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夢主がイメチェンしてみたお話。
ーーーーーーーー
今日の私は、少しだけ機嫌が良い。
何故なら、新しい服を新調したから。
それもただの新調ではなくて、普段の私ならまず選ばないような、ほんの少し……いえ、かなり攻めた装いをしてみた。
肩口まで大胆に覗くオフショルダーのニットと、身体の曲線をやわらかく拾うプリーツのミニスカート。
そして太腿まで包むニーハイソックスに、足元はヒールの高いパンプス。
鏡の前で何度も見返して、その度に胸の奥がそわついた。
けれど嫌な気分ではない。
むしろ、こうしていつもとは違う自分を纏っている今日は、少しくらい彼を驚かせてみたくなる。
そう、今日は待ちに待った休日。
新しい服を着て、恋人のグリを驚かせに行くには絶好の日。
私は足取り軽く、カッ、カッ、と真新しいヒールの音を石畳に響かせながら、彼の居るベール大通りへと向かった。
普段より少しだけ歩幅を意識する。
慣れない高さのヒールに気を取られそうになりながらも、背筋は真っ直ぐに伸ばす。
せっかくの装いだもの、みっともなくは歩けない。
ベール大通りに近付くにつれて、見慣れたヌーヴォカフェのキッチンカーが見えてくる。
先に目に入ったのは、店先に立つグリーズの姿だった。
「いらっしゃ――」
言いかけて、彼女の言葉がピタリと止まる。
そして視線が、私の頭の先から足元まで一度ゆっくり滑った。
「……なんだ、リリィか」
こちらに気付いた彼女が、ぶっきらぼうにそう言って片眉を上げる。けれど視線はもう一度、今度は「ふーん」と露骨に私の服装を改めて確認するように動いた。
「何よ、その顔」
「別に」
「気合い入ってんなって思っただけ」
グリーズは肩をすくめて素っ気なく返す。
けれどその言い方には、呆れと感心が半分ずつ混じっているように聞こえた。
「悪いかしら?」
「悪くはねぇよ。むしろ、あいつには効くんじゃね?」
『あいつ』。
言うまでもなくグリのことだ。
その一言に、胸の奥が小さく跳ねる。
「ふふ、そうかしら」
わざとらしくならない程度に首を傾げて見せると、グリーズは「知らね」と肩を竦めた。
「まぁ、わたしは注文とってるからさ」
そして軽く親指で中を示し。
「声掛けてやんなよ」
そう言って彼女はすぐに表へ向き直り、通りかかった客へ慣れた調子で声を掛け始める。
看板娘らしく表に立つその姿を横目に、私は小さく息を整えた。グリーズにまでああいう反応をされるのなら、少しは期待しても良いのかもしれない。
そう思って、私はキッチンカーの方へ足を進める。
ヒールが石畳を打つ度に、妙に存在を主張している気がして落ち着かない。けれど、その音すら今日は悪くない演出に思えた。
「いらっしゃいませ」
中から聞こえてきた柔らかな声に、私は足を止める。
姿を現したグリは、最初こそいつもの接客用の笑みを浮かべていた。けれど、その視線が私に定まった瞬間、ほんの僅かに動きが止まる。
本当に、一瞬だけ。
それでも私は見逃さなかった。
白い眼鏡の奥、細められた目がわずかに見開かれ、いつも崩れないはずの表情に、確かな間が落ちたことを。
「こんにちは、グリ」
何食わぬ顔で声を掛けると、彼はすぐにいつもの微笑を貼り直した。
「……これはまた、随分と雰囲気が違いますね」
「そう?」
「えぇ。髪型もそうですが……今日は、服装まで別人みたいです」
(やっぱり、髪もちゃんと気付くのね。)
内心で少しだけ満足しながら、私は彼の前でくるりと一周してみせた。その拍子に、ミニスカートのプリーツの裾がひらりと揺れる。
わざとらしく見えない程度に動きを止め、胸元へそっと手を添えた。オフショルダーのニットから覗くデコルテと肩を見せつけるように。
「どうかしら。似合ってる?」
問い掛けながら微笑むと、グリは黙った。
接客中に客を待たせることなど、本来の彼ならしないはずなのに。
その沈黙が、答えのような気がした。
「……効果は、抜群ですね」
ぽつりと落ちたその言葉に、思わず笑ってしまう。
「あら、そんな言い方するのね」
「他に適切な表現が見つかりませんでしたので」
表情は穏やかなまま。
なのに、声だけが妙に低い。
その温度差が可笑しくて、そして少しだけ心地良い。
今日は私が彼を翻弄するつもりで来たのだから、これくらいの反応をもらえなければ困る。
「ふふ、そう。なら頑張っておめかしした甲斐があったわ」
そう言うと、彼の視線が私の肩口から足元へと静かに落ちた。ヒールの高いパンプス。ニーハイに包まれた脚。普段よりずっと短いスカートの裾。
その視線の流れに気付いていても、私はあえて知らないふりをする。
「何か飲んでいこうかしら。せっかく来たんだもの」
「もちろん。ですが、その前に一つよろしいですか?」
「なぁに?」
首を傾げると、グリは少しだけ身を屈めた。
距離が近付く。客に聞かれないようにするためなのだと分かっていても、その仕草ひとつで心臓が変に騒いだ。
「その格好で来るなら、先に連絡を頂きたかったですね」
「あら、どうして?」
「心の準備が必要でした」
真顔で言うものだから、私は堪えきれず吹き出した。
「貴方にも、そんなものがいるの?」
「おれを何だとお思いで?」
「いつだって余裕の人」
「買い被りですよ」
そう返しながらも、彼の笑みは崩れない。
ただ、その奥にあるものがいつもよりずっと熱を帯びている気がして、私は妙に落ち着かなくなった。
グリーズが表で注文を取りながら、ちらりとこちらを見た。そして呆れたように鼻を鳴らす。
「グリ、手ぇ止まってる」
「おや、失礼しました」
「失礼しましたじゃねぇよ。客待たせんな」
「怖いですね」
「誰のせいだと思ってんだ」
2人のコントみたいなやり取りに、思わず笑う。
その空気に少し肩の力が抜けたけれど、グリの視線だけは相変わらず私から外れないままだった。
そして私は結局、いつもの珈琲を頼んだ。
暫くして商品を受け取る瞬間。
紙カップを渡す彼の指先が一瞬だけ私の手に触れ、今までの意識が全部そちらへ持っていかれる。
たったそれだけのことなのに、妙に熱い…と私は小さく胸をそわつかせた。
「グリ、今お客来てないから休憩してきなよ。10分くらいなら平気だろ」
会計の合間にグリーズがそう言った。
こちらを見ないまま、口調は普段と変わらないけれど、半ば追い払うように。
「へぇ、気が利くのね」
「別に。見てるこっちが落ち着かねぇだけ」
「グリーズ」
窘める様にグリが軽く睨むと、彼女は「はいはい」と手を振った。
「ほら行けよ。わたしが店は見とくからさ」
「有難うございます。助かります」
グリがさらりと礼を言う。
その自然さを見るに、きっと既に彼の中では私と一緒に行くことが決まっていたのだろう。
「じゃあ、少しだけ」
私がそう言うと、グリは「えぇ」と穏やかに頷いた。
並んで歩き出すとベール大通りの石畳に、私のヒールの音だけが小気味よく響く。
隣を歩く彼は、特に何も言わない。
けれど沈黙が気まずいわけではなかった。むしろ、何かをじっと堪えているような気配の方が気になった。
「さっきから静かね」
「そうでしょうか」
「そうよ。もっと何か言えばいいのに」
「言ってもよろしいのですか?」
「えぇ、もちろん」
そう答えた途端、彼が立ち止まる。
つられて私も足を止めると、グリは改めて私を見た。
白い眼鏡の奥、糸のように細い目が、今日はほんの少しだけ鋭い。
「では、遠慮なく」
静かな声だった。
「今日の貴方は、ずいぶん無防備ですね」
思わず、瞬きをする。
無防備。そう言われるとは思っていなかった。
「無防備って……おしゃれしただけじゃない」
「本当に?」
一歩、距離が詰まる。
「肩を出して、そんな短いスカートを穿いて。しかも、おれの前で回って見せた」
落ち着いた口調。
責めるでもなく、からかうでもなく、ただ事実を並べるように告げられる。
なのに、その一つ一つが肌に触れるみたいに熱い。
「それは……見せたかったからよ」
強気は崩さない。
崩したくなかった。
ここでたじろいだら負ける気がしたから。
すると彼は、ふっと笑った。
「えぇ、そうでしょうね」
「……何よ」
「貴方は今日、とても綺麗です」
あまりに真っ直ぐで、私は言葉を失う。
褒め言葉そのものは珍しくない。
けれど彼のそれは、軽い世辞とはまるで違った。見たものを、感じたままに、静かに断言してくる。
逃げ場がない。
「髪も服も、よく似合っています。いつもとは違うのに、ちゃんと貴方のままだ」
近付いた距離のまま、グリは私を見つめる。
「正直に言えば、かなり困っています」
「……困る?」
「えぇ。平静でいるのが難しいので」
その瞬間、心臓がどくんと大きく跳ねた。
嘘。
そう言いたいのに、言えない。
だって彼の声には、冗談を挟む余地が少しもなかったから。
「貴方はおれを驚かせるつもりだったのでしょう?」
「……そうよ」
「大成功ですね」
さらりと言うくせに、その声は低く甘い。
まるで追い詰めるみたいに。
「そんな顔で笑って、おれの前に立って。何も起きないと思っていたのなら、少し見通しが甘い」
「っ……」
今度こそ言葉に詰まる。
あれほど余裕を持っていたはずなのに、気付けば追い詰められているのは私の方だった。
彼の手がふと私の髪へ伸びて、耳に掛かっていた髪をそっと指で整える。軽く触れただけなのに、肩が熱を持つ。
「その格好、とてもお綺麗ですよ。だからこそ――あまり他の方には見せてほしくないですね」
低く、穏やかな独占欲。
その一言が、何よりも深く刺さった。
「貴方……」
「はい」
「ずるいわ」
ようやく搾り出した言葉に、彼は楽しそうに微笑む。
「そんなおれを翻弄しようとしたのは、貴方でしょう?」
否定できなかった。
まさしくその通りだったから。
グリを驚かせたくて。
余裕の顔を崩したくて。
いつもより少し大胆な服を選んで、見せつけるように笑ってみせて。
その結果がこれだ。
仕掛けたはずなのに、心臓を撃ち抜かれているのは私の方。
(完全に、返り討ちじゃない。)
「……本当に、慎重にするべきだったわ」
ぽつりと零すと、彼が首を傾げる。
「何をですか?」
「イメージチェンジよ」
恨みがましく言えば、彼は一瞬きょとんとして、それから可笑しそうに笑った。
「今さらですね」
「えぇ、本当に」
そう返した私の声は、自分でも分かるほど少しだけ掠れていた。グリはその変化に気付いたのだろう。
目元を和らげたあと、ほんの少しだけ身を屈める。
「ですが、おれとしては大歓迎です」
「……そう」
「えぇ。次も期待してしまいそうなくらいには」
それは反則でしょう。
そんなふうに余裕の顔で言われて、平気でいられる女なんてそういない。
私は小さく息をついて、彼から視線を逸らした。
逸らした先で、ショーウィンドウに映る自分の姿が見える。露出の増えた装いも、少し上気した表情も、全部見慣れない。
けれど隣に立つ彼の姿だけは、不思議なくらいしっくりきた。
「帰りましょうか、リリィ」
「えぇ」
たったそれだけのやり取りなのに、また胸が騒ぐ。
絡め取るような熱ではない。けれど、確実に逃がさない熱だ。
(……本当に、イメージチェンジは慎重にするべきね。)
少なくとも、相手がグリであるなら尚更。
そんなことを考えながら歩いていると、隣の彼がふと口を開いた。
「リリィ」
呼ばれて顔を上げる。
「なに?」
グリは前を向いたまま、静かな声で続けた。
「今夜ですが」
ほんの少し間が落ちる。
「おれ、早めにそちらへ伺います」
一瞬、意味が頭に入ってこなかった。
「……え?」
思わず聞き返すと、彼はようやくこちらを見た。
白い眼鏡の奥、細い目がわずかに細められる。
「続きをしたいので」
さらりと言う。
まるで何でもないことのように。
けれど、その一言で胸の奥が一気に熱くなった。
「つ、続きをって……」
言葉がうまく続かない。
さっきまで余裕のつもりでいたのに、こうして不意打ちみたいに落とされると、心の準備なんて出来るはずがない。
グリはそんな私を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「言ったでしょう」
低く穏やかな声。
「平静でいるのが難しいと」
その言葉に、さっきのやり取りが全部蘇る。
肩を出したニットも。
ミニスカートの裾も。
くるりと回った時の視線も。
全部、ちゃんと見られていた。
「……ほんと、ずるい人」
思わず漏れた呟きに、彼は楽しそうに笑う。
「そんなおれを驚かせに来たのは、貴方ですよ」
返す言葉がない。
完全に自業自得だ。
私は観念したように小さく息を吐いた。
「……分かったわ」
「えぇ」
「でも、その代わり」
少しだけ彼を見上げる。
「朝ご飯はちゃんと作ってちょうだい」
するとグリは、何でもないことのように頷いた。
「もちろん」
そして静かに付け加える。
「そのつもりで伺います」
胸の奥がまた強く跳ねた。
並んで歩く帰り道。
石畳に響くヒールの音は、行きよりも少しだけ落ち着かない。
おめかしして、驚かせて、翻弄してやるつもりだった。
なのに結局――
最後に心を乱されたのは、私の方。
新しい服も、ヒールも、オフショルダーのニットも。
全部ちゃんと武器になったはずなのに、その武器ごと奪われてしまったみたいだった。
さっきまで自信満々で履いていたヒールが、今は少しだけ歩きにくい。
……まったく。少し大胆な格好をしたくらいで、ここまで心を乱されるなんて。
やっぱり相手がグリだと、何をするにも油断は出来ない。
そんなことを考えながらヌーヴォカフェの前まで戻ると、店先から声が飛んできた。
「お、帰ってきた」
グリーズが腕を組んだまま、こちらを見ている。
「随分早かったじゃん、休憩」
「そうですね」
グリがいつもの調子で答える。
するとグリーズは、私の顔を見てからグリの方へ視線を移した。
そして、小さく鼻で笑う。
「……なるほどな」
「何がです?」
「いや」
肩を竦めながら、わざとらしく言う。
「効果は抜群だったみたいだな」
その言葉に、思わず言葉を失う。
一瞬、隣を見る。
グリは何も言わない。
ただ――白い眼鏡の奥の細い目が、
ほんの少しだけ楽しそうに細められていた。
「ほらグリ、仕事戻れよ」
グリーズが手をひらひら振る。
「夜になったら、わたしが閉店作業やっとくからさ」
そして背を向けながら、最後にぼそっと付け足した。
「遅刻すんなよ、明日」
……顔が熱い。
グリーズの最後の言葉で、
今度こそ完全に返り討ちだった。
私は小さく息を吐く。
そしてもう一度だけ、隣の彼を見上げた。
するとグリは、いつもの穏やかな声で言う。
「リリィ」
「なに?」
「今夜」
ほんの一拍、間を置いてから。
「楽しみにしていてくださいね」
その言葉に、胸の奥がまた強く跳ねた。
――やっぱり。
イメージチェンジなんて、そう簡単にするものじゃない。
少なくとも。
相手がグリであるなら、尚更。
ーーーーーーーー
今日の私は、少しだけ機嫌が良い。
何故なら、新しい服を新調したから。
それもただの新調ではなくて、普段の私ならまず選ばないような、ほんの少し……いえ、かなり攻めた装いをしてみた。
肩口まで大胆に覗くオフショルダーのニットと、身体の曲線をやわらかく拾うプリーツのミニスカート。
そして太腿まで包むニーハイソックスに、足元はヒールの高いパンプス。
鏡の前で何度も見返して、その度に胸の奥がそわついた。
けれど嫌な気分ではない。
むしろ、こうしていつもとは違う自分を纏っている今日は、少しくらい彼を驚かせてみたくなる。
そう、今日は待ちに待った休日。
新しい服を着て、恋人のグリを驚かせに行くには絶好の日。
私は足取り軽く、カッ、カッ、と真新しいヒールの音を石畳に響かせながら、彼の居るベール大通りへと向かった。
普段より少しだけ歩幅を意識する。
慣れない高さのヒールに気を取られそうになりながらも、背筋は真っ直ぐに伸ばす。
せっかくの装いだもの、みっともなくは歩けない。
ベール大通りに近付くにつれて、見慣れたヌーヴォカフェのキッチンカーが見えてくる。
先に目に入ったのは、店先に立つグリーズの姿だった。
「いらっしゃ――」
言いかけて、彼女の言葉がピタリと止まる。
そして視線が、私の頭の先から足元まで一度ゆっくり滑った。
「……なんだ、リリィか」
こちらに気付いた彼女が、ぶっきらぼうにそう言って片眉を上げる。けれど視線はもう一度、今度は「ふーん」と露骨に私の服装を改めて確認するように動いた。
「何よ、その顔」
「別に」
「気合い入ってんなって思っただけ」
グリーズは肩をすくめて素っ気なく返す。
けれどその言い方には、呆れと感心が半分ずつ混じっているように聞こえた。
「悪いかしら?」
「悪くはねぇよ。むしろ、あいつには効くんじゃね?」
『あいつ』。
言うまでもなくグリのことだ。
その一言に、胸の奥が小さく跳ねる。
「ふふ、そうかしら」
わざとらしくならない程度に首を傾げて見せると、グリーズは「知らね」と肩を竦めた。
「まぁ、わたしは注文とってるからさ」
そして軽く親指で中を示し。
「声掛けてやんなよ」
そう言って彼女はすぐに表へ向き直り、通りかかった客へ慣れた調子で声を掛け始める。
看板娘らしく表に立つその姿を横目に、私は小さく息を整えた。グリーズにまでああいう反応をされるのなら、少しは期待しても良いのかもしれない。
そう思って、私はキッチンカーの方へ足を進める。
ヒールが石畳を打つ度に、妙に存在を主張している気がして落ち着かない。けれど、その音すら今日は悪くない演出に思えた。
「いらっしゃいませ」
中から聞こえてきた柔らかな声に、私は足を止める。
姿を現したグリは、最初こそいつもの接客用の笑みを浮かべていた。けれど、その視線が私に定まった瞬間、ほんの僅かに動きが止まる。
本当に、一瞬だけ。
それでも私は見逃さなかった。
白い眼鏡の奥、細められた目がわずかに見開かれ、いつも崩れないはずの表情に、確かな間が落ちたことを。
「こんにちは、グリ」
何食わぬ顔で声を掛けると、彼はすぐにいつもの微笑を貼り直した。
「……これはまた、随分と雰囲気が違いますね」
「そう?」
「えぇ。髪型もそうですが……今日は、服装まで別人みたいです」
(やっぱり、髪もちゃんと気付くのね。)
内心で少しだけ満足しながら、私は彼の前でくるりと一周してみせた。その拍子に、ミニスカートのプリーツの裾がひらりと揺れる。
わざとらしく見えない程度に動きを止め、胸元へそっと手を添えた。オフショルダーのニットから覗くデコルテと肩を見せつけるように。
「どうかしら。似合ってる?」
問い掛けながら微笑むと、グリは黙った。
接客中に客を待たせることなど、本来の彼ならしないはずなのに。
その沈黙が、答えのような気がした。
「……効果は、抜群ですね」
ぽつりと落ちたその言葉に、思わず笑ってしまう。
「あら、そんな言い方するのね」
「他に適切な表現が見つかりませんでしたので」
表情は穏やかなまま。
なのに、声だけが妙に低い。
その温度差が可笑しくて、そして少しだけ心地良い。
今日は私が彼を翻弄するつもりで来たのだから、これくらいの反応をもらえなければ困る。
「ふふ、そう。なら頑張っておめかしした甲斐があったわ」
そう言うと、彼の視線が私の肩口から足元へと静かに落ちた。ヒールの高いパンプス。ニーハイに包まれた脚。普段よりずっと短いスカートの裾。
その視線の流れに気付いていても、私はあえて知らないふりをする。
「何か飲んでいこうかしら。せっかく来たんだもの」
「もちろん。ですが、その前に一つよろしいですか?」
「なぁに?」
首を傾げると、グリは少しだけ身を屈めた。
距離が近付く。客に聞かれないようにするためなのだと分かっていても、その仕草ひとつで心臓が変に騒いだ。
「その格好で来るなら、先に連絡を頂きたかったですね」
「あら、どうして?」
「心の準備が必要でした」
真顔で言うものだから、私は堪えきれず吹き出した。
「貴方にも、そんなものがいるの?」
「おれを何だとお思いで?」
「いつだって余裕の人」
「買い被りですよ」
そう返しながらも、彼の笑みは崩れない。
ただ、その奥にあるものがいつもよりずっと熱を帯びている気がして、私は妙に落ち着かなくなった。
グリーズが表で注文を取りながら、ちらりとこちらを見た。そして呆れたように鼻を鳴らす。
「グリ、手ぇ止まってる」
「おや、失礼しました」
「失礼しましたじゃねぇよ。客待たせんな」
「怖いですね」
「誰のせいだと思ってんだ」
2人のコントみたいなやり取りに、思わず笑う。
その空気に少し肩の力が抜けたけれど、グリの視線だけは相変わらず私から外れないままだった。
そして私は結局、いつもの珈琲を頼んだ。
暫くして商品を受け取る瞬間。
紙カップを渡す彼の指先が一瞬だけ私の手に触れ、今までの意識が全部そちらへ持っていかれる。
たったそれだけのことなのに、妙に熱い…と私は小さく胸をそわつかせた。
「グリ、今お客来てないから休憩してきなよ。10分くらいなら平気だろ」
会計の合間にグリーズがそう言った。
こちらを見ないまま、口調は普段と変わらないけれど、半ば追い払うように。
「へぇ、気が利くのね」
「別に。見てるこっちが落ち着かねぇだけ」
「グリーズ」
窘める様にグリが軽く睨むと、彼女は「はいはい」と手を振った。
「ほら行けよ。わたしが店は見とくからさ」
「有難うございます。助かります」
グリがさらりと礼を言う。
その自然さを見るに、きっと既に彼の中では私と一緒に行くことが決まっていたのだろう。
「じゃあ、少しだけ」
私がそう言うと、グリは「えぇ」と穏やかに頷いた。
並んで歩き出すとベール大通りの石畳に、私のヒールの音だけが小気味よく響く。
隣を歩く彼は、特に何も言わない。
けれど沈黙が気まずいわけではなかった。むしろ、何かをじっと堪えているような気配の方が気になった。
「さっきから静かね」
「そうでしょうか」
「そうよ。もっと何か言えばいいのに」
「言ってもよろしいのですか?」
「えぇ、もちろん」
そう答えた途端、彼が立ち止まる。
つられて私も足を止めると、グリは改めて私を見た。
白い眼鏡の奥、糸のように細い目が、今日はほんの少しだけ鋭い。
「では、遠慮なく」
静かな声だった。
「今日の貴方は、ずいぶん無防備ですね」
思わず、瞬きをする。
無防備。そう言われるとは思っていなかった。
「無防備って……おしゃれしただけじゃない」
「本当に?」
一歩、距離が詰まる。
「肩を出して、そんな短いスカートを穿いて。しかも、おれの前で回って見せた」
落ち着いた口調。
責めるでもなく、からかうでもなく、ただ事実を並べるように告げられる。
なのに、その一つ一つが肌に触れるみたいに熱い。
「それは……見せたかったからよ」
強気は崩さない。
崩したくなかった。
ここでたじろいだら負ける気がしたから。
すると彼は、ふっと笑った。
「えぇ、そうでしょうね」
「……何よ」
「貴方は今日、とても綺麗です」
あまりに真っ直ぐで、私は言葉を失う。
褒め言葉そのものは珍しくない。
けれど彼のそれは、軽い世辞とはまるで違った。見たものを、感じたままに、静かに断言してくる。
逃げ場がない。
「髪も服も、よく似合っています。いつもとは違うのに、ちゃんと貴方のままだ」
近付いた距離のまま、グリは私を見つめる。
「正直に言えば、かなり困っています」
「……困る?」
「えぇ。平静でいるのが難しいので」
その瞬間、心臓がどくんと大きく跳ねた。
嘘。
そう言いたいのに、言えない。
だって彼の声には、冗談を挟む余地が少しもなかったから。
「貴方はおれを驚かせるつもりだったのでしょう?」
「……そうよ」
「大成功ですね」
さらりと言うくせに、その声は低く甘い。
まるで追い詰めるみたいに。
「そんな顔で笑って、おれの前に立って。何も起きないと思っていたのなら、少し見通しが甘い」
「っ……」
今度こそ言葉に詰まる。
あれほど余裕を持っていたはずなのに、気付けば追い詰められているのは私の方だった。
彼の手がふと私の髪へ伸びて、耳に掛かっていた髪をそっと指で整える。軽く触れただけなのに、肩が熱を持つ。
「その格好、とてもお綺麗ですよ。だからこそ――あまり他の方には見せてほしくないですね」
低く、穏やかな独占欲。
その一言が、何よりも深く刺さった。
「貴方……」
「はい」
「ずるいわ」
ようやく搾り出した言葉に、彼は楽しそうに微笑む。
「そんなおれを翻弄しようとしたのは、貴方でしょう?」
否定できなかった。
まさしくその通りだったから。
グリを驚かせたくて。
余裕の顔を崩したくて。
いつもより少し大胆な服を選んで、見せつけるように笑ってみせて。
その結果がこれだ。
仕掛けたはずなのに、心臓を撃ち抜かれているのは私の方。
(完全に、返り討ちじゃない。)
「……本当に、慎重にするべきだったわ」
ぽつりと零すと、彼が首を傾げる。
「何をですか?」
「イメージチェンジよ」
恨みがましく言えば、彼は一瞬きょとんとして、それから可笑しそうに笑った。
「今さらですね」
「えぇ、本当に」
そう返した私の声は、自分でも分かるほど少しだけ掠れていた。グリはその変化に気付いたのだろう。
目元を和らげたあと、ほんの少しだけ身を屈める。
「ですが、おれとしては大歓迎です」
「……そう」
「えぇ。次も期待してしまいそうなくらいには」
それは反則でしょう。
そんなふうに余裕の顔で言われて、平気でいられる女なんてそういない。
私は小さく息をついて、彼から視線を逸らした。
逸らした先で、ショーウィンドウに映る自分の姿が見える。露出の増えた装いも、少し上気した表情も、全部見慣れない。
けれど隣に立つ彼の姿だけは、不思議なくらいしっくりきた。
「帰りましょうか、リリィ」
「えぇ」
たったそれだけのやり取りなのに、また胸が騒ぐ。
絡め取るような熱ではない。けれど、確実に逃がさない熱だ。
(……本当に、イメージチェンジは慎重にするべきね。)
少なくとも、相手がグリであるなら尚更。
そんなことを考えながら歩いていると、隣の彼がふと口を開いた。
「リリィ」
呼ばれて顔を上げる。
「なに?」
グリは前を向いたまま、静かな声で続けた。
「今夜ですが」
ほんの少し間が落ちる。
「おれ、早めにそちらへ伺います」
一瞬、意味が頭に入ってこなかった。
「……え?」
思わず聞き返すと、彼はようやくこちらを見た。
白い眼鏡の奥、細い目がわずかに細められる。
「続きをしたいので」
さらりと言う。
まるで何でもないことのように。
けれど、その一言で胸の奥が一気に熱くなった。
「つ、続きをって……」
言葉がうまく続かない。
さっきまで余裕のつもりでいたのに、こうして不意打ちみたいに落とされると、心の準備なんて出来るはずがない。
グリはそんな私を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「言ったでしょう」
低く穏やかな声。
「平静でいるのが難しいと」
その言葉に、さっきのやり取りが全部蘇る。
肩を出したニットも。
ミニスカートの裾も。
くるりと回った時の視線も。
全部、ちゃんと見られていた。
「……ほんと、ずるい人」
思わず漏れた呟きに、彼は楽しそうに笑う。
「そんなおれを驚かせに来たのは、貴方ですよ」
返す言葉がない。
完全に自業自得だ。
私は観念したように小さく息を吐いた。
「……分かったわ」
「えぇ」
「でも、その代わり」
少しだけ彼を見上げる。
「朝ご飯はちゃんと作ってちょうだい」
するとグリは、何でもないことのように頷いた。
「もちろん」
そして静かに付け加える。
「そのつもりで伺います」
胸の奥がまた強く跳ねた。
並んで歩く帰り道。
石畳に響くヒールの音は、行きよりも少しだけ落ち着かない。
おめかしして、驚かせて、翻弄してやるつもりだった。
なのに結局――
最後に心を乱されたのは、私の方。
新しい服も、ヒールも、オフショルダーのニットも。
全部ちゃんと武器になったはずなのに、その武器ごと奪われてしまったみたいだった。
さっきまで自信満々で履いていたヒールが、今は少しだけ歩きにくい。
……まったく。少し大胆な格好をしたくらいで、ここまで心を乱されるなんて。
やっぱり相手がグリだと、何をするにも油断は出来ない。
そんなことを考えながらヌーヴォカフェの前まで戻ると、店先から声が飛んできた。
「お、帰ってきた」
グリーズが腕を組んだまま、こちらを見ている。
「随分早かったじゃん、休憩」
「そうですね」
グリがいつもの調子で答える。
するとグリーズは、私の顔を見てからグリの方へ視線を移した。
そして、小さく鼻で笑う。
「……なるほどな」
「何がです?」
「いや」
肩を竦めながら、わざとらしく言う。
「効果は抜群だったみたいだな」
その言葉に、思わず言葉を失う。
一瞬、隣を見る。
グリは何も言わない。
ただ――白い眼鏡の奥の細い目が、
ほんの少しだけ楽しそうに細められていた。
「ほらグリ、仕事戻れよ」
グリーズが手をひらひら振る。
「夜になったら、わたしが閉店作業やっとくからさ」
そして背を向けながら、最後にぼそっと付け足した。
「遅刻すんなよ、明日」
……顔が熱い。
グリーズの最後の言葉で、
今度こそ完全に返り討ちだった。
私は小さく息を吐く。
そしてもう一度だけ、隣の彼を見上げた。
するとグリは、いつもの穏やかな声で言う。
「リリィ」
「なに?」
「今夜」
ほんの一拍、間を置いてから。
「楽しみにしていてくださいね」
その言葉に、胸の奥がまた強く跳ねた。
――やっぱり。
イメージチェンジなんて、そう簡単にするものじゃない。
少なくとも。
相手がグリであるなら、尚更。
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