カロスの棚
お客様のお名前。
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
恋人同士の何気ない朝。
ーーーーーーーー
(……ん、いい匂い……)
ふわりと鼻先を掠めた、香ばしくてちょっと苦い香り。
その匂いに誘われるようにして、私の意識はゆっくりと微睡みから引き戻された。
「んっ……」
小さく唸り声を上げ、まだ重たいまぶたを無理やり持ち上げようとして――うん、これは無理だと即断念。
代わりにもう一度、鼻から深く息を吸い込んでみる。
そうすると、今度はさっきよりもはっきりと、大好きな珈琲の香りが胸の奥まで落ちてきた。
(…グリったらもう起きてるんだ…)
早過ぎるでしょ…なんて。
そんな事を悠長に考えながら、ようやく薄っすらと目を開けると、ぼやけた視界に入ってきたのは見慣れた天井。
カーテンの隙間から差し込む夜明け前の青白い光が、部屋の隅っこをぼんやりと照らしているのが見て取れた。
無意識に、すっと横に手をやってみる。
けれど予想通りに隣にいたはずの体温はもうなくて、代わりにキッチンの方から、コト、と小さな食器の触れ合う音が聞こえてきた。
(よくアラームも無しに起きれるわね〜…)
感心半分、呆れ半分で、全身の筋肉を解きほぐすように伸びをする。そして大きく欠伸をしながら上体を起こした、その瞬間。
(……あれ?)
肌に触れる、着慣れない衣類の感触。
その違和感に、私はふと自分の胸元へ視線を落とした。
そこに映ったのは、私の体格には不釣り合いな、ぶかぶかの白いワイシャツ。
(……いつの間に着せたのかしら、これ)
思い当たることと言えば、昨夜の情事の後のこと。
えぇっと確か、最後に記憶を手放したのは……。
そこまで思い出しかけて、私は慌てて思考を止めた。
代わりに、自分でもはっきりと分かるくらい頬がじわりと熱くなっていく。
頬が熱くなるのを感じながら顔を横に向けると、キッチンでグリがシャツの袖を軽くまくり、いつも通りの手つきでコーヒーを淹れている姿が見えた。
そのあまりにも無防備な後ろ姿を見た瞬間に、ふっと私の心に悪戯心が芽生え始める。
ベッドからなるべく音を立てないように這い出して、裸足のまま床に足をつけると、ひやりとした冷たさが足裏からじわりと広がり、その刺激で眠気が完全に吹き飛んだ。
そのままグリの立てる物音に気配を潜めて、忍び足でキッチンへ。
そう。
私は背中を向けて油断している彼に、朝一番の「驚き」をプレゼントしてあげようと思ったのだ。
(ふふ、隙だらけね……!)
足音を殺しながら、
獲物を狙う猫のように少しずつ距離を詰める。
あと一歩。
鼻先に彼の匂いが届く距離で、ぐっと息を止めて――。
「わっ!」
一気に、その腰回りに抱きついた。
薄い布越しに伝わる体温。
腕の中に収まる、グリの筋肉質な腰回りの確かな感触。
(捕まえた!)
逃がさないように、少しだけ力を込めてしがみついた。
……のに。
「……おはようございます、リリィ」
返ってきたのは、驚くほどいつも通りの穏やかな声。
期待していた悲鳴も、肩の震えも、何一つなくて。
それどころか彼はぴくりとも動じないまま、手元のドリッパーを操る動きさえ、一度も止めなかった。
「ねぇ…グリ? 驚かないの?」
「ええ、まあ。貴方が欠伸をした頃から気付いていましたから」
「え〜!なによそれぇ〜……」
軽やかに返され、折角の悪戯が失敗に終わった私は、ムスッと頬を膨らませてそのまま背中に額を預ける。
「残念だわ…。折角、貴方の驚く顔が見たかったのに」
そのまま体重を預けるように寄りかかると、背中越しに感じる体温がじんわりと心地いい。
そう思いながらグリは何を作っているのかしら、と脇から手元を覗き込むと、そこには黄金色のスクランブルエッグと、脂を弾かせて輝くカリカリのベーコン、そして香ばしく焼き上がったクロワッサンがお皿の上に並んでいた。
(うわ、美味しそう……。お腹空いてきちゃったわ)
誘惑に勝てず、こっそりベーコンに手を伸ばそうとしたその時。
「こら」
パシッ、と軽い音を立てて手の甲を叩かれた。
「ちょ、ケチね。一口くらい良いじゃない」
すぐに手を引いてじとっと睨むと、
「行儀が悪いですよ。ちゃんと席についてからにしてください」
と、窘めつつもあくまで穏やかな彼の声。
けれど叩かれた腹立ちが収まらず、仕返しに私は腰に回した腕にぐっと力を込めた。
すると今まで微動だにしなかったグリの肩が、その瞬間。
――ぴく、と。
僅かに肩が跳ねる。
そしてグリは天を仰ぐようにして、鼻から息を吸い大きなため息を吐き出した。
「……はぁ」
「リリィ」
「なぁに?」
「……刺激が強いので、少し離れてくれませんか?それか、せめて何かを羽織ってください」
刺激? と首を傾げてから、私は自分の格好を思い出した。
身に付けているのはぶかぶかのシャツと下はショーツのみで、密着した私の大きな胸が、薄い生地越しに彼の背中へダイレクトに当たっているのが感触も込みで見て取れた。
「あー…」
なるほど、と私は納得する。
「そういうことね。グリったら、朝からスケベ過ぎよ」
「それは心外です、男なら……皆そうですよ?ましてや、愛する女性に背後からそんな無防備な姿で抱きつかれればね」
「下品な男は嫌いだわ」
そう言って軽蔑混じりにふふっと含み笑うと、彼は困ったように微笑みを浮かべて「朝食ができましたよ」と私を促した。
それにつられて私は「はーい」と脇から腕を離し、二つのカップを手に取ってテーブルへ運ぶ。
向かい合わせの席にそれを置くと、グリが続いてお皿とフォークを並べてくれた。
「いただきましょう」
彼の合図とともに、私はフォークを手に取って真っ先にトロトロの卵を口に運ぶ。
(んん……幸せ。やっぱりグリの料理は最高ね)
あまりの美味しさに頬を緩ませると、グリは満足そうに目を細めてコーヒーを啜った。
「……良い彼氏を持ったわ、私」
ごくりと飲み込み、私は心からの感嘆を吐き出した。
フォークを握ったまま幸せな余韻に浸る私を、対面に座る男は「それは良かった」と事もなげに受け流す。
そして彼は琥珀色の瞳を少しだけ細め、立ち上る湯気の向こうで珈琲を啜りながら、ポツリと独り言のように呟いた。
「もっとも、リリィの料理はとても食べられたものじゃないですからね」
幸せだった気分に、ピシリと亀裂が入る音がした。
「うるさいわね。……フォークで刺すわよ?」
図星を突かれた気恥ずかしさを隠そうと、私は眉間に皺を寄せて手元の銀色の先端を彼に向けた。
精一杯の威嚇のつもりだったけれど、グリはぴくりとも動じない。それどころか、彼は空いた手をスッと伸ばすと、笑顔を崩さないまま私の手首を制するようにして止めた。
「商売道具ですから、やめておきましょう」
「……別に、手を刺すとは言ってないわ。どこかなんて、決めてないもの」
手首を抑えられたまま、負けじと彼をキッと睨みつける。
そんな私の胸の内を見透かすように、彼はこの言葉を待っていたと言わんばかりのタイミングで、低く穏やかな声を重ねた。
「――商売道具はおれ自身が、なんですよ」
(何よ、その余裕そうな顔。……確かに顔はいいけど、そういうところが一番腹立つ〜っ!)
その傲慢とも取れる物言いに、理解が追いつくよりも先に怒りが込み上げる。
けれど、グリは私が反論するよりも先に、逃げ場のない決定打をにこやかに放った。
「それに。……こんなに美味しい食事が二度と摂れなくなっても、貴方は良いんですか?」
「っ……」
その言葉に、私はぐうの音も出なくなる。
言い返せなくて、私は悔しく少しだけ唇を噛んだ。
「……ずるい」
「それは褒め言葉として受け取っておきますね」
胃袋を完全に掌握している彼は、押し黙る私を他所に、勝ち誇った笑みのままクロワッサンを口に運んだ。
そして、そんな穏やかで少しだけ意地悪な朝の時間は、あっという間に過ぎていく。
食事を先に終え時計を見たグリが、「そろそろ行きますね」と席を立った。
視線につられて壁の時計を見ると、彼の出勤の時間が迫っていることに気づき、私も食事の手を止め慌てて玄関まで彼を見送りに行く。
靴を履き、こちらを振り返るグリ。
私は自然に彼の首に腕を回し、唇を重ねた。
「いってらっしゃい。お仕事、頑張ってね」
「ええ。……洗い物だけ、お願いしますね」
「分かってるわよ」
笑って離れようとしたけれど、グリの琥珀色の瞳がジッと私の首元を凝視していることに気づいた。
「……なに? 私の顔、何か付いてる?」
「いえ……」
少しだけ歯切れの悪い返事。
その後に、彼はそっと指先で私の鎖骨に近い首筋に触れた。
「今日は、スカーフを巻いて行ってくださいね。……その方が、貴方に似合うと思いますから」
「スカーフ?ん〜……、まぁ、グリがそう言うなら…」
どういう風の吹き回しかしら、と思っている間に、彼は「では」といつも通りの穏やかな笑みを残して扉の向こうへ消えてしまった。
パタン、と閉まったドアの前で、私は首を傾げる。
(スカーフなんて、今日の天気には合わない気がするんだけど……)
……あ。
その瞬間。
昨夜の、彼の少しだけ激しかった愛撫を思い出し、嫌な予感がして私は慌てて洗面所へ駆け込んだ。
鏡に映った自分の首元を見て、私は思わず絶句した。
そこには隠しようもないほど鮮やかな、赤い「印」がくっきりと残されていたのだ。
「……あの、馬鹿ぁっ!」
鏡の中の自分は、羞恥心でルージュを引く前よりも真っ赤になっていた。
スカーフを巻け、なんて……。
似合うかどうか以前に、これを隠せという意味だったのだ。
私の出勤時刻まで、タイムリミットはあと2時間。
私はその場にへなへなと座り込み、
逃げ場のない敗北感に頭を抱えたのは言うまでもない。
ーーーーーーーー
(……ん、いい匂い……)
ふわりと鼻先を掠めた、香ばしくてちょっと苦い香り。
その匂いに誘われるようにして、私の意識はゆっくりと微睡みから引き戻された。
「んっ……」
小さく唸り声を上げ、まだ重たいまぶたを無理やり持ち上げようとして――うん、これは無理だと即断念。
代わりにもう一度、鼻から深く息を吸い込んでみる。
そうすると、今度はさっきよりもはっきりと、大好きな珈琲の香りが胸の奥まで落ちてきた。
(…グリったらもう起きてるんだ…)
早過ぎるでしょ…なんて。
そんな事を悠長に考えながら、ようやく薄っすらと目を開けると、ぼやけた視界に入ってきたのは見慣れた天井。
カーテンの隙間から差し込む夜明け前の青白い光が、部屋の隅っこをぼんやりと照らしているのが見て取れた。
無意識に、すっと横に手をやってみる。
けれど予想通りに隣にいたはずの体温はもうなくて、代わりにキッチンの方から、コト、と小さな食器の触れ合う音が聞こえてきた。
(よくアラームも無しに起きれるわね〜…)
感心半分、呆れ半分で、全身の筋肉を解きほぐすように伸びをする。そして大きく欠伸をしながら上体を起こした、その瞬間。
(……あれ?)
肌に触れる、着慣れない衣類の感触。
その違和感に、私はふと自分の胸元へ視線を落とした。
そこに映ったのは、私の体格には不釣り合いな、ぶかぶかの白いワイシャツ。
(……いつの間に着せたのかしら、これ)
思い当たることと言えば、昨夜の情事の後のこと。
えぇっと確か、最後に記憶を手放したのは……。
そこまで思い出しかけて、私は慌てて思考を止めた。
代わりに、自分でもはっきりと分かるくらい頬がじわりと熱くなっていく。
頬が熱くなるのを感じながら顔を横に向けると、キッチンでグリがシャツの袖を軽くまくり、いつも通りの手つきでコーヒーを淹れている姿が見えた。
そのあまりにも無防備な後ろ姿を見た瞬間に、ふっと私の心に悪戯心が芽生え始める。
ベッドからなるべく音を立てないように這い出して、裸足のまま床に足をつけると、ひやりとした冷たさが足裏からじわりと広がり、その刺激で眠気が完全に吹き飛んだ。
そのままグリの立てる物音に気配を潜めて、忍び足でキッチンへ。
そう。
私は背中を向けて油断している彼に、朝一番の「驚き」をプレゼントしてあげようと思ったのだ。
(ふふ、隙だらけね……!)
足音を殺しながら、
獲物を狙う猫のように少しずつ距離を詰める。
あと一歩。
鼻先に彼の匂いが届く距離で、ぐっと息を止めて――。
「わっ!」
一気に、その腰回りに抱きついた。
薄い布越しに伝わる体温。
腕の中に収まる、グリの筋肉質な腰回りの確かな感触。
(捕まえた!)
逃がさないように、少しだけ力を込めてしがみついた。
……のに。
「……おはようございます、リリィ」
返ってきたのは、驚くほどいつも通りの穏やかな声。
期待していた悲鳴も、肩の震えも、何一つなくて。
それどころか彼はぴくりとも動じないまま、手元のドリッパーを操る動きさえ、一度も止めなかった。
「ねぇ…グリ? 驚かないの?」
「ええ、まあ。貴方が欠伸をした頃から気付いていましたから」
「え〜!なによそれぇ〜……」
軽やかに返され、折角の悪戯が失敗に終わった私は、ムスッと頬を膨らませてそのまま背中に額を預ける。
「残念だわ…。折角、貴方の驚く顔が見たかったのに」
そのまま体重を預けるように寄りかかると、背中越しに感じる体温がじんわりと心地いい。
そう思いながらグリは何を作っているのかしら、と脇から手元を覗き込むと、そこには黄金色のスクランブルエッグと、脂を弾かせて輝くカリカリのベーコン、そして香ばしく焼き上がったクロワッサンがお皿の上に並んでいた。
(うわ、美味しそう……。お腹空いてきちゃったわ)
誘惑に勝てず、こっそりベーコンに手を伸ばそうとしたその時。
「こら」
パシッ、と軽い音を立てて手の甲を叩かれた。
「ちょ、ケチね。一口くらい良いじゃない」
すぐに手を引いてじとっと睨むと、
「行儀が悪いですよ。ちゃんと席についてからにしてください」
と、窘めつつもあくまで穏やかな彼の声。
けれど叩かれた腹立ちが収まらず、仕返しに私は腰に回した腕にぐっと力を込めた。
すると今まで微動だにしなかったグリの肩が、その瞬間。
――ぴく、と。
僅かに肩が跳ねる。
そしてグリは天を仰ぐようにして、鼻から息を吸い大きなため息を吐き出した。
「……はぁ」
「リリィ」
「なぁに?」
「……刺激が強いので、少し離れてくれませんか?それか、せめて何かを羽織ってください」
刺激? と首を傾げてから、私は自分の格好を思い出した。
身に付けているのはぶかぶかのシャツと下はショーツのみで、密着した私の大きな胸が、薄い生地越しに彼の背中へダイレクトに当たっているのが感触も込みで見て取れた。
「あー…」
なるほど、と私は納得する。
「そういうことね。グリったら、朝からスケベ過ぎよ」
「それは心外です、男なら……皆そうですよ?ましてや、愛する女性に背後からそんな無防備な姿で抱きつかれればね」
「下品な男は嫌いだわ」
そう言って軽蔑混じりにふふっと含み笑うと、彼は困ったように微笑みを浮かべて「朝食ができましたよ」と私を促した。
それにつられて私は「はーい」と脇から腕を離し、二つのカップを手に取ってテーブルへ運ぶ。
向かい合わせの席にそれを置くと、グリが続いてお皿とフォークを並べてくれた。
「いただきましょう」
彼の合図とともに、私はフォークを手に取って真っ先にトロトロの卵を口に運ぶ。
(んん……幸せ。やっぱりグリの料理は最高ね)
あまりの美味しさに頬を緩ませると、グリは満足そうに目を細めてコーヒーを啜った。
「……良い彼氏を持ったわ、私」
ごくりと飲み込み、私は心からの感嘆を吐き出した。
フォークを握ったまま幸せな余韻に浸る私を、対面に座る男は「それは良かった」と事もなげに受け流す。
そして彼は琥珀色の瞳を少しだけ細め、立ち上る湯気の向こうで珈琲を啜りながら、ポツリと独り言のように呟いた。
「もっとも、リリィの料理はとても食べられたものじゃないですからね」
幸せだった気分に、ピシリと亀裂が入る音がした。
「うるさいわね。……フォークで刺すわよ?」
図星を突かれた気恥ずかしさを隠そうと、私は眉間に皺を寄せて手元の銀色の先端を彼に向けた。
精一杯の威嚇のつもりだったけれど、グリはぴくりとも動じない。それどころか、彼は空いた手をスッと伸ばすと、笑顔を崩さないまま私の手首を制するようにして止めた。
「商売道具ですから、やめておきましょう」
「……別に、手を刺すとは言ってないわ。どこかなんて、決めてないもの」
手首を抑えられたまま、負けじと彼をキッと睨みつける。
そんな私の胸の内を見透かすように、彼はこの言葉を待っていたと言わんばかりのタイミングで、低く穏やかな声を重ねた。
「――商売道具はおれ自身が、なんですよ」
(何よ、その余裕そうな顔。……確かに顔はいいけど、そういうところが一番腹立つ〜っ!)
その傲慢とも取れる物言いに、理解が追いつくよりも先に怒りが込み上げる。
けれど、グリは私が反論するよりも先に、逃げ場のない決定打をにこやかに放った。
「それに。……こんなに美味しい食事が二度と摂れなくなっても、貴方は良いんですか?」
「っ……」
その言葉に、私はぐうの音も出なくなる。
言い返せなくて、私は悔しく少しだけ唇を噛んだ。
「……ずるい」
「それは褒め言葉として受け取っておきますね」
胃袋を完全に掌握している彼は、押し黙る私を他所に、勝ち誇った笑みのままクロワッサンを口に運んだ。
そして、そんな穏やかで少しだけ意地悪な朝の時間は、あっという間に過ぎていく。
食事を先に終え時計を見たグリが、「そろそろ行きますね」と席を立った。
視線につられて壁の時計を見ると、彼の出勤の時間が迫っていることに気づき、私も食事の手を止め慌てて玄関まで彼を見送りに行く。
靴を履き、こちらを振り返るグリ。
私は自然に彼の首に腕を回し、唇を重ねた。
「いってらっしゃい。お仕事、頑張ってね」
「ええ。……洗い物だけ、お願いしますね」
「分かってるわよ」
笑って離れようとしたけれど、グリの琥珀色の瞳がジッと私の首元を凝視していることに気づいた。
「……なに? 私の顔、何か付いてる?」
「いえ……」
少しだけ歯切れの悪い返事。
その後に、彼はそっと指先で私の鎖骨に近い首筋に触れた。
「今日は、スカーフを巻いて行ってくださいね。……その方が、貴方に似合うと思いますから」
「スカーフ?ん〜……、まぁ、グリがそう言うなら…」
どういう風の吹き回しかしら、と思っている間に、彼は「では」といつも通りの穏やかな笑みを残して扉の向こうへ消えてしまった。
パタン、と閉まったドアの前で、私は首を傾げる。
(スカーフなんて、今日の天気には合わない気がするんだけど……)
……あ。
その瞬間。
昨夜の、彼の少しだけ激しかった愛撫を思い出し、嫌な予感がして私は慌てて洗面所へ駆け込んだ。
鏡に映った自分の首元を見て、私は思わず絶句した。
そこには隠しようもないほど鮮やかな、赤い「印」がくっきりと残されていたのだ。
「……あの、馬鹿ぁっ!」
鏡の中の自分は、羞恥心でルージュを引く前よりも真っ赤になっていた。
スカーフを巻け、なんて……。
似合うかどうか以前に、これを隠せという意味だったのだ。
私の出勤時刻まで、タイムリミットはあと2時間。
私はその場にへなへなと座り込み、
逃げ場のない敗北感に頭を抱えたのは言うまでもない。
12/16ページ