34.5.梅干
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「⋯チッ、早く着いちまった」
ブツの受け渡しがあるから来いとラムからの指示があり
いつもの格好だと目立つと言われ、グレースの変装のまま指定された米花町の『いろは寿司』へやって来たが
予想より早く着いてしまい舌打ちをした
開店時間は16時からか⋯あと30分は時間があるな
ラムの指示をさっさと終わらせてパシフィックブイに戻って残ってる作業を終わらせてぇから
暇つぶしするにもあんま遠くには行けねぇな⋯
そう思い何かいい所はないかと顔を上げると
隣のビルの1階に喫茶店が見え
ちょうどいいとそっちへと歩みを進めた
『ポアロ』と大きくかかれたガラス越しに店内が見え
チラリと中を覗くと中にはカウンターで何かの作業をしている店員1人だけで
これはゆっくりできそうだと軽い足取りでその扉を開いた
扉を開けるとカランッとベルが鳴り
珈琲豆の良い匂いが鼻腔をくすぐり、思わず大きく息を吸い込むと
こっちに気づいた女の店員がカウンターでしていた作業を中断させると立ち上がった
「あ、いらっしゃいませ〜っ」
中へと歩みを進め、店員が座っていた席の隣の席に座る
その間に軽く店内を見渡し、中々良い雰囲気の店だな⋯
と心の中で感心してると
「こちらメニューです」
一度キッチンへ戻った店員が俺の隣に来てメニュー表を渡してきた
「ありがとう」
それを受け取りサッと目を通す
正直腹は空いてるが、軽食を食べる程時間はねぇな⋯
と、そこでドリンク覧の1番上にある
店長おすすめと書いてあるブレンドコーヒーが目に入った
⋯ま、珈琲で済ますのが無難か
そう思いメニュー表を閉じると
「オリジナルブレンドを」
そう言って店員にメニュー表を返した
「ミルクと砂糖はいかがいたしましょう?」
「いらないわ」
「かしこまりました、少々お待ちくださいね」
店員は人のいい笑顔を浮かべてそう言うとキッチンに戻り珈琲を入れる準備をし始めた
待っている間携帯でラムに少し早く到着した事を伝えるメッセージを打っていたら
ふと珈琲の良い匂いがしてきて、チラリとキッチンに立っている店員をバレない様に見る
見た目は⋯20代前半ぐらいか
大人しそうでどこか鈍臭そうな雰囲気とは裏腹に
珈琲を準備する手際は手慣れていて動きに無駄がなかった
そこでふと店員がさっきまで作業をしていたカウンター席のテーブルの端を見れば
手作りであろうアクセサリーの数々が乱雑に端に寄せられていた
この店員が作ったのか⋯ずいぶん器用だな
その時自分のテーブルの近くに集め損ねたのかピアスがひと組あるのに気づき
それに視線を寄越した所で
コトリ、と目の前に珈琲が置かれた
「お待たせ致しました、オリジナルブレンドです」
その良い匂いに釣られて携帯をカウンターに置き
カップを持ってコクリと1口飲めば、芳醇な香りと味が口に広がり
「⋯美味しいわね」
思わずそう呟いていた
するとその呟きを聞いた店員が目尻を下げ嬉しそうに笑った
「えへへ⋯ありがとうございます、ここのマスターこだわりのブレンドなんです」
⋯日本人は幼く見えると言うが
この店員は笑うと更に幼く見えるな⋯
まぁ、何にせよ
「そう⋯時間潰しに入ったけど正解だったわ」
本心からそう言えば店員は「ありがとうございます」
と言うとキッチンへと戻って行った
心地の良いBGMに
耳障りにならない程の店員の食器を片付ける微かな音
そのどれもが穏やかな雰囲気を醸し出していて
最近は特に組織とインターポールの仕事が忙しく、その両立に辟易していたが
この空間にいると心が休まるようだった
こいつは本当に正解だったな⋯と
上機嫌で珈琲を飲み携帯を取ろうとした所で
カランッと扉のベルが音を立てた
「いらっしゃいませ〜、あ、田中さんっ」
「桜ちゃんこんにちは〜」
入ってきたのはスーツを着た中年の男で
『田中』と呼ばれたその男は
「いつもの頼むよ」と言いながら自分から2つ飛ばしたカウンター席に座った
「こんな時間にいらっしゃるなんて珍しいですね?」
「実は仕事が早く片付いてね、今日は外回りだったんだけどそのまま帰っていいって言われてたからちょっと寄ってみたんだ」
「そうだったんですね、いつもお仕事お疲れ様です」
「本当疲れたよ〜でも桜ちゃんの可愛い顔が見れたからその疲れもふっとんだってもんだ!」
「ふふっ田中さんはお上手ですね〜
でもそうやっておだてても値引きはしませんからねっ?」
「いやいや!値引きしてほしくて言ってるんじゃないって!」
「はいはい、その手には乗りませんよ〜」
この男⋯明らかにこの店員目当てで来てやがるな
男は周りを気にせずにペラペラと店員に話しかけていて
その耳障りな声に思わず眉を寄せた
⋯せっかく良い雰囲気だったのに⋯台無しだな
思わず舌打ちしそうになり
今の自分は『グレース』だと、それを珈琲ごと胃に押し流した
店員はニコニコと男と話しながらも手を止める事はせず
かつ不快にならないよう上手く男の会話を躱していた
その手際の良さと器用さに少しだけ感心しながら
2人の会話を隣で静かに聞いていた時
「そうだ!そういえばこの間ミーチューバーが捕まってただろ?」
「あぁ⋯あの、人気ミーチューバーが暴行された事件ですか?」
「そうそう、その逮捕されたミーチューバーが実は上司の息子でさぁ
今会社はその事で大騒ぎしてんだ」
「それは⋯大変ですね⋯」
「何か話を聞いたら人気ミーチューバーに嫉妬して暴行したんだってさ
自分の登録者が増えないから羨ましかった、そいつを蹴落としたかった⋯とか
そんな事であんな事するなんてほんとくだらないよなぁ〜」
ピクリ、と珈琲を飲む手が止まると同時に
ムカつくあの野郎の顔が頭の中に浮かび
ギリっと歯を噛みしめた
ざけんな、何で今、あの野郎の顔がでてくる!!
俺は別にアイツに嫉妬なんかしちゃいねぇ!
俺はただ上で偉そうな顔をしているアイツが気に入らねぇだけだ!
それに蹴落としてやろうと思う事の何がいけねぇって言うんだ!
くだらない?
ふざけんな
俺は、ただっ⋯
カップを持つ手に力が入った瞬間
「そう、でしょうか⋯」
今までニコニコと話を聞いていた店員が
目を伏せてそう呟いた
「⋯桜ちゃん?」
「確かに⋯誰かを傷つけたりするのはいけないことだと思います
でも⋯
誰かを⋯人を羨むのは⋯妬んでしまうのは⋯
悪いことではないと、思うんです」
意外だった
今までの店員の雰囲気ならニコニコと相手に合わせて肯定するかと思ったが
そう言う女の店員の目は⋯
確かに『意思』を持っていた
「⋯私は⋯だから⋯」
その時
ピリリリっ
と男の携帯が鳴り
男は一言断りを入れて電話に出ると
「えぇ!?わ、分かりました!!すぐに行きます!!」
そう言って通話を切ると慌てて残っていた珈琲をぐいっと飲み干した
「どうかされたんですか?」
「ちょっと会社でトラブルがあって直ぐに行かないと行けなくなってね
お会計頼むよ桜ちゃん」
「た、大変ですね」
男は「またゆっくりできる時に来るよ」
と言い慌ててお店を出ていった
その男のカップを片付けようと女の店員がカウンター席に来た時
「⋯少し聞いてもいいかしら」
気づいたら、口を開いていた
「え?」
店員が驚いた顔をしてカップを持とうとしていた手を止めて
俺を見た
「さっき⋯何でああ言ったの?」
「さっきって⋯」
「一般的に人を羨むとか妬むとか良くは思われないじゃない
だから何故貴方は肯定するような事を言ったのか⋯
少し気になって」
そう言うと店員は少し考えるような仕草をしたあと
「そうですね⋯
だって人間なんだから
そんな気持ち、誰だって持ってると思いませんか?」
ケロッとした様子でそう言った
まぁ⋯確かに、それはそうかもしれないが⋯
と何も言わずに見つめると
店員は目を細めて微笑んだ
「だから私はそれが悪いことだとは思わなくて⋯
大事なのはそこで感情を不に向けるんじゃなくて
前に向ける事だと思うんです」
不に向けるではなく、前に向ける⋯ねぇ⋯
この女の言葉は綺麗事だ
羨みや嫉妬、そういう感情自体そもそもが『不』であるんだ
だからその感情に既に囚われている奴が
前を向くなんぞ⋯
不可能に等しい
この女はきっと、今までお綺麗な世界しか見てねぇんだろうな
ふとその『綺麗事』の言葉を壊してみたくなり
フッと笑って店員を見た
「じゃあ⋯もし感情を不に向けて⋯
人を傷つけた人が居たとして貴方は許せるの?
そういう『悪人』が貴方の大切な人を傷つけてしまったら⋯
殺してしまったら?
それでも許せると?」
さぁ⋯
「殺してしまいたいって⋯
思わない?」
その『綺麗な仮面』を剥がしてみせろ
俺の言葉を聞いた店員は黙って持っていたトレーをカウンターに置いて
俺と向き合った
「そうですね⋯
私は、許せない」
ほら、
やっぱりな
人間は結局『不の感情』には逆らえな⋯
「だから
罪を償ってもらいます」
凛とした声に女の目を見れば
さっき見た⋯『意思』を持った瞳と
目が合った
「実は私⋯以前通り魔に刺された事があって⋯
今でもその犯人を、私は許せない⋯
だから⋯だからこそ
生きて⋯きちんと罪をつぐなってもらう」
「⋯仕返しをしたいって⋯殺してしまいたいって思わないの?」
「仕返しをしてもきっと⋯その後に残るのは虚無しかないって⋯分かるから⋯
それに、私わがままで欲張りだから
簡単に死なせてなんてあげません
何よりも⋯どんな人間だって
失っていい命はひとつもないって思ってるから⋯」
驚いた
この女は本当に⋯さっきの言葉を『綺麗事』だと思っちゃいねぇ
不の感情を受け入れて
それでも尚、前を向こうとしている
「どんな人間でも⋯」
ポツリとそう呟くと
女の店員は目を細めてにっこりと笑った
「はいっ⋯どんな人間でも、です」
汚い事ばかりして、汚れた世界を見ている俺には
その笑顔が眩しくて
つい、視線をそらしてしまった
こんな人間が⋯いるなんてな⋯
さっきまで感じていた心地良さは全く無くなり
代わりに居心地が悪くなり、それを誤魔化すようにポツリと呟いた
「⋯ちなみに、さっきあの男の人に何て言おうとしてたの?」
「え?」
「私は、だから⋯って言ってたけれど⋯」
「あぁ⋯
人間誰だって、人を羨む気持ちはあると思うんです
自分の⋯素敵な所には気づけずに⋯
だから⋯私は⋯
⋯もしその人が羨みや妬みに囚われているなら
あなたの背中にも⋯
立派な梅干しがついてるんだよって教えてあげたいです」
「⋯ウメボシ?」
馴染みのない単語に思わずカタコトになってしまった
ウメボシ⋯梅干しってあの酸っぱいやつだよな?
何で梅干し?
と不思議に思い顔を上げれば
優しい目をしている女と目が合った
「これはとある人の言葉なんですけど⋯
例えば人の『素敵』というものがオニギリの梅干しのようなものだとしたら
その梅干しは背中についているのかもしれない⋯って
世界中、誰の背中にも⋯
色々な形、色々な色や味の梅干しがついていて⋯
でも背中についているせいで⋯
せっかくの梅干しがみえないんです
誰かを『羨ましい』と思うのは⋯
他人(ひと)の梅干し(せなか)ならよく見えるからなのかもしれない⋯って
誰だって、形は違うけれど『素敵』を持ってる
だから誰かを羨んだり妬んだりしている人に⋯
私は貴方も『梅干し』を持ってるんだよって
伝えてあげたいです」
その時⋯直美に言われた事を思い出した
『グレース!昨日はありがとう』
『⋯昨日?』
『体調が悪くて早上がりした後、グレースが残ってた私の作業終わらせてくれたんでしょ?』
『⋯あぁ、ちょうど私の作業が早く片付いたから』
『結構残ってた筈なのに全部片付いちゃってるんだもの⋯びっくりしたわ
さすがグレースね』
『そんな事ないわよ
それに直美はいつも頑張ってるから少しは休まないと』
『グレース⋯本当にありがとう
優しくて気が利いて仕事もできて美人⋯本当グレースって凄いわ』
『⋯ふふ、その言葉、そっくり直美に返すわよ』
仕事を手伝ったワケ?そんなのその方が効率が良いからだ
グレースという人物は
人当たりが良く気が利いて仕事もできる
という設定の中身は空っぽの人物だ
潜入のためにつくりあげた架空の人物
だから『グレース』が認められたからといって
『俺』が認められた訳じゃねぇ
それに『俺』の事を知れば皆俺を断絶するだろう
だが⋯この女は
それでも、俺を⋯
俺を、みてくれるだろうか
バカバカしい考えが頭をよぎり
自嘲するように笑った
「それは⋯綺麗事ね、」
「確かに⋯そうですね⋯」
「でも⋯嫌いじゃないわ」
本心だった
この女の考えは甘っちょろいモンだ
だがそれが⋯何故か嫌いだとは思えなかった
「さて⋯そろそろ行かないと」
もう少しだけこの女と話していたかったが
携帯の表示は16時になっていた為
遅くなる訳にはいかないと立ち上がった時
さっきから見えていたピアスがキラリと光り
さも今気づきましたといった感じにそれを手に取った
「ピアス⋯?」
「あっ!すみませんっ!片付けたつもりが残ってたんですね⋯へ?」
それに気づいた店員が俺の手からピアスを取ろうと手を伸ばしてきたが
ひょいっと手を上に上げてピアスを取られないようにしてそれをまじまじと見た
「これってもしかして貴方の手作り?」
「は、はい⋯上手くないんですけどここで販売してて⋯」
誰かに渡す物ではなくて
販売してるのか⋯だとしたら
「へぇ⋯これも売り物?」
「そうなんですけどまだラッピングしてなくて⋯あっ」
店員の言葉もそこそこに今つけていたピアスを外して
店員が作ったピアスを両耳に着けた
「これ買わせてもらうわ」
そう言って髪を少しかきあげてみせれば
店員はポカンとした後、パッと顔を明るくさせた
「あ、ありがとうございますっ」
その微笑みを見た瞬間
胸の奥で何かが音を立てた気がしたが
「⋯一緒に会計して頂戴」
それに気づいてはいけない気がして
サッとレジに向かった
そして会計をした後店員がお釣りを返そうとした時
小さな手が触れて
思わずその手を握っていた
「⋯ねぇ、名前を聞いてもいいかしら」
「へ?えと⋯八月一日桜です」
「桜ね、ありがとう⋯いい暇つぶしになったわ」
そう言って店員の手をするりと撫でた後
何やってんだ、俺は
と我に返り
パッと手を離し踵を返して扉に手をかけたその時
「⋯あのっ!貴方の名前も教えて頂けませんか?」
ピタリと動きが止まる
⋯あまり『グレース』の存在を外に出しては後々めんどくさい事になる
だが、こいつに名前を呼ばれるのなら
それも良いかもしれない
たとえそれが⋯
偽りの名前でも
「私は⋯グレースよ」
顔を向けて微笑みながらそう言えば
「グレースさん⋯良かったらまたいらしてくださいねっ」
店員⋯桜は嬉しそうに笑った
「そうね⋯機会があればまた来るわ」
『梅干』
「グレース!おかえりなさいっ
休暇は満喫できた?」
「えぇ⋯⋯ねぇ、直美」
「どうしたの?」
「ここの食堂におにぎりってあったかしら?」
「おにぎり⋯?あったと⋯思うけど⋯それがどうしたの?」
「⋯その具って梅干し?」
「グレース?本当にどうしたの?」