。
小さな電子音。
ノブに手を掛けたまま、すぐには回さない。
「改めて……申し上げておきます」
背中越しに落ちる声は、いつもの柔らかさと、どこか底の見えない落ち着きが混ざっている。
「今なら、まだお戻りになれます。あなたの宿泊先までお送りすることも出来ます」
ノブがゆっくりと回され、鍵が外れる音がした。
扉がわずかに開き、室内の柔らかな光が廊下へ滲み出す。
彼は自分は中へ入らず、入口の脇に立って私に進路を空けた。
まるで、選択肢そのものを形にしたみたいに。
「……リリィさんは、来ると仰いましたね」
低く、どこか自嘲するような声。
「それなのに、こうして距離を測るような真似をしている。……恋人として、正しい態度とは言えません」
一瞬だけ、視線が揺れた気がした。
彼が、迷っている?
「それでも――」
彼は私を見る。
「ここまで来て、またあなたを試すようなことをしますが」
静かな声なのに、逃げ場を削いでいく。
「それでも、あなたがどうなさるのか興味があります」
そして、わずかに唇を動かして。
「選ぶのは、あなたです。リリィ」
呼び捨てにされた瞬間、胸の奥が強く脈打った。
いつもは「リリィさん」と呼ぶくせに。どんな時でも距離を測るみたいに、丁寧な呼び方しかしないくせに。こんな時にだけ、名前だけで呼ぶなんて――ずるい。逃げ場だった敬称が剥がされて、ただの「リリィ」になったみたいで。彼の視線は、冷静で、穏やかで、いつもと変わらないのに、その奥にある感情だけが、いつもより近い。私だけに向けられている。
それが、怖くて。
それ以上に、どうしようもなく嬉しくて。
――本当に、狡い人。
扉の向こうから漂ってくるのは、清潔なシーツと微かな香水の匂い。見慣れないはずなのに、どこか安心してしまう匂いだった。
私は一度だけ息を整える。
逃げ道が用意されていることは分かっている。
彼は、ちゃんと選択肢を差し出している。
――それでも。
彼の視線から逃げる方が、ずっと怖かった。
床に落ちた光の境界線を越える。
一歩、室内へ足を踏み入れる。
柔らかなカーペットが足裏を受け止め、廊下の空気が背中から切り離された。
「……行きます」
小さく、けれど自分でも驚くほど落ち着いた声。
彼は答えない。
ただ、私が完全に入るのを見届けるように視線を向けている。誘導でも強制でもなく、決定の瞬間を観察しているだけのようだった。
私はもう一歩、部屋の奥へ進む。
背後で、扉はまだ開いたまま。
逃げ道は、形式上はそこに残されている。
――でも、もう戻る気はなかった。
ーーーーーーーー
部屋に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
夜のホテル特有の、外界から切り離されたような静けさ。私はすぐには動けず、入口近くに立ち尽くしたまま、ただ室内を見渡していた。
整えられすぎた家具、低い照明、広すぎるベッド。
ここが彼の選んだ場所だという事実だけが、やけに生々しい。
背後で、Fさんが無言で扉を閉める。
カチリ、と乾いた音がして、鍵がかかった。
廊下の気配が遮断され、二人だけの空間になる。
その事実が、胸の奥で小さく火花を散らす。
部屋は決して高級とは言えないが、清潔で、夜のミアレシティの光がカーテン越しに淡く差し込んでいる。
遠くにはプリズムタワーが、宝石の芯のように輝いていた。
「どうぞ、こちらへ。お掛けになってください」
Fさんは穏やかにそう言って、椅子を引いてくれる。
彼の声は低く、落ち着いていて、耳に触れるたびに不思議と心拍が整えられる。
私は言われるまま腰を下ろした。
椅子を引く指先が、私の腰のすぐ後ろをかすめる。
それだけで、背筋に細い電流が走った。
けれど、背筋が少し強張る。
──落ち着いて。恋人なんだから。
そう言い聞かせても、胸の奥のざわめきは消えない。
Fさんは備え付けの小さな冷蔵庫を開け、ラップで包まれたチーズを取り出した。
机の上には、事前に買っておいたクラッカーの箱。
グラスを並べ、コルクを抜く動作は驚くほど静かで無駄がない。
その横顔を見ながら、私は手の置き場に困っていた。
手伝うべきか、邪魔になるか。
指先が落ち着かず、膝の上で絡めてしまう。
「手伝いましょうか?」
そう言うと、Fさんは一瞬だけこちらを見て、柔らかく首を振った。
「いいえ。誘ったのは私です。リリィさんは、座っていてください」
淡々とした言葉なのに、拒絶ではない。
むしろ、どこか甘やかすような響きがあって、私は小さく頷いた。
ほどなくして、深い赤色のワインがグラスに注がれる。
その液体は夜の光を受けて、静かに揺れていた。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
控えめにそう告げて、両手でグラスを受け取る。
その瞬間、彼の指先が私の指に触れた。
ほんの一瞬。
けれど、彼の手は大きくて、骨張っていて、旅の跡を残すかすれた皮膚なのに、不思議と品位が失われていない。触れたところだけが、じんわりと熱を帯びる。
──もっと、触れてみたい。
そんな考えが、胸の奥で芽生えてしまう。
恋人なのだから、触れてもいいはずなのに。
許可なんて要らないはずなのに。
それでも、確かめなければ踏み込めない自分がいる。
指先に残った余韻ごと、私はそっとグラスを握り直した。
「……乾杯、ですね」
「ええ。あなたとの夜に」
Fさんの低い声が、甘く耳に落ちる。
グラスが軽く触れ合い、澄んだ音が部屋に溶けた。
私はそのまま、ワインを口に含む。
渋みと果実の香りが広がると同時に、胸の奥で渦巻いていた欲求や葛藤まで、一緒に呑み込むように喉を鳴らした。
──触れたい。
──でも、触れていいのか分からない。
そんな矛盾した感情を、赤い液体で塗り潰すみたいに。
私はグラスを傾け続けた。
ワインの熱が喉を落ちて、胸の奥に溜まっていく。
さっきまで胸を締めつけていた葛藤が、少しだけ溶けて、形を失っていくのが分かる。
向かいの椅子に座るFさんは、静かに私を見ていた。
視線は優しく、紳士的で、けれどどこか測るように深い。まるで私の内側の感情まで、ゆっくりと品定めしているみたいで。
「……味は、大丈夫でしょうか。強すぎませんか」
低い声が落ちる。
私は少し驚いてから、グラスを口元に残したまま首を振った。
「いえ……すごく、いいです。少し渋いけど……香りも、すごく良くて」
言葉にしながら、舌の上に残る果実の余韻を確かめる。正直な感想だった。
お酒に慣れていないのに、不思議と嫌な感じがしない。Fさんはそれを聞いて、ほんのわずかに表情を緩めた。安心したような、それでいてどこか満足げな微笑み。
「それは良かった。あなたの口に合わなければ、別のものを頼もうと思っていましたから」
淡々とした口調なのに、そこに含まれる配慮が、胸に温度を落とす。
――こういうところが、ずるい。
優しくて、理性的で、なのに私だけを気に掛けているみたいな錯覚を与えてくる。
その後も、他愛のない会話が続いた。
旅の話、ミアレの街の変化、ジガルデのこと。
Fさんの声は落ち着いていて、話題のどれもが、どこか哲学的で、思索的で。
彼の言葉に触れるたび、自分が少し大人の世界に踏み込んでいくような感覚がする。
ワインは、思ったより早く回ってきた。
頭の奥がじんわりと温かくて、視界が少しだけ柔らかくなる。胸の内側で絡まっていた不安や遠慮も、ほどけていく。そんな私の変化に気づいたのだろう。
Fさんはグラスを置き、静かに立ち上がった。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、別のグラスに注ぐ。そして、私の椅子の前で、彼は静かに片膝をついた。恋人に対する所作としては丁寧すぎるほど丁寧で、でもどこか儀式的で。
――かつての彼なら、決してしなかった仕草だと、ふと頭をよぎる。
「水を。無理はしないでください」
低く、落ち着いた声。
見下ろされるのではなく、跪かれることで、逆に逃げ場がなくなる。
差し出された透明な水のグラス。
その向こうに、彼の指が見える。
私は一瞬、躊躇ってから、その手に触れた。
指先に触れた瞬間、彼の動きがほんのわずかに止まる。それでも表情は崩れない。
むしろ、何かを確かめるように、静かに見つめてくる。
……その視線が、怖いのに、甘い。
水のグラスを受け取るはずだったのに。
私はなぜか、そのままFさんの手を握ってしまった。
自分でも驚くほど、指先に力が入っている。
胸の奥で、理性がぎりぎりと軋む。
聞いてはいけない。
聞いたら、もう戻れない。
でも、ワインの酔いが、ほんの少しだけ背中を押した。
「……私のこと、好き、ですか?」
ポツリ。声が震えているのが、自分でも分かる。
笑って誤魔化したいのに、笑えない。
怖い。
拒まれるのが。
曖昧にされるのが。
そして何より──答えを知るのが。
Fさんは、私の手を握り返すわけでも、離すわけでもなく。ただ、静かにそのまま受け止めている。
だけどその瞳の奥で、何かがゆっくりと光った。
まるで、弱った獲物が自分から檻に歩み寄ってきたのを見届ける捕食者のように。けれど口元に浮かぶのは、あくまで紳士的な微笑みだけ。
「……その質問をするのは、勇気がいったでしょう」
そう言いながら、Fさんはもう片方の手で水のグラスをそっとテーブルへ退けた。
ガラスが触れ合う音が、やけに静かに響く。
そして空いた手で、私の指先を、確かめるように包み込んだ。改めて認識した大きく、骨張った、旅に晒された荒れた掌。けれど温度は穏やかで、どこか品位を失っていない。その手が、私の手を逃がさない。
「ええ。好きです。……いえ」
一瞬、間があった。
その沈黙が、胸を締めつける。
「愛しています」
囁きは低く、耳元に落ちるほど近い。
甘く、静かで、抗えない重さを帯びて。
私は息を呑んだ。
指先を包む彼の手が、わずかに強くなる。
絡めるわけでも、抱き寄せるわけでもない。
ただ、離れられないように固定するだけの力。
「……あなたは、美しい」
唐突に、そう言われた。
恋人への言葉としては不釣り合いなくらい、どこか理念的で、抽象的で。
「この世界は、歪んでいます。醜く、無秩序で、意味に満ちていない」
淡々とした声音で、思想を語るように。
「私は、かつてそれを壊そうとした。整え、選別し、不要なものを削ぎ落とし、理想の形にしようと」
その言い回しに、胸がちくりと痛む。
──昔、あの人が語っていた言葉と、よく似ている。
あの頃の彼を、私は確かに好きだった。
その記憶が、今の彼の言葉に触れて、胸の奥で小さく疼いた。
「ですが今は、違います。私は壊すよりも……与えたいと思っている」
視線が、まっすぐに私に向けられる。
「混沌の中で、それでもなお輝くものを守りたい」
ゆっくりと、私の手を持ったまま、彼は親指で私の甲をなぞった。まるで「自分のものだ」と刻みつけるみたいに。
「あなたは、その中で見つけた唯一のものです」
胸の奥で、何かが締めつけられる。
救済の言葉なのに、祝福なのに、なぜか逃げ場を失った気がした。
「過去の私が、あなたに触れなかったことを知っています」
静かな声。
責めるでもなく、ただ事実を告げるように。
「理性の名の下に距離を取り、拒絶した。それは合理的で、正しく、美しい行為だったのでしょう」
彼はほんのわずかに笑う。
けれどその笑みは、どこか歪んでいる。
「ですが、今の私はそれを“美しい”とは思わない」
指先の圧が、さらに強まる。
「奪う者だった過去の私より、与える者であろうとする今の私の方が、よほど残酷です」
何が、と思うより先に、言葉が続く。
「あなたを見つけてしまった。あなたを愛してしまった」
「……それは、世界の中で唯一、私が“選別したいと思えなかった存在”です」
その響きは、告白であると同時に、宣告のようだった。
「だから、離す気はありません」
優しい声で、断言する。
拒否権が存在しないという事実だけを、淡々と提示するみたいに。
「あなたが不安になるたび、私を求めるたび、私はそれを歓迎します」
彼の親指が、私の指の付け根をなぞる。
まるで印を刻むように。
「それは檻ではなく、救済だと思ってください」
「あなたが帰る場所が、ここにあるという証明なのですから」
息が苦しい。
甘く、怖く、逃げたいのに逃げたくない。
「……あなたは、もう私の理想の一部です、リリィ」
名前を呼ばれる。
低く、囁くように。
呪文のように。
「壊させません。奪わせません。失わせません」
「世界がどう変わろうと、あなたは、私の“与えたい美”であり続ける」
その言葉が、胸の奥に絡みついて、ほどけない。
私はただ、握られたままの手を見つめる。
そこから抜け出す術を、もう考えられなくなっていた。
ーー愛している。
そのたった一言が、長い年月の空白をすべて埋める呪文みたいで。
私は視界が滲むのを感じながら、彼の手を強く握ったまま、小さく笑った。不安も、恐怖も、葛藤も。すべてが、赤ワインの残り香と一緒に溶けていく。
「……よかった……」
それだけ言って、私は彼の胸に額を預けた。
低く穏やかな心音が、子守歌みたいに響く。
安心しきった体は、抗えずに重くなっていった。
気づけば、私は彼の腕の中で眠りに落ちていた。
ーーーーーーーー
以後F視点
↓
リリィの身体は、思っていたよりも軽かった。
椅子から抱き上げ、ベッドへ運ぶまで、彼女は一度も目を覚まさない。 眠りは深い。ワインの影響もあるだろうが、それ以上に、精神的な緊張が解けた反動だ。
私は彼女をベッドに横たえ、自分も隣に身を落とした。窓の外ではプリズムタワーが静かに光り、都市は夜の静止に沈んでいる。
肩口に落ちるセミロングの髪が、枕に広がる。 結われていない髪は柔らかく、淡い光を受けて淡銀色に揺れた。 灰色の瞳は閉じられ、そのまぶたの下にある世界を想像するだけで、胸の奥が静かに疼く。
彼女の頬に指先を伸ばす。 陶器のように白い肌。触れた瞬間、わずかな体温が伝わってくる。 私は黒い指抜き手袋越しに、そっと頬を撫でた。骨張った細い指、旅で荒れた皮膚。それでも爪だけは深く整えてある。
――傷つけるためのものではない。
彼女の髪を耳に掛ける。 指の動きに合わせて、ふわりと香りが立ち上った。百合の花。 甘さの奥に、冷たい白を思わせる清潔な匂い。 都市の夜気と混ざり合い、私の呼吸の奥へと沁み込んでくる。
胸の奥で、なにかがほどける。 同時に、絡みつく。 この香りが、他の誰かに届くことを想像するだけで、胸がざらつく。 彼女の名前が、彼女の身体が、彼女の記憶が、誰かの中で再生されることが、耐え難い。
――独占したい。
――美しいものは、ただひとりのために在るべきだ。
かつての思想が、記憶の底で囁く。
だが今の私は、それを拒絶する。 与える者でありたい。破壊ではなく、保存を。 世界の美を選別し、守る存在でありたい。
そして、その唯一の美が、今、腕の中にある。
彼女の呼吸が、規則正しく上下する。 薄く開いた唇から、あたたかな息が漏れる。そのたびに百合の香りが揺れ、私の感覚を侵食する。
不意に、彼女の唇がわずかに動いた。
浅い眠りの層で、何かを探すように眉が寄る。
次の瞬間、彼女の身体がゆっくりとこちらへ転がった。 気づけば、その額はすでに胸元にあった。 髪がほどけ、シーツを擦る音が静かに鳴る。
夢でも見ているのか。 その緩んだ口元があまりにも可愛らしく、思わずこちらの口元まで緩んだ。
眠りの底で、彼女の表情がかすかに変わった。 どんな光景を見ているのだろう。 私には決して踏み込めない場所で、彼女は何を想っているのか。
「……ん……」
掠れた声。 吐息がジャケット越しに伝わる。 唇が微かに動き、言葉を探すように空気を掬う。
そして、鼓膜を叩くように低く囁かれた。
「……フラダリ、さ……ん……」
その名が、私の内側で破裂した。
思考の中心に衝撃が落ちたみたいに、視界が一瞬白く弾ける。 耳鳴りに似た衝動が頭蓋の奥で反響し、理性の縁を叩き割る。
――まさか、フラダリが出てくる夢か。
「……忌々しいですね」
低く吐き捨てる。
「あなたの夢にまで、あの男の名が現れるとは思いませんでした」
「過去の亡霊というものは、想像以上に執拗なものです」
「……それでも、あなたは今、私の腕の中にいる」
低く吐き捨てる。
眠る彼女ではなく、自分自身へ向けた独白だ。
「私はもう、あの男ではありません。それでも影は消えないのでしょうか」
過去の私。 奪う者であり、狂気に身を委ね、世界を焼こうとした男。 彼女がかつて好意を寄せていたのも、その私だった。
胸の奥に黒いものが渦巻く。 嫉妬か、怒りか、それとも自己嫌悪か。 いずれにせよ醜い感情だ。
切り離したはずの過去が、今も私の中に牙を立てている。
彼女はさらに寄ってくる。 眠りながら熱を求めるように擦り寄せ、無意識に距離を詰める。 私の気も知らないで。
華奢な体がジャケット越しに触れ、体温がじんわりと伝わる。 細い指先が私の袖に触れ、そのまま掴むように指を絡めてきた。 陶器のような肌が、布越しでも分かるほど滑らかで、現実感を削ぐ。
――ここにいるのは、今の私だ。
かつての名を呼びながら、今の私の温もりを求める。 その矛盾が、静かに私を侵食していく。
彼女の額に指先を滑らせる。 そのまま、こめかみから頬骨の輪郭をなぞり、首筋の線へと落とす。
薄いブラウス越しに伝わる体温が、指先に絡みつくようだった。 私は無意識に彼女の髪を掬い上げ指に絡める。 そこに口づけを落とせば、彼女は眠ったまま小さく息を吐いた。
「……無防備すぎます」
声は自嘲に近い。 それでも指は止まらず、頬に触れたまま親指で唇の端をなぞる。 閉じたまぶたの影、薄く色づいた唇、微かに開いた呼吸の隙間。 すべてが、私の理性を静かに削り取っていく。 髪に触れると、指の隙間をすり抜ける感触が柔らかく、甘い。 そのまま頬へ、顎の線へと辿る。
眠りの底で、彼女は小さく息を吐き、さらに身体を預けてきた。 その唇が私の胸元に触れ、微かに布を押す。
衝動が喉元までせり上がる。 抱き寄せ、腕の中に閉じ込めてしまいたい。 彼女の世界を、私だけで満たしてしまいたい。
だが同時に、胸の奥で別の声が囁く。
――いずれ、私は彼女よりも遥かに長く生きる。
三千年という呪いにも似た寿命を背負ったまま。
伝える覚悟は、まだない。
彼女の未来観を縛り、人生を歪めてしまうかもしれない事実を、私は告げられずにいる。
隠し事は、いつか露見する。 それでも今は、ただ沈黙を選ぶしかない。
私は彼女の背に腕を回し、慎重に抱き寄せた。 華奢な身体を包む布越しに、胸の起伏が確かに感じ取れる。 指先で背骨のラインを辿り、腰の曲線に沿って掌を滑らせると、彼女の身体が無意識に私の方へ寄った。 まるで、私の存在だけを探すように。
「離れないでください、リリィさん」
「あなたが見ていいのは、私だけで十分です」
「過去も、未来も、他の誰かも……あなたの心にとっては不要でしょう」
華奢な身体がぴたりと収まり、吐息が首元にかかる。 その温もりは、確かに生きている人間のものだった。
眠りの中で、彼女は小さく笑う。
その無防備な表情に、胸の奥でまた別の狂気が芽吹く。 守りたいという感情と、支配したいという衝動。 与える者になったはずの私は、まだ奪う者の影を引きずっている。
私は彼女の髪に顔を埋め、深く息を吸った。 淡い香りが肺を満たし、意識が甘く痺れる。
「……リリィ」
彼女の耳元に唇を寄せ、囁く。
「あなたは、私が触れてよい唯一の世界です」
「その呼吸も、鼓動も……私にとっては、すべて尊いものだ」
眠りの中で彼女がわずかに身じろぎ、その反応に喉が鳴った。
声は、彼女には届かないほど低く、夜に溶けた。
「あなたには、何も奪わせません。過去にも、未来にも」
「……だから、まだ真実は言えない。赦してください、リリィ」
――私の世界は、もう君だけでいい。
だが、その世界に差す未来の影を、私はまだ見せることができずにいる。
ーーーーーーーー
ミアレシティの朝は、いつもよりも静かだった。石畳に差し込む光が、ゆっくりと街の輪郭をなぞっていく。
私は、その光に瞼を刺され、浅い眠りから引き上げられた。カーテン越しの朝日が、室内に淡い黄金色の帯を落としている。 視界の端で、その光が彼女の髪を縁取っていた。
すぐ傍に、温もりがある。
呼吸のリズムが、確かに生きている証として伝わってくる。 リリィの体温。
昨夜、いつ眠りに落ちたのかは定かではない。彼女の呼吸を意識し続けていたはずなのに、いつの間にか意識が途切れていた。眠りという生理現象が、守るべき存在から意識を奪う。それが、わずかに不快だった。
肘をつき、慎重に上体を起こす。彼女を起こさぬよう、動きは極限まで静かに。
視線を落とした瞬間、思考が一瞬止まった。
乱れたスカート。 布地は太腿の途中まで捲れ、朝の光が白い脚の曲線をなぞっている。
刺激が強すぎる。
恋人であるという事実と、理性と、倫理が同時に脳裏を叩く。 無意識に視線を逸らし、喉を鳴らした。
——朝から、危険だ。
何事もなかったかのようにシーツを整え、スカートの裾をそっと戻す。指先が布越しに触れた体温に、胸の奥でなにかが騒いだが、それも押し殺す。外側には、いつも通りの完璧な紳士を纏わせたまま。
やがて、リリィの睫毛が小さく震えた。光を嫌うように眉を寄せ、眩しそうに瞬きを繰り返す。眠りの底から浮上してくる、その曖昧な表情がひどく愛おしい。
「……あ……おはようございます、Fさん……」
少し掠れた声。 まだ夢の延長にいるような、頼りない微笑み。
「……おはようございます、リリィさん。気分はいかがですか
あくまで穏やかに。いつも通りの距離で。
「……少し、頭がふわふわします。でも……大丈夫、です」
言い終えた直後、どうやら昨夜の記憶が追いついたらしい。 彼女の表情がはっと変わる。
「あ、あのっ!……昨夜……私……その……」
言葉を探すように視線が彷徨う。
「ご迷惑……かけませんでしたか……?」
「問題はありません。安心してください」
そう告げると、リリィの肩から明らかに力が抜けた。 張り詰めていた呼吸が、ようやくほどけたように息を吐く。
「……よかった……」
小さくそう呟いてから、安堵した途端に眠気が再び戻ってきたのか、視線がとろりと揺れた。そしてそのまま、半分夢の中に足を踏み入れたままのようなぼんやりした声で、独り言めいて続ける。
「……そういえば……寝てるときに……なんだか、懐かしい夢を見たんですよね……」
私は即座に、その言葉を拾い上げた。彼女の呟きが空気に溶ける前に、穏やかな声で絡め取る。
「懐かしい、ですか」
思考を整えようとする時の癖で、声はわずかに低く、慎重に選ばれた音色を帯びていた。それが彼女の鼓膜に届いたのか、彼女は微かに笑みを浮かべる。
「ええ……なんというか……懐かしくて……」
眠気に溶けた声でそう言い、少しだけ考え込むように視線を漂わせた。
「昔の……ミアレシティで……皆で歩いていたような……」 夢の輪郭をなぞるように、ゆっくりと。
「まだ色々……大変じゃなかった頃の、あの時みたいで……」
街の喧騒、仲間たちの笑い声、石畳に落ちる夕暮れの影。 私の脳裏にも、同じ情景が正確すぎるほどに重なっている。
「あなたにとって、大切な場所ですからね」
あくまで穏やかに、紳士的な距離感で応じる。 その態度の裏で、昨夜の記憶が静かに疼いていた。
「ええ、……それで……」
彼女は少しだけ言葉を探し、視線を宙に漂わせた。
「歩いてたら……後ろから、誰かに呼ばれた気がして……」
眠気に溶けた意識の底で、記憶を辿るように。
「その声が……知ってる声で……」
一拍、間が落ちる。
呼吸が浅くなり、瞳がわずかに揺れた。
「……そう、あれは……」
言葉を探す指先が、無意識に胸元を掴む。
そして、ぽつりと。
「……フラダリさん……」
その一言が、耳の奥で鈍く弾けた。
空気がわずかに歪んだように知覚され、直後、昨夜の光景が無慈悲に叩きつけられる。
眠りに落ちた彼女の唇。胸元に擦り寄せた温度。吐息に混じってこぼれた、忌々しいその名。
——違う。 違う。 今ここで、それを表に出してはならない。
喉元までせり上がる衝動を、理性が掴み取り、力ずくで押し戻す。 呼吸を制御し、鼓動の速度を意識的に落とす。 表情筋の緊張を一つずつ解き、眼差しの焦点を平常に戻す。悟られてはならない……と、完璧なまでの仮面を被り直す。
「……そうですか」
ただそれだけを告げる。
しかし、その声色に滲んだ僅かな硬さを、彼女は過敏に感じ取ったらしい。 リリィはびくりと肩を震わせ、しまったとばかりにFの顔から視線を逸らした。 失敗を恐れる子供のように、唇を噛み、言葉を探す。
「あ、あの……その……ごめんなさい。夢とはいえ……」
夢なのだから、そこまで怯えて謝る必要などない。 それでも、彼女は叱られるのを恐れる子供のように、小さく身をすくめたまま謝罪を重ねる。
私はわずかに息を吐いた。
声色に、滲んでしまったのだろうか。
完璧であるべき仮面に、微細な亀裂が走った可能性を反省しながら。
「気にする必要はありません」
即座に、しかし強すぎない口調で否定する。
「夢とは、記憶や感情の残滓が無秩序に浮かび上がるものです。そこに意味を見出す必要はありません」
そう言いながら、彼女の肩に手を置き、ゆっくりと抱き寄せた。 驚いたように目を瞬かせたが、抵抗はない。 むしろ、縋るように胸元に額を預けてくる。
「……Fさん……」
その呼び方だけで、すべてが報われた気がした。
「大丈夫です。あなたは何も悪くありません」
髪に指を通し、幼子を宥めるように背を撫でる。
「昨夜のことも、夢のことも、すべて忘れて構いません」
彼女は小さく息を吐き、腕の中で身体の力を抜いた。 温もりが、完全に委ねられている。
「……ありがとうございます。なんだか、安心しました」
「それは、何よりです」
——もう死んだ名前だ。彼女の中に居場所はない。
忘れさせてあげよう。過去も、名前も、罪も。 彼女の未来に、不要な影が差し込まぬように。
「……あなたは、私のものだ」
リリィの耳には届かないほど低く、そう呟いた。
その声色は、かつて世界を浄化すると豪語した男のものに、自分でも気づかぬほど似ていた。
しかし、それが愛だと、私は疑いもしなかった。
恋人同士。
夢主過去のFに片想い描写あり。
ーーーーーーーー
夜のミアレシティは静かで、街灯の橙色が石畳に柔らかな影を落としていた。
遠くから、乾いた衝撃音が断続的に響いてくる。
ポケモンの技がぶつかり合う音。 バトルゾーンで繰り広げられている戦いの余韻が、夜気に溶けて街へと流れ込んでくる。
それでも、今私たちが歩くこの通りだけは、まるで何かに切り取られたみたいに不思議なほど静かだった。
二人並んで歩く帰り道。
久しぶりに、Fさんと並んで歩いている。
それだけで胸の奥が少しだけあたたかくなって、くすぐったい。
それに彼は私の歩調に合わせて、ほんのわずかに歩幅を落としている。
たぶん、私の都合のいい考えなのだろうけれど――私たちは恋人なのだから、きっと、それくらい分かっていてくれているはずだ。
自惚れているだけかもしれないのに、そう思うだけで胸の奥がやわらかくほどけていく。
私は足元の石畳を見つめながら、指先を軽く握りしめた。この静けさが、夜のどこかに溶けてしまうのが惜しくて。彼の隣にいるという事実を、もう一度確かめたくて。
「……今日は、本当に楽しかったです」
夜空を見上げながら、そう言った。
「最近、ちゃんと会えなかったから……余計に、嬉しくて」
少しだけ照れくさくて、視線を逸らす。
それでも、彼の反応が気になって横目で覗いた。
「……ええ。私も、同じ気持ちです」
低く落ち着いた声。
それだけで胸がじんわりと温かくなる。
「最近は互いに忙しく、こうして二人きりで過ごす時間が減っていましたから」
確かにここ最近、私はMZ団の手伝いで街を走り回ってばかりだった。バトルの後処理や、暴走したポケモンの対応、街の人々への説明。息をつく暇もなく、それが日常になっていた。それでも、こうしてFさんの隣を歩いていると、その慌ただしさが遠い出来事のように感じられる。
同じ気持ちを共有出来た、と。
その言葉が…私の胸に落ちて、小さく花が咲いたみたいに嬉しい。
今日の、今の、この夜だけは。
誰にも邪魔されたくないと思った。
「ですから…」
言いかけたところで、Fさんの足が止まった。
それにつられて、私も足を止める。
まるで、私の反応を確かめるように、わざと歩みを断ったみたいに。
「今夜は、もう少しだけ、あなたのお時間を頂けますか?」
その一言に、心臓が跳ねる。
「……静かな場所で、腰を落ち着けて話したい」
彼は振り返り、穏やかにそう言った。
街灯の光が、彼の金色の髪に淡く反射している。
「歩きながらでは、落ち着いて話せないでしょう」
言葉は柔らかいのに、選択肢を削いでいくような確信がある。
胸の奥が、じわりと熱を帯びた。
「……今夜でなければ、いけませんか?」
自分でも驚くほど小さな声で、そう尋ねていた。
逃げ道を探すような問いなのに、答えを聞くのが怖い。彼は一瞬だけ視線を細め、わずかに笑った。
「ええ。今夜が、よろしい」
即答だった。
ためらいも、逡巡もない。
「実は、近くに私が予約しているホテルがあります。プリズムタワーがよく見える、静かな部屋です」
淡々と告げながらも、その声にはどこか楽しげな響きが混じっている。
「ワインも用意してあります。あなたがお酒は初めてだと伺っていましたから」
胸の奥が、さらに強く鳴った。
どうしてそんなことまで覚えているのか。
どうしてそんな準備までしているのか。
「初めてを経験するなら……信頼できる相手と、落ち着いた場所で、が望ましいでしょう」
その言葉は、正論で、紳士的で、優しい。
でも同時に、逃げ道を閉ざす呪文みたいだった。
「それに……久しぶりに、こうして二人で歩けた夜です。もう少し、あなたと過ごしたい」
そう言って、彼はまっすぐに私を見た。
恋人の目で。
それ以上の意味を含ませたまなざしで。
「私の個人的な我儘ですが……聞いていただけますか」
胸が締め付けられる。
断るべきだと、どこかで分かっているのに。
でも、彼の“我儘”を拒む理由を、私は持っていなかった。
――ずるい。
こんな言い方、断れるわけがない。
「……少しだけ、ですよ。お話しするだけですから」
自分に言い聞かせるように言った。
それでも胸の奥のざわめきは消えなくて、視線を逸らしたまま指先を握りしめる。
足を踏み出すことが、こんなにも重たいなんて。
それでも、彼の前では逃げたくなかった。
彼の望みを拒むことが、怖かった。
小さく息を吸い込み、覚悟を固める。
「……良いですよ」
「ありがとうございます。無理をさせるつもりはありません」
その言葉のあと、彼はほんの一瞬だけ視線を伏せた。
「……あなたが望むなら、私は従います」
穏やかな声色なのに、胸の奥に沈み込むみたいに重くて。
まるで選択肢を与えているようでいて、逃げ道を塞ぐ宣告みたいだった。
その言葉に、私は一瞬だけ視線を伏せる。
胸の奥で、小さく息が詰まるような感覚がした。
「……はい」
消え入りそうな声で答えると、彼はほんの僅かに目を細めた。どこか安堵したように、そして――嬉しそうに。
「では、行きましょうか」
そう言って、彼は静かに身体の向きを変え、ホテルへ続く道を示すように手を差し出した。
手を取るためではない。
あくまで「こちらです」と導くための、紳士的で控えめな仕草。けれど、その仕草がなぜか、逃げ道を塞がれた合図のように感じられた。
私はその動作に導かれるように歩き出す。
気づけば、歩調はまた揃っていた。
彼の歩幅に合わせようとしているのは、私なのか、それとも彼なのか。そんなことすら分からなくなるほど、並んで歩く距離が自然になっている。夜気の冷たさとは裏腹に、胸の内側だけが熱を帯びていく。
足元の石畳がやけに遠く感じられて、踏み出す一歩一歩が現実感を失っていく。
勧められるままに歩きながら、私は自分の胸の音を意識してしまう。鼓動が早いのか、夜が静かすぎるだけなのか。彼に聞こえてしまいそうで、無意識に呼吸を浅くした。
静かな夜だからこそ、逃げ場がない。
彼の横顔は、街灯の橙色に縁取られている。
穏やかで、落ち着いていて、いつも通りの優しい恋人の表情。なのに、その奥に何か別の意図が潜んでいるような気がして、視線を逸らせなかった。
「今からでも、お戻りになることは出来ますが……?」
低く、静かな声。
問いかけの形をしているのに、拒否されることを想定していない響き。
彼は立ち止まり、私にだけ向き直る。
街灯の影が足元に長く伸びて、二人の影が絡み合う。
「迷いがあるのなら、無理強いはいたしません。まだ……間に合います」
そう言いながら、彼は一歩だけ近づいた。
距離が縮むだけで、胸の奥がざわめく。
「それでも、行くことを選ばれるのであれば……私は、それを尊重します」
その言葉は、選択肢を与えているようでいて、
“選ばせる”という形で責任を私に預けてくる。
ずるい大人の言葉だと、分かっているのに。
「……もう、決めたことですから」
私は小さく息を吸い込み、そう言った。
声は震えていないはずなのに、耳の奥がじんわりと熱くなるのを自覚する。
「Fさんが……もっと話したいって、言ったんでしょう?」
言い切るように言ってから、視線を逸らさないように彼を見つめた。
強がりだと、自分でも分かっている。でも、ここで引き返したら、きっと一生後悔する気がした。
彼は、ほんの一瞬だけ目を細めた。
それは満足の色にも、安心にも、どちらにも見えた。
「……ありがとうございます」
その声は静かで、優しくて、そしてどこか深い。
再び歩き出す。
ホテルのエントランスは、もうすぐそこだった。
ーーーーーーーー
ガラス越しに見えるロビーの灯りは柔らかく、夜の街とは切り離された別の世界みたいに見えた。さっきまで歩いていたミアレの通りが、もう遠い過去のように感じられる。自動扉が静かに開くと、外の夜気とは違う、ひんやりと澄んだ空気が肌に触れた。
足元の絨毯は音を吸い込み、私たちの足音さえ溶かしてしまう。隣を歩くFさんの歩幅は、やっぱり私に合わせられている。急ぐでもなく、遅れるでもなく。自然に、当たり前のように。
――こういうところ、本当にずるい。
会話は、いつの間にか途切れていた。
ホテルに向かう道では、他愛もない話をしていたのに、ロビーに足を踏み入れた途端、言葉が見つからなくなる。
何か喋った方がいいのだろうか。
でも、何を?
天気の話? 今日のバトルのこと?
こんな夜に、そんな話をしてしまっていいのか分からない。
沈黙が、思ったよりも重たかった。
Fさんは何も言わず、フロントの横を通り過ぎてエレベーターへ向かう。私を置いていくことはなく、歩調は最後まで揃えたまま。それが余計に、胸の奥をくすぐった。
エレベーターの扉が開き、二人で乗り込む。
鏡張りの壁に、並んだ私たちの姿が映った。
彼の隣に立つ自分が、どこか現実感を失っている。
まるで誰かの人生を、第三者の目で覗いているみたいだ。
扉が閉まり、小さな機械音とともに上昇が始まる。
狭い箱の中で、沈黙がさらに濃くなる。
……何か、言わなくちゃ。
でも、声を出す勇気が出ない。
Fさんは腕を組み、視線を落として何か考え込んでいる。その横顔は、いつもの穏やかな恋人の表情なのに、私には少し遠い人みたいに見えた。
――何を考えているのだろう。
そう思った瞬間、胸の奥がひやりとした。
答えを知ってしまったら、戻れなくなる気がして。
やがて、静かな音とともにエレベーターが止まった。
扉が開くと、柔らかな照明に照らされた廊下が広がっている。
絨毯に足音が吸い込まれていく。
Fさんが先に一歩踏み出し、私は自然と半歩後ろについた。狭い廊下で並ぶより、その方が落ち着く。
彼の背中が、静かに私を導いてくれる。
歩きながらも、会話は戻らなかった。
急に距離が生まれたみたいで、胸の奥がそわそわする。
やがて、ある扉の前でFさんが足を止めた。
カードキーを取り出し、静かに端末へかざす。
小さな電子音。
ノブに手を掛けたまま、すぐには回さない。
「改めて……申し上げておきます」
背中越しに落ちる声は、いつもの柔らかさと、どこか底の見えない落ち着きが混ざっている。
「今なら、まだお戻りになれます。あなたの宿泊先までお送りすることも出来ます」
ノブがゆっくりと回され、鍵が外れる音がした。
扉がわずかに開き、室内の柔らかな光が廊下へ滲み出す。
彼は自分は中へ入らず、入口の脇に立って私に進路を空けた。
まるで、選択肢そのものを形にしたみたいに。
「……リリィさんは、来ると仰いましたね」
低く、どこか自嘲するような声。
「それなのに、こうして距離を測るような真似をしている。……恋人として、正しい態度とは言えません」
一瞬だけ、視線が揺れた気がした。
彼が、迷っている?
「それでも――」
彼は私を見る。
「ここまで来て、またあなたを試すようなことをしますが」
静かな声なのに、逃げ場を削いでいく。
「それでも、あなたがどうなさるのか興味があります」
そして、わずかに唇を動かして。
「選ぶのは、あなたです。リリィ」
呼び捨てにされた瞬間、胸の奥が強く脈打った。
いつもは「リリィさん」と呼ぶくせに。どんな時でも距離を測るみたいに、丁寧な呼び方しかしないくせに。こんな時にだけ、名前だけで呼ぶなんて――ずるい。逃げ場だった敬称が剥がされて、ただの「リリィ」になったみたいで。彼の視線は、冷静で、穏やかで、いつもと変わらないのに、その奥にある感情だけが、いつもより近い。私だけに向けられている。
それが、怖くて。
それ以上に、どうしようもなく嬉しくて。
――本当に、狡い人。
扉の向こうから漂ってくるのは、清潔なシーツと微かな香水の匂い。見慣れないはずなのに、どこか安心してしまう匂いだった。
私は一度だけ息を整える。
逃げ道が用意されていることは分かっている。
彼は、ちゃんと選択肢を差し出している。
――それでも。
彼の視線から逃げる方が、ずっと怖かった。
床に落ちた光の境界線を越える。
一歩、室内へ足を踏み入れる。
柔らかなカーペットが足裏を受け止め、廊下の空気が背中から切り離された。
「……行きます」
小さく、けれど自分でも驚くほど落ち着いた声。
彼は答えない。
ただ、私が完全に入るのを見届けるように視線を向けている。誘導でも強制でもなく、決定の瞬間を観察しているだけのようだった。
私はもう一歩、部屋の奥へ進む。
背後で、扉はまだ開いたまま。
逃げ道は、形式上はそこに残されている。
――でも、もう戻る気はなかった。
ーーーーーーーー
部屋に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
夜のホテル特有の、外界から切り離されたような静けさ。私はすぐには動けず、入口近くに立ち尽くしたまま、ただ室内を見渡していた。
整えられすぎた家具、低い照明、広すぎるベッド。
ここが彼の選んだ場所だという事実だけが、やけに生々しい。
背後で、Fさんが無言で扉を閉める。
カチリ、と乾いた音がして、鍵がかかった。
廊下の気配が遮断され、二人だけの空間になる。
その事実が、胸の奥で小さく火花を散らす。
部屋は決して高級とは言えないが、清潔で、夜のミアレシティの光がカーテン越しに淡く差し込んでいる。
遠くにはプリズムタワーが、宝石の芯のように輝いていた。
「どうぞ、こちらへ。お掛けになってください」
Fさんは穏やかにそう言って、椅子を引いてくれる。
彼の声は低く、落ち着いていて、耳に触れるたびに不思議と心拍が整えられる。
私は言われるまま腰を下ろした。
椅子を引く指先が、私の腰のすぐ後ろをかすめる。
それだけで、背筋に細い電流が走った。
けれど、背筋が少し強張る。
──落ち着いて。恋人なんだから。
そう言い聞かせても、胸の奥のざわめきは消えない。
Fさんは備え付けの小さな冷蔵庫を開け、ラップで包まれたチーズを取り出した。
机の上には、事前に買っておいたクラッカーの箱。
グラスを並べ、コルクを抜く動作は驚くほど静かで無駄がない。
その横顔を見ながら、私は手の置き場に困っていた。
手伝うべきか、邪魔になるか。
指先が落ち着かず、膝の上で絡めてしまう。
「手伝いましょうか?」
そう言うと、Fさんは一瞬だけこちらを見て、柔らかく首を振った。
「いいえ。誘ったのは私です。リリィさんは、座っていてください」
淡々とした言葉なのに、拒絶ではない。
むしろ、どこか甘やかすような響きがあって、私は小さく頷いた。
ほどなくして、深い赤色のワインがグラスに注がれる。
その液体は夜の光を受けて、静かに揺れていた。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
控えめにそう告げて、両手でグラスを受け取る。
その瞬間、彼の指先が私の指に触れた。
ほんの一瞬。
けれど、彼の手は大きくて、骨張っていて、旅の跡を残すかすれた皮膚なのに、不思議と品位が失われていない。触れたところだけが、じんわりと熱を帯びる。
──もっと、触れてみたい。
そんな考えが、胸の奥で芽生えてしまう。
恋人なのだから、触れてもいいはずなのに。
許可なんて要らないはずなのに。
それでも、確かめなければ踏み込めない自分がいる。
指先に残った余韻ごと、私はそっとグラスを握り直した。
「……乾杯、ですね」
「ええ。あなたとの夜に」
Fさんの低い声が、甘く耳に落ちる。
グラスが軽く触れ合い、澄んだ音が部屋に溶けた。
私はそのまま、ワインを口に含む。
渋みと果実の香りが広がると同時に、胸の奥で渦巻いていた欲求や葛藤まで、一緒に呑み込むように喉を鳴らした。
──触れたい。
──でも、触れていいのか分からない。
そんな矛盾した感情を、赤い液体で塗り潰すみたいに。
私はグラスを傾け続けた。
ワインの熱が喉を落ちて、胸の奥に溜まっていく。
さっきまで胸を締めつけていた葛藤が、少しだけ溶けて、形を失っていくのが分かる。
向かいの椅子に座るFさんは、静かに私を見ていた。
視線は優しく、紳士的で、けれどどこか測るように深い。まるで私の内側の感情まで、ゆっくりと品定めしているみたいで。
「……味は、大丈夫でしょうか。強すぎませんか」
低い声が落ちる。
私は少し驚いてから、グラスを口元に残したまま首を振った。
「いえ……すごく、いいです。少し渋いけど……香りも、すごく良くて」
言葉にしながら、舌の上に残る果実の余韻を確かめる。正直な感想だった。
お酒に慣れていないのに、不思議と嫌な感じがしない。Fさんはそれを聞いて、ほんのわずかに表情を緩めた。安心したような、それでいてどこか満足げな微笑み。
「それは良かった。あなたの口に合わなければ、別のものを頼もうと思っていましたから」
淡々とした口調なのに、そこに含まれる配慮が、胸に温度を落とす。
――こういうところが、ずるい。
優しくて、理性的で、なのに私だけを気に掛けているみたいな錯覚を与えてくる。
その後も、他愛のない会話が続いた。
旅の話、ミアレの街の変化、ジガルデのこと。
Fさんの声は落ち着いていて、話題のどれもが、どこか哲学的で、思索的で。
彼の言葉に触れるたび、自分が少し大人の世界に踏み込んでいくような感覚がする。
ワインは、思ったより早く回ってきた。
頭の奥がじんわりと温かくて、視界が少しだけ柔らかくなる。胸の内側で絡まっていた不安や遠慮も、ほどけていく。そんな私の変化に気づいたのだろう。
Fさんはグラスを置き、静かに立ち上がった。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、別のグラスに注ぐ。そして、私の椅子の前で、彼は静かに片膝をついた。恋人に対する所作としては丁寧すぎるほど丁寧で、でもどこか儀式的で。
――かつての彼なら、決してしなかった仕草だと、ふと頭をよぎる。
「水を。無理はしないでください」
低く、落ち着いた声。
見下ろされるのではなく、跪かれることで、逆に逃げ場がなくなる。
差し出された透明な水のグラス。
その向こうに、彼の指が見える。
私は一瞬、躊躇ってから、その手に触れた。
指先に触れた瞬間、彼の動きがほんのわずかに止まる。それでも表情は崩れない。
むしろ、何かを確かめるように、静かに見つめてくる。
……その視線が、怖いのに、甘い。
水のグラスを受け取るはずだったのに。
私はなぜか、そのままFさんの手を握ってしまった。
自分でも驚くほど、指先に力が入っている。
胸の奥で、理性がぎりぎりと軋む。
聞いてはいけない。
聞いたら、もう戻れない。
でも、ワインの酔いが、ほんの少しだけ背中を押した。
「……私のこと、好き、ですか?」
ポツリ。声が震えているのが、自分でも分かる。
笑って誤魔化したいのに、笑えない。
怖い。
拒まれるのが。
曖昧にされるのが。
そして何より──答えを知るのが。
Fさんは、私の手を握り返すわけでも、離すわけでもなく。ただ、静かにそのまま受け止めている。
だけどその瞳の奥で、何かがゆっくりと光った。
まるで、弱った獲物が自分から檻に歩み寄ってきたのを見届ける捕食者のように。けれど口元に浮かぶのは、あくまで紳士的な微笑みだけ。
「……その質問をするのは、勇気がいったでしょう」
そう言いながら、Fさんはもう片方の手で水のグラスをそっとテーブルへ退けた。
ガラスが触れ合う音が、やけに静かに響く。
そして空いた手で、私の指先を、確かめるように包み込んだ。改めて認識した大きく、骨張った、旅に晒された荒れた掌。けれど温度は穏やかで、どこか品位を失っていない。その手が、私の手を逃がさない。
「ええ。好きです。……いえ」
一瞬、間があった。
その沈黙が、胸を締めつける。
「愛しています」
囁きは低く、耳元に落ちるほど近い。
甘く、静かで、抗えない重さを帯びて。
私は息を呑んだ。
指先を包む彼の手が、わずかに強くなる。
絡めるわけでも、抱き寄せるわけでもない。
ただ、離れられないように固定するだけの力。
「……あなたは、美しい」
唐突に、そう言われた。
恋人への言葉としては不釣り合いなくらい、どこか理念的で、抽象的で。
「この世界は、歪んでいます。醜く、無秩序で、意味に満ちていない」
淡々とした声音で、思想を語るように。
「私は、かつてそれを壊そうとした。整え、選別し、不要なものを削ぎ落とし、理想の形にしようと」
その言い回しに、胸がちくりと痛む。
──昔、あの人が語っていた言葉と、よく似ている。
あの頃の彼を、私は確かに好きだった。
その記憶が、今の彼の言葉に触れて、胸の奥で小さく疼いた。
「ですが今は、違います。私は壊すよりも……与えたいと思っている」
視線が、まっすぐに私に向けられる。
「混沌の中で、それでもなお輝くものを守りたい」
ゆっくりと、私の手を持ったまま、彼は親指で私の甲をなぞった。まるで「自分のものだ」と刻みつけるみたいに。
「あなたは、その中で見つけた唯一のものです」
胸の奥で、何かが締めつけられる。
救済の言葉なのに、祝福なのに、なぜか逃げ場を失った気がした。
「過去の私が、あなたに触れなかったことを知っています」
静かな声。
責めるでもなく、ただ事実を告げるように。
「理性の名の下に距離を取り、拒絶した。それは合理的で、正しく、美しい行為だったのでしょう」
彼はほんのわずかに笑う。
けれどその笑みは、どこか歪んでいる。
「ですが、今の私はそれを“美しい”とは思わない」
指先の圧が、さらに強まる。
「奪う者だった過去の私より、与える者であろうとする今の私の方が、よほど残酷です」
何が、と思うより先に、言葉が続く。
「あなたを見つけてしまった。あなたを愛してしまった」
「……それは、世界の中で唯一、私が“選別したいと思えなかった存在”です」
その響きは、告白であると同時に、宣告のようだった。
「だから、離す気はありません」
優しい声で、断言する。
拒否権が存在しないという事実だけを、淡々と提示するみたいに。
「あなたが不安になるたび、私を求めるたび、私はそれを歓迎します」
彼の親指が、私の指の付け根をなぞる。
まるで印を刻むように。
「それは檻ではなく、救済だと思ってください」
「あなたが帰る場所が、ここにあるという証明なのですから」
息が苦しい。
甘く、怖く、逃げたいのに逃げたくない。
「……あなたは、もう私の理想の一部です、リリィ」
名前を呼ばれる。
低く、囁くように。
呪文のように。
「壊させません。奪わせません。失わせません」
「世界がどう変わろうと、あなたは、私の“与えたい美”であり続ける」
その言葉が、胸の奥に絡みついて、ほどけない。
私はただ、握られたままの手を見つめる。
そこから抜け出す術を、もう考えられなくなっていた。
ーー愛している。
そのたった一言が、長い年月の空白をすべて埋める呪文みたいで。
私は視界が滲むのを感じながら、彼の手を強く握ったまま、小さく笑った。不安も、恐怖も、葛藤も。すべてが、赤ワインの残り香と一緒に溶けていく。
「……よかった……」
それだけ言って、私は彼の胸に額を預けた。
低く穏やかな心音が、子守歌みたいに響く。
安心しきった体は、抗えずに重くなっていった。
気づけば、私は彼の腕の中で眠りに落ちていた。
ーーーーーーーー
以後F視点
↓
リリィの身体は、思っていたよりも軽かった。
椅子から抱き上げ、ベッドへ運ぶまで、彼女は一度も目を覚まさない。 眠りは深い。ワインの影響もあるだろうが、それ以上に、精神的な緊張が解けた反動だ。
私は彼女をベッドに横たえ、自分も隣に身を落とした。窓の外ではプリズムタワーが静かに光り、都市は夜の静止に沈んでいる。
肩口に落ちるセミロングの髪が、枕に広がる。 結われていない髪は柔らかく、淡い光を受けて淡銀色に揺れた。 灰色の瞳は閉じられ、そのまぶたの下にある世界を想像するだけで、胸の奥が静かに疼く。
彼女の頬に指先を伸ばす。 陶器のように白い肌。触れた瞬間、わずかな体温が伝わってくる。 私は黒い指抜き手袋越しに、そっと頬を撫でた。骨張った細い指、旅で荒れた皮膚。それでも爪だけは深く整えてある。
――傷つけるためのものではない。
彼女の髪を耳に掛ける。 指の動きに合わせて、ふわりと香りが立ち上った。百合の花。 甘さの奥に、冷たい白を思わせる清潔な匂い。 都市の夜気と混ざり合い、私の呼吸の奥へと沁み込んでくる。
胸の奥で、なにかがほどける。 同時に、絡みつく。 この香りが、他の誰かに届くことを想像するだけで、胸がざらつく。 彼女の名前が、彼女の身体が、彼女の記憶が、誰かの中で再生されることが、耐え難い。
――独占したい。
――美しいものは、ただひとりのために在るべきだ。
かつての思想が、記憶の底で囁く。
だが今の私は、それを拒絶する。 与える者でありたい。破壊ではなく、保存を。 世界の美を選別し、守る存在でありたい。
そして、その唯一の美が、今、腕の中にある。
彼女の呼吸が、規則正しく上下する。 薄く開いた唇から、あたたかな息が漏れる。そのたびに百合の香りが揺れ、私の感覚を侵食する。
不意に、彼女の唇がわずかに動いた。
浅い眠りの層で、何かを探すように眉が寄る。
次の瞬間、彼女の身体がゆっくりとこちらへ転がった。 気づけば、その額はすでに胸元にあった。 髪がほどけ、シーツを擦る音が静かに鳴る。
夢でも見ているのか。 その緩んだ口元があまりにも可愛らしく、思わずこちらの口元まで緩んだ。
眠りの底で、彼女の表情がかすかに変わった。 どんな光景を見ているのだろう。 私には決して踏み込めない場所で、彼女は何を想っているのか。
「……ん……」
掠れた声。 吐息がジャケット越しに伝わる。 唇が微かに動き、言葉を探すように空気を掬う。
そして、鼓膜を叩くように低く囁かれた。
「……フラダリ、さ……ん……」
その名が、私の内側で破裂した。
思考の中心に衝撃が落ちたみたいに、視界が一瞬白く弾ける。 耳鳴りに似た衝動が頭蓋の奥で反響し、理性の縁を叩き割る。
――まさか、フラダリが出てくる夢か。
「……忌々しいですね」
低く吐き捨てる。
「あなたの夢にまで、あの男の名が現れるとは思いませんでした」
「過去の亡霊というものは、想像以上に執拗なものです」
「……それでも、あなたは今、私の腕の中にいる」
低く吐き捨てる。
眠る彼女ではなく、自分自身へ向けた独白だ。
「私はもう、あの男ではありません。それでも影は消えないのでしょうか」
過去の私。 奪う者であり、狂気に身を委ね、世界を焼こうとした男。 彼女がかつて好意を寄せていたのも、その私だった。
胸の奥に黒いものが渦巻く。 嫉妬か、怒りか、それとも自己嫌悪か。 いずれにせよ醜い感情だ。
切り離したはずの過去が、今も私の中に牙を立てている。
彼女はさらに寄ってくる。 眠りながら熱を求めるように擦り寄せ、無意識に距離を詰める。 私の気も知らないで。
華奢な体がジャケット越しに触れ、体温がじんわりと伝わる。 細い指先が私の袖に触れ、そのまま掴むように指を絡めてきた。 陶器のような肌が、布越しでも分かるほど滑らかで、現実感を削ぐ。
――ここにいるのは、今の私だ。
かつての名を呼びながら、今の私の温もりを求める。 その矛盾が、静かに私を侵食していく。
彼女の額に指先を滑らせる。 そのまま、こめかみから頬骨の輪郭をなぞり、首筋の線へと落とす。
薄いブラウス越しに伝わる体温が、指先に絡みつくようだった。 私は無意識に彼女の髪を掬い上げ指に絡める。 そこに口づけを落とせば、彼女は眠ったまま小さく息を吐いた。
「……無防備すぎます」
声は自嘲に近い。 それでも指は止まらず、頬に触れたまま親指で唇の端をなぞる。 閉じたまぶたの影、薄く色づいた唇、微かに開いた呼吸の隙間。 すべてが、私の理性を静かに削り取っていく。 髪に触れると、指の隙間をすり抜ける感触が柔らかく、甘い。 そのまま頬へ、顎の線へと辿る。
眠りの底で、彼女は小さく息を吐き、さらに身体を預けてきた。 その唇が私の胸元に触れ、微かに布を押す。
衝動が喉元までせり上がる。 抱き寄せ、腕の中に閉じ込めてしまいたい。 彼女の世界を、私だけで満たしてしまいたい。
だが同時に、胸の奥で別の声が囁く。
――いずれ、私は彼女よりも遥かに長く生きる。
三千年という呪いにも似た寿命を背負ったまま。
伝える覚悟は、まだない。
彼女の未来観を縛り、人生を歪めてしまうかもしれない事実を、私は告げられずにいる。
隠し事は、いつか露見する。 それでも今は、ただ沈黙を選ぶしかない。
私は彼女の背に腕を回し、慎重に抱き寄せた。 華奢な身体を包む布越しに、胸の起伏が確かに感じ取れる。 指先で背骨のラインを辿り、腰の曲線に沿って掌を滑らせると、彼女の身体が無意識に私の方へ寄った。 まるで、私の存在だけを探すように。
「離れないでください、リリィさん」
「あなたが見ていいのは、私だけで十分です」
「過去も、未来も、他の誰かも……あなたの心にとっては不要でしょう」
華奢な身体がぴたりと収まり、吐息が首元にかかる。 その温もりは、確かに生きている人間のものだった。
眠りの中で、彼女は小さく笑う。
その無防備な表情に、胸の奥でまた別の狂気が芽吹く。 守りたいという感情と、支配したいという衝動。 与える者になったはずの私は、まだ奪う者の影を引きずっている。
私は彼女の髪に顔を埋め、深く息を吸った。 淡い香りが肺を満たし、意識が甘く痺れる。
「……リリィ」
彼女の耳元に唇を寄せ、囁く。
「あなたは、私が触れてよい唯一の世界です」
「その呼吸も、鼓動も……私にとっては、すべて尊いものだ」
眠りの中で彼女がわずかに身じろぎ、その反応に喉が鳴った。
声は、彼女には届かないほど低く、夜に溶けた。
「あなたには、何も奪わせません。過去にも、未来にも」
「……だから、まだ真実は言えない。赦してください、リリィ」
――私の世界は、もう君だけでいい。
だが、その世界に差す未来の影を、私はまだ見せることができずにいる。
ーーーーーーーー
ミアレシティの朝は、いつもよりも静かだった。石畳に差し込む光が、ゆっくりと街の輪郭をなぞっていく。
私は、その光に瞼を刺され、浅い眠りから引き上げられた。カーテン越しの朝日が、室内に淡い黄金色の帯を落としている。 視界の端で、その光が彼女の髪を縁取っていた。
すぐ傍に、温もりがある。
呼吸のリズムが、確かに生きている証として伝わってくる。 リリィの体温。
昨夜、いつ眠りに落ちたのかは定かではない。彼女の呼吸を意識し続けていたはずなのに、いつの間にか意識が途切れていた。眠りという生理現象が、守るべき存在から意識を奪う。それが、わずかに不快だった。
肘をつき、慎重に上体を起こす。彼女を起こさぬよう、動きは極限まで静かに。
視線を落とした瞬間、思考が一瞬止まった。
乱れたスカート。 布地は太腿の途中まで捲れ、朝の光が白い脚の曲線をなぞっている。
刺激が強すぎる。
恋人であるという事実と、理性と、倫理が同時に脳裏を叩く。 無意識に視線を逸らし、喉を鳴らした。
——朝から、危険だ。
何事もなかったかのようにシーツを整え、スカートの裾をそっと戻す。指先が布越しに触れた体温に、胸の奥でなにかが騒いだが、それも押し殺す。外側には、いつも通りの完璧な紳士を纏わせたまま。
やがて、リリィの睫毛が小さく震えた。光を嫌うように眉を寄せ、眩しそうに瞬きを繰り返す。眠りの底から浮上してくる、その曖昧な表情がひどく愛おしい。
「……あ……おはようございます、Fさん……」
少し掠れた声。 まだ夢の延長にいるような、頼りない微笑み。
「……おはようございます、リリィさん。気分はいかがですか
あくまで穏やかに。いつも通りの距離で。
「……少し、頭がふわふわします。でも……大丈夫、です」
言い終えた直後、どうやら昨夜の記憶が追いついたらしい。 彼女の表情がはっと変わる。
「あ、あのっ!……昨夜……私……その……」
言葉を探すように視線が彷徨う。
「ご迷惑……かけませんでしたか……?」
「問題はありません。安心してください」
そう告げると、リリィの肩から明らかに力が抜けた。 張り詰めていた呼吸が、ようやくほどけたように息を吐く。
「……よかった……」
小さくそう呟いてから、安堵した途端に眠気が再び戻ってきたのか、視線がとろりと揺れた。そしてそのまま、半分夢の中に足を踏み入れたままのようなぼんやりした声で、独り言めいて続ける。
「……そういえば……寝てるときに……なんだか、懐かしい夢を見たんですよね……」
私は即座に、その言葉を拾い上げた。彼女の呟きが空気に溶ける前に、穏やかな声で絡め取る。
「懐かしい、ですか」
思考を整えようとする時の癖で、声はわずかに低く、慎重に選ばれた音色を帯びていた。それが彼女の鼓膜に届いたのか、彼女は微かに笑みを浮かべる。
「ええ……なんというか……懐かしくて……」
眠気に溶けた声でそう言い、少しだけ考え込むように視線を漂わせた。
「昔の……ミアレシティで……皆で歩いていたような……」 夢の輪郭をなぞるように、ゆっくりと。
「まだ色々……大変じゃなかった頃の、あの時みたいで……」
街の喧騒、仲間たちの笑い声、石畳に落ちる夕暮れの影。 私の脳裏にも、同じ情景が正確すぎるほどに重なっている。
「あなたにとって、大切な場所ですからね」
あくまで穏やかに、紳士的な距離感で応じる。 その態度の裏で、昨夜の記憶が静かに疼いていた。
「ええ、……それで……」
彼女は少しだけ言葉を探し、視線を宙に漂わせた。
「歩いてたら……後ろから、誰かに呼ばれた気がして……」
眠気に溶けた意識の底で、記憶を辿るように。
「その声が……知ってる声で……」
一拍、間が落ちる。
呼吸が浅くなり、瞳がわずかに揺れた。
「……そう、あれは……」
言葉を探す指先が、無意識に胸元を掴む。
そして、ぽつりと。
「……フラダリさん……」
その一言が、耳の奥で鈍く弾けた。
空気がわずかに歪んだように知覚され、直後、昨夜の光景が無慈悲に叩きつけられる。
眠りに落ちた彼女の唇。胸元に擦り寄せた温度。吐息に混じってこぼれた、忌々しいその名。
——違う。 違う。 今ここで、それを表に出してはならない。
喉元までせり上がる衝動を、理性が掴み取り、力ずくで押し戻す。 呼吸を制御し、鼓動の速度を意識的に落とす。 表情筋の緊張を一つずつ解き、眼差しの焦点を平常に戻す。悟られてはならない……と、完璧なまでの仮面を被り直す。
「……そうですか」
ただそれだけを告げる。
しかし、その声色に滲んだ僅かな硬さを、彼女は過敏に感じ取ったらしい。 リリィはびくりと肩を震わせ、しまったとばかりにFの顔から視線を逸らした。 失敗を恐れる子供のように、唇を噛み、言葉を探す。
「あ、あの……その……ごめんなさい。夢とはいえ……」
夢なのだから、そこまで怯えて謝る必要などない。 それでも、彼女は叱られるのを恐れる子供のように、小さく身をすくめたまま謝罪を重ねる。
私はわずかに息を吐いた。
声色に、滲んでしまったのだろうか。
完璧であるべき仮面に、微細な亀裂が走った可能性を反省しながら。
「気にする必要はありません」
即座に、しかし強すぎない口調で否定する。
「夢とは、記憶や感情の残滓が無秩序に浮かび上がるものです。そこに意味を見出す必要はありません」
そう言いながら、彼女の肩に手を置き、ゆっくりと抱き寄せた。 驚いたように目を瞬かせたが、抵抗はない。 むしろ、縋るように胸元に額を預けてくる。
「……Fさん……」
その呼び方だけで、すべてが報われた気がした。
「大丈夫です。あなたは何も悪くありません」
髪に指を通し、幼子を宥めるように背を撫でる。
「昨夜のことも、夢のことも、すべて忘れて構いません」
彼女は小さく息を吐き、腕の中で身体の力を抜いた。 温もりが、完全に委ねられている。
「……ありがとうございます。なんだか、安心しました」
「それは、何よりです」
——もう死んだ名前だ。彼女の中に居場所はない。
忘れさせてあげよう。過去も、名前も、罪も。 彼女の未来に、不要な影が差し込まぬように。
「……あなたは、私のものだ」
リリィの耳には届かないほど低く、そう呟いた。
その声色は、かつて世界を浄化すると豪語した男のものに、自分でも気づかぬほど似ていた。
しかし、それが愛だと、私は疑いもしなかった。
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