3-B

風が吹いて花びらが舞う。
今年もちゃんと桜が咲いて、世の中が少し浮き足立つ。
大学4年、やるべきことが急に押し寄せる。就活、卒論。
慣れないパンプスのせいで絆創膏を手放せなくなって、でもまだこれからが就活の本番。卒論のことは忘れはしないけどなるべく考えないように端に追いやる。
友人達と「絶対ネモフィラだけは見に行こうね」と固く約束を交わしている、そうでもしないとやっていけない。

靴擦れを労るようにスニーカーを履く。
スーツと真逆の服を選ぶ、ジーンズが春一番と混ざり合う。ワイヤレスイヤホンからシンガーソングライターの叫びにも似た歌声が聞こえている。
待ち合わせのために適当に選んだカフェに向かう。
あれから、2人とは誕生日おめでとうとか新年の挨拶とかそういう誰とでもするようなメッセージのやりとりしかできなくなった。今日はすごく久しぶりに会う。
なぜだかわからないけど、これで最後な気がした。
私は飲み会を予定に組み込めるほど心に余裕はなかったし、もう彼らに会うことで得られるものが何もなかった。

「おつかれ〜」丸井はいつかと変わらない笑顔で手を振ってくれるし、仁王もサラリとした視線で私を見つける。
「…おつかれ、遅れてごめん。」
「俺らが早かっただけじゃ、遅刻じゃない」
私のために席を空けてくれる、メニューを手渡してくれる、全てがいつも通り。だけどそれを綺麗に受け止められない、私だけが変わってしまったのがとても悲しかった。

当たり障りのない会話、就活がどうだとか、大学がどうだとか、卒論がどうだとか。
友人たちとネモフィラを見に行く約束をしてる。という話を2人が肯定してくれて、やっぱりいい奴らなんだよな。と思う。でもそれだけだった。
誰も次に会う約束をしないまま、丸井がサークルの新歓で飲み会行かなきゃと立ち上がる。
4年なのに出るの?と言った時、私は上手く笑えていたんだろうか。

日が長くなったね、春だね。とカフェを出る。
「じゃあまた連絡する」と手を振って人混みに吸い込まれていく丸井を2人で見送った。
「うちらも帰ろうか」仁王を見上げながら駅に向かって一歩踏み出す。
「…プリ」懐かしい変な返事が返ってきて少し笑ってしまう。隣を歩く仁王は、就活のために髪を黒く染めていて、襟足も短く揃っていた。それでも彼は私の知っている仁王雅治という優しいやつだった。

横に並んで歩く。最近は春になった瞬間から暑いねー、うちらには厳しい季節だね。とか、今度公開される映画、続編だから劇場で観たいけど行けるかな。とか私がだらだら間を持たせるためだけにこぼす言葉を丁寧に拾ってくれる仁王。
交差点で信号が変わるのを待つ。
不意に見上げた先で瞳がぶつかる。
彼の優しくて悲しそうな視線に何も言えなくなる。
何もかもわかってるみたいな、全てを知ってるみたいなそんな顔。相変わらずまつ毛長いな、色が白いな、ほくろが可愛いよな、目元がかっこいいんだよな、黒髪見慣れないな、香水何使ってるんだっけ…
そんな顔で私を見ないでよ。

仁王が息を吸う「…もう、決まっとるんじゃろ。」
人混みの中でも彼の声はちゃんと私の鼓膜を揺らして、彼が何を指して言った言葉かもちゃんと脳が理解した。
「…うん」声は絞り出したが、ちゃんと目を見て答える。
それが私に出来る最初で最後の誠実な態度だと思ったから。
仁王は揺れる瞳で小さく息を吐いて、それ以降は何も言わなかった。私も何も言えなかった。
青信号で人々が歩き出す。
仁王の踏み出す一歩に、ついていくことができない。
背中を見ながらもう隣を歩く資格もないなと思った。

永遠にも感じられる帰路で、ついに何も言葉が見つからず、駅のホームで私が乗る電車が先に来るとアナウンスが聞こえる。
「またな」仁王の白くて細い指が差し出される。
握手なんて出会ってから初めてするよと声にはならない。震える手で触ると強くも弱くもない力で握られて、これでもう会えなくなると痛いほどわかる。
彼の手と離れると同時に電車が滑り込んでくる。
余韻を感じることすら許されないのは、私がそれを選択したからだった。
乗り込んだ電車から彼はもう見えなくて、この結末を選んだのは私なのに、涙は止まらなかった。
彼の前で泣かなかったの偉い。と心の中で自分を褒める。そんな私を見てサラリーマンがギョッとした顔をしていたけど、ボロボロとこぼれる涙を止めたいとも思わなかった。


:

エントリーシートを一枚埋めるたび、面接練習をこなすたびに、自分が揺らぐ、学生時代力を入れたことをガクチカと略すことにうっすらとした嫌悪感を抱く、友人たちとそんな話をする。面接に行くためだけのシンプルなメイクをするために化粧品を買わなきゃいけないことがアホらしかった。大学4年目は楽しいことがほとんどなかった。
そんな中でも、あの日を忘れることはなかったが、日々の忙しさの中に馴染んでいく。
(「心を亡くす」で「忙しい」って漢字作った人の感性えぐいな)
乾いた笑いが出て、涙ももうこぼれなかった。

日が伸びて、夕方が少し青い。寝っ転がったまま、部屋の窓から流れる雲を眺める、現実逃避に握ったスマホに通知音が鳴る。

丸井から最近どう?的な内容のメッセージ、返事に困る。変なスタンプでお茶を濁そうと選んでいると電話がきた、反射で出てしまう。前にもこんな事あったなとどうでもいいことばかり覚えている。

「おつかれ、今だいじょぶ?」珍しくあんまり軽くないトーンで少し緊張する。
「だ、いじょぶ。どうしたの」
寝転がったままの掠れた声はちゃんと彼に届いているのだろうか。
「いや、少し会って話したい事あるんだけど、」歯切れが悪くて彼っぽくないと思う。何かを察して姿勢を正す。
「…急ぎなら、今から行くけど」もごもごした電話口に向かって言った言葉は想像より冷たい感じになった。
それでもやっぱりはっきりしないことを言う彼とゆっくり、そして確実に終わりに向けて予定を立てる。
「じゃあ、1時間後に、駅前で」と電話が切れる。

電話だけでぐったりしてしまう。しかし座り込んでもいられない、冷たい水で顔を洗い、丁寧にメイクをする。
ずるい人間だ、最後までかわいいと思われていたい。彼の好きな私でありたい。私は彼の気持ちに応えられないのに。
クローゼットを開く、ダル着じゃない、でも気合の入っていない服を選ぶ。これは誠実さとは違う、小賢しい、悪あがきだ。全てを自覚して準備を進める。
彼はなんで私なんかを好きでいてくれたんだろう。
なるべく急いだつもりだが、1時間では心の準備までできなくて、少し遅れた。全部が最低な人間だった。


私の家の最寄駅までわざわざ来てくれた彼は、駅横の緑地帯のベンチに座って私を待っていた。まだ髪が赤くて、西陽に照らされてキラキラと眩しかった。

「まるい」
控えめに声をかけるとパッと振り向いて、嬉しいような悲しいような見たことない顔でこちらを見ていた。
ひらひらと手を振りながら「急で悪いな…もっと、
マシなとこあるだろって感じだけど。」と立ち上がる。

彼も私もわかりきった答えに向かって進んでいる。
私より彼の方が何倍も辛いだろう。
なのに、罪悪感なのか、私もすごく辛かった。
丸井が私の正面に立つ、今まで見てきたどの瞬間の彼よりもかっこいい顔をしていて、それが私に向いていることが嬉しいと思えなくて死にたくなった。


「本気で好き。中学の時から、たぶんずっと。」
「だから、俺と付き合ってほしい」


彼らしい真っ直ぐとした言葉、視線、気持ち。
きっと彼は私の答えを知っている。

「…ごめん。丸井とは付き合えない」

彼の思いに応えられない側が泣くのは違うと思った。
必死に耐えたが、鼻声になっている、涙を見せなかったからギリギリ合格としよう。

丸井が息を吐く音が聞こえる。
「…そっか。」
長いため息を止めるために両手で顔を覆う彼。
「だよな。なんとなく分かってたけどさ。」
そう言いながら無理してちょっとだけ笑う。
「…でもちゃんと聞きたかったんだわ。」
作り笑顔を向けられて、こんな顔させてしまったことを後悔する。後悔しても答えは変わらないけど。

何も言えないまま、涙を堪える。
そんな私を見て丸井が「…最後にハグしていい?」なんて掠れた声で言うから、頷くしかできなくて、左目から涙が溢れた。

夕方の駅、西陽に照らされて、中学の頃から私のことを好きだった男の子に抱きしめられる。これ以上ないドラマチックな状況で温かい春の匂いがして、そして全てが終わる。抱きしめ返せないまま丸井が離れていく。


「お互い就活頑張ろうな。また連絡する。」と手を振る彼を見送る。本当に連絡くれるんだろうな優しいやつだから。と思った。何も言えずに手を振り返す。
彼の乗った電車が見えなくなってもしばらくそこから動けなかった。

:

あれから何年も経った。
就活も卒論もなんとかなったし、次から次へと違うしんどいや楽しいが波のように押し寄せては消えてゆく。
あの頃とは違う友人もできたし、恋人もできた。
彼らのことを忘れたことはないけど、今どこで何をしているかは知らない。どこにいても幸せでいてほしいと思っている。
今年もまた桜が咲いた。
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