夏空蜃気楼
夏休みを目前に控えて、校内には生徒達の期待に満ちた空気が漂っている。
今年この中学に入学してきた武藤《遊戯》もその喧騒の中に居る一人だったが、彼を囲んでいるのは馬鹿馬鹿しい話を振ってくる友人…ではなく、《遊戯》の存在が何となく気に入らない、という理由で絡んで来た上級生だった。
どこの部活にも所属していなかった《遊戯》が帰宅しようと教室を出た途端に絡まれた為、その場で応じたのではクラスメイトに迷惑がかかると思い、駆け出した。
渡り廊下を突っ切り、別棟へと向かう。ここで撒ければ良かったのだが、生憎、今日の相手は足と体力に自信があるらしい。最上階の四階まで上ってきても、しぶとく付いてきていた。
「…ハァ」
廊下の突き当たりで対峙した所で、心底面倒だと出てしまった溜め息は、彼等の逆鱗に触れてしまったようで。
自分に向かってくる拳をひらりと避け、たまに受け止めては、10分も経てば解放されるだろうと考えていた。
この棟にあるのは美術室、科学室といった特別教室ばかりで、《遊戯》が位置している場も音楽室がすぐ横にある。暫くすれば吹奏楽部や合唱部に所属する部員が来るだろうと踏んでいた。
流石に目の前に居る相手達も、人前でこんな事を続ける訳には行かないだろう。面倒ではあるが、それまで攻撃を躱してさえいれば、自分は解放される。
そう思っていた時、
「えっ…」
戸惑いに満ちた小さな声が耳を掠めた。
廊下の端と端。自分とは反対側の階段を上ってきたであろう相手の声が聞こえただなんて、本当は気のせいだったのかもしれない。しかし、遠目でも分かる程に狼狽えた様子の小柄な彼に気を取られた隙に、不覚にも攻撃を顔に一発もらってしまった。
「!!」
殴られた《遊戯》本人よりも慌てて、彼はこちらに駆け寄りそうな素振りを見せる。
何をしてるんだ…。知らない奴の喧嘩だろ、さっさと逃げろ。
遠目ではあるが、彼を見る限り、争い事が好きなタイプにはとても見えなかった。
人の事は言えないが、平均身長を下回る小柄な体躯はきっと目の前に居る上級生達の嗜虐心を煽るだろう。
誰か人が来たら解放される…そう思ってはいたが、彼一人では逆効果だ。巻き込んでしまうという事が容易に想像出来てしまい、《遊戯》は内心焦る。
幸い、彼の存在はまだ自分以外に気付かれてはいない。理不尽な暴力を受ける前に今から離れろ、と思っていた時、彼が階段の方へと駆け出したのが見えた。
やっと逃げたか。
…そうだ。それでいい。
未だ繰り出される拳を受け止め、さっと見を屈めた。そのまま足で蹴り上げようとした瞬間、
「先生ー!! 早く部室の鍵持ってきてー!!」
先程、小柄な生徒が姿を消した辺りから、目一杯に叫ぶ声が聞こえた。
「っ!!」
急に聞こえた"先生"という単語に、上級生達の動きがピタリと止まる。次に人の話し声や階段を上ってくる上履きの音が小さく聞こえてくるのが分かると、彼等は舌打ちをしながら走り去っていった。
「……」
少々呆気に取られていると、視界の端でひょこっと誰かが動いた。それは、さっきまで居たあの生徒で、パタパタと《遊戯》の所まで一直線に駆け寄ってくる。
「だ、大丈夫…?」
「え? あぁ…」
"大丈夫だ"と答えるつもりだったのだが、目が合った途端に相手は大きく目を見開いた。
「わっ、大変! 口から血が出てる…!!」
一回だけ殴られてしまった時に口の端を切ったのだろうか。言われるまで気付かなかったが、親指で口元を拭うと、少しではあるが確かに血が付いてきた。
「ちょっと来て!」
がしっ、と手を握られ、引かれるがままに少し歩く。彼は音楽室の二つ先にある、第二音楽準備室と呼ばれる扉の鍵を開けると、そのまま《遊戯》を招き入れた。
「…ここは?」
自分が今置かれている状況が飲み込めずに問いかけると、控えめな笑顔で返事がきた。
「ここはボクの秘密基地。ボク、武藤遊戯っていうんだ。始めまして、よろしくね」
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