夏空蜃気楼


「なぁ、武藤。ここって一体何なんだ? この救急箱もそうだが、あそこの棚に置いてあるのも薬だろ? 保健室顔負けだぜ」
一つだけ設けられた窓を開け、暑い部屋に風を通しながら二人はまったりと話し込む。
狭い室内には椅子など無く、変わらず床に腰を下ろしたままだ。遊戯は《遊戯》の隣に移動し、同じように壁に背を預けながら答える。
「入学して間もない頃、ここで先生の誰かが扉の鍵を閉めてるのを見たんだ。その後、鍵を落とした事に気がつかないまま去ってっちゃって…。ボク、それを拾って慌てて追いかけたんだけど追い付けなくてさ。入学したばっかりだったからどの先生かも分からなくなっちゃって、それからずっと返しそびれてるんだ」
開いた掌の中の鍵を見つめて、遊戯は続けた。
「…自慢じゃないけど、ボクもよく上級生に絡まれるんだよね。たまに運が悪いと怪我しちゃったりして…。見付からないようにってここに逃げ込んでる内に、ゆっくり手当も出来るから薬も自然と増えちゃったんだ」
"だから、ここはボクの秘密基地"と笑いかけた遊戯に対し、《遊戯》は険しい表情を見せる。
「怪我したり…って、"させられてる"んじゃないのか?」
よく見れば、夏服から覗く遊戯の肌には薄い痣や小さな傷が見受けられた。《遊戯》は思わずその腕に手を伸ばしたが、
「あっ、ぜ…全部が全部ってワケじゃないよ! 逃げる途中で転んだりとか、そんなんで…」
ぱっ、と両手を振る事でそれを逃れた遊戯の腕をそれでも掴み、相手を射抜くような鋭い視線で遊戯を見つめた。
「全部じゃなくても、怪我させられたんだろ」
「う…ん」
真っ直ぐ自分を見つめてくる《遊戯》に嘘がつけずに小さく頷くと、相手は忌ま忌ましげに舌打ちをした。
「誰か分かるか?」
「え?」
「あんたを…お前をこんな目に遭わせた奴。三年か? それとも二年か?」
「ちょっ、聞いてどうするんだよ! 目が怖いよ!?」
「どうって、やられっぱなしでいいのかよ。名前が分からなくても顔さえ分かればオレが…」
「わーっ! 待って待って待って、何する気!? いいよ、別にボク気にしてないんだ! それに…」
"ボク、ケンカとか暴力キライだし…"と困ったように身を竦め、《遊戯》を見上げて言った。
「……そう、か」
「…うん」
「……」
何となく気まずい空気になったのは、《遊戯》が遊戯の腕を未だに掴んだままだった為だ。
「…すまない。その、今までこんな風に人と接した事がないんだ」
触れていた手をぎこちなく離すと、遊戯に向けていた身体を戻して再び壁へともたれ掛かる。
遊戯も膝を抱え込むような体勢になり、小さな声で呟いた。
「ボクも…だよ。どんな距離感で居たらいいのか分からなくて」
遊戯も《遊戯》も、学校では一人で居る事が多かった。それは自分の人柄や性格で築かれたものであり、今までもそうであったし、これからもそうなのだと思っていた。だから、急に出会ってしまった相手との距離に戸惑う。
「……」
遊戯はほんの少しだけ身体を移動させて、《遊戯》に近付いた。《遊戯》もそれに気付きながらもその場からは動かずに、ただ前を見つめる。
「近い…かな」
「さぁ…。いいんじゃないか? ……多分」
「多分?」
「…多分」
ぴったりと寄り添う事はないが、それに近い状態でぽつり、ぽつりと言葉を交わす。二人の間に流れた空気が何だか擽ったくて、遊戯が小さく笑って《遊戯》を見遣ると、ちょうど相手もこちらに顔を向けたようで目が合った。
「何かボク達、似てるのかもね」
「そうだな。名前も同じだしな」
「偶然かな」
「偶然だろ」
「変なの。髪型だって似てるし…これも偶然?」
「運命だとでも言って欲しいか?」
ニヤリと笑った《遊戯》に対し、遊戯も"別に~?"と笑ってみせる。彼がこういう表情をするのは、自分との会話を楽しんでいる時なのだと何となく分かってきたような気がした。
「…ねぇ。何でさっき、あんなに怒ってくれたの?」
「ん?」
遊戯が静かに切り出すと、相手の雰囲気も柔らかく変化する。ずっとこの部屋を使ってきたが、ここはこんなにも居心地のいい所だっただろうかとぼんやり考えながら遊戯は続けた。
「怪我させられたんだろ、って」
「あぁ、アレか。…何でなんだろうな。何となくムカついたんだ」
"嫌だったか?"と聞いてくる《遊戯》の目が、こちらの心の内を窺っているのが分かる。
「ううん。その人達に仕返ししちゃうんじゃないかと思ってどうしようって思ったけど…でも嬉しかったから。今言ってくれた事で、やっぱりボクの事心配して怒ってくれたんだって分かって、嬉しかったから」
"ありがとう"と遊戯が言うと、《遊戯》はふいっと顔を背けた。
「仕返ししてやっても良かったんだけどな」
「ダメー」
その後は一言も喋らずに、暑い室内に流れ込む風の涼しさとお互いの存在を感じながら、どちらともなく"帰ろうか"と言うまで、ずっと蝉の鳴き声を聞いていた。
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