大君

26Re:



- 夢よ、醒めないで -


 痛みと快感は相反するようで案外近しい存在なのだろう。例えば辛みは味では無く、痛みであるというのは有名な話だ。舌を通じて刺激を感知した脳は身体が負傷したと認識し、苦痛を和らげようと神経伝達物質――俗に言う脳内麻薬を分泌するのだ。そして同じ経験を繰り返せば刺激に慣れ、脳内麻薬を放出する要因となった存在は次第に好ましいものとして認識されるようになる。
 やたらと刺激と辛味を好む破天荒な重装オペレーターも、生と死が交錯する過酷な戦場を好む前衛オペレーターも、重度の感電嗜好のある前衛オペレーターも、原理としては全て同じといえるだろう。同じにするなと怒られそうだから口に出したことは無いが。つまり何が言いたいのかと問われれば、継続する痛みに対して快感のようなものを感じてしまうのは致し方無いことであり、決して私に被虐嗜好がある訳では――。
 
「いけない子ですね」

 絹のように滑らかな声が鼓膜を撫でる。吐息を含んだ甘い囁きは恋人同士の睦言のように聞こえたかもしれない。しかし悲しいかな、それは獲物を前にした捕食者のものに他ならないのだ。全身の毛が逆立ち背筋に冷たいものが走るが、逃げ場などありはしない。もし辞書に〝寝台の私〟という単語があるならば類義語の欄には〝まな板の鱗獣〟があるだろう。居心地の悪さに身じろぎすれば、それすら許さないとばかりに肩口に牙が食い込んだ。

「い゛っ……! うぅっ゛……」

 熱された鉄を押し付けられたような激痛が走る。普段の〝食事〟とは違う、肉を抉り明確に痛みを与える為だけの行為から逃れようと身を捩るが、その程度で逃れられる筈もない。

「痛いですか? 当然です。これは罰なのですから。私が食事をしているというのに他の事に気を取られるなんて……悪い子にはお仕置きが必要でしょう?」

 まるで聞き分けの悪い子供を諭すような口ぶりだが、内容は「私に夢中になっていなきゃヤダ!」なのだから酷いものだ。仮にこれが本当に子供なら微笑ましい光景だったろうが、残念ながら相手はブラッドブルードを束ねる大君である。元々長命な種を治める長として長きに亘り君臨している彼の歳は一体幾つなのか。年齢の割に精神面が幼稚――いや、違う、ええとその、年長者としての威厳があっていいと思う。お顔もとっても美しいし、凄い強いし、この上なく慈悲深い御方に大切にしていただけて本当に私は幸せ者だなあ。

「わざとらしいご機嫌取りですが、今回は貴女の血に免じて赦してあげましょう。ええ。私は慈悲深いご主人様ですからね」
「……大君様の寛大なご配慮に心より感謝致します」

 そう言って目を閉じると満足気に鼻を鳴らした彼が再び肩口へと唇を寄せてくる。ちゅっと可愛らしい音を立てて吸い付くとそのまま舌先で傷跡をなぞるように舐めあげられ、ぞくりと肌が粟立った。波が引いていくように、灼け付く痛みも次第に薄れていき、代わりにじんわりとした鈍い疼きが生まれる。これも強いストレスに対して脳内麻薬で苦痛を中和しようとする防衛本能か、ブラッドブルードの唾液に何らかの作用があるからに違いない。決して噛んだり舐めたりされることが癖になっている訳では無い。断じて。

「ねえっ……血吸うなら吸うで早く終わらせて欲しいんだけど」
「おや、今度はおねだりですか? 仕方の無い子ですね。そう焦らずともちゃんとお望み通りにして差し上げますよ」

 くつくつと喉奥で笑う仕草さえ絵になるのだから腹立たしい。こちらの不興を買ったことを理解した上で愉しんでいるのだ。全くもって質が悪いことこの上ない。なまじ顔が良いだけに余計に苛立ちが募るというものだ。
「貴女は本当に私のことが好きですね」
 そんな訳あるか。
「私のことで頭がいっぱいなのでしょう? 言わずとも私にはわかります。貴女の心音が、血液が雄弁に物語っているのですよ」
 ……。
「恥じることはありません。愛玩動物が飼い主を慕うのは自然なこと。違いますか?」
 シーツを握りしめていた指が絡め取られ、恋人繋ぎの要領で掌を重ねられる。温かく甘やかな触れ合いに絆されそうになる自分が嫌になる。生憎と私と彼は恋人どころか愛玩動物と飼い主――いや生餌と捕食者に過ぎない。この男は私を愛してなどいないのだ。

「私のかわいい子。私だけが、貴女を慈しみ、愛し、満たしてやれるのです」

 陶酔しきった口調で紡がれる言葉は毒か呪いか福音か。理性を蝕む誘惑に身も心も委ねてしまえれば楽になれるのだろうか?
 瞼の裏に浮かぶ少女の姿が、心地よい嘘に溺れ、甘い夢に微睡むことを許さない。私には帰る場所がある。帰らなければならない理由がある。残酷な現実から目を逸らし続ける訳にはいかないのだ。

「あぁ、可哀想な〝ドクター〟。魔王もあの化け物も貴女を利用こそすれど、肩書きを脱ぎ捨てた貴女自身に目を向けることなど無いというのに。なんて嘆かわしく愚かで、愛おしいのでしょう」

 濡れた目尻に押し当てられた柔らかな唇が、控えめなリップ音を残して離れていく。一抹の寂しさを覚えてしまうのは、吊り橋理論やら心的外傷後ストレス障害やらのせいだろう。大丈夫、私は自分の帰るべき場所も正しく認識出来ているし、そこに戻ろうとする意思もある。私はまだ、正気を保てている。
 だから、明日にはちゃんと夢から醒めるから。
 お願いどうか、今だけは優しい悪夢に縋らせて。
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