アイリス 鹿猫
出発を明日に控えた夜、セブルスは母アイリーンのいる部屋をノックした。
アイリーンはドレッサーの前で、腰まである長いウェーブのかかった黒髪を梳いていた。
「セブルス…」
鏡の中のアイリーンと目が合った。
セブルスは口ごもり、うつむいた。
「あの…」
顔を上げた瞬間、アイリーンが目の前にいた。
セブルスは条件反射で一歩身を退いた。
アイリーンはいつも空気抵抗を感じさせないような恐ろしくすばやい動きをする。その動きがまるで、豹や肉食獣を思わせ、幼い頃から畏怖を感じていた。
「どうしたの?」
大きな翡翠色の瞳がセブルスを見上げている。
セブルスは息を吸い込んだ。
「いえ…明日…僕達は出発するんですが…その、挨拶というか…」
表情が硬くなる。
セブルスはずっと、どこか後ろめたい気持ちを抱えていた。そして思い切ったように漆黒の瞳を上げた。
「母さん…すいません…その、僕が嫁に行くなんて…。嫁をもらわずに…その…」
「セブルス、笑ってごらんなさい」
大きな瞳がぽっかり開いている。
「……え?」
セブルスは戸惑った。
いきなり笑えと言われて、笑えるものではない。
アイリーンは頭一つも高いセブルスの鼻の頭に、人差し指を突き付けた。
アイリーンの瞳がおかしな具合に真ん中に寄り、セブルスは自分も目を寄せたあと、その目を見て思わず笑った。
「その顔だわ」
アイリーンがにっこり笑った。
「あなたは気付いていないと思うけど、よく笑うようになったわ。ジェームズと出会ってからね。家に初めて来た時、ああ、この子がセブルスを変えたのねって思った。その笑顔、まさかこんなに可愛らしい笑顔が見られる日がくるなんて思ってもいなかったわ」
セブルスは赤面した。アイリーンがくすくす笑い、セブルスを抱擁した。
「幸せになりなさい。あなたが選んだ愛する人と…」
セブルスもアイリーンに抱擁を返した。
「…はい」
「寝る前にトビアスの元へも行ってちょうだい。喜ぶわ。それからセブルス…幸せは勝ち取るものよ」