❄️
江雪が近侍になって3ヶ月目のある日のことだった。
第一部隊、重傷で帰還。
審神者会議で一度本丸を離れていた審神者と江雪左文字を含めた第二部隊が道を戻り、戦場へ。
苦しい状況下で勝利を収めたが、彼ら含め、審神者も怪我を負ったのだった。
・・・・・・・・・・
その晩、手入れ部屋近くの縁側で、ただ1人中傷状態だった江雪が、座り込んでいた。
ふと、廊下を誰かが床板を踏む音が聞こえた。「…江雪さん」
俯いていた江雪はゆっくり顔を上げる。そこには、怪我の手当が終わったと見える審神者がいた。ブラウスには血を洗い流したようなシミが付いているのが、夜闇でもはっきりと見えた。
脚を痛めたのだろう。不規則な床板の軋む音が近づいてくる。
江雪の髪は乱れ、ボロボロの戦闘服、頬には誰のものかわからない血がついている。審神者が口を開きかけたが、聞かれるまでもなく、江雪は審神者に言う。
「……私は、大丈夫ですよ。あなたこそ、お怪我を」
審神者は、自らの怪我の浅さを恥じるように、江雪から目線を外した。
「私は、皆さんが守ってくれたおかげで……」
審神者は続ける。
「こんな、審神者で」
江雪は、ギュッと、口元をきつく結んだ。
彼女は、たどたどしい足取りで江雪に歩み寄る。そしてそっと隣に座ると、「失礼します」と江雪の頬についた返り血を、スラックスのポケットから出したハンカチで、そっと拭おうとした。その、審神者の温もりが移ったハンカチが頬に触れると、江雪は少し眉間に皺を寄せる。優しくされることを拒むように、顔をやや背けた。
「手入れ部屋が空くまで私は待てます。ですから、今は……1人にさせてください」
審神者はハッとしてハンカチを引っ込ませる。
「……すみませんでした」
江雪も、心の奥の無念を絞り出すように、ポツポツと話す。
「……なぜ、あなたが謝るのですか。これは前線で、私が皆を守れなかったがゆえの結果です」
「違います」
審神者はそれを聞いて、震える唇で答えた。しかしその声は断固として譲らないだった。
「……何が、違うのですか」
江雪は苦い顔をして、審神者の方を向く。
想像していたよりも重く、温度の低い声。その残響に当てられ、ハッと我に返ったかのように江雪は俯く。
審神者は自分の表情がうまく動かなくなるのを感じたが、冷えた沈黙を割るように、一つ一つ、区切るように、言った。
「……私がいる限り、皆を、戦に出向かせてしまう。だから全ては、私が背負うべきです」
いつかの真昼の縁側で、歪む唇を笑みに変えた彼女を、江雪は思い出した。
彼はぐっと奥歯を噛み締める。渦のように溢れかえる言葉、それを繋いで、出来うる限りの棘を取り除いたつもりで、こう言った。
「……貴方は、全てを背負おうとされる。ですが、それはある種の、傲慢ではありませんか」
審神者は、目を見開く。
江雪はその時自覚した。これがそうなのか、と。
お茶を濁すように笑みを貼り付ける手を退けて、冷水を浴びせる。
それが、彼女の言う"逃げ道を閉じてくれる感覚"なのか。
沈黙の中、審神者の喉が、鳴った。
もう、逃げられないのだ。どのみち。
「江雪さん」
審神者は、隣に座る彼の名を呼ぶ。
「あの日から考えていました。ここに居るのは私が選んだこと。それなのに、逃げ道を閉じてくれるから、と」
「……」
「あなたを壁に例えるような言い方をしてしまった」
暗い庭を見る彼女の目には、今にも溢れそうな涙の膜が厚く張っていた。
「……でも、実際はどうですか。どこに壁があろうも無かろうとも、ここに居る。それがもう、答えなんじゃないかって」
江雪は胸の中に、鉄の塊がずしりと沈む感覚がした。錨のように、何か重たいものが。
「……逃げ道、と仰いましたね」
「はい」
「私は貴方の道を絶っているつもりはありません」
「……はい」
審神者は震える声で返事をした。
「ですが、それで貴方が己の足で立てるのであれば……」
江雪は息を一つ吐く。
「私は」
彼は、
「……私は、近侍として、貴方の側にいましょう」
審神者は初めて、江雪の目の前で涙を流した。大粒の涙が、ぽつぽつと落ちていく。
「……本当に、すみません」
審神者は呼吸を正そうとして、失敗して嗚咽が盛れた。彼女は手で握りしめていたハンカチを目に当てて、閉じた膝に顔を埋めるようにして、泣いた。
3月の庭。まだ季節であったが、江雪は、不思議と寒さを感じなかった。
手入れ部屋から、かすかにだが痛みを耐えるような刀剣男士のうめきが聞こえる。
江雪はそれを聞きながら、隣でうずくまる審神者に手を伸ばせなかった。
庭の日陰に居残っている雪の上で、落ちて崩れた寒椿。
その花弁を、じっと、見つめていた。
・・・・・・・・・・・
早朝。
手入れ部屋に1番時間がかかった第一部隊隊長の同田貫は、緑側に座る江雪と、袈裟に包まれて眠る審神者の背中を見かけた。
外は随分と冷えている。
江雪の手に握られた湿ったハンカチ。染み込んでくる涙は、滑らかで生暖かった。それは彼の指先の傷口に滲みた。血とは違う温度が、江雪の手にずっとこびりついていた。
同田貫は迷ったものの、少し気を遣うように、至って平常を装うように声をかけた。
「……随分待たせちまったな。あんた、手入れまだだったろ?」
ゆっくりと振り向く江雪。長い髪に包まれた彼の顔は、いつもより青白くなっていた。しかし、その目のずっと奥の方には、何か強い力が光っていた。
「はい。……ですが」
目線を落とす江雪。そこには、膝の上で寝息を立てる審神者。その寝顔には涙の跡と目の下のクマ。疲れが滲み出ていた。
「主は俺が部屋に運んでおくから、行ってこい。あんた、もう血ィ乾ききってんじゃねえか」
「……ありがとうございます。主を、お願いします」
「ああ。ゆっくり休んでな」
起きる気配のない審神者に苦笑しながら、袈裟を剥がす。だが審神者は目を覚さない。
「……はは、俺よりぐったりしてどうすんだ」
審神者を見て、呆れたように笑う彼。躊躇うことなく彼女を米俵のように持ち上げたのを見て、江雪は少し驚きつつも小さく礼をする。
同田貫は、逞しい。刀としても、人の体を与えられた身としても。優劣などないが、迷いのない彼の在り方が少し羨ましくもあった。
自分が近侍になる前、同田貫がその役目を務めていたと聞いた。江雪が顕現した後、出陣したがりの彼が第一部隊隊長に任命されたのだった。
戦好きの彼は、審神者の、どんな顔を見ていたのだろう。どんな言葉を聞いたのだろう。
……彼に聞けば、何かわかるのだろうか。
江雪がそんな思案を巡らせていると、同田貫が何かを思い出したように少し振り向いて、こう言った。
「江雪」
「なんでしょうか」
「応戦、ありがとな。お前がいなきゃ、俺らはもうダメだったかもしれねぇからさ」
そう言い残すと、彼は執務室の方角に、歩いて行った。
同田貫の腰に据えてある刀。鍔は黄金の満ちた月のように丸い。朝の光はその縁をなぞるように照らしていたのが目に焼き付いて離れない。
昨晩、手入れ部屋から聞こえたうめきはきっと、あの気丈な彼の声だったのだろう……江雪はその背を見送ると、くしゃりと顔を歪ませた。
何か、溢れてしまいそうになったその感情から逃げるように、手入部屋に入った。
第一部隊、重傷で帰還。
審神者会議で一度本丸を離れていた審神者と江雪左文字を含めた第二部隊が道を戻り、戦場へ。
苦しい状況下で勝利を収めたが、彼ら含め、審神者も怪我を負ったのだった。
・・・・・・・・・・
その晩、手入れ部屋近くの縁側で、ただ1人中傷状態だった江雪が、座り込んでいた。
ふと、廊下を誰かが床板を踏む音が聞こえた。「…江雪さん」
俯いていた江雪はゆっくり顔を上げる。そこには、怪我の手当が終わったと見える審神者がいた。ブラウスには血を洗い流したようなシミが付いているのが、夜闇でもはっきりと見えた。
脚を痛めたのだろう。不規則な床板の軋む音が近づいてくる。
江雪の髪は乱れ、ボロボロの戦闘服、頬には誰のものかわからない血がついている。審神者が口を開きかけたが、聞かれるまでもなく、江雪は審神者に言う。
「……私は、大丈夫ですよ。あなたこそ、お怪我を」
審神者は、自らの怪我の浅さを恥じるように、江雪から目線を外した。
「私は、皆さんが守ってくれたおかげで……」
審神者は続ける。
「こんな、審神者で」
江雪は、ギュッと、口元をきつく結んだ。
彼女は、たどたどしい足取りで江雪に歩み寄る。そしてそっと隣に座ると、「失礼します」と江雪の頬についた返り血を、スラックスのポケットから出したハンカチで、そっと拭おうとした。その、審神者の温もりが移ったハンカチが頬に触れると、江雪は少し眉間に皺を寄せる。優しくされることを拒むように、顔をやや背けた。
「手入れ部屋が空くまで私は待てます。ですから、今は……1人にさせてください」
審神者はハッとしてハンカチを引っ込ませる。
「……すみませんでした」
江雪も、心の奥の無念を絞り出すように、ポツポツと話す。
「……なぜ、あなたが謝るのですか。これは前線で、私が皆を守れなかったがゆえの結果です」
「違います」
審神者はそれを聞いて、震える唇で答えた。しかしその声は断固として譲らないだった。
「……何が、違うのですか」
江雪は苦い顔をして、審神者の方を向く。
想像していたよりも重く、温度の低い声。その残響に当てられ、ハッと我に返ったかのように江雪は俯く。
審神者は自分の表情がうまく動かなくなるのを感じたが、冷えた沈黙を割るように、一つ一つ、区切るように、言った。
「……私がいる限り、皆を、戦に出向かせてしまう。だから全ては、私が背負うべきです」
いつかの真昼の縁側で、歪む唇を笑みに変えた彼女を、江雪は思い出した。
彼はぐっと奥歯を噛み締める。渦のように溢れかえる言葉、それを繋いで、出来うる限りの棘を取り除いたつもりで、こう言った。
「……貴方は、全てを背負おうとされる。ですが、それはある種の、傲慢ではありませんか」
審神者は、目を見開く。
江雪はその時自覚した。これがそうなのか、と。
お茶を濁すように笑みを貼り付ける手を退けて、冷水を浴びせる。
それが、彼女の言う"逃げ道を閉じてくれる感覚"なのか。
沈黙の中、審神者の喉が、鳴った。
もう、逃げられないのだ。どのみち。
「江雪さん」
審神者は、隣に座る彼の名を呼ぶ。
「あの日から考えていました。ここに居るのは私が選んだこと。それなのに、逃げ道を閉じてくれるから、と」
「……」
「あなたを壁に例えるような言い方をしてしまった」
暗い庭を見る彼女の目には、今にも溢れそうな涙の膜が厚く張っていた。
「……でも、実際はどうですか。どこに壁があろうも無かろうとも、ここに居る。それがもう、答えなんじゃないかって」
江雪は胸の中に、鉄の塊がずしりと沈む感覚がした。錨のように、何か重たいものが。
「……逃げ道、と仰いましたね」
「はい」
「私は貴方の道を絶っているつもりはありません」
「……はい」
審神者は震える声で返事をした。
「ですが、それで貴方が己の足で立てるのであれば……」
江雪は息を一つ吐く。
「私は」
彼は、
「……私は、近侍として、貴方の側にいましょう」
審神者は初めて、江雪の目の前で涙を流した。大粒の涙が、ぽつぽつと落ちていく。
「……本当に、すみません」
審神者は呼吸を正そうとして、失敗して嗚咽が盛れた。彼女は手で握りしめていたハンカチを目に当てて、閉じた膝に顔を埋めるようにして、泣いた。
3月の庭。まだ季節であったが、江雪は、不思議と寒さを感じなかった。
手入れ部屋から、かすかにだが痛みを耐えるような刀剣男士のうめきが聞こえる。
江雪はそれを聞きながら、隣でうずくまる審神者に手を伸ばせなかった。
庭の日陰に居残っている雪の上で、落ちて崩れた寒椿。
その花弁を、じっと、見つめていた。
・・・・・・・・・・・
早朝。
手入れ部屋に1番時間がかかった第一部隊隊長の同田貫は、緑側に座る江雪と、袈裟に包まれて眠る審神者の背中を見かけた。
外は随分と冷えている。
江雪の手に握られた湿ったハンカチ。染み込んでくる涙は、滑らかで生暖かった。それは彼の指先の傷口に滲みた。血とは違う温度が、江雪の手にずっとこびりついていた。
同田貫は迷ったものの、少し気を遣うように、至って平常を装うように声をかけた。
「……随分待たせちまったな。あんた、手入れまだだったろ?」
ゆっくりと振り向く江雪。長い髪に包まれた彼の顔は、いつもより青白くなっていた。しかし、その目のずっと奥の方には、何か強い力が光っていた。
「はい。……ですが」
目線を落とす江雪。そこには、膝の上で寝息を立てる審神者。その寝顔には涙の跡と目の下のクマ。疲れが滲み出ていた。
「主は俺が部屋に運んでおくから、行ってこい。あんた、もう血ィ乾ききってんじゃねえか」
「……ありがとうございます。主を、お願いします」
「ああ。ゆっくり休んでな」
起きる気配のない審神者に苦笑しながら、袈裟を剥がす。だが審神者は目を覚さない。
「……はは、俺よりぐったりしてどうすんだ」
審神者を見て、呆れたように笑う彼。躊躇うことなく彼女を米俵のように持ち上げたのを見て、江雪は少し驚きつつも小さく礼をする。
同田貫は、逞しい。刀としても、人の体を与えられた身としても。優劣などないが、迷いのない彼の在り方が少し羨ましくもあった。
自分が近侍になる前、同田貫がその役目を務めていたと聞いた。江雪が顕現した後、出陣したがりの彼が第一部隊隊長に任命されたのだった。
戦好きの彼は、審神者の、どんな顔を見ていたのだろう。どんな言葉を聞いたのだろう。
……彼に聞けば、何かわかるのだろうか。
江雪がそんな思案を巡らせていると、同田貫が何かを思い出したように少し振り向いて、こう言った。
「江雪」
「なんでしょうか」
「応戦、ありがとな。お前がいなきゃ、俺らはもうダメだったかもしれねぇからさ」
そう言い残すと、彼は執務室の方角に、歩いて行った。
同田貫の腰に据えてある刀。鍔は黄金の満ちた月のように丸い。朝の光はその縁をなぞるように照らしていたのが目に焼き付いて離れない。
昨晩、手入れ部屋から聞こえたうめきはきっと、あの気丈な彼の声だったのだろう……江雪はその背を見送ると、くしゃりと顔を歪ませた。
何か、溢れてしまいそうになったその感情から逃げるように、手入部屋に入った。
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