❄️
雪雲ひとつない朝だった。
庭の小さなかまくらが陽を反射して眩しい。小春日和と呼ぶにふさわしい朝だが、江雪左文字の心の中は吹雪だった。
足が重い。体が重い。この怠さは、顕現したてでまだこの体に慣れていないという理由だけではなさそうだった。
江雪左文字が近侍に任命されて二ヶ月。
任命された時、顔には出さなかったものの、ひどく衝撃を受け、そして、正直なところ不服だった。
なぜ私が、と。
審神者。刀剣男士達を統べ、戦に駆り出す者。
戦のことでなければ快く手伝う気はあったが、近侍という役割も、間接的に戦の手伝いをしていることに変わりはない。主の命令は絶対だ。出陣であろうが万屋の同伴であろうが付き従う……それが武器としての本懐、なのか?彼はどうしても飲み込み切れなかった。
どんよりとした気持ちで、いつものように審神者のいる執務室に向かう。ノックをしようと、襖にそっと手の甲を伸ばしかける。
戸の向こう側で、声を押し殺し、啜り泣くような声。江雪は、体が固まってしまった。
襖の隙間。審神者が部屋の真ん中で蹲っていた。その足元には、書類の束や日誌などが落ちている。
なぜ、貴方が泣いている?
江雪は、胸の奥に迫り上がる靄を抑えるように、その場から咄嗟に退いた。
見たくないものを目の当たりにしてしまった、戸惑いだった。
・・・・・・・・・・
暦の上ではもうすぐ春だが、まだまだ雪は積もっている。誰が作ったのかわからない雪だるまが、溶けかけてもなおニコニコとしている。
縁側に、綿入り半纏と袈裟。二つの背中が並ぶ。
雪の中でも咲く花がある。審神者は庭先の紅色の花を見つめながら、白い息とともに独り言を吐いた。
「椿、綺麗ですね」
江雪は「ええ」とだけ答える。その手には、茶筒。盆の上には、急須と二つの湯呑みが載っている。
彼は近頃、審神者に対して茶を淹れることが増えた。断じて罪滅ぼしのつもりではない。だが、先日のことがずっとどこかで引っ掛かっていたのだ。
彼女は温かい茶の入った湯呑みを受け取ると、ありがとうございます、と微笑む。それがまた、胸中のあかぎれを抉るのだった。
審神者も審神者で、昼休みになるとこうして江雪をご飯に誘うことが増えた。
まだ肌寒い季節だったが、今日は羽織さえあれば縁側でも食事ができるくらい良い天気だった。雪に昼間の太陽が当たると、あたりは白い光に包まれる。眩しさに目を細める。
長い冬。貴重な太陽の光を目一杯に浴びると、少しだけだが心が安らぐような気がした。
審神者と江雪は庭先の景色を見つめながら、「いただきます」とおにぎりを一つずつ手に取った。
「江雪さんの元主はお坊さんでしたっけ」
「……ええ。その通りです」
「最近仏教に興味があって、ちょっと気になってて」
「……そうですか」
あえて、当たり障りのない返事をする。江雪は決して心を開いたわけではない。正直なところ、彼女との間に壁を作りたかった。それがないと、なにか、境界線が溶けてしまいそうな、そんな恐ろしい予感がしたのだ。だから、あの日も襖を開けられなかった。開けてしまったが最後、涙を触媒に黒い渦に呑まれそうな気がしたのだった。
審神者は、江雪のひんやりとした返答と大きく進展しない会話に対して何も感じ入らない様子で、少し冷めたおにぎりをまた一口食べる。
無言。澄んだ空気だけが満ちる庭。屋根の雪がピシピシと鳴きながら溶けて、ドスンと落ちる。柱が少し揺れる。
審神者が「うわ、びっくりした」と小さく言う。
風はない。ただ、燦々と降り注ぐ太陽が、異様に視界を真っ白に照らしている。静けさも相まって、江雪には、まるでここが現世から切り離されてしまっているような気すらした。
静寂のなか、ぽつりと審神者が呟くように言った。
「……いつも、江雪さんにはお世話になってます。ありがとうございます。私、頼りないですから」
江雪は審神者を見る。彼女は少し俯いていて、目線は手に持った食べかけのおにぎりに向いている。
ゆっくりと目を逸らす。何を言えばいいのか。この人はどんな返答を期待しているのか。何もわからない。
「……そうですか。お役に立てているのなら」
どうにかして選び取ったのは、無味無臭な言葉。
「本当に……顕現してすぐ近侍を頼んでしまったのに」
『近侍』。
その単語が出てきた時、江雪は目の前が急に吹雪に変わるような気がした。
ずっと腹の底で燻っていた疑問という名の悩みの種が、言葉として芽吹いた。気づいた時には、口から出ていた。
「……なぜ、私を近侍に選んだのですか?」
審神者が顔を上げる。江雪は自分が今どんな顔をしているかわからなかった。少なくとも、穏やかではない。だがもう、この瞬間は何も取り繕えなかった。
審神者が一度目線を泳がせたのを、江雪は見逃さなかった。確かに今、その目には迷い悩む者の色が浮かんだのだ。
小春日和の静けさが、しばし二人を包む。何も聞こえない。審神者の喉が鳴る。彼女は乾いた唇をこじ開けるように、答えた。
「……逃げ道を、閉じてくれるからです」
「……え」
江雪は、指先からどんどんと力が失われていくような感覚に襲われる。両手に持った湯呑みを傾けそうになった。
江雪の気持ちが片付かないままに、審神者はぽつぽつと言葉を続ける。彼女の声は、蓋をしていた箱から一つ一つ取り出される石のように並べられていく。
「私、自分が審神者に向いているのかわからないんです。弱いし、争うのも得意じゃないです。私ひとりで太刀打ちなんかできませんよ……すぐ潰されてしまう」
審神者の言葉は途切れ途切れで、散らばっていた。自嘲気味ですらあるが、迷いがない。江雪は黙って彼女の言葉に聞き入るしかできなかった。
「でも、この仕事は、無責任には辞められない。私が選んだことです。それに、この本丸を見捨てることの方が……」
江雪は眉間に皺を寄せる。長い前髪に隠れてその苦悩の皺は審神者には見えなかった。
体に重たい雪が降り積もり、小さな小さな穴を掘り、やっと空気が通る場所を見つけたような気持ちで、江雪は声を絞り出した。
「……私は、貴方の道を閉じているつもりはありません。逃げたければ、いつでもお逃げになってください」
カラカラに乾いた喉から発せられた言葉は正直で、そして、鋭く響いた。
審神者は、彼から目を逸さなかった。
江雪は、自分に嘘を吐かずに済んでホッとした気持ちと、心のひび割れた部分を自分で抉った気がした。
彼女を虐めるつもりもない。仲違いするつもりも、泣かせるつもりもない。ただ……。
彼の揺らぎも知らず、審神者は、微笑んだ。僅かに震えていた唇は、笑みを浮かべる。
「勿論です。やれるところまで、私は」
小さいが、弱くはない張りのある声。
江雪は、返事ができなかった。部屋の真ん中で丸まって泣いていた審神者の姿を思い出す。善悪の秤から転がっていくような存在。時は違えども同じ国に生まれながら、戦を経験したことのない彼女は、わざわざこの戦に名乗りをあげた。江雪は訳がわからない、と思っていたが、もしかしたらわかりすぎていたのかもしれない。
遠くで、また屋根から雪が落ちる。審神者はもう驚かなかった。
「……お茶、温かいの持ってきますね」
彼女はお盆を持って、パタパタと厨の方に向かう。縁側に取り残された食べかけのおにぎりと沢庵。
江雪は、冷めきったお茶を、くっと一息で飲み干す。
いつもと同じ玉露。なのに、どうしてか、渋い味がした。
庭の小さなかまくらが陽を反射して眩しい。小春日和と呼ぶにふさわしい朝だが、江雪左文字の心の中は吹雪だった。
足が重い。体が重い。この怠さは、顕現したてでまだこの体に慣れていないという理由だけではなさそうだった。
江雪左文字が近侍に任命されて二ヶ月。
任命された時、顔には出さなかったものの、ひどく衝撃を受け、そして、正直なところ不服だった。
なぜ私が、と。
審神者。刀剣男士達を統べ、戦に駆り出す者。
戦のことでなければ快く手伝う気はあったが、近侍という役割も、間接的に戦の手伝いをしていることに変わりはない。主の命令は絶対だ。出陣であろうが万屋の同伴であろうが付き従う……それが武器としての本懐、なのか?彼はどうしても飲み込み切れなかった。
どんよりとした気持ちで、いつものように審神者のいる執務室に向かう。ノックをしようと、襖にそっと手の甲を伸ばしかける。
戸の向こう側で、声を押し殺し、啜り泣くような声。江雪は、体が固まってしまった。
襖の隙間。審神者が部屋の真ん中で蹲っていた。その足元には、書類の束や日誌などが落ちている。
なぜ、貴方が泣いている?
江雪は、胸の奥に迫り上がる靄を抑えるように、その場から咄嗟に退いた。
見たくないものを目の当たりにしてしまった、戸惑いだった。
・・・・・・・・・・
暦の上ではもうすぐ春だが、まだまだ雪は積もっている。誰が作ったのかわからない雪だるまが、溶けかけてもなおニコニコとしている。
縁側に、綿入り半纏と袈裟。二つの背中が並ぶ。
雪の中でも咲く花がある。審神者は庭先の紅色の花を見つめながら、白い息とともに独り言を吐いた。
「椿、綺麗ですね」
江雪は「ええ」とだけ答える。その手には、茶筒。盆の上には、急須と二つの湯呑みが載っている。
彼は近頃、審神者に対して茶を淹れることが増えた。断じて罪滅ぼしのつもりではない。だが、先日のことがずっとどこかで引っ掛かっていたのだ。
彼女は温かい茶の入った湯呑みを受け取ると、ありがとうございます、と微笑む。それがまた、胸中のあかぎれを抉るのだった。
審神者も審神者で、昼休みになるとこうして江雪をご飯に誘うことが増えた。
まだ肌寒い季節だったが、今日は羽織さえあれば縁側でも食事ができるくらい良い天気だった。雪に昼間の太陽が当たると、あたりは白い光に包まれる。眩しさに目を細める。
長い冬。貴重な太陽の光を目一杯に浴びると、少しだけだが心が安らぐような気がした。
審神者と江雪は庭先の景色を見つめながら、「いただきます」とおにぎりを一つずつ手に取った。
「江雪さんの元主はお坊さんでしたっけ」
「……ええ。その通りです」
「最近仏教に興味があって、ちょっと気になってて」
「……そうですか」
あえて、当たり障りのない返事をする。江雪は決して心を開いたわけではない。正直なところ、彼女との間に壁を作りたかった。それがないと、なにか、境界線が溶けてしまいそうな、そんな恐ろしい予感がしたのだ。だから、あの日も襖を開けられなかった。開けてしまったが最後、涙を触媒に黒い渦に呑まれそうな気がしたのだった。
審神者は、江雪のひんやりとした返答と大きく進展しない会話に対して何も感じ入らない様子で、少し冷めたおにぎりをまた一口食べる。
無言。澄んだ空気だけが満ちる庭。屋根の雪がピシピシと鳴きながら溶けて、ドスンと落ちる。柱が少し揺れる。
審神者が「うわ、びっくりした」と小さく言う。
風はない。ただ、燦々と降り注ぐ太陽が、異様に視界を真っ白に照らしている。静けさも相まって、江雪には、まるでここが現世から切り離されてしまっているような気すらした。
静寂のなか、ぽつりと審神者が呟くように言った。
「……いつも、江雪さんにはお世話になってます。ありがとうございます。私、頼りないですから」
江雪は審神者を見る。彼女は少し俯いていて、目線は手に持った食べかけのおにぎりに向いている。
ゆっくりと目を逸らす。何を言えばいいのか。この人はどんな返答を期待しているのか。何もわからない。
「……そうですか。お役に立てているのなら」
どうにかして選び取ったのは、無味無臭な言葉。
「本当に……顕現してすぐ近侍を頼んでしまったのに」
『近侍』。
その単語が出てきた時、江雪は目の前が急に吹雪に変わるような気がした。
ずっと腹の底で燻っていた疑問という名の悩みの種が、言葉として芽吹いた。気づいた時には、口から出ていた。
「……なぜ、私を近侍に選んだのですか?」
審神者が顔を上げる。江雪は自分が今どんな顔をしているかわからなかった。少なくとも、穏やかではない。だがもう、この瞬間は何も取り繕えなかった。
審神者が一度目線を泳がせたのを、江雪は見逃さなかった。確かに今、その目には迷い悩む者の色が浮かんだのだ。
小春日和の静けさが、しばし二人を包む。何も聞こえない。審神者の喉が鳴る。彼女は乾いた唇をこじ開けるように、答えた。
「……逃げ道を、閉じてくれるからです」
「……え」
江雪は、指先からどんどんと力が失われていくような感覚に襲われる。両手に持った湯呑みを傾けそうになった。
江雪の気持ちが片付かないままに、審神者はぽつぽつと言葉を続ける。彼女の声は、蓋をしていた箱から一つ一つ取り出される石のように並べられていく。
「私、自分が審神者に向いているのかわからないんです。弱いし、争うのも得意じゃないです。私ひとりで太刀打ちなんかできませんよ……すぐ潰されてしまう」
審神者の言葉は途切れ途切れで、散らばっていた。自嘲気味ですらあるが、迷いがない。江雪は黙って彼女の言葉に聞き入るしかできなかった。
「でも、この仕事は、無責任には辞められない。私が選んだことです。それに、この本丸を見捨てることの方が……」
江雪は眉間に皺を寄せる。長い前髪に隠れてその苦悩の皺は審神者には見えなかった。
体に重たい雪が降り積もり、小さな小さな穴を掘り、やっと空気が通る場所を見つけたような気持ちで、江雪は声を絞り出した。
「……私は、貴方の道を閉じているつもりはありません。逃げたければ、いつでもお逃げになってください」
カラカラに乾いた喉から発せられた言葉は正直で、そして、鋭く響いた。
審神者は、彼から目を逸さなかった。
江雪は、自分に嘘を吐かずに済んでホッとした気持ちと、心のひび割れた部分を自分で抉った気がした。
彼女を虐めるつもりもない。仲違いするつもりも、泣かせるつもりもない。ただ……。
彼の揺らぎも知らず、審神者は、微笑んだ。僅かに震えていた唇は、笑みを浮かべる。
「勿論です。やれるところまで、私は」
小さいが、弱くはない張りのある声。
江雪は、返事ができなかった。部屋の真ん中で丸まって泣いていた審神者の姿を思い出す。善悪の秤から転がっていくような存在。時は違えども同じ国に生まれながら、戦を経験したことのない彼女は、わざわざこの戦に名乗りをあげた。江雪は訳がわからない、と思っていたが、もしかしたらわかりすぎていたのかもしれない。
遠くで、また屋根から雪が落ちる。審神者はもう驚かなかった。
「……お茶、温かいの持ってきますね」
彼女はお盆を持って、パタパタと厨の方に向かう。縁側に取り残された食べかけのおにぎりと沢庵。
江雪は、冷めきったお茶を、くっと一息で飲み干す。
いつもと同じ玉露。なのに、どうしてか、渋い味がした。
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