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夢落ち。
割とホラーテイスト。
ーーーーーーーー
静かな部屋。
Fが泊まる部屋のベッドの上で、リリィはゆっくりと目を開けた。
天井がぼんやりと視界に入る。
薄暗い室内は静かで、時計の音さえ聞こえない。
体を少し動かすと、シーツが微かに擦れる音だけが響いた。
無意識に隣に目を遣ると、そこにいるはずの人の姿が無い。
「……Fさん?」
小さく彼の名を呼んでみるが、返事はなかった。
バスルームに居るのか、それとも部屋を出ているのか。
ぼんやりした頭でそう考えながら、リリィは上半身を起こした。
その瞬間、まるで耳元で囁かれたかのような低い声がリリィの背後から掛けられた。
「起きたかね。」
一瞬、肩がびくりと跳ねた。
驚いて振り向くと、いつの間にそこに居たのかFが部屋の奥に立っていた。
リリィはその声の主がFだと確認すると、そっと胸を撫で下ろした。
「驚いたぁ…もう、びっくりしましたよ……」
言いながら、少しだけ笑う。
けれど。
Fは何も言わなかった。
ただ、こちらを見つめたまま動かない。
その視線に、リリィはふと違和感を覚える。
普段の彼なら、すぐに近寄り優しく声を掛けてくれるはずなのに………まるで。
(まるで、知らない人みたい……。)
ふっと頭にそんな言葉がよぎり、彼女の胸が小さくざわつく。
何より、先程からずっと何かを見定めるような目付きがどこか恐怖を感じさせる。
「……あの、…Fさん?」
不安に駆られ、リリィはFの名を呼んだ。
それでもFは答えない。
静かな部屋の中で、視線だけが重く落ちてくるようだった。
「…F、さん…?」
もう一度だけ呼び掛ける。
けれど返事はない。
ただ先程とは違い、今度はFの視線だけが動き出す。
頭の先から、顔。胸元。そして足先へ。
上から下へと、ゆっくり視線が落ちていく。
今度はまるで品物の状態でも確かめるような、そんな目付きが彼女の身体に向けられ、リリィは思わず体を強ばらせた。
「あの、どうしたんですか……?」
悪い冗談であって欲しいと願いながら笑って聞こうとしたのに、声が少し震えだす。
その時、Fがスッと歩き出した。
迷いもなく、まっすぐこちらへ向かってくる。
足音はほとんどしない。
けれど距離だけが、確実に縮まっていく。
一歩。
また一歩。
視線はずっとリリィに向けられたままにして。
その絡め取るような視線に、脳の奥で本能的な警鐘が鳴った。けれど相手はFなので逃げる理由が分からずに、リリィは無意識に後ろへ体を引く。
トンッと背中がベッドのヘッドボードに当たり、それ以上はもう下がれない。
Fはベッドの前まで来ると、ゆっくりと片膝をつく。
マットレスが重くぎしりと軋んで沈み、頭の中の警鐘音が更に増す。
そしてFの手が、ゆっくりと伸びてきた。
指先が彼女の頬に触れて、その触れ方にリリィは息を呑んだ。優しく触れているはずなのになぜか…まるで、手に入れた物の質を確かめるような感触だった。
頬に触れていた指がゆっくりと動き、そのまま顎へと滑ると、親指と指先が顎をそっと挟み掬い上げる。
「……Fさん?」
Fの行動が読めず、困惑しながらリリィは小さく名を呼ぶ。
触れ方は優しいが、その指先には僅かに力が込められている。
(なんで…?)
言い得ぬ恐怖心がじわじわと身体を蝕む。
ただ――今はこの目を見たくない。と、顔を逸らそうとしたその瞬間。顎を掴む力が、突然強くなった。
「……っ!きゃっ!!」
ぐい、と無理やり顔を引き寄せられた。
引き寄せられるまま、リリィの身体が前のめりになる。
距離が一気に縮まった。
顎を掴む痛みと、思わぬ動きに反動で閉じてしまった目をリリィは慌てて開く。すると、Fの顔がすぐ目の前に迫っていた。
鼻先が触れそうなほど近く、熱い吐息が口元にかかる。
見開かれたリリィの視界に映るのはーー
Fの顔だけだった。
そしてその口元が、ゆっくりと吊り上がる。
恐ろしいほど不敵な笑みに、ぞくりとリリィの背筋が凍る。
その時、Fの口が開いた。
低く、どこか愉しげな声が落ちる。
「――実に素晴らしい。」
その声を聞いた瞬間。
彼女は心臓が凍りつくような恐怖に包まれ、声が出せなくなった。
何故ならそれはFの声なのに。
まるで、別の誰かの声のように聞こえたからだった。
胸の奥が、ひゅっと細くすぼまる。
息を吸ったはずなのに、うまく肺に入ってこない。
リリィの喉が小さく鳴った。
目の前にいるのは、確かにFのはず。
見慣れた顔に見慣れた声。
けれど――。
その視線だけが、まるで違って見えていた。
(ゃ……怖い、逃げたい……!)
そう思うのに、身体が言うことを聞かなかった。
いつの間にかFの腕がリリィの腰に回っており、ぐっと引き寄せられ、逃げ場を失うように身体が密着する。
「……っ」
思わず息が詰まった。
腰に回された腕がわずかに動き、指先が背中をなぞるように滑り、さらに強く抱き寄せられる。
びくり、とリリィの身体が跳ね、その反応を見てFの口元がゆっくりと歪み、観察するような目付きで顎を掴んでいた指が僅かに動いた。
「ふむ……なるほど。」
低い声が落ちる。
その瞬間。
リリィの視界の端で、白だった髪が揺れ動く。
閉ざされた部屋に風などないはずなのに、炎のような赤へと染まりはじめる。
(……嘘……)
その染まりゆく髪に、胸が大きく脈打った。
リリィにとっては忘れられない、五年前。
幼い頃に恋焦がれ。
そして――
その果てに罪を犯した男が、彼女の前に姿を現す。
記憶に焼き付くその“赤”を、見間違えることは無い。
(なん、で……)
喉の奥で、声にならない疑問が震える。
(どうして、…ここに……?)
恐怖心から鳥肌が立ち、否定したさに胸の奥がざわつく。
それでも、目が離せず硬直していると、腰に回された指が逃がさないようにわずかに食い込んだ。
「……っ」
思わずびくり、と身体が震える。
反射的に、震える手がフラダリの胸を押した。
逃げたい。離れたい。けれど――
その手に触れる胸はびくともしない。
寧ろその反応を愉しむように、男はゆっくりと目を細めた。
もう、目の前に居るのは先ほどまでのFではない。
フラダリはーー腕の中の少女を見下ろした。
逃げようとする手。
強張った身体。
怯えた瞳。
そのすべてを、じっと観察するように見つめて――
ふっと、笑う。
「期待以上だ。」
それはとても静かな声だった。
けれど。
その言葉には、奇妙な満足が滲んでいた。
「まさかここまで美しく成長するとはな。」
顎を掴む指が、僅かに力を強めた。
逃げ場を失い、リリィの顔が上を向かされる。
「……っ」
喉の奥から、小さく息が漏れた。
苦しそうに眉を顰めるリリィを見ても、フラダリは気にする様子もなく、ただ口元を緩める。
「あの頃の君は、可憐な蕾だったが…。」
フラダリの瞳が、ゆっくり細められた。
その表情は穏やかで――
まるで、美しい絵画でも眺めているかのようだった。
その声には、隠そうともしない歓びが滲んでいる。
――美しいものを見つけた人間の、
あまりにも素直な歓びだった。
まるで、
この世界がまだ捨てたものではないと
証明するかのように。
「だが今は違う。」
フラダリの口元が、ゆっくりと歪む。
そのまま、顔がリリィの耳元へ近づいた。
「花として咲き――」
吐息が触れるほど近くで、
「そして、…こんなにも美しく、私の目を奪うとは。」
吐息を含んだ甘く低い声が、
空気を震わせるようにして伝わった。
抗う余地を与えない絶対的な響きが、リリィの理性を溶かす感覚を与え、彼女の身体が甘く痺れだす。
「……っ!」
思わず肩が震える。
次第に顔にも熱が上り、頬が赤く染まりはじめた。
さらに顎から離れたフラダリの手が、優しく彼女の髪を梳く。その仕草に、リリィの身体の奥がじん…と熱を帯びる。
「…興味深い。」
フラダリの吐息が、耳朶をかすめる。
それだけで、
全身の神経が逆撫でされるように震えた。
「っ……あ、」
熱を纏い掠れた声が、わずかに零れる。
身体が小さく震えるのを見て、フラダリはくすりと笑った。
そして、囁く。
「そんなに怯える必要はない。」
低く、甘く。
逃げ場を与えない声。
「私はただ、確かめているだけだ。」
指が髪を梳きながら耳元に髪を掛け、ゆっくり頬へと滑る。
「君がどれほど価値のある存在へ成長したのかを。」
指先が頬に触れた瞬間。
リリィの呼吸が、わずかに乱れる。
その反応を、フラダリはしばらく黙って彼女を見つめていた。観察し愛でるように。
「……リリィ。」
はじめて、その名を呼ぶ。
低く。
確かめるように。
指先が、頬をなぞる。
やがてその指が、ゆっくりと顎の線をなぞった。
逃げようとしても、その指先は当然のようにそこにある。
まるで――
最初から触れていい場所だと知っているかのように。
「やはり君は――」
言葉を切る。
腕の中で強張ったままの少女を見つめながら。
まるで、手に入れた宝石でも眺めるように。
そして。
ゆっくりと微笑んだ。
纏わり付く程に、色気を含んだ低い声を響かせて。
「美しい。」
その声に、彼女の胸の奥で何かが静かに崩れだす。
(……これはきっと、悪い夢よ…)
そう思った直後。
目覚めを願う祈りも虚しく、フラダリの腕が不意に彼女の身体を横へと引き倒す。
「っ…きゃっ!」
揺れた視界に小さく悲鳴を上げ、膝立ちの体勢が急に横へと引っ張られ、抱き締められたまま崩れ落ちる。
次の瞬間、リリィはベッドへ倒れ込む。
柔らかなシーツが背中を受け止めるより早く、赤い影が彼女の上に覆いかぶさった。
「……っ、ゃめ!……んっ!」
ぎしっ、とベッドを軋ませて背中に伝わる衝撃を受け止めながら、『やめて』と制止する声は呆気なく途中で途切れた。
何故ならフラダリの手が、彼女の口を塞いだからだ。
同時に、もう片方の手が彼女の指を絡め取りそのままシーツへ押し付けられた。
指を絡めたまま、逃がさないように縫い止める。
「静かに。」
「んっ!んぅっ…!!」
静寂を求める声も聞かず、リリィはくぐもった声を上げ、逃げようとして身体を捩る。
だが、跨るように覆いかぶさったフラダリの身体がそれを許さず、足を動かそうとしても彼の膝が行く手を塞ぎ身動きが取れない。
ならばと、せめてもの抵抗に絡められた指を引き抜こうとするが、これも抵抗も虚しくびくともしない。
寧ろ、暴れるだけ縫い止められる手の力が増し、痛むだけで逆効果だった。
フラダリが口を塞ぐ掌の下で、リリィは抗う力を徐々に失くして、無力さと恐怖に浅い呼吸が震え出す。
その様子を、フラダリはじっと見下ろしていた。
まるで、壊れやすいものの反応を確かめるように。
わずかに細められた瞳が、彼女の震えを追った。
「わたしを恐れているのか?」
その言葉に、わずかな怒りが混じる。
耳元へ顔を寄せ、吐息が触れるほどの距離で静かに囁く。
「安心しなさい。」
鼓動を落ち着かせる様な、重みのある優しい声で、
「私は君を壊すつもりはない。」
一拍だけ、間が落ちる。
「ただ――」
「君がどこまで美しくなれるのか、それを確かめてみたいだけだ。」
その言葉を合図に、リリィの視界がぐらりと揺れた。
目眩のような感覚が頭の奥で広がり、息を吸うのを忘れそうになる。
部屋の輪郭が、ゆっくりと滲み始めた。
ベッドも、壁も、フラダリの姿さえ。
境界がぼやけていく。
黒い影が、水のように広がりながらすべてを飲み込んでいく。
「……っ」
途端に胸の奥ががぎりぎりと締めつけられる。
もう闇がすぐそこまで迫っていた。
(いや……)
リリィはぎゅっと強く目を閉じる。
震える指先に力を込めて、胸の奥から必死に声を引き上げた。
(Fさ、ん……)
(助け…て、Fさん…!!)
その名を心の中で叫んだ瞬間。
何故かフラダリの眉が、不快そうに寄せられた。
眉間に皺が深く入り、一気に苦虫を噛み潰したような表情となる。
「F、か。」
その名を舌の上で転がすように呟くと、フラダリはその険しい表情を残しつつ、今度は口角をゆっくりと引き上あげリリィの手に絡めた指に力を込めた。
「なるほど。君は彼を呼ぶのか。」
失望にも似たその言葉に、わずかな毒が滲む。
リリィは恐る恐る目を開くと、すぐ目の前にはフラダリの顔があった。
逃げ場のない距離で、吸い込まれそうな瞳に見つめられるが、その表情が一瞬だけ曇った気がした。
「だが残念だ。」
しかし、フラダリは何事も無かったかのようにして、楽しむように目を細めた。
「ここは君の意識の奥。」
ゆっくりと身を寄せ、吐息が頬に触れるほど距離が縮まる。
「そして私は――あの男ではない。」
嘲るような笑みと声が、リリィに突き付けられる。
「……つまり。」
「呼んでも無駄だという事だ。」
その声は確信を持ち、リリィの塞いでいた口からゆっくりと手を離す。離れる際、その指が名残を惜しむように彼女の口元をなぞっていく。
ーーそして離れた腕は黒く染まった。
もう既に手遅れだと言わんばかりに、視界の端から闇が静かに染み出していた。
「残念だが時間切れだ。」
フラダリの声が、酷く名残惜しそうに響く。
ゆっくりと、だが確実に闇が彼の身体を覆い。
「だが私は――」
その言葉の続きを告げる前に、彼の姿を飲み込んだ。
それでもフラダリは最後まで視線を外さず、リリィを見つめ続けた。まるで、彼女が目を逸らせないことを知っているかのように。
そして彼女の視界が全て闇に呑まれる直前、最後の記憶として残ったのはフラダリの笑顔だった。
それはまるで咲ききった花を手に入れた人間の、あまりにも満ち足りた笑み。
その笑みが。
焼き付くように視界に残る。
――まるで。
美しさを確かめ終えた人間の
満足のように。
その残像が消えないまま、まるで暗い海の底へ沈められるように、彼女の意識はゆっくりと手放されていった。
「っはぁ!!……っ!」
瞬間。
心臓を直接掴まれたような衝撃に、途切れた意識が一気に呼び戻されて、リリィは大きく息を吸い込んだ。
「はっ……はぁ…!…っ、つっ……は…はぁ!」
肺が空気を求めて激しく動き、喉の奥から時折ひゅ、と苦しく乾いた音が漏れた。胸が荒く上下し心臓が痛いほどに脈打っている。
視界が揺れ、ぼやけていた世界がゆっくりと形を取り戻す。
天井。
薄暗い部屋。
乱れたシーツ。
そして――
「……リリィさん。」
すぐそばから落ち着いた声がして、リリィは顔を向ける。
そこにいたのは、Fだった。
白い髪の男が、すぐ近くで彼女を見つめている。
その表情は、ひどく心配そうだった。
「リリィさん。」
もう一度、静かに呼ばれる。
その声を聞いた瞬間、リリィの唇が震えだす。
(夢よ。そう、さっきのは――夢。)
リリィは自分にそう言い聞かせる。
安堵感にリリィの身体の力が抜け始めるが、同時に胸の奥から遅れて恐怖が込み上げ、彼女は震える腕でFの服を掴んだ。
「F…さん……っ」
喉が詰まったように声が掠れるが、彼女は構わずFのその胸に縋り付き顔を押し付けた。
その様子にFは一瞬だけ目を見開く。
だがすぐに何かを察して静かに腕を背中に回し、ゆっくりと彼女のその背を優しく撫でた。
「はぁ……っ……は…、…っはぁ…、は……」
Fの胸元でリリィの短い呼吸音が漏れ、今にも泣き出しそうに身体が小さく震え続ける。
「……怖い夢を、見ましたか?」
低い声が静かに問いかける。
リリィはFの胸に顔を押し付けたまま、頷いた。
「……こゎ、…こわかった………っ」
震えた声が、徐々に嗚咽に変わりだす。
「……っ、う……つっ、く……ひっく…」
Fの手が、絶えずゆっくりと彼女の背を撫でる。
一定のリズムで落ち着かせるようにして。
そしてその動きが、ふと一瞬だけ止まった。
ほんの僅かな間だが、すぐにまた優しく背中を撫で始める。
「忘れなさい。」
Fは静かに言った。
「それはただの夢です。」
それはとても落ち着いた声だった。
「もう終わりましたから。」
背中を撫でる手は、変わらず穏やかに。
「大丈夫です。リリィ。」
その張り詰めた心をそっと解きほぐすような優しい声に、リリィは少しずつだが呼吸を整えていく。
まだ小さく身体が震えてはいたが、Fは黙って彼女を見守る。
その時。
閉じられたままのFの左眼が、僅かに引き攣った。
ほんの一瞬だけ。
Fの胸の奥を、何かがかすめた気がした。
だがFはそれに気付かずに、静かにリリィの背中を撫で続ける。
やがて彼女の呼吸がようやく落ち着き、Fの胸元で安心したように身を寄せてきた。
その時、彼の口元が…ほんの僅かに緩む。
それは本人ですら気付かないほどの、微かな変化だった。
まるで――
何かを確かめた者のような、小さな笑み。
「怖がらなくていい。」
Fの低い声が静かに落ちる。
「……私が、ここにいますから。」
その表情は――
どこか満足しているようにも見えた。
割とホラーテイスト。
ーーーーーーーー
静かな部屋。
Fが泊まる部屋のベッドの上で、リリィはゆっくりと目を開けた。
天井がぼんやりと視界に入る。
薄暗い室内は静かで、時計の音さえ聞こえない。
体を少し動かすと、シーツが微かに擦れる音だけが響いた。
無意識に隣に目を遣ると、そこにいるはずの人の姿が無い。
「……Fさん?」
小さく彼の名を呼んでみるが、返事はなかった。
バスルームに居るのか、それとも部屋を出ているのか。
ぼんやりした頭でそう考えながら、リリィは上半身を起こした。
その瞬間、まるで耳元で囁かれたかのような低い声がリリィの背後から掛けられた。
「起きたかね。」
一瞬、肩がびくりと跳ねた。
驚いて振り向くと、いつの間にそこに居たのかFが部屋の奥に立っていた。
リリィはその声の主がFだと確認すると、そっと胸を撫で下ろした。
「驚いたぁ…もう、びっくりしましたよ……」
言いながら、少しだけ笑う。
けれど。
Fは何も言わなかった。
ただ、こちらを見つめたまま動かない。
その視線に、リリィはふと違和感を覚える。
普段の彼なら、すぐに近寄り優しく声を掛けてくれるはずなのに………まるで。
(まるで、知らない人みたい……。)
ふっと頭にそんな言葉がよぎり、彼女の胸が小さくざわつく。
何より、先程からずっと何かを見定めるような目付きがどこか恐怖を感じさせる。
「……あの、…Fさん?」
不安に駆られ、リリィはFの名を呼んだ。
それでもFは答えない。
静かな部屋の中で、視線だけが重く落ちてくるようだった。
「…F、さん…?」
もう一度だけ呼び掛ける。
けれど返事はない。
ただ先程とは違い、今度はFの視線だけが動き出す。
頭の先から、顔。胸元。そして足先へ。
上から下へと、ゆっくり視線が落ちていく。
今度はまるで品物の状態でも確かめるような、そんな目付きが彼女の身体に向けられ、リリィは思わず体を強ばらせた。
「あの、どうしたんですか……?」
悪い冗談であって欲しいと願いながら笑って聞こうとしたのに、声が少し震えだす。
その時、Fがスッと歩き出した。
迷いもなく、まっすぐこちらへ向かってくる。
足音はほとんどしない。
けれど距離だけが、確実に縮まっていく。
一歩。
また一歩。
視線はずっとリリィに向けられたままにして。
その絡め取るような視線に、脳の奥で本能的な警鐘が鳴った。けれど相手はFなので逃げる理由が分からずに、リリィは無意識に後ろへ体を引く。
トンッと背中がベッドのヘッドボードに当たり、それ以上はもう下がれない。
Fはベッドの前まで来ると、ゆっくりと片膝をつく。
マットレスが重くぎしりと軋んで沈み、頭の中の警鐘音が更に増す。
そしてFの手が、ゆっくりと伸びてきた。
指先が彼女の頬に触れて、その触れ方にリリィは息を呑んだ。優しく触れているはずなのになぜか…まるで、手に入れた物の質を確かめるような感触だった。
頬に触れていた指がゆっくりと動き、そのまま顎へと滑ると、親指と指先が顎をそっと挟み掬い上げる。
「……Fさん?」
Fの行動が読めず、困惑しながらリリィは小さく名を呼ぶ。
触れ方は優しいが、その指先には僅かに力が込められている。
(なんで…?)
言い得ぬ恐怖心がじわじわと身体を蝕む。
ただ――今はこの目を見たくない。と、顔を逸らそうとしたその瞬間。顎を掴む力が、突然強くなった。
「……っ!きゃっ!!」
ぐい、と無理やり顔を引き寄せられた。
引き寄せられるまま、リリィの身体が前のめりになる。
距離が一気に縮まった。
顎を掴む痛みと、思わぬ動きに反動で閉じてしまった目をリリィは慌てて開く。すると、Fの顔がすぐ目の前に迫っていた。
鼻先が触れそうなほど近く、熱い吐息が口元にかかる。
見開かれたリリィの視界に映るのはーー
Fの顔だけだった。
そしてその口元が、ゆっくりと吊り上がる。
恐ろしいほど不敵な笑みに、ぞくりとリリィの背筋が凍る。
その時、Fの口が開いた。
低く、どこか愉しげな声が落ちる。
「――実に素晴らしい。」
その声を聞いた瞬間。
彼女は心臓が凍りつくような恐怖に包まれ、声が出せなくなった。
何故ならそれはFの声なのに。
まるで、別の誰かの声のように聞こえたからだった。
胸の奥が、ひゅっと細くすぼまる。
息を吸ったはずなのに、うまく肺に入ってこない。
リリィの喉が小さく鳴った。
目の前にいるのは、確かにFのはず。
見慣れた顔に見慣れた声。
けれど――。
その視線だけが、まるで違って見えていた。
(ゃ……怖い、逃げたい……!)
そう思うのに、身体が言うことを聞かなかった。
いつの間にかFの腕がリリィの腰に回っており、ぐっと引き寄せられ、逃げ場を失うように身体が密着する。
「……っ」
思わず息が詰まった。
腰に回された腕がわずかに動き、指先が背中をなぞるように滑り、さらに強く抱き寄せられる。
びくり、とリリィの身体が跳ね、その反応を見てFの口元がゆっくりと歪み、観察するような目付きで顎を掴んでいた指が僅かに動いた。
「ふむ……なるほど。」
低い声が落ちる。
その瞬間。
リリィの視界の端で、白だった髪が揺れ動く。
閉ざされた部屋に風などないはずなのに、炎のような赤へと染まりはじめる。
(……嘘……)
その染まりゆく髪に、胸が大きく脈打った。
リリィにとっては忘れられない、五年前。
幼い頃に恋焦がれ。
そして――
その果てに罪を犯した男が、彼女の前に姿を現す。
記憶に焼き付くその“赤”を、見間違えることは無い。
(なん、で……)
喉の奥で、声にならない疑問が震える。
(どうして、…ここに……?)
恐怖心から鳥肌が立ち、否定したさに胸の奥がざわつく。
それでも、目が離せず硬直していると、腰に回された指が逃がさないようにわずかに食い込んだ。
「……っ」
思わずびくり、と身体が震える。
反射的に、震える手がフラダリの胸を押した。
逃げたい。離れたい。けれど――
その手に触れる胸はびくともしない。
寧ろその反応を愉しむように、男はゆっくりと目を細めた。
もう、目の前に居るのは先ほどまでのFではない。
フラダリはーー腕の中の少女を見下ろした。
逃げようとする手。
強張った身体。
怯えた瞳。
そのすべてを、じっと観察するように見つめて――
ふっと、笑う。
「期待以上だ。」
それはとても静かな声だった。
けれど。
その言葉には、奇妙な満足が滲んでいた。
「まさかここまで美しく成長するとはな。」
顎を掴む指が、僅かに力を強めた。
逃げ場を失い、リリィの顔が上を向かされる。
「……っ」
喉の奥から、小さく息が漏れた。
苦しそうに眉を顰めるリリィを見ても、フラダリは気にする様子もなく、ただ口元を緩める。
「あの頃の君は、可憐な蕾だったが…。」
フラダリの瞳が、ゆっくり細められた。
その表情は穏やかで――
まるで、美しい絵画でも眺めているかのようだった。
その声には、隠そうともしない歓びが滲んでいる。
――美しいものを見つけた人間の、
あまりにも素直な歓びだった。
まるで、
この世界がまだ捨てたものではないと
証明するかのように。
「だが今は違う。」
フラダリの口元が、ゆっくりと歪む。
そのまま、顔がリリィの耳元へ近づいた。
「花として咲き――」
吐息が触れるほど近くで、
「そして、…こんなにも美しく、私の目を奪うとは。」
吐息を含んだ甘く低い声が、
空気を震わせるようにして伝わった。
抗う余地を与えない絶対的な響きが、リリィの理性を溶かす感覚を与え、彼女の身体が甘く痺れだす。
「……っ!」
思わず肩が震える。
次第に顔にも熱が上り、頬が赤く染まりはじめた。
さらに顎から離れたフラダリの手が、優しく彼女の髪を梳く。その仕草に、リリィの身体の奥がじん…と熱を帯びる。
「…興味深い。」
フラダリの吐息が、耳朶をかすめる。
それだけで、
全身の神経が逆撫でされるように震えた。
「っ……あ、」
熱を纏い掠れた声が、わずかに零れる。
身体が小さく震えるのを見て、フラダリはくすりと笑った。
そして、囁く。
「そんなに怯える必要はない。」
低く、甘く。
逃げ場を与えない声。
「私はただ、確かめているだけだ。」
指が髪を梳きながら耳元に髪を掛け、ゆっくり頬へと滑る。
「君がどれほど価値のある存在へ成長したのかを。」
指先が頬に触れた瞬間。
リリィの呼吸が、わずかに乱れる。
その反応を、フラダリはしばらく黙って彼女を見つめていた。観察し愛でるように。
「……リリィ。」
はじめて、その名を呼ぶ。
低く。
確かめるように。
指先が、頬をなぞる。
やがてその指が、ゆっくりと顎の線をなぞった。
逃げようとしても、その指先は当然のようにそこにある。
まるで――
最初から触れていい場所だと知っているかのように。
「やはり君は――」
言葉を切る。
腕の中で強張ったままの少女を見つめながら。
まるで、手に入れた宝石でも眺めるように。
そして。
ゆっくりと微笑んだ。
纏わり付く程に、色気を含んだ低い声を響かせて。
「美しい。」
その声に、彼女の胸の奥で何かが静かに崩れだす。
(……これはきっと、悪い夢よ…)
そう思った直後。
目覚めを願う祈りも虚しく、フラダリの腕が不意に彼女の身体を横へと引き倒す。
「っ…きゃっ!」
揺れた視界に小さく悲鳴を上げ、膝立ちの体勢が急に横へと引っ張られ、抱き締められたまま崩れ落ちる。
次の瞬間、リリィはベッドへ倒れ込む。
柔らかなシーツが背中を受け止めるより早く、赤い影が彼女の上に覆いかぶさった。
「……っ、ゃめ!……んっ!」
ぎしっ、とベッドを軋ませて背中に伝わる衝撃を受け止めながら、『やめて』と制止する声は呆気なく途中で途切れた。
何故ならフラダリの手が、彼女の口を塞いだからだ。
同時に、もう片方の手が彼女の指を絡め取りそのままシーツへ押し付けられた。
指を絡めたまま、逃がさないように縫い止める。
「静かに。」
「んっ!んぅっ…!!」
静寂を求める声も聞かず、リリィはくぐもった声を上げ、逃げようとして身体を捩る。
だが、跨るように覆いかぶさったフラダリの身体がそれを許さず、足を動かそうとしても彼の膝が行く手を塞ぎ身動きが取れない。
ならばと、せめてもの抵抗に絡められた指を引き抜こうとするが、これも抵抗も虚しくびくともしない。
寧ろ、暴れるだけ縫い止められる手の力が増し、痛むだけで逆効果だった。
フラダリが口を塞ぐ掌の下で、リリィは抗う力を徐々に失くして、無力さと恐怖に浅い呼吸が震え出す。
その様子を、フラダリはじっと見下ろしていた。
まるで、壊れやすいものの反応を確かめるように。
わずかに細められた瞳が、彼女の震えを追った。
「わたしを恐れているのか?」
その言葉に、わずかな怒りが混じる。
耳元へ顔を寄せ、吐息が触れるほどの距離で静かに囁く。
「安心しなさい。」
鼓動を落ち着かせる様な、重みのある優しい声で、
「私は君を壊すつもりはない。」
一拍だけ、間が落ちる。
「ただ――」
「君がどこまで美しくなれるのか、それを確かめてみたいだけだ。」
その言葉を合図に、リリィの視界がぐらりと揺れた。
目眩のような感覚が頭の奥で広がり、息を吸うのを忘れそうになる。
部屋の輪郭が、ゆっくりと滲み始めた。
ベッドも、壁も、フラダリの姿さえ。
境界がぼやけていく。
黒い影が、水のように広がりながらすべてを飲み込んでいく。
「……っ」
途端に胸の奥ががぎりぎりと締めつけられる。
もう闇がすぐそこまで迫っていた。
(いや……)
リリィはぎゅっと強く目を閉じる。
震える指先に力を込めて、胸の奥から必死に声を引き上げた。
(Fさ、ん……)
(助け…て、Fさん…!!)
その名を心の中で叫んだ瞬間。
何故かフラダリの眉が、不快そうに寄せられた。
眉間に皺が深く入り、一気に苦虫を噛み潰したような表情となる。
「F、か。」
その名を舌の上で転がすように呟くと、フラダリはその険しい表情を残しつつ、今度は口角をゆっくりと引き上あげリリィの手に絡めた指に力を込めた。
「なるほど。君は彼を呼ぶのか。」
失望にも似たその言葉に、わずかな毒が滲む。
リリィは恐る恐る目を開くと、すぐ目の前にはフラダリの顔があった。
逃げ場のない距離で、吸い込まれそうな瞳に見つめられるが、その表情が一瞬だけ曇った気がした。
「だが残念だ。」
しかし、フラダリは何事も無かったかのようにして、楽しむように目を細めた。
「ここは君の意識の奥。」
ゆっくりと身を寄せ、吐息が頬に触れるほど距離が縮まる。
「そして私は――あの男ではない。」
嘲るような笑みと声が、リリィに突き付けられる。
「……つまり。」
「呼んでも無駄だという事だ。」
その声は確信を持ち、リリィの塞いでいた口からゆっくりと手を離す。離れる際、その指が名残を惜しむように彼女の口元をなぞっていく。
ーーそして離れた腕は黒く染まった。
もう既に手遅れだと言わんばかりに、視界の端から闇が静かに染み出していた。
「残念だが時間切れだ。」
フラダリの声が、酷く名残惜しそうに響く。
ゆっくりと、だが確実に闇が彼の身体を覆い。
「だが私は――」
その言葉の続きを告げる前に、彼の姿を飲み込んだ。
それでもフラダリは最後まで視線を外さず、リリィを見つめ続けた。まるで、彼女が目を逸らせないことを知っているかのように。
そして彼女の視界が全て闇に呑まれる直前、最後の記憶として残ったのはフラダリの笑顔だった。
それはまるで咲ききった花を手に入れた人間の、あまりにも満ち足りた笑み。
その笑みが。
焼き付くように視界に残る。
――まるで。
美しさを確かめ終えた人間の
満足のように。
その残像が消えないまま、まるで暗い海の底へ沈められるように、彼女の意識はゆっくりと手放されていった。
「っはぁ!!……っ!」
瞬間。
心臓を直接掴まれたような衝撃に、途切れた意識が一気に呼び戻されて、リリィは大きく息を吸い込んだ。
「はっ……はぁ…!…っ、つっ……は…はぁ!」
肺が空気を求めて激しく動き、喉の奥から時折ひゅ、と苦しく乾いた音が漏れた。胸が荒く上下し心臓が痛いほどに脈打っている。
視界が揺れ、ぼやけていた世界がゆっくりと形を取り戻す。
天井。
薄暗い部屋。
乱れたシーツ。
そして――
「……リリィさん。」
すぐそばから落ち着いた声がして、リリィは顔を向ける。
そこにいたのは、Fだった。
白い髪の男が、すぐ近くで彼女を見つめている。
その表情は、ひどく心配そうだった。
「リリィさん。」
もう一度、静かに呼ばれる。
その声を聞いた瞬間、リリィの唇が震えだす。
(夢よ。そう、さっきのは――夢。)
リリィは自分にそう言い聞かせる。
安堵感にリリィの身体の力が抜け始めるが、同時に胸の奥から遅れて恐怖が込み上げ、彼女は震える腕でFの服を掴んだ。
「F…さん……っ」
喉が詰まったように声が掠れるが、彼女は構わずFのその胸に縋り付き顔を押し付けた。
その様子にFは一瞬だけ目を見開く。
だがすぐに何かを察して静かに腕を背中に回し、ゆっくりと彼女のその背を優しく撫でた。
「はぁ……っ……は…、…っはぁ…、は……」
Fの胸元でリリィの短い呼吸音が漏れ、今にも泣き出しそうに身体が小さく震え続ける。
「……怖い夢を、見ましたか?」
低い声が静かに問いかける。
リリィはFの胸に顔を押し付けたまま、頷いた。
「……こゎ、…こわかった………っ」
震えた声が、徐々に嗚咽に変わりだす。
「……っ、う……つっ、く……ひっく…」
Fの手が、絶えずゆっくりと彼女の背を撫でる。
一定のリズムで落ち着かせるようにして。
そしてその動きが、ふと一瞬だけ止まった。
ほんの僅かな間だが、すぐにまた優しく背中を撫で始める。
「忘れなさい。」
Fは静かに言った。
「それはただの夢です。」
それはとても落ち着いた声だった。
「もう終わりましたから。」
背中を撫でる手は、変わらず穏やかに。
「大丈夫です。リリィ。」
その張り詰めた心をそっと解きほぐすような優しい声に、リリィは少しずつだが呼吸を整えていく。
まだ小さく身体が震えてはいたが、Fは黙って彼女を見守る。
その時。
閉じられたままのFの左眼が、僅かに引き攣った。
ほんの一瞬だけ。
Fの胸の奥を、何かがかすめた気がした。
だがFはそれに気付かずに、静かにリリィの背中を撫で続ける。
やがて彼女の呼吸がようやく落ち着き、Fの胸元で安心したように身を寄せてきた。
その時、彼の口元が…ほんの僅かに緩む。
それは本人ですら気付かないほどの、微かな変化だった。
まるで――
何かを確かめた者のような、小さな笑み。
「怖がらなくていい。」
Fの低い声が静かに落ちる。
「……私が、ここにいますから。」
その表情は――
どこか満足しているようにも見えた。
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