さようならなんて言わないで
それは雪が降りしきる、寒い日のこと。
かつての自分が、その手で父親を撃ち抜いたように…実の弟を撃ち抜いた。
俺は怒っていたんだ。
話せることを隠していたこと。
よりにもよって、忌々しい海軍に拾われていたこと。
俺の家族を危険に晒し続けたこと。
俺の未来の右腕を遠ざけたこと。
なにより、俺のもとから再び離れようとしたこと。
どうせ見逃したところで、死ぬまで敵対するつもりだったんだろう?
何が悲しくて、兄弟で命の取り合いをしなくちゃならねぇんだ。
コラソン,,,俺はずっとお前を守ってやっただろう?
手も足も出せなかったガキの頃とは違う。
お前を傷つけるモノは全て俺が消してやっただろう?
一体何が気に入らなかったというんだ。
俺の知らないところで、勝手に死ぬなんて許さねぇ。
何処かの誰かに殺されるくらいなら―
そう思った次の瞬間、弟は見るも無残な姿だった。
撃ったところで、怒りが収まるわけではない。
コラソンのやったことが無しになるわけでもない。
俺の邪魔にしかならない哀れな弟は、消してしまった方が良い。
だがどうだ。
俺は、必死に呼吸をする弟が雪に埋もれていく様を見て、思わず駆け寄ってしまった。
そして、今にも事切れそうな弟を抱えて、大急ぎで走った。
<こいつを邪魔だと思った。だから撃ったんじゃねぇのか?>
「そうだ。コラソンは俺にとって、邪魔でしかない。足を引っ張ることしかできない、どうしようもない奴だ。」
<こいつを必死に守ってきたのは、俺じゃねぇのか?>
「そうだ。こいつは…ロシナンテは、俺が守ってやらなくちゃいけねぇんだ。」
<俺はこいつを、どうしたいんだ?>
「俺は、ロシィを,,,」
答えが出る前に、胸元にヒンヤリとした手が触れた。目線を左下に向けると、半死半生の弟と目が合った。
「どうかしたのか?」と尋ねれば、弟は目を見開いて困った顔をした。
「ドフィ…おれ、のこと。殺したかったんじゃない、の、、、か?」
「…あぁ。」
「じゃ、あ…なんで?」
そう疑問に思うのも、仕方がない。俺だって同じことを思っている。
弟の謝罪を無視して、俺は撃ち抜いた。それも、一発でなく五発も。まるで、仕留め損ねるなんてことがないように。
弟のしでかしたことは、あんな「悪かった」の一言で済まされる程小さいことではない。それを許せるほど、俺は寛大ではないし、家族の前で示しがつかない。
俺は"裏切る"という行為だけは、許せない性分だ。
別に、俺の念入りに立てた計画を滅茶苦茶にされたことも、俺自らが孤島に足を運ぶ羽目になったことも、お前が海賊に怪我をさせられたことも、全然許せる。ほかでもない、実の弟であるお前だから。
だが、海兵として潜入捜査をしていたという"裏切り"を行ったのだから、俺は弟の"罪"を裁かなければならない。船長として、兄として。家族が間違えた事をしたら、それを止め叱り、必要に応じて罰することは、家族としての責任だと俺は思う。
「お前が俺を裏切っていた。コレは大罪だ、決して許される事じゃあねぇんだ。」
「…あぁ、ドフィが一番嫌いな事だもんな。」
知っていて、お前はやっていたのか。
「てめぇは、そうだと知っていて、俺の嫌いなことをやり続けていたんだ。罪深いったらありゃしねぇな?」
「はっ、、、返す言葉も、ねぇ…よ。」
弟は俺に声が届くように、必死に喉に力を入れている。俺のシャツを握る手にも、同時に力がかかっている。
弟の限界が近い。
「…お前の罪を罰することは、兄弟である俺の役目だと、そうは思わないか?」
弟も同じことを思って、今回の潜入調査を買って出たのだろう。お前は俺を罰するために、ここへ来た。だが、弟は俺を拳銃で罰するなんてできやしない。牢に閉じ込めるなんて、甘ったれた罰を貰ったところで、俺を止められるわけではないというのに。そんな甘いところが、ロシナンテの良いところではあるんだがな。
「…皮肉なことに、お前も俺もっ、!ゲホ、ゴホッ」
限界に達した弟は、大量の吐血をし、目線も合わなくなった。
「!?…コラソン、聞こえてるか?」
俺の問い掛けに、弟はシャツを握りしめたまま、俺の胸元を3回叩いた。3回…"yes"の合図だ。ということは、聞こえているんだな。
「話は後でじっくり聞いてやる。いいか、お前は」と、俺の話が終わる前に、弟はシャツを握る手を思いっきり引いて、その手を俺の首に回した。
「!おい、なんのつもりだ?」
死ぬ前に、俺の首を絞めて心中でもしようとしているのか。と、弟を振り払おうとした瞬間―
「あにうえ。」
と、俺をギュッと抱きしめながら、ロシナンテは囁いた。
走る俺の呼吸で危うく聞き逃すところだったが、確かに弟は今「兄上」と俺を呼んだ。
弟は再会した際、いの一番に、"兄上"と俺を呼んでくれた。それ以降は、俺を"ドフィ"と呼んでいた。頑なに"兄上"と呼んではくれなかった。ソレに弟のどういう意図があったかは知らない。
なぜ、今になって俺を"兄上"と呼んだのだ。
「あにうえ、ごめん。」
今度は、聞きやすいように耳元でそう言ってくれた。
思わず俺は足を止め、弟の言葉を聞いてしまった。
「謝るな。もういいんだ、ロシィ。」
"兄上"と呼ばれ、ツラれて俺も子供の頃の愛称で弟を呼んだ。
"ロシィ"と呼ばれたのが嬉しかったのか、少しだけ口角が上がったように見えた。
そしてまた吐血する。俺に血が掛からないように、口元をコートで抑えながら。死ぬかもしれないというのに、こいつは。撃たれた相手に気を配る余裕なんてないはずなのに、本当にどうしようもない奴だ。
「あにうえ、死んだら、父上と母上に会えっかな?」
死んだ後のことなど、俺には分からない。生まれ変わりとか死者に会えるとか。そんな夢みたいな事を弟は信じているらしい。
俺だって、行けるモノなら、天国に行って母上に会いたい。
業火の世界とは縁の無い、幸せな日々を過ごしたい。
「会えねぇさ。」
俺はゆっくりと歩き始めながら、冷たい声色で呟いた。弟はそれを聞くと、残念そうに肩を落とす。
「だよな。悪い事ばっかしたから、天国なんて行けないよな。」
「そうじゃねぇよ。お前はまだ死なない。だから、死後の世界には行けねぇし、会えねぇって言ってんだよ。」
血でグショグショになっているが、また弟が困り顔をしているのは分かった。
「俺が意地でもお前を治す。その後に、言いたいことがあるなら聞いてやる。俺に聞きたいことがあるなら、全て余すことなく答えてやる。…だから、死ぬとか言うんじゃねぇ。」
弟は"わかった"と口を動かすと、体勢を戻して静かに俺を見つめる。
ロシナンテの耳がまだ生きていて本当に良かった。目も見えず耳も聞こえずじゃ、意思疎通なんてできやしない。
焦点の合わない弟の瞳が、必死に俺を捕えようと動く。顔が見えないのがそんなに不安なのか、頻りに「兄上、居るか?」と聞いてくる。
俺が居ることは、目が見えなくても分かるはずなのに。俺じゃなかったら、お前は今誰に抱えられているというのか。
「黙ってろ、舌噛んでも知らねぇぞ。」と答えれば、「舌噛むくらい、どうってことない。」と化粧に劣らない笑顔をみせた。
俺はこのやり取りを知っている。
その光景は、かつて見ず知らずの大人たちに暴力を受けていた日々を連想させた。
自分の命を繋ぐので精一杯の生活だった。
傷つけられる日々。理不尽な行為が終わる頃には、立つのもやっとな状態になる。
強い日差しに焼かれた目は、本来の機能をほとんど失っており、四肢が折られることもしょっちゅうあった。
俺より一回り小さい弟の身体は、奴らの行為には耐えられるわけもなく、自力で動くこともままならない。俺が居場所を突き止められなければ、その場で翌日再び奴らの行為に晒されたこともあった。
俺が駆けつける頃には、決まって弟は、それはもうボロ雑巾のようにズタボロになっていた。
俺は折られた腕で、動かない弟を抱え、折られた足で連れて帰ることが当たり前になっていた。痛くないといえば嘘になるが、弟に比べれば、動ける自分の方が何倍もマシなのだと自分に言い聞かせていた。
そう思わなければ、弟を見捨ててしまうから。俺が見捨てれば、きっと弟はすぐに死んでしまったと思う。
腕の中で、弟は見えない瞳で俺を必死に探す。泣けば余計に体力を消耗するのに、俺を見た弟は必ず耳が痛いくらいに泣いて俺を呼んだ。「舌を噛むから静かにするえ」と言っても、しつこく「兄上」と泣いていた。
荷物でしかなかったが、弟の存在に救われていたのもまた事実であった。
固い地面に転がされて、家と呼べないあの場所へ帰れない時も多々あった。痛みと孤独に心が抉られそうになると、視界の端には弟が居た。
動くたびに悲鳴を上げているものだから、俺は「来るな」と怒鳴るばかりだったが、構わず弟はボロボロの身体で地面を這いながら俺のもとへとやって来る。そして、俺を抱え込むと可笑しな方向に曲がっている腕で俺の背中をさすってくれた。
野晒しにされ冷えた体に、弟の体温は酷く心地よかったのを覚えている。
自分の弱さに悔し涙を流すと、弟は俺以上に涙を流し、苦しいくらいに俺を抱きしめてくれた。弟の心音を間近で聞いて、その命の尊さに涙が止まらなくなる日もあった。
「守ってやれなくてごめん」と謝ると、「守ってくれてありがとう」と笑顔を向けてくれた。
いつ見ても、どんなことがあっても、弟は笑顔を絶やさなかった。泣いたり笑ったりと忙しい弟が、まるで自分の分まで泣いたり笑ったりしてくれているように思えた。鬱陶しいことこの上ないが、嫌いになれなかった。寧ろそんな弟が好きだった。
ロシィの笑顔が何より好きだ。
迫害を受ける前の、心からの笑顔が俺は大好きだった。
虐げられるようになってからは、無理やり笑顔を作るようになった。
満足に飯を食うこともできず、まともな生活も送れず。いつも周囲に怯えて、細い体を震わせていた。痛みに耐えながら、俺に気を遣って泣き笑いをした。
俺が弱っていれば、必ず傍に来て俺を守るように抱いてくれた。痛いのも辛いのも、全て笑顔で隠して。
そんな無理をさせたのは誰のせいなのか。
天竜人か?
天竜人に恨みを持つ人間か?
無責任な父上か?
全部違う。
弟をあんなにしたのは俺だ。俺が弱いから、あいつを守ってやれなかったから。
俺のせいなんだ、ロシナンテがあんなになったのは。
俺が強くなって守るしかない。だから俺は、力を求めた。天竜人にも負けないくらいの権力が必要だった。
悪魔の実の力も、覇王色の覇気も手に入れた。この力を使って、俺は必ず全てを支配する。
俺がお前を守るから。
俺に任せておけば、全て上手くいく。
俺に直してほしい部分があるのなら、できる限り直す。
欲しいものがあるのなら、どんなものでも用意する。
行きたい場所があるなら、空を渡っていつでも連れて行ってやる。
お前が望むことなら、今度は何でも叶えてやる。
だから、俺の隣に居てほしい。偽らず、ありのままのお前で居てほしい。
弟にネクタイを引っ張られ、俺は我に返った。
「どうした?」
俺の問い掛けに弟は何も言わない。
周りに比べれば、俺たちは随分とタフではある。が、流石に銃弾を何発も食らっていては無事では済まない。
「ドフィ、居るよな?」
喋ったと思ったら、ついさっき聞いたばかりの質問をしてきた。
「あ?さっきからなんなんだ。居る。何度も同じことを言わせるな。」
「お前、ドフィだよな?」
「だから、俺だ,,,お前、まさか」
「まぁいいや。ドフラミンゴに会ったら、伝えてほしいことがあるんだけど、いいか?」
遂に弟は、聴覚もダメになってしまったらしい。
「ロシナンテ、お前」
「伝えてくれたら嬉しいけど、別に今更こんなこと言っても何にもならないから、伝えてくれなくてもいいや。」
「なんだ、お前は俺に何が言いたい?」
「お前がドフラミンゴじゃなかったとしたら、本当に恥ずかしいし、申し訳ないんだけど、俺の最後の言葉を聞いてほしい。」
一際大きい咳をして、口内を空にした弟は、俺の両肩を思い切り掴み、耳が痛いくらい大きな声でこう言った。
「大好きだえ、兄上!」
その言葉と共に、見たことないくらい満面の笑みを浮かべ、弟は目を閉じた。そして全身から力が抜け、俺の腕に重く圧し掛かった。
それはまるで、糸の切れたマリオネットのように。
俺は船に辿り着いた。もちろん、腕の中の弟も一緒に。
雪が降りしきる中、こんなにも寒い日に、俺は汗だくになりながら肩で息をしている。
そんな姿を見て、幹部諸々、船に居る全員が俺を何とも言えない表情で見てくる。
息を整えて、俺は冷静に言った。
「知ってると思うが、俺が撃った。」
「若様、コラソンをどうするつもりで?」
「生かす。そして、二度と裏切れないように躾けるつもりだ。」
誰も、それ以上何も言いださなかった。
言いたいことは大方分かる。
自分で撃ったくせに、今度は助けたい。だなんて、あまりにも矛盾だ。
てめぇは一体何がしたいんだ、とでも言いたそうな顔しやがってよ。…んなこたぁ、俺が一番聞きてぇことなんだよ。
医療班を全員部屋の中に詰め込んで「なにがなんでも生かせ。できなければ、全員命はない。」なんて、無理難題を押し付けた。
半日経った頃、医療班の一人に呼ばれ、弟の居る部屋に入った。
部屋の真ん中にあるベッドの上には、無数の管が付けられた弟が眠っている。
横たわる弟の胸に掌を乗せて、俺は驚いた。
―トクンッ、トクンッ―
その振動は酷くか細いものだったが、弟が生きていることの証明だった。
正直、生かせるとは微塵も思っていなかった。
俺の顔色を伺いながら、恐る恐る医療班が俺に言った。
「一命は取り留めましたが、目を覚ますかは分かりません。」
「ここから先は、コラソン様次第です。」
報酬を受け取った医療班は部屋を出て、俺と弟の二人きりになった。
何もない。
ただ、眠る弟を眺める兄が居るだけの部屋。
機械音と浅い呼吸音と、俺の溜息だけが響く部屋。
ただでさえ色の薄い弟の肌は、血が少なくなり一層白くなっていた。
管を抜かないよう、細心の注意を払いながらゆっくり顔の化粧を落としてやる。
紅の下の唇は、肌と見分けがつかなくなっていた。
涙化粧の下は、隈で色付いていた。
俺に任せておけば、こんなに苦労せずにオペオペの実を手に入れられただろうに。
何も相談せず、自分一人でやろうとするからこうなるんだ。
昔のように、なんでも俺に頼ればよかったものを。
そうすれば、お前もあの子供も、無事で済んだというのに。
何食わぬ顔で眠る弟が、かつての母上にダブってみえて視界が揺らぐ。
母上が永遠の眠りについたときの顔は、今でも瞼に焼き付いている。今まで数多の女を見てきたが、母上に勝るものはいなかった。きっと、この先も現れることはないと確信している。
それほど、あの母上は神々しく美しかった。
もし、並び立つものがいるとすれば、それはこの弟だけだと思う。
「母上にそっくりだな…」
蘇る忌々しい幼少期の記憶。
思い出すのは嫌な思い出ばかり。
「俺もお前も、ろくでもない幼少期を過ごしちまったな。」
「お前は今でも、死にたいと思っているのか?」
昔、下民共に壁に縛り吊るされたあの日。
俺の可愛い弟の口から"死にたい"という言葉が漏れた事実は、生涯忘れることはできないだろう。
二人で生きるために死に物狂いであの日までやってきたというのに、弟は生を諦めていた。それがどうしても許せなくて、そう思わせてしまった自分の無力さに怒りが抑えられなかった。その瞬間、覇王色の覇気に目覚めた。
この世界では、天竜人を神と崇めているが、見当違いな話だった。
堕ちた元同族の家族に手も差し出さず、挙句には崇められるはずの人間たちにこんなにも嫌われているのだから。
こんな事実、知りたくなかった。天界では、こんな現実を微塵も教わらなかった。
全て間違っているのだ。
だから、俺はあの日に覇王色の覇気を手に入れた事を、運命だと思った。
きっと、本当の神が、俺にこの力を与えたのだと。
この力をもって、間違いだらけの世界を壊し、あるべき世界に作り直せと。
弟が"死にたい"と思う世界を"生きていたい"と思える、正しい世界に変えようと決めた。
だというのに、あのオンボロの家とも呼べない場所に帰ってみれば、弟は消えていた。
そして、14年経ったある日、突然ふらっと帰ってきやがった。
俺が世界を壊して、作り直す"理由"が帰ってきた。それがどれほど嬉しい事だったか、きっとお前には永久に分からないんだろうな。
ピクリとも動かない眼前の弟を、まるで自分の心臓かのように、優しくそっと触れた。
「お前は、なぜあんなことを言ったんだ。」
「なぁ…ロシナンテ」
「俺もお前が大好きだえ」
そう言うと、薄い瞼の下にある眼球が動いたのが分かった。
再度呼び掛けるが、これといって動きはしなかった。
スヤスヤと眠る弟の顔は、18年前のままだ。
こいつはいつも俺の胸に張り付いて、寝ていやがった。
その行為を鬱陶しく思うことはあっても、決して突き放すことはしなかった。
,,,こいつが、俺の弟だから。守ってやらないと、きっとすぐに死んじまう、弱っちい奴だったから。
「『兄上、何やってるの?』とでも言いたげだな?」
深呼吸して、頭を抱える。
「…っとに、何やってんだろうな、俺は。
お前が俺の声に反応した途端、どうしようもなく喜んじまったよ,,,お前をこんなにしたのは、他でもない俺なのにな。
こんなに感情がブレッブレになったのは久々だ。お前のせいだぞ、ロシナンテ。
反論があるなら聞いてやる。但し、お前の声で発せられた言葉しか聞いてやらねぇからな。」
弟は答えない。
傍から見れば、大きな独り言を淡々と話しているだけの光景にしか見えないだろう。
だが、俺にとっては大事なことだ。
俺の言葉を返してくれなくても。それでも、俺の声は弟に届いているはずだ。
目が動いたのが、単なる偶然でも構いはしなかった。
怒りや焦りは、判断を鈍らせる。
こうなることが見越せない俺ではないはずなのに。
いつもの俺ならば、こんなミスは決してしない。
これほどまでに、俺の心を揺さぶれるのは、きっと後にも先にも弟だけだろう。
どんなにドジで、間抜けで、邪魔になっても,,,弟は弟だ。
俺は眠る弟の額を優しく撫でてから部屋を出た。
目を覚ます保障などどこにもない。
唯々、祈ることしかできない。
弟が目を覚まして、返事をしてくれる。
そんな奇跡のようなことが、起こるわけがない。起こらないことを、奇跡と呼ぶのだから。
そうは思っても、毎日のように俺は弟の部屋に足を運んだ。
それが俺のルーティンになっていた。
誰も俺を引き止めることもなかった。
幹部達には、「意味のないことではないか」と問われたことがある。
俺自身、声が枯れるほど話しかけることに意味などないと分かっていた。
ただ俺は、
もう一度、聞きたかったんだ。
弟が、俺を呼ぶ声を。
もう一度、見たかったんだ。
太陽のような眩しい微笑みを。
もう一度、触れてほしかったんだ。
母上のように暖かな優しい手で。
そうこうしているうちに、3年が過ぎた。
何も変わらない、いつも通りの日々だ。
変わったといえば、国王になったことくらいだろうか。
「最近、お休みになられるのがお早いですね。」
「あぁ、ここのところ忙しかったからな。」
幹部以外は、俺が未だにロシナンテを大事に仕舞っていることを知らない。
この召使も、弟のことを知らない。
王になってやることが多くなり、以前のように毎日弟に会うことが難しくなっていた。
だからこそ、傍に居てやれる時は、自分の時間を最大限削って付き添っていた。
今日も何時も通り、自室の隠し扉の奥の部屋に入った。
「ロシナンテ、遅くなって悪かったな。」
扉を閉めて、見舞いの花束を見せてやろうとベッドへ足を向ける。
「最近忙しくってな、詫びに花を―」
そこには、外された無数の管と、ぐしゃぐしゃになったシーツしかなかった。
そう、弟の姿が見当たらないのだ。
「?!」
まさか、意識を取り戻して逃げ出したのか?!
だが、寝たきりの身体で動けるわけがない。
誰かに攫われたのか…!?
もぬけの殻となったベッドの周りをこれでもかと調べ、部屋の中を探りまくったが、何も居ない。
窓を見ても、鍵は掛けれたままだった。
「俺の部屋から表へ出たのか?」
自室に戻ってみると、デスクから物音が聞こえた。
先ほどは急いで隠し部屋へ向かったので気が付かなかったが、デスクの下に誰かいる。
「おい、そこで何をしている?」
声を掛けると、ゴンッと頭をぶつける音がした。
「う"っ」と声を漏らし、フワフワした金髪が揺れた。
「ロシナンテだな?」
窓側へ回り、デスクの下を確認した。
辺りは書類が散りばめられていて、滅茶苦茶になっている。
「目が覚めた途端に、俺への嫌がらせをするたぁ…いい度胸じゃねぇか。なぁ?」
大事な書類が使い物にならなくなっている上に、そこら中インクまみれになっている。
「何か言ったらどうなんだ。」
俺は眼前に蹲る弟を呼び掛け、腰を下ろす。
もう目を覚ますことはないと思っていた弟が、目を覚ました。
それだけで、もう充分だった。
書類を滅茶苦茶にされようが、邪魔をされようが別に構わなかった。
クルッとこちらに向けられた弟の顔は、酷く痩せ細っている。
今にも目玉が零れ落ちそうな程に。
「久しぶりだな、ロシナンテ。」
「、、、」
「こんなところにしゃがみ込んで、かくれんぼでもしてんのか?」
「、、、」
弟はなにも返してこない。
きっと記憶が混乱していて、未だにお前が喋れることを俺が知らないとでも思って警戒しているんだろう。
「お前が話せることは、とっくに分かってるんだよ。下手な芝居してないで、何か言えよ。」
そう言いながら、弟が逃げ出せないように手首を掴んだ。
「…あぁ」
掠れた声で、弟が声を発する。
「ん、どうかしたのか?」
目が合ったその瞬間、弟は俺目がけて突進してきた。
中腰になっていたため、尻もちをついてしまった。同時に『メキッ』と嫌な音が聞こえたが、音の出どころは俺ではなかった。
「うわっ痛!!」
俺の上で、弟がもがいている。
「突然、何しやがる,,,取り敢えず退け。」
弟の身体は弱っていて、俺にぶつかった衝撃で腕の骨がイッたのだろう。
「だ、誰?」
「俺はお前の兄だ。忘れちまったのか?」
その問い掛けに、弟はゆっくりとこちらに目を向ける。
「あに、うえ?」
サングラスをずらし、優しく微笑んでやる。
すると、俺の瞳を覗き込んで再度胸に顔を埋めた。
「兄上。」
「そうだ。…ところで、お前どこまで覚えている?今何歳だ。」
目を瞬かせて、気怠そうに答える。
「全部覚えてる。26だよ。」
「そうか、覚えてるのか。」
「うん…?なに、覚えてちゃダメなの?」
「…『大好きだえ、兄上』。」
「!や、やめろ!!」
「『大好き』」
「やめろってば!忘れろ!!」
顔を真っ赤にして両手で俺の胸を押し出し、痛そうに手の平をさすっている。
「…忘れねぇよ。忘れるなんて、できるわけないだろ。」
「…」
気まずそうに、体をさすっている。
「身体、大丈夫か?」
「え、あぁ…まぁ本調子ではねぇけど、生きてるから別に問題ない。」
「なんだそれ。どこか、痛いとことかねぇか?」
「全身痛い。けど一番まずいのは視力かな。」
身を乗り出してきて、顔に息が掛かる距離まで迫って来る。
「おいおい、何だ。」
「いやさ、ここまで近づかないと分かんねぇんだわ。」
「…そうか。」
どっこいしょ、と腰を上げると、不安定な足取りで窓に腰かけた。
窓を開けて、眩しそうに手で視界を塞いでいる。
「色と光は問題なさそう。つっても、ぼやけて何が何だかさっぱりだけどな!でも、別にいいんだ。」
乾いた笑いで、気にしていないと肩をすくめた。
「良くはないだろ。何か用意させるから、安心し」
「いらねぇよ、んなもん。」
俺の言葉に被せる様に食い気味で返事をした。
「要らないわけないだろ?」
「要らねぇよ。残りの人生、ずっと暗いとこに座ってるだけの男に、視界なんて必要ないだろ?」
そういうと、壁に手を付けて部屋の中を歩き腰を下ろす。
電伝虫を手に取り、どこかに電話をかけている。恐らく海軍だろう。
「…止めないのか?」
「好きにすればいい。」
「,,,ありがと。」
―プルルルッ、プルルルッ、ガチャッ
「『お・か・き』~っ!」
「…『あられ』、俺です。」
「!???!!?」
受話器越しに、通話相手が慌てているのが分かるほど、ガチャガチャと音を立てているのが分かった。
そりゃ驚くだろうよ、音信不通だった部下からの連絡が来たんだからな。
「ロ、ロシナン、、、テなのか??」
「はい。連絡遅くなって」
「そんなことはいい!生きていたのか、本当に,,,本当によかった…っ!!」
「センゴクさん…。」
「い、今どこにいるんだ?体調は大丈夫なのか?!」
振り向いて俺の顔を伺う。顎を突き出し合図を送る。
「今…ドレスローザにいます。王宮の、最上階…国王の間です。」
「…!ドフラミンゴと一緒にいるのか?!そうか、奴に捕まっていたのか!大丈夫か?何かされていないか!?」
ふふふ、と嬉しそうに笑みが零れている。こいつにとって、センゴクは父親のような存在なのだろうか。
「大丈夫です。兄も、俺が生きていたことに驚いてるみたいで、何もしてません。」
こっちを振り返りニコニコとしている。
「どういうことだ?」
あの日のこと、そしていまのことを事細かに説明している。
時折説教されているようで、受話器越しにペコペコと頭を下げている。
「ロシナンテ、詳しい話は、直接会ってしよう。迎えの船を用意するから、もう少し待っていてくれ。それと、お前の処分だが」
「えぇ、覚悟はできています。鉄格子越しで続きを話しましょう。」
鉄格子越し。弟は、海軍に戻れば二度と表には出れなくなる、ということだ。そんなことが分かりきっているのに、返す馬鹿がどこにいるというのか。
「ロシナンテ、お前はそれでいいのか?」
受話器を戻し、ポリポリと鼻をかきながらこちらを振り返る。
「良いも悪いも、こうするしかないんだ。可笑しいな、お前を牢屋に入れるつもりが、俺の方が入っちまうなんてな。
さよならだ、ドフィ。」
今にも泣きそうな顔をしている弟が、かつての弟と重なり、思わず頭をポンポンと叩いてしまった。
「…何?」
「いや…な、泣かれると困るんだよ。」
「泣いてねぇけど?」
「なぁロシィ、お前はここに居ろ。」
「いや、帰る。」
首を横に振って意思表明をする。
とっさにイトで弟の両腕を拘束した。
「ちょっ、何する気だよ?!」
「捕まると分かっているのに、わざわざ行かせると思うか?これは国王命令だ。お前はここに居ろ。」
「だから、無理だってば。」
騒ぐ弟を潰さないよう、優しく抱き込む。
「ここに居てくれ、ロシィ。」
「…なんで。別に俺じゃなくても」
「俺が何のために必死になって、あの雪の中を抱えて走ったと思っているんだ。」
腕に力が入り、いてて、と弟が零す。
「罪悪感?」
「馬鹿、そんなんじゃねぇよ。」
「王様なんだろ?なら他に色々いるだろ?なんでよりによって俺なんだよ。忘れたのか?俺スパイだぜ?お前の事裏切ってたんだぜ??」
思いっきり抱き寄せて、痛いと叫ぶ声を無視して話す。
「お前じゃなきゃダメなんだ。俺はお前がいい。お前じゃなきゃ…ロシナンテじゃなきゃ嫌なんだ。
だから、さよならなんて言うな。」
「,,,ドフィ。」
イトで縛られた手首を上にあげて、俺の首に腕を回した。
「分かったよ。その代わり、ちゃんと守ってくれよ?」
その時見せた弟の笑顔は、今までで見た中で一番眩しかった。
―終―
かつての自分が、その手で父親を撃ち抜いたように…実の弟を撃ち抜いた。
俺は怒っていたんだ。
話せることを隠していたこと。
よりにもよって、忌々しい海軍に拾われていたこと。
俺の家族を危険に晒し続けたこと。
俺の未来の右腕を遠ざけたこと。
なにより、俺のもとから再び離れようとしたこと。
どうせ見逃したところで、死ぬまで敵対するつもりだったんだろう?
何が悲しくて、兄弟で命の取り合いをしなくちゃならねぇんだ。
コラソン,,,俺はずっとお前を守ってやっただろう?
手も足も出せなかったガキの頃とは違う。
お前を傷つけるモノは全て俺が消してやっただろう?
一体何が気に入らなかったというんだ。
俺の知らないところで、勝手に死ぬなんて許さねぇ。
何処かの誰かに殺されるくらいなら―
そう思った次の瞬間、弟は見るも無残な姿だった。
撃ったところで、怒りが収まるわけではない。
コラソンのやったことが無しになるわけでもない。
俺の邪魔にしかならない哀れな弟は、消してしまった方が良い。
だがどうだ。
俺は、必死に呼吸をする弟が雪に埋もれていく様を見て、思わず駆け寄ってしまった。
そして、今にも事切れそうな弟を抱えて、大急ぎで走った。
<こいつを邪魔だと思った。だから撃ったんじゃねぇのか?>
「そうだ。コラソンは俺にとって、邪魔でしかない。足を引っ張ることしかできない、どうしようもない奴だ。」
<こいつを必死に守ってきたのは、俺じゃねぇのか?>
「そうだ。こいつは…ロシナンテは、俺が守ってやらなくちゃいけねぇんだ。」
<俺はこいつを、どうしたいんだ?>
「俺は、ロシィを,,,」
答えが出る前に、胸元にヒンヤリとした手が触れた。目線を左下に向けると、半死半生の弟と目が合った。
「どうかしたのか?」と尋ねれば、弟は目を見開いて困った顔をした。
「ドフィ…おれ、のこと。殺したかったんじゃない、の、、、か?」
「…あぁ。」
「じゃ、あ…なんで?」
そう疑問に思うのも、仕方がない。俺だって同じことを思っている。
弟の謝罪を無視して、俺は撃ち抜いた。それも、一発でなく五発も。まるで、仕留め損ねるなんてことがないように。
弟のしでかしたことは、あんな「悪かった」の一言で済まされる程小さいことではない。それを許せるほど、俺は寛大ではないし、家族の前で示しがつかない。
俺は"裏切る"という行為だけは、許せない性分だ。
別に、俺の念入りに立てた計画を滅茶苦茶にされたことも、俺自らが孤島に足を運ぶ羽目になったことも、お前が海賊に怪我をさせられたことも、全然許せる。ほかでもない、実の弟であるお前だから。
だが、海兵として潜入捜査をしていたという"裏切り"を行ったのだから、俺は弟の"罪"を裁かなければならない。船長として、兄として。家族が間違えた事をしたら、それを止め叱り、必要に応じて罰することは、家族としての責任だと俺は思う。
「お前が俺を裏切っていた。コレは大罪だ、決して許される事じゃあねぇんだ。」
「…あぁ、ドフィが一番嫌いな事だもんな。」
知っていて、お前はやっていたのか。
「てめぇは、そうだと知っていて、俺の嫌いなことをやり続けていたんだ。罪深いったらありゃしねぇな?」
「はっ、、、返す言葉も、ねぇ…よ。」
弟は俺に声が届くように、必死に喉に力を入れている。俺のシャツを握る手にも、同時に力がかかっている。
弟の限界が近い。
「…お前の罪を罰することは、兄弟である俺の役目だと、そうは思わないか?」
弟も同じことを思って、今回の潜入調査を買って出たのだろう。お前は俺を罰するために、ここへ来た。だが、弟は俺を拳銃で罰するなんてできやしない。牢に閉じ込めるなんて、甘ったれた罰を貰ったところで、俺を止められるわけではないというのに。そんな甘いところが、ロシナンテの良いところではあるんだがな。
「…皮肉なことに、お前も俺もっ、!ゲホ、ゴホッ」
限界に達した弟は、大量の吐血をし、目線も合わなくなった。
「!?…コラソン、聞こえてるか?」
俺の問い掛けに、弟はシャツを握りしめたまま、俺の胸元を3回叩いた。3回…"yes"の合図だ。ということは、聞こえているんだな。
「話は後でじっくり聞いてやる。いいか、お前は」と、俺の話が終わる前に、弟はシャツを握る手を思いっきり引いて、その手を俺の首に回した。
「!おい、なんのつもりだ?」
死ぬ前に、俺の首を絞めて心中でもしようとしているのか。と、弟を振り払おうとした瞬間―
「あにうえ。」
と、俺をギュッと抱きしめながら、ロシナンテは囁いた。
走る俺の呼吸で危うく聞き逃すところだったが、確かに弟は今「兄上」と俺を呼んだ。
弟は再会した際、いの一番に、"兄上"と俺を呼んでくれた。それ以降は、俺を"ドフィ"と呼んでいた。頑なに"兄上"と呼んではくれなかった。ソレに弟のどういう意図があったかは知らない。
なぜ、今になって俺を"兄上"と呼んだのだ。
「あにうえ、ごめん。」
今度は、聞きやすいように耳元でそう言ってくれた。
思わず俺は足を止め、弟の言葉を聞いてしまった。
「謝るな。もういいんだ、ロシィ。」
"兄上"と呼ばれ、ツラれて俺も子供の頃の愛称で弟を呼んだ。
"ロシィ"と呼ばれたのが嬉しかったのか、少しだけ口角が上がったように見えた。
そしてまた吐血する。俺に血が掛からないように、口元をコートで抑えながら。死ぬかもしれないというのに、こいつは。撃たれた相手に気を配る余裕なんてないはずなのに、本当にどうしようもない奴だ。
「あにうえ、死んだら、父上と母上に会えっかな?」
死んだ後のことなど、俺には分からない。生まれ変わりとか死者に会えるとか。そんな夢みたいな事を弟は信じているらしい。
俺だって、行けるモノなら、天国に行って母上に会いたい。
業火の世界とは縁の無い、幸せな日々を過ごしたい。
「会えねぇさ。」
俺はゆっくりと歩き始めながら、冷たい声色で呟いた。弟はそれを聞くと、残念そうに肩を落とす。
「だよな。悪い事ばっかしたから、天国なんて行けないよな。」
「そうじゃねぇよ。お前はまだ死なない。だから、死後の世界には行けねぇし、会えねぇって言ってんだよ。」
血でグショグショになっているが、また弟が困り顔をしているのは分かった。
「俺が意地でもお前を治す。その後に、言いたいことがあるなら聞いてやる。俺に聞きたいことがあるなら、全て余すことなく答えてやる。…だから、死ぬとか言うんじゃねぇ。」
弟は"わかった"と口を動かすと、体勢を戻して静かに俺を見つめる。
ロシナンテの耳がまだ生きていて本当に良かった。目も見えず耳も聞こえずじゃ、意思疎通なんてできやしない。
焦点の合わない弟の瞳が、必死に俺を捕えようと動く。顔が見えないのがそんなに不安なのか、頻りに「兄上、居るか?」と聞いてくる。
俺が居ることは、目が見えなくても分かるはずなのに。俺じゃなかったら、お前は今誰に抱えられているというのか。
「黙ってろ、舌噛んでも知らねぇぞ。」と答えれば、「舌噛むくらい、どうってことない。」と化粧に劣らない笑顔をみせた。
俺はこのやり取りを知っている。
その光景は、かつて見ず知らずの大人たちに暴力を受けていた日々を連想させた。
自分の命を繋ぐので精一杯の生活だった。
傷つけられる日々。理不尽な行為が終わる頃には、立つのもやっとな状態になる。
強い日差しに焼かれた目は、本来の機能をほとんど失っており、四肢が折られることもしょっちゅうあった。
俺より一回り小さい弟の身体は、奴らの行為には耐えられるわけもなく、自力で動くこともままならない。俺が居場所を突き止められなければ、その場で翌日再び奴らの行為に晒されたこともあった。
俺が駆けつける頃には、決まって弟は、それはもうボロ雑巾のようにズタボロになっていた。
俺は折られた腕で、動かない弟を抱え、折られた足で連れて帰ることが当たり前になっていた。痛くないといえば嘘になるが、弟に比べれば、動ける自分の方が何倍もマシなのだと自分に言い聞かせていた。
そう思わなければ、弟を見捨ててしまうから。俺が見捨てれば、きっと弟はすぐに死んでしまったと思う。
腕の中で、弟は見えない瞳で俺を必死に探す。泣けば余計に体力を消耗するのに、俺を見た弟は必ず耳が痛いくらいに泣いて俺を呼んだ。「舌を噛むから静かにするえ」と言っても、しつこく「兄上」と泣いていた。
荷物でしかなかったが、弟の存在に救われていたのもまた事実であった。
固い地面に転がされて、家と呼べないあの場所へ帰れない時も多々あった。痛みと孤独に心が抉られそうになると、視界の端には弟が居た。
動くたびに悲鳴を上げているものだから、俺は「来るな」と怒鳴るばかりだったが、構わず弟はボロボロの身体で地面を這いながら俺のもとへとやって来る。そして、俺を抱え込むと可笑しな方向に曲がっている腕で俺の背中をさすってくれた。
野晒しにされ冷えた体に、弟の体温は酷く心地よかったのを覚えている。
自分の弱さに悔し涙を流すと、弟は俺以上に涙を流し、苦しいくらいに俺を抱きしめてくれた。弟の心音を間近で聞いて、その命の尊さに涙が止まらなくなる日もあった。
「守ってやれなくてごめん」と謝ると、「守ってくれてありがとう」と笑顔を向けてくれた。
いつ見ても、どんなことがあっても、弟は笑顔を絶やさなかった。泣いたり笑ったりと忙しい弟が、まるで自分の分まで泣いたり笑ったりしてくれているように思えた。鬱陶しいことこの上ないが、嫌いになれなかった。寧ろそんな弟が好きだった。
ロシィの笑顔が何より好きだ。
迫害を受ける前の、心からの笑顔が俺は大好きだった。
虐げられるようになってからは、無理やり笑顔を作るようになった。
満足に飯を食うこともできず、まともな生活も送れず。いつも周囲に怯えて、細い体を震わせていた。痛みに耐えながら、俺に気を遣って泣き笑いをした。
俺が弱っていれば、必ず傍に来て俺を守るように抱いてくれた。痛いのも辛いのも、全て笑顔で隠して。
そんな無理をさせたのは誰のせいなのか。
天竜人か?
天竜人に恨みを持つ人間か?
無責任な父上か?
全部違う。
弟をあんなにしたのは俺だ。俺が弱いから、あいつを守ってやれなかったから。
俺のせいなんだ、ロシナンテがあんなになったのは。
俺が強くなって守るしかない。だから俺は、力を求めた。天竜人にも負けないくらいの権力が必要だった。
悪魔の実の力も、覇王色の覇気も手に入れた。この力を使って、俺は必ず全てを支配する。
俺がお前を守るから。
俺に任せておけば、全て上手くいく。
俺に直してほしい部分があるのなら、できる限り直す。
欲しいものがあるのなら、どんなものでも用意する。
行きたい場所があるなら、空を渡っていつでも連れて行ってやる。
お前が望むことなら、今度は何でも叶えてやる。
だから、俺の隣に居てほしい。偽らず、ありのままのお前で居てほしい。
弟にネクタイを引っ張られ、俺は我に返った。
「どうした?」
俺の問い掛けに弟は何も言わない。
周りに比べれば、俺たちは随分とタフではある。が、流石に銃弾を何発も食らっていては無事では済まない。
「ドフィ、居るよな?」
喋ったと思ったら、ついさっき聞いたばかりの質問をしてきた。
「あ?さっきからなんなんだ。居る。何度も同じことを言わせるな。」
「お前、ドフィだよな?」
「だから、俺だ,,,お前、まさか」
「まぁいいや。ドフラミンゴに会ったら、伝えてほしいことがあるんだけど、いいか?」
遂に弟は、聴覚もダメになってしまったらしい。
「ロシナンテ、お前」
「伝えてくれたら嬉しいけど、別に今更こんなこと言っても何にもならないから、伝えてくれなくてもいいや。」
「なんだ、お前は俺に何が言いたい?」
「お前がドフラミンゴじゃなかったとしたら、本当に恥ずかしいし、申し訳ないんだけど、俺の最後の言葉を聞いてほしい。」
一際大きい咳をして、口内を空にした弟は、俺の両肩を思い切り掴み、耳が痛いくらい大きな声でこう言った。
「大好きだえ、兄上!」
その言葉と共に、見たことないくらい満面の笑みを浮かべ、弟は目を閉じた。そして全身から力が抜け、俺の腕に重く圧し掛かった。
それはまるで、糸の切れたマリオネットのように。
俺は船に辿り着いた。もちろん、腕の中の弟も一緒に。
雪が降りしきる中、こんなにも寒い日に、俺は汗だくになりながら肩で息をしている。
そんな姿を見て、幹部諸々、船に居る全員が俺を何とも言えない表情で見てくる。
息を整えて、俺は冷静に言った。
「知ってると思うが、俺が撃った。」
「若様、コラソンをどうするつもりで?」
「生かす。そして、二度と裏切れないように躾けるつもりだ。」
誰も、それ以上何も言いださなかった。
言いたいことは大方分かる。
自分で撃ったくせに、今度は助けたい。だなんて、あまりにも矛盾だ。
てめぇは一体何がしたいんだ、とでも言いたそうな顔しやがってよ。…んなこたぁ、俺が一番聞きてぇことなんだよ。
医療班を全員部屋の中に詰め込んで「なにがなんでも生かせ。できなければ、全員命はない。」なんて、無理難題を押し付けた。
半日経った頃、医療班の一人に呼ばれ、弟の居る部屋に入った。
部屋の真ん中にあるベッドの上には、無数の管が付けられた弟が眠っている。
横たわる弟の胸に掌を乗せて、俺は驚いた。
―トクンッ、トクンッ―
その振動は酷くか細いものだったが、弟が生きていることの証明だった。
正直、生かせるとは微塵も思っていなかった。
俺の顔色を伺いながら、恐る恐る医療班が俺に言った。
「一命は取り留めましたが、目を覚ますかは分かりません。」
「ここから先は、コラソン様次第です。」
報酬を受け取った医療班は部屋を出て、俺と弟の二人きりになった。
何もない。
ただ、眠る弟を眺める兄が居るだけの部屋。
機械音と浅い呼吸音と、俺の溜息だけが響く部屋。
ただでさえ色の薄い弟の肌は、血が少なくなり一層白くなっていた。
管を抜かないよう、細心の注意を払いながらゆっくり顔の化粧を落としてやる。
紅の下の唇は、肌と見分けがつかなくなっていた。
涙化粧の下は、隈で色付いていた。
俺に任せておけば、こんなに苦労せずにオペオペの実を手に入れられただろうに。
何も相談せず、自分一人でやろうとするからこうなるんだ。
昔のように、なんでも俺に頼ればよかったものを。
そうすれば、お前もあの子供も、無事で済んだというのに。
何食わぬ顔で眠る弟が、かつての母上にダブってみえて視界が揺らぐ。
母上が永遠の眠りについたときの顔は、今でも瞼に焼き付いている。今まで数多の女を見てきたが、母上に勝るものはいなかった。きっと、この先も現れることはないと確信している。
それほど、あの母上は神々しく美しかった。
もし、並び立つものがいるとすれば、それはこの弟だけだと思う。
「母上にそっくりだな…」
蘇る忌々しい幼少期の記憶。
思い出すのは嫌な思い出ばかり。
「俺もお前も、ろくでもない幼少期を過ごしちまったな。」
「お前は今でも、死にたいと思っているのか?」
昔、下民共に壁に縛り吊るされたあの日。
俺の可愛い弟の口から"死にたい"という言葉が漏れた事実は、生涯忘れることはできないだろう。
二人で生きるために死に物狂いであの日までやってきたというのに、弟は生を諦めていた。それがどうしても許せなくて、そう思わせてしまった自分の無力さに怒りが抑えられなかった。その瞬間、覇王色の覇気に目覚めた。
この世界では、天竜人を神と崇めているが、見当違いな話だった。
堕ちた元同族の家族に手も差し出さず、挙句には崇められるはずの人間たちにこんなにも嫌われているのだから。
こんな事実、知りたくなかった。天界では、こんな現実を微塵も教わらなかった。
全て間違っているのだ。
だから、俺はあの日に覇王色の覇気を手に入れた事を、運命だと思った。
きっと、本当の神が、俺にこの力を与えたのだと。
この力をもって、間違いだらけの世界を壊し、あるべき世界に作り直せと。
弟が"死にたい"と思う世界を"生きていたい"と思える、正しい世界に変えようと決めた。
だというのに、あのオンボロの家とも呼べない場所に帰ってみれば、弟は消えていた。
そして、14年経ったある日、突然ふらっと帰ってきやがった。
俺が世界を壊して、作り直す"理由"が帰ってきた。それがどれほど嬉しい事だったか、きっとお前には永久に分からないんだろうな。
ピクリとも動かない眼前の弟を、まるで自分の心臓かのように、優しくそっと触れた。
「お前は、なぜあんなことを言ったんだ。」
「なぁ…ロシナンテ」
「俺もお前が大好きだえ」
そう言うと、薄い瞼の下にある眼球が動いたのが分かった。
再度呼び掛けるが、これといって動きはしなかった。
スヤスヤと眠る弟の顔は、18年前のままだ。
こいつはいつも俺の胸に張り付いて、寝ていやがった。
その行為を鬱陶しく思うことはあっても、決して突き放すことはしなかった。
,,,こいつが、俺の弟だから。守ってやらないと、きっとすぐに死んじまう、弱っちい奴だったから。
「『兄上、何やってるの?』とでも言いたげだな?」
深呼吸して、頭を抱える。
「…っとに、何やってんだろうな、俺は。
お前が俺の声に反応した途端、どうしようもなく喜んじまったよ,,,お前をこんなにしたのは、他でもない俺なのにな。
こんなに感情がブレッブレになったのは久々だ。お前のせいだぞ、ロシナンテ。
反論があるなら聞いてやる。但し、お前の声で発せられた言葉しか聞いてやらねぇからな。」
弟は答えない。
傍から見れば、大きな独り言を淡々と話しているだけの光景にしか見えないだろう。
だが、俺にとっては大事なことだ。
俺の言葉を返してくれなくても。それでも、俺の声は弟に届いているはずだ。
目が動いたのが、単なる偶然でも構いはしなかった。
怒りや焦りは、判断を鈍らせる。
こうなることが見越せない俺ではないはずなのに。
いつもの俺ならば、こんなミスは決してしない。
これほどまでに、俺の心を揺さぶれるのは、きっと後にも先にも弟だけだろう。
どんなにドジで、間抜けで、邪魔になっても,,,弟は弟だ。
俺は眠る弟の額を優しく撫でてから部屋を出た。
目を覚ます保障などどこにもない。
唯々、祈ることしかできない。
弟が目を覚まして、返事をしてくれる。
そんな奇跡のようなことが、起こるわけがない。起こらないことを、奇跡と呼ぶのだから。
そうは思っても、毎日のように俺は弟の部屋に足を運んだ。
それが俺のルーティンになっていた。
誰も俺を引き止めることもなかった。
幹部達には、「意味のないことではないか」と問われたことがある。
俺自身、声が枯れるほど話しかけることに意味などないと分かっていた。
ただ俺は、
もう一度、聞きたかったんだ。
弟が、俺を呼ぶ声を。
もう一度、見たかったんだ。
太陽のような眩しい微笑みを。
もう一度、触れてほしかったんだ。
母上のように暖かな優しい手で。
そうこうしているうちに、3年が過ぎた。
何も変わらない、いつも通りの日々だ。
変わったといえば、国王になったことくらいだろうか。
「最近、お休みになられるのがお早いですね。」
「あぁ、ここのところ忙しかったからな。」
幹部以外は、俺が未だにロシナンテを大事に仕舞っていることを知らない。
この召使も、弟のことを知らない。
王になってやることが多くなり、以前のように毎日弟に会うことが難しくなっていた。
だからこそ、傍に居てやれる時は、自分の時間を最大限削って付き添っていた。
今日も何時も通り、自室の隠し扉の奥の部屋に入った。
「ロシナンテ、遅くなって悪かったな。」
扉を閉めて、見舞いの花束を見せてやろうとベッドへ足を向ける。
「最近忙しくってな、詫びに花を―」
そこには、外された無数の管と、ぐしゃぐしゃになったシーツしかなかった。
そう、弟の姿が見当たらないのだ。
「?!」
まさか、意識を取り戻して逃げ出したのか?!
だが、寝たきりの身体で動けるわけがない。
誰かに攫われたのか…!?
もぬけの殻となったベッドの周りをこれでもかと調べ、部屋の中を探りまくったが、何も居ない。
窓を見ても、鍵は掛けれたままだった。
「俺の部屋から表へ出たのか?」
自室に戻ってみると、デスクから物音が聞こえた。
先ほどは急いで隠し部屋へ向かったので気が付かなかったが、デスクの下に誰かいる。
「おい、そこで何をしている?」
声を掛けると、ゴンッと頭をぶつける音がした。
「う"っ」と声を漏らし、フワフワした金髪が揺れた。
「ロシナンテだな?」
窓側へ回り、デスクの下を確認した。
辺りは書類が散りばめられていて、滅茶苦茶になっている。
「目が覚めた途端に、俺への嫌がらせをするたぁ…いい度胸じゃねぇか。なぁ?」
大事な書類が使い物にならなくなっている上に、そこら中インクまみれになっている。
「何か言ったらどうなんだ。」
俺は眼前に蹲る弟を呼び掛け、腰を下ろす。
もう目を覚ますことはないと思っていた弟が、目を覚ました。
それだけで、もう充分だった。
書類を滅茶苦茶にされようが、邪魔をされようが別に構わなかった。
クルッとこちらに向けられた弟の顔は、酷く痩せ細っている。
今にも目玉が零れ落ちそうな程に。
「久しぶりだな、ロシナンテ。」
「、、、」
「こんなところにしゃがみ込んで、かくれんぼでもしてんのか?」
「、、、」
弟はなにも返してこない。
きっと記憶が混乱していて、未だにお前が喋れることを俺が知らないとでも思って警戒しているんだろう。
「お前が話せることは、とっくに分かってるんだよ。下手な芝居してないで、何か言えよ。」
そう言いながら、弟が逃げ出せないように手首を掴んだ。
「…あぁ」
掠れた声で、弟が声を発する。
「ん、どうかしたのか?」
目が合ったその瞬間、弟は俺目がけて突進してきた。
中腰になっていたため、尻もちをついてしまった。同時に『メキッ』と嫌な音が聞こえたが、音の出どころは俺ではなかった。
「うわっ痛!!」
俺の上で、弟がもがいている。
「突然、何しやがる,,,取り敢えず退け。」
弟の身体は弱っていて、俺にぶつかった衝撃で腕の骨がイッたのだろう。
「だ、誰?」
「俺はお前の兄だ。忘れちまったのか?」
その問い掛けに、弟はゆっくりとこちらに目を向ける。
「あに、うえ?」
サングラスをずらし、優しく微笑んでやる。
すると、俺の瞳を覗き込んで再度胸に顔を埋めた。
「兄上。」
「そうだ。…ところで、お前どこまで覚えている?今何歳だ。」
目を瞬かせて、気怠そうに答える。
「全部覚えてる。26だよ。」
「そうか、覚えてるのか。」
「うん…?なに、覚えてちゃダメなの?」
「…『大好きだえ、兄上』。」
「!や、やめろ!!」
「『大好き』」
「やめろってば!忘れろ!!」
顔を真っ赤にして両手で俺の胸を押し出し、痛そうに手の平をさすっている。
「…忘れねぇよ。忘れるなんて、できるわけないだろ。」
「…」
気まずそうに、体をさすっている。
「身体、大丈夫か?」
「え、あぁ…まぁ本調子ではねぇけど、生きてるから別に問題ない。」
「なんだそれ。どこか、痛いとことかねぇか?」
「全身痛い。けど一番まずいのは視力かな。」
身を乗り出してきて、顔に息が掛かる距離まで迫って来る。
「おいおい、何だ。」
「いやさ、ここまで近づかないと分かんねぇんだわ。」
「…そうか。」
どっこいしょ、と腰を上げると、不安定な足取りで窓に腰かけた。
窓を開けて、眩しそうに手で視界を塞いでいる。
「色と光は問題なさそう。つっても、ぼやけて何が何だかさっぱりだけどな!でも、別にいいんだ。」
乾いた笑いで、気にしていないと肩をすくめた。
「良くはないだろ。何か用意させるから、安心し」
「いらねぇよ、んなもん。」
俺の言葉に被せる様に食い気味で返事をした。
「要らないわけないだろ?」
「要らねぇよ。残りの人生、ずっと暗いとこに座ってるだけの男に、視界なんて必要ないだろ?」
そういうと、壁に手を付けて部屋の中を歩き腰を下ろす。
電伝虫を手に取り、どこかに電話をかけている。恐らく海軍だろう。
「…止めないのか?」
「好きにすればいい。」
「,,,ありがと。」
―プルルルッ、プルルルッ、ガチャッ
「『お・か・き』~っ!」
「…『あられ』、俺です。」
「!???!!?」
受話器越しに、通話相手が慌てているのが分かるほど、ガチャガチャと音を立てているのが分かった。
そりゃ驚くだろうよ、音信不通だった部下からの連絡が来たんだからな。
「ロ、ロシナン、、、テなのか??」
「はい。連絡遅くなって」
「そんなことはいい!生きていたのか、本当に,,,本当によかった…っ!!」
「センゴクさん…。」
「い、今どこにいるんだ?体調は大丈夫なのか?!」
振り向いて俺の顔を伺う。顎を突き出し合図を送る。
「今…ドレスローザにいます。王宮の、最上階…国王の間です。」
「…!ドフラミンゴと一緒にいるのか?!そうか、奴に捕まっていたのか!大丈夫か?何かされていないか!?」
ふふふ、と嬉しそうに笑みが零れている。こいつにとって、センゴクは父親のような存在なのだろうか。
「大丈夫です。兄も、俺が生きていたことに驚いてるみたいで、何もしてません。」
こっちを振り返りニコニコとしている。
「どういうことだ?」
あの日のこと、そしていまのことを事細かに説明している。
時折説教されているようで、受話器越しにペコペコと頭を下げている。
「ロシナンテ、詳しい話は、直接会ってしよう。迎えの船を用意するから、もう少し待っていてくれ。それと、お前の処分だが」
「えぇ、覚悟はできています。鉄格子越しで続きを話しましょう。」
鉄格子越し。弟は、海軍に戻れば二度と表には出れなくなる、ということだ。そんなことが分かりきっているのに、返す馬鹿がどこにいるというのか。
「ロシナンテ、お前はそれでいいのか?」
受話器を戻し、ポリポリと鼻をかきながらこちらを振り返る。
「良いも悪いも、こうするしかないんだ。可笑しいな、お前を牢屋に入れるつもりが、俺の方が入っちまうなんてな。
さよならだ、ドフィ。」
今にも泣きそうな顔をしている弟が、かつての弟と重なり、思わず頭をポンポンと叩いてしまった。
「…何?」
「いや…な、泣かれると困るんだよ。」
「泣いてねぇけど?」
「なぁロシィ、お前はここに居ろ。」
「いや、帰る。」
首を横に振って意思表明をする。
とっさにイトで弟の両腕を拘束した。
「ちょっ、何する気だよ?!」
「捕まると分かっているのに、わざわざ行かせると思うか?これは国王命令だ。お前はここに居ろ。」
「だから、無理だってば。」
騒ぐ弟を潰さないよう、優しく抱き込む。
「ここに居てくれ、ロシィ。」
「…なんで。別に俺じゃなくても」
「俺が何のために必死になって、あの雪の中を抱えて走ったと思っているんだ。」
腕に力が入り、いてて、と弟が零す。
「罪悪感?」
「馬鹿、そんなんじゃねぇよ。」
「王様なんだろ?なら他に色々いるだろ?なんでよりによって俺なんだよ。忘れたのか?俺スパイだぜ?お前の事裏切ってたんだぜ??」
思いっきり抱き寄せて、痛いと叫ぶ声を無視して話す。
「お前じゃなきゃダメなんだ。俺はお前がいい。お前じゃなきゃ…ロシナンテじゃなきゃ嫌なんだ。
だから、さよならなんて言うな。」
「,,,ドフィ。」
イトで縛られた手首を上にあげて、俺の首に腕を回した。
「分かったよ。その代わり、ちゃんと守ってくれよ?」
その時見せた弟の笑顔は、今までで見た中で一番眩しかった。
―終―
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