Dr.stone
[I'm Just Wild About You]
※復興後に大杠が婚約した軸
世界の英雄、人類を石化から救い出した「Dr.stone」こと石神千空は、とある大規模プログラムを立ち上げて、これまた大規模になった研究室に篭っていた。目まぐるしく仮説を立てては検証し、実践もして、何度もロードマップを書き換えていく日々。休むのも仕事の内だとラボのメンバーに捲し立てられ、ラボの外に建てられた休憩室にあるソファでコーヒーを飲むことになった昼過ぎ。簡易な休憩室に不釣り合いな装飾をあつらえたそれの、豪華な座り心地に感心しつつ一人くつろいでいると、休憩室のドアが開き、渦巻きのカチューシャを身に着けた幼馴染がひらひらと手を振りながら千空の元へ近づいて来た。
「休憩か?」
綺麗に笑っているように見える杠ではあるが、普段とは少し違う様子である。表情こそ笑顔ではあるものの、どことなく強張って固くなっている。杠の様子に奇妙な引っ掛かりを覚えるも、核心をつくような違和感を得るまでにはいかなかった。
「うん、そんなところ。千空くんは相変わらず大忙しですな」
隣に座れるようにソファの端に移動すると、小さな笑い声と共にちょこんと座った重量が隣に降りて来る。そのいつも通りの所作に、気のせいかと思いなおした。
「テメーがここに来るなんて珍しいな」
「たまには顔を出さないとね」
それでも、にっこりと笑顔を見せたものの徐々に神妙な顔つきになっていく杠に、初めに感じた己の直感は間違っていなかったと、不穏な予感がして胸がざわめく。そうだ、わざわざこんなラボの休憩室まで来るのだから、自分に何か用事があるのだろう。それも、気軽に話せないような重い内容で。
何かあったのか、と口を開く前に杠の方から言葉を紡いだ。
「千空くん。ちょっと千空くんの意見をききたいといいますか、教えてほしいといいますか」
「どうした……その顔だと、大樹のことか?」
この幼馴染をが悩んでいることの大半は、もうひとりの幼馴染のことだ。この短い時間に杠の表情を観察していても、何かに耐える顔をしていたり頬を赤らめたりと、大方“恋”をしている人間に総じて表れる、表情の変化が起きている。
「ワオ、すぐ分かるんだね。今の千空くん、ゲンくんみたいですな」
メンタリストほどではないが、長年の付き合いで幼馴染の大凡のことは分かる。大樹もそうだが、杠は感情を隠さずに表現する人間でもあるのだ。手に取るように、とまではいかないが、杠の感情はその所作で粗方理解できる。
「なんかあったか?デカブツはテメーのことを目に入れても痛くないくらい大事にしてるだろ」
あの大樹が杠を本気で困らせることなどしないだろう。それでも、杠が緊迫した顔つきで思い悩むほどのことがあるのだから、大樹本人の意図せぬ所で杠に気負わせている可能性はある。
「そう、なんだけど……」
歯切れ悪く話す杠には、話すことを躊躇しているというよりも、どう話せばいいか迷っているような素振りをしていた。上手く言葉が見つからないのか、俯いて小さく唸っている。
「ゆっくりでいい。俺もしばらく休みをとるよう言われてるから、テメーの悩みひとつ聞くくらいの時間はある」
己の感情を上手く言葉に当てはめられないことはよくある。それを誤解なく相手に伝えようとするのなら猶更だ。人間のコミュニケーションほど面倒なものはないとつくづく思う。
「うん、ありがとう。千空くん」
それでも、目の前にいる幼馴染の悩みを共に解決したいという意を込めて言葉を並べれば、杠はやさしい音色で感謝を伝えてくれた。しばらく自分の手元を眺めていた杠は、意を決したようにこちらに向き直す。
「最近ね、大樹くんが変な行動をするんだ」
口を固く結ぶ杠の表情は真剣そのものだ。
「変?あのデカブツがか?」
大樹は、日々の言動こそ単純明快でガサツなところもあるが、言動の理由はいつだってシンプルだ。それこそ、特別な理由がない限り、妙な行動は起こさない男だと認識している。杠もそれは長年の付き合いで分かっているだろうから、大樹はよっぽど奇妙な行動をしているのだろう。
「そう、変なの。大樹くんね、最近ずっと……」
そこまで勢いよく吐いてからは、躊躇うことがあるのか、またもごもごと口を動かしている。
「……同性の方が話しやすいか?ルリあたりならその辺の事情も詳しいかもしんねえ。言いにくいなら俺から言って」
「これは、千空くんじゃないと解決しないと思う」
突如、手を掴まれて首をブンブンと横に振られた。あまりの勢いに圧倒される。あっけにとられたであろう俺の表情を見て、杠はパっと先ほどの体勢に戻った。
「ごめんね、でもそこまで重たい話じゃないの。本当に」
すがるような目で見つめられては手を振りほどくこともできない。まあ、元からするつもりもないのだが。
「あ゙ぁ゙。わかったから、とっとと覚悟決めやがれ」
「ありがとう、千空くん」
これは確実に大樹と何かしらの確執が起きている。二人に不安の種があるのなら早めに取り除いてやりたい。しかし、メンタリストでもない俺で解決できる内容だろうか。それだけが気がかりだ。緊張で汗を一筋背中に流す俺と、深呼吸をする杠。
「大樹くん、私の唇をね、ふにふにしてくるの」
この二人の間に大きな亀裂が生まれたのかもしれないと思い至り、詳しく話を聞き出すべく耳を澄ましたところで、やわらかい言葉が脳内を占領した。
張りつめていた休憩室の空間丸ごと一気に、子供の遊び場のようなあどけなさに変貌する。
「ふにふに」
「そう、ふにふに」
思わず杠の言葉を復唱してしまったが、どうやら間違っていなかったらしい。ふざけているのかと顔を顰めたが、杠はあくまで真剣な顔つきだ。少しばかり呆れた視線を向けると、それに気づいた杠はあわあわと経緯を話し始める。
「私達ってほら、つい最近あの楠の下で婚約したでしょ」
「あ゙あ、お付き合い通り越してプロポーズされてたな」
二人のプロポーズの話は、科学王国のみんなが知っている。
石化した俺たちを巡り逢わせた樹齢何千年の楠の下。大樹が杠に一世一代の告白をしているのを、己も含めた外野が森の節々から見守っていた。女記者こと東北西南なんかは飛び出さんばかりの勢いで録画していたから、当時その場にいなかった者にも二人の行く末を知らされている。そのくらい、大樹と杠の恋路を皆があたたかく見守り、大事に守ってきたのだった。
「そう、だから、最初は……、き、キス、してくれるのかなって」
あたたかい記憶で心をほぐされていたところで、これまた突拍子な単語が飛び出して一気に現実に引き戻される。
「おお」
幼馴染達の、その手の話をまさか聞くことになるとは。いずれ知ることになるのかもしれないが、一瞬怖気づいた。長い間だれよりも近い場所でプラトニックな関係を目の当たりにしていたのだから、心の準備が足りていなくても仕方ないだろう。
「そう思ったんだけど」
杠はまた俯いた。瞼に隠されつつある瞳には、悲し気な色だけでなく困惑の色も混ざりこんでいる。ソワソワと浮ついた心が地面へ叩きつけられたかのように落下する。
「……違うのか」
「大樹くん、ずっとふにふにしてばっかりで……」
「……」
杠には申し訳ないが、幼児のような言葉に思考を持って行かれてしまい、彼女の相談にいまいち集中できない。流石に訂正させるべきかと口を突っ込む。
「さっきからなんだその“ふにふに”ってのは」
一瞬きょとんとした顔をした杠は、自身の口元を指さした。
「唇をずっと指で押してくるの」
そんなことだろうとは分かっていたが、具体的な内容を聞いて力が抜けていく。
「あ゙ー……」
手元にあるコーヒーを啜り、フニャフニャとゆるくなった思考を引き締める。世の中には正確に言語化されていない事象が山ほどあるが、こういう状況では何かしら名称を付けた方がいいかもしれない。真剣な相談で使う場合などは、特に。
「それが20分くらい」
「長ぇっ!!」
危うくコーヒーを零してしまうところだった。言い方を改めてもらうかと考えていたところに、杠からまた爆弾を落とされる。20分も何をしているんだコイツらは。
「私が止めなかったら1時間はふにふにされてるのかも」
そう言いたいのが伝わったのか、杠は苦笑いだ。
「なんつーか、テメーも大変だな……」
この二人には問題なんて起きないだろうと高を括っていたが、そうでもないらしい。破局の危機に至るような内容でなかったことに一安心する。中身はどうあれ、いつの時代も全ての恋人たちに悩みは付き物なのだろう。
「それでね、なんで大樹くんがそんなことするのか知りたくて」
「俺に訊きに来たっつーワケか」
納得したように頷くと、杠は肩を竦めた。この話をきけば大樹が何を考えているかなどお見通しなのだが、杠はどうやら分からないらしい。二人揃って軽くため息をついた。ため息のつく先にいる相手は違うのだが。
「その通りです。私的には、大樹くんはプチプチの練習をしたいのかなって考えてるんだけど」
またしてもあらぬ方向から話を進めてきて頭を痛める。これがバラエティー番組なら椅子から転げ落ちていただろう。とんだ手のかかる幼馴染だ。
「突拍子もねえこと言い始めやがった。プチプチって梱包材のことか?」
「うん。昔、大樹くん、プチプチをいっこずつ潰せないって言ってたでしょ」
杠の言葉に、幾千年前の記憶を遡る。人類が石化する前、3人で緩衝材の処理をしたこともあった。
「そういやそんなこと大昔に言ってやがったな」
その時に、気泡を潰して遊び始めた杠を真似た大樹が、その太い指で何個も一気に破裂されて苦戦したのを思い出す。
「それで、私の唇で練習してるのかなって」
「なんでそうなる!?思考がショートしてんぞ」
この女は、想い人のことになると思考がポンコツにでもなるのだろうか。訝し気な目で見つめると、杠は顔の前で両手を振った。
「違うの。大樹くん、私を壊れモノみたいに恐る恐る抱きしめたりしてるから、物ひとつ触るのもすごく気を遣っているのかなって。だから、プチプチをひとつずつ潰せるくらいになるまで力加減を試してるのかと」
成程、杠はそういう思考に至ったわけか。考えられなくもないが、根本から違っている。大樹の愛は杠が思っている以上に大きくて重たい。文字通り、3700年石になっていても、その愛が変わらなかったのだから。
「……100億%違うな」
「どうして?」
当事者であったとしても、見えない部分だってあるのだろう。人間、知らないことは考えてみても分からないものだ。特に大樹は不器用だから、0か100かでしか物事を伝えられない愚直さがある。なら、大樹の代わりに教えてやればいい。
「デカブツが杠を何かの練習台にするなんてありえねー。テメーを誰よりも大事にしてんだぞ。それも、この世界で他の誰より、何よりもだ。百歩譲って、テメーに触れる練習のために緩衝材を使うなら、まだわかるわ」
若干ガラの悪い教師のような口調になってしまったが、少しは伝わっただろうか。
「そうかな?」
「ぜってーそうだ」
そう言われてもピンと来ていない様子の杠。大樹の愛を一身に受けていながらもその大きな愛を自覚できないのは、大樹の伝え方が本当に不器用なのだろう。しかし、杠も杠で大樹に対して盲目な部分があるから、理解するには時間がかかるのかもしれない。
「アイツは気の遠くなる時間ずっと、テメーのことだけ考えていたかんな。並大抵の愛じゃ出来っこねえよ」
まるで神話のような愛だ。そこらの御伽噺にだって負けない、究極の愛と言ってもいい。
「あれはテメーのためだけのもんだからな。だから、緩衝材を潰す練習にテメーを使うなんてことは100億%ねえな」
一途に思うことでさえ存外難しいものだ。それをやってのけて、さらにその上をいく幼馴染を誇らしく思う。その名のとおり、地面に強く根を張った大樹のような愛だ。
「じゃあ……ピンポンダッシュの練習、とか?」
新たに頓珍漢な答えを出す幼馴染に思わずズッコケた。千空のヒントを鼻にもかけず、どこから飛んできたかも分からない答えを導き出す。ボードゲームをしていたなら「スタート地点に戻る」状態とでも言おうか。
「それも違うわ!」
「だよね。大樹くんが他人に迷惑かけることを練習するハズないし」
「論点そこじゃねえ」
やれやれと首を振る。これは3700年以上もずっと両片思いですれ違っていたわけだ。そこがまた憎めないのだが。
「千空くんなら人の唇ふにふにする時ってどんな状況?」
「さも俺が他人の唇に触れ回る奴みたいに言うんじゃねえ。触ったこともねえわ」
「そっか、そうだよね」
唸る杠を横目に、大樹のことを思い浮かべる。
いつか、大樹は言っていた。杠への想いはいずれ溢れ、胸にしまっておけなくなる。そしてそれが、いつのまにか杠の心にまで染みわたって、この想いがバレてしまうのではないか、と。己が口にする前にフラれてしまったら立ち直れないと、一人で勝手に落ち込む背中を蹴とばしたのは遥か遠い昔の話だ。
他でもない幼馴染達のため、緩んでしまう口をむすんで、極めて冷静な声を出すように心がけた。
「流石にその大樹の行動の意図は、大樹本人にしか分からねえ。俺は大樹じゃねえからな」
大樹の想いは、俺が何かをしなくともいずれ杠には伝わるだろう。いつだって、彼の杠への想いは優しく溢れ出ていた。
「そうだね……うん、そう……」
それでも真剣に悩んでいる杠に、思わず救いの手を差し伸べてしまいたくなる。困った旧友を前に、どうにも助け舟を出したくなるのが人情というものだ。
「大樹には俺からしれっと聞いといてやろうか?」
「それは……!ちょっと恥ずかしいかも」
「なら、ちと返事は遅くなるかもしんねえが、メンタリスト様に頼ってみるか?連絡しとくぞ」
石世界で初めて同盟を結んだ彼を思い浮かべる。敏いゲンならとっくの昔にバレているのだろうが、遠い遠い遥昔から、大樹と杠が添い遂げる眩しい未来をずっと夢見ていた。誰かに話したことはない、3700年前からのささやかな願い。その願いのために、もう少しだけ彼らの背中を押してやろう。
「……じゃあ、お願いしてもいい?」
これ以上二人にすれ違いが起きないように代替案を出すと、杠はコクリと頷いた。
◇ ◇ ◇
「……っつーことがあったわけだが、どう思う?メンタリスト」
『うんそれシンプルに大樹ちゃんは杠ちゃんにキスしたいだけだわ』
「やっぱそう思うか」
『なんでその場で言ってあげなかったの?千空ちゃん』
「あの場で言っても杠は信じねえだろ」
『ふーん……』
「んだよニヤつきやがって」
『別にー?じゃあさ、杠ちゃんにはこう返事をしてあげたらいいんじゃない?』
「どんな返事だよ」
『それはね~……』
◇ ◇ ◇
「杠―!こっここ、こっちを向いてくれないか!?」
この時が来た、と杠は思った。時計を見れば長針と短針が数字の10あたりを共に指している。もうそろそろ寝室に向かってもいい時間なのだが、大樹と杠は寝室には向かわずリビングのソファに座りくつろいでいた。
「なんだいね大樹くん。改まって」
振り返った先には、いつにも増して真剣な顔つきをした恋人が見つめている。
「(今日こそは、杠と……!!)」などと大樹は意気込んで、キスをする先―――杠の唇にそっと触れるのだが、やはり、そこから先に進むことはできずにいた。
「んむっ……」
大樹くんのいつものふにふにが始まった、と杠は思った。このやりとりももう何度も繰り返すと、当初のような緊張はなくなる。それに、先ほど旧友から仕入れた情報でこの行為の意味も知ったのだ。緊張する方がおかしい。それでも、普段の生活ではあまりない接触にドギマギとしていた。
「(しかし、いざとなると心の準備が全くできん!!)」
背中から冷や汗が垂れていくのを感じ、ぐっと喉を詰まらせる大樹とは対照的に、愉快そうに目を細める杠。
「……えいっ!」
「んむっ!?」
突如、杠の方から大樹の唇に触れた。驚きのあまり目を白黒される大樹に、杠はにっこりと笑いかける。
「えへへ、大樹くんいつも私の唇さわるでしょ?」
「ん、うむ」
楽しそうな声色と息のかかる距離で笑いかける恋人に目を白黒とさせながらも、ひとまずの返事をした。稀にない杠から急接近に心臓が跳ね上がる。己の魂胆を遂に見透かされたのだろうか。もしや、今までの己の行動に痺れを切らして、杠の方から触れてくるのではないだろうか。となると、心の準備どころではない。心無しか、背中だけでなく顔や手からも緊張の汗が滲み出てくる。遂に今日、杠と恋人としてキスをする。しかも、杠の方から。そう結論付けた大樹は、全身を赤く染め上げる。ともすれば、今ここで全身が爆発しそうだった。
「だから、今日は私からも大樹くんへ“いたずら”の仕返しをしてみました!」
得意げな杠の瞳に射止められる。予想を大幅に外した大樹は、目の前のことに反応が遅れた。
「……へ?」
そんな中、杠は上機嫌だった。千空がゲンにわざわざ聞いてくれたのだ。メンタリストが『恋人としての戯れ』と言うのなら間違いないのだろう。ついでに『同じことをやり返してやればいい』というアドバイスまでもらったのだ。理由さえ理解できれば何も恐れることなどない。
「イタズラ?」
大樹は、世界に一人取り残されたような気分だった。目の前にいる最愛の人とは、これまでに数多の困難を共に乗り越え、言葉などなくとも互いの意図が伝わるくらいには心を通わせていた。だから、今回も、己が踏みとどまっている間も杠は同じ気持ちで、己の意思を尊重して待ってくれているのだと思っていた。いや、慢心していた。想いは、言葉や行動に示さなければ相手に伝わらない。今みたいに。
「ふふ、大樹くんいつも私に可愛いいたずらしてたでしょ?ずっと、どういうことなのかなって悩んでたんですぞ」
驚いた様子の大樹を見て、さらに嬉しくなる。ここしばらく抱えていた悩みが解決して上機嫌な杠は、大樹の纏う空気が変わったことに気付かなかった。
「それにしても、大樹くんの唇は柔らかいですな」
大樹の腕や手を触るたび、彼の体は鋼か何かなのではないかと思うくらいに屈強な筋肉の硬さに舌を巻かされていた。そんな彼にも柔らかい部分があるのだと嬉しくなる。
「……」
大樹からの返事がない。時計の針の音だけが部屋に響いている。部屋を包む沈黙に、心がざわめく。
「……大樹くん?」
呼びかけても、返事がない、それどころかピクリとも動かない。反応を見せない大樹に、不快にさせてしまったかと一気に背中から冷や汗が垂れていく。思わず、触れていた指を咄嗟に離した。距離感を見誤っただろうか。大樹は些細なことでは怒らないだろうが、今の一連のやりとりの中に、彼を怒らせることをしてしまったのだろうか。それとも、日頃から彼に負担をかけていたのだろうか。恋人なのだからと、無意識に甘えすぎていたのかもしれない。
「杠、違うんだ」
謝罪の言葉を考えている間に、お互いの鼻がくっつきそうな距離に恋人が迫っていた。今までにない至近距離に、杠は顔を一気に赤らめる。
「へ?」
捕まったわけでもないのに、杠は動けないでいた。見上げた先にあった、大樹の燃え上がる瞳を見てしまったからだ。その熱に大樹の想いが溶け込んで身体が甘く痺れている。今までにない圧迫した距離感と、強い視線に身動きが取れない。どうしてこんなことになっているんだと、一気にバクバクと暴れ出す心臓を落ち着かせる間もなく、大樹は言葉を続けた。
「杠、好きだ。大好きだ」
大樹の真心が伝わってくる、嘘偽りない言葉だ。
「わ、わたしも、大樹くんが大好きだよ?」
大樹の勢いに呑まれて、同じように愛の言葉を返す。この様子だと、怒らせてはいないのだろうとひとまず安心する。はあ、と詰まった緊張ごと吐き出した。
すると彼は、わざわざ自分に愛を伝えるために沈黙していたのだろうか。そもそも、先ほどまでじゃれ合っていたはずなのに、一体どこで彼のスイッチが入ったのだろう。本当にもう、彼から与えられる愛は突然で心の準備ができない。
「違うんだ。杠が、どうしようもなく好きなんだ。今、それを伝えたい。まだまだ、伝え足りない。きっと、俺は杠に全く伝えられていなかった」
そんなことはない。これ以上ないくらいに愛をもらっている。そう言葉を並べることはできなかった。大樹の真っ直ぐな瞳に、胸がいっぱいになって言葉が上手く出てこない。
「どうか、不甲斐ない俺を許してほしい」
悲しげな声色で紡がれたそれに胸が締め付けられて、身体が思うように動かなくなる。それでも、最愛の人からの想いに少しでも返したい。不自然な動きで己の身体に触れられていた大きな手を取って、包み込むように絡める。大きく目を見開いた彼の瞳の奥に、自分の姿が見えるくらいの至近距離。彼の言葉に、心に寄り添いたかった。
「杠、俺は臆病で腰抜けだ。こうやって恋人になってからも、ずっと杠に対して腰抜けだった」
大樹の瞳の奥に、燃え滾る太陽のような熱が見える。その真っ赤な熱は溢れんばかりに主張しているのに、躊躇うかのように揺らいでいるのが、どこまでもいとおしい。
「……大樹くん」
今やっと、杠は彼が何をしたかったのかを理解した。もしかすると、石世界をゼロから築き上げた幼馴染やアドバイスをくれたメンタリストには、初めからこの答えを知っていたのかもしれない。自分で気づかなくてはならないことだったから二人とも黙っていたのだろうが、杠は心の中で二人に意地悪だと非難した。
大樹の、杠への想いはいずれ溢れ、胸にしまっておけなくなる。そしてそれが、いつのまにか杠の心にまで染みわたっていく。純情も愛情もひっくるめて、二人を満たしていく。まさに今、愛が伝染していた。
それは、見えないだけでずっと前からそこにあったのだから。
「杠。俺が、本当にしたかったことはーーー」
◇ ◇ ◇
七海財閥が運営しているホテルの一室に、スーツのままベッドに飛び込む男がいた。
「大樹ちゃん、杠ちゃんとキスできたかな~」
移動中に千空から電話がかかってきたかと思えば、彼の幼馴染達の恋愛相談をされた。そんな面白いことがあったら、今日の国際会議での司会だって苦じゃなかった。
「まあ、今まで心の準備をしてた時間が、ただじゃれてるなんて勘違いされてたって知ったら、流石の大樹ちゃんも男が廃るって腹をくくるでしょ」
大樹と杠。ふたりの好むもの、身を置く世界はいつでも陽だまりが咲いたように暖かいものだった。そんなぬくもりにゲンは何度も助けられていた。だから、少しでも彼らの行く末が幸福なものになるのなら、多少の無茶ぶりすら受け入れることだってできる。
「不覚にもあの二人の愛のキューピットになっちゃうなんて、俺もいいコトしちゃったね~」
ゲンは、ご機嫌なハミングを打ちながら独り言を落とすと、日本がある方角を見て、愛おし気な表情をして笑った。
※復興後に大杠が婚約した軸
世界の英雄、人類を石化から救い出した「Dr.stone」こと石神千空は、とある大規模プログラムを立ち上げて、これまた大規模になった研究室に篭っていた。目まぐるしく仮説を立てては検証し、実践もして、何度もロードマップを書き換えていく日々。休むのも仕事の内だとラボのメンバーに捲し立てられ、ラボの外に建てられた休憩室にあるソファでコーヒーを飲むことになった昼過ぎ。簡易な休憩室に不釣り合いな装飾をあつらえたそれの、豪華な座り心地に感心しつつ一人くつろいでいると、休憩室のドアが開き、渦巻きのカチューシャを身に着けた幼馴染がひらひらと手を振りながら千空の元へ近づいて来た。
「休憩か?」
綺麗に笑っているように見える杠ではあるが、普段とは少し違う様子である。表情こそ笑顔ではあるものの、どことなく強張って固くなっている。杠の様子に奇妙な引っ掛かりを覚えるも、核心をつくような違和感を得るまでにはいかなかった。
「うん、そんなところ。千空くんは相変わらず大忙しですな」
隣に座れるようにソファの端に移動すると、小さな笑い声と共にちょこんと座った重量が隣に降りて来る。そのいつも通りの所作に、気のせいかと思いなおした。
「テメーがここに来るなんて珍しいな」
「たまには顔を出さないとね」
それでも、にっこりと笑顔を見せたものの徐々に神妙な顔つきになっていく杠に、初めに感じた己の直感は間違っていなかったと、不穏な予感がして胸がざわめく。そうだ、わざわざこんなラボの休憩室まで来るのだから、自分に何か用事があるのだろう。それも、気軽に話せないような重い内容で。
何かあったのか、と口を開く前に杠の方から言葉を紡いだ。
「千空くん。ちょっと千空くんの意見をききたいといいますか、教えてほしいといいますか」
「どうした……その顔だと、大樹のことか?」
この幼馴染をが悩んでいることの大半は、もうひとりの幼馴染のことだ。この短い時間に杠の表情を観察していても、何かに耐える顔をしていたり頬を赤らめたりと、大方“恋”をしている人間に総じて表れる、表情の変化が起きている。
「ワオ、すぐ分かるんだね。今の千空くん、ゲンくんみたいですな」
メンタリストほどではないが、長年の付き合いで幼馴染の大凡のことは分かる。大樹もそうだが、杠は感情を隠さずに表現する人間でもあるのだ。手に取るように、とまではいかないが、杠の感情はその所作で粗方理解できる。
「なんかあったか?デカブツはテメーのことを目に入れても痛くないくらい大事にしてるだろ」
あの大樹が杠を本気で困らせることなどしないだろう。それでも、杠が緊迫した顔つきで思い悩むほどのことがあるのだから、大樹本人の意図せぬ所で杠に気負わせている可能性はある。
「そう、なんだけど……」
歯切れ悪く話す杠には、話すことを躊躇しているというよりも、どう話せばいいか迷っているような素振りをしていた。上手く言葉が見つからないのか、俯いて小さく唸っている。
「ゆっくりでいい。俺もしばらく休みをとるよう言われてるから、テメーの悩みひとつ聞くくらいの時間はある」
己の感情を上手く言葉に当てはめられないことはよくある。それを誤解なく相手に伝えようとするのなら猶更だ。人間のコミュニケーションほど面倒なものはないとつくづく思う。
「うん、ありがとう。千空くん」
それでも、目の前にいる幼馴染の悩みを共に解決したいという意を込めて言葉を並べれば、杠はやさしい音色で感謝を伝えてくれた。しばらく自分の手元を眺めていた杠は、意を決したようにこちらに向き直す。
「最近ね、大樹くんが変な行動をするんだ」
口を固く結ぶ杠の表情は真剣そのものだ。
「変?あのデカブツがか?」
大樹は、日々の言動こそ単純明快でガサツなところもあるが、言動の理由はいつだってシンプルだ。それこそ、特別な理由がない限り、妙な行動は起こさない男だと認識している。杠もそれは長年の付き合いで分かっているだろうから、大樹はよっぽど奇妙な行動をしているのだろう。
「そう、変なの。大樹くんね、最近ずっと……」
そこまで勢いよく吐いてからは、躊躇うことがあるのか、またもごもごと口を動かしている。
「……同性の方が話しやすいか?ルリあたりならその辺の事情も詳しいかもしんねえ。言いにくいなら俺から言って」
「これは、千空くんじゃないと解決しないと思う」
突如、手を掴まれて首をブンブンと横に振られた。あまりの勢いに圧倒される。あっけにとられたであろう俺の表情を見て、杠はパっと先ほどの体勢に戻った。
「ごめんね、でもそこまで重たい話じゃないの。本当に」
すがるような目で見つめられては手を振りほどくこともできない。まあ、元からするつもりもないのだが。
「あ゙ぁ゙。わかったから、とっとと覚悟決めやがれ」
「ありがとう、千空くん」
これは確実に大樹と何かしらの確執が起きている。二人に不安の種があるのなら早めに取り除いてやりたい。しかし、メンタリストでもない俺で解決できる内容だろうか。それだけが気がかりだ。緊張で汗を一筋背中に流す俺と、深呼吸をする杠。
「大樹くん、私の唇をね、ふにふにしてくるの」
この二人の間に大きな亀裂が生まれたのかもしれないと思い至り、詳しく話を聞き出すべく耳を澄ましたところで、やわらかい言葉が脳内を占領した。
張りつめていた休憩室の空間丸ごと一気に、子供の遊び場のようなあどけなさに変貌する。
「ふにふに」
「そう、ふにふに」
思わず杠の言葉を復唱してしまったが、どうやら間違っていなかったらしい。ふざけているのかと顔を顰めたが、杠はあくまで真剣な顔つきだ。少しばかり呆れた視線を向けると、それに気づいた杠はあわあわと経緯を話し始める。
「私達ってほら、つい最近あの楠の下で婚約したでしょ」
「あ゙あ、お付き合い通り越してプロポーズされてたな」
二人のプロポーズの話は、科学王国のみんなが知っている。
石化した俺たちを巡り逢わせた樹齢何千年の楠の下。大樹が杠に一世一代の告白をしているのを、己も含めた外野が森の節々から見守っていた。女記者こと東北西南なんかは飛び出さんばかりの勢いで録画していたから、当時その場にいなかった者にも二人の行く末を知らされている。そのくらい、大樹と杠の恋路を皆があたたかく見守り、大事に守ってきたのだった。
「そう、だから、最初は……、き、キス、してくれるのかなって」
あたたかい記憶で心をほぐされていたところで、これまた突拍子な単語が飛び出して一気に現実に引き戻される。
「おお」
幼馴染達の、その手の話をまさか聞くことになるとは。いずれ知ることになるのかもしれないが、一瞬怖気づいた。長い間だれよりも近い場所でプラトニックな関係を目の当たりにしていたのだから、心の準備が足りていなくても仕方ないだろう。
「そう思ったんだけど」
杠はまた俯いた。瞼に隠されつつある瞳には、悲し気な色だけでなく困惑の色も混ざりこんでいる。ソワソワと浮ついた心が地面へ叩きつけられたかのように落下する。
「……違うのか」
「大樹くん、ずっとふにふにしてばっかりで……」
「……」
杠には申し訳ないが、幼児のような言葉に思考を持って行かれてしまい、彼女の相談にいまいち集中できない。流石に訂正させるべきかと口を突っ込む。
「さっきからなんだその“ふにふに”ってのは」
一瞬きょとんとした顔をした杠は、自身の口元を指さした。
「唇をずっと指で押してくるの」
そんなことだろうとは分かっていたが、具体的な内容を聞いて力が抜けていく。
「あ゙ー……」
手元にあるコーヒーを啜り、フニャフニャとゆるくなった思考を引き締める。世の中には正確に言語化されていない事象が山ほどあるが、こういう状況では何かしら名称を付けた方がいいかもしれない。真剣な相談で使う場合などは、特に。
「それが20分くらい」
「長ぇっ!!」
危うくコーヒーを零してしまうところだった。言い方を改めてもらうかと考えていたところに、杠からまた爆弾を落とされる。20分も何をしているんだコイツらは。
「私が止めなかったら1時間はふにふにされてるのかも」
そう言いたいのが伝わったのか、杠は苦笑いだ。
「なんつーか、テメーも大変だな……」
この二人には問題なんて起きないだろうと高を括っていたが、そうでもないらしい。破局の危機に至るような内容でなかったことに一安心する。中身はどうあれ、いつの時代も全ての恋人たちに悩みは付き物なのだろう。
「それでね、なんで大樹くんがそんなことするのか知りたくて」
「俺に訊きに来たっつーワケか」
納得したように頷くと、杠は肩を竦めた。この話をきけば大樹が何を考えているかなどお見通しなのだが、杠はどうやら分からないらしい。二人揃って軽くため息をついた。ため息のつく先にいる相手は違うのだが。
「その通りです。私的には、大樹くんはプチプチの練習をしたいのかなって考えてるんだけど」
またしてもあらぬ方向から話を進めてきて頭を痛める。これがバラエティー番組なら椅子から転げ落ちていただろう。とんだ手のかかる幼馴染だ。
「突拍子もねえこと言い始めやがった。プチプチって梱包材のことか?」
「うん。昔、大樹くん、プチプチをいっこずつ潰せないって言ってたでしょ」
杠の言葉に、幾千年前の記憶を遡る。人類が石化する前、3人で緩衝材の処理をしたこともあった。
「そういやそんなこと大昔に言ってやがったな」
その時に、気泡を潰して遊び始めた杠を真似た大樹が、その太い指で何個も一気に破裂されて苦戦したのを思い出す。
「それで、私の唇で練習してるのかなって」
「なんでそうなる!?思考がショートしてんぞ」
この女は、想い人のことになると思考がポンコツにでもなるのだろうか。訝し気な目で見つめると、杠は顔の前で両手を振った。
「違うの。大樹くん、私を壊れモノみたいに恐る恐る抱きしめたりしてるから、物ひとつ触るのもすごく気を遣っているのかなって。だから、プチプチをひとつずつ潰せるくらいになるまで力加減を試してるのかと」
成程、杠はそういう思考に至ったわけか。考えられなくもないが、根本から違っている。大樹の愛は杠が思っている以上に大きくて重たい。文字通り、3700年石になっていても、その愛が変わらなかったのだから。
「……100億%違うな」
「どうして?」
当事者であったとしても、見えない部分だってあるのだろう。人間、知らないことは考えてみても分からないものだ。特に大樹は不器用だから、0か100かでしか物事を伝えられない愚直さがある。なら、大樹の代わりに教えてやればいい。
「デカブツが杠を何かの練習台にするなんてありえねー。テメーを誰よりも大事にしてんだぞ。それも、この世界で他の誰より、何よりもだ。百歩譲って、テメーに触れる練習のために緩衝材を使うなら、まだわかるわ」
若干ガラの悪い教師のような口調になってしまったが、少しは伝わっただろうか。
「そうかな?」
「ぜってーそうだ」
そう言われてもピンと来ていない様子の杠。大樹の愛を一身に受けていながらもその大きな愛を自覚できないのは、大樹の伝え方が本当に不器用なのだろう。しかし、杠も杠で大樹に対して盲目な部分があるから、理解するには時間がかかるのかもしれない。
「アイツは気の遠くなる時間ずっと、テメーのことだけ考えていたかんな。並大抵の愛じゃ出来っこねえよ」
まるで神話のような愛だ。そこらの御伽噺にだって負けない、究極の愛と言ってもいい。
「あれはテメーのためだけのもんだからな。だから、緩衝材を潰す練習にテメーを使うなんてことは100億%ねえな」
一途に思うことでさえ存外難しいものだ。それをやってのけて、さらにその上をいく幼馴染を誇らしく思う。その名のとおり、地面に強く根を張った大樹のような愛だ。
「じゃあ……ピンポンダッシュの練習、とか?」
新たに頓珍漢な答えを出す幼馴染に思わずズッコケた。千空のヒントを鼻にもかけず、どこから飛んできたかも分からない答えを導き出す。ボードゲームをしていたなら「スタート地点に戻る」状態とでも言おうか。
「それも違うわ!」
「だよね。大樹くんが他人に迷惑かけることを練習するハズないし」
「論点そこじゃねえ」
やれやれと首を振る。これは3700年以上もずっと両片思いですれ違っていたわけだ。そこがまた憎めないのだが。
「千空くんなら人の唇ふにふにする時ってどんな状況?」
「さも俺が他人の唇に触れ回る奴みたいに言うんじゃねえ。触ったこともねえわ」
「そっか、そうだよね」
唸る杠を横目に、大樹のことを思い浮かべる。
いつか、大樹は言っていた。杠への想いはいずれ溢れ、胸にしまっておけなくなる。そしてそれが、いつのまにか杠の心にまで染みわたって、この想いがバレてしまうのではないか、と。己が口にする前にフラれてしまったら立ち直れないと、一人で勝手に落ち込む背中を蹴とばしたのは遥か遠い昔の話だ。
他でもない幼馴染達のため、緩んでしまう口をむすんで、極めて冷静な声を出すように心がけた。
「流石にその大樹の行動の意図は、大樹本人にしか分からねえ。俺は大樹じゃねえからな」
大樹の想いは、俺が何かをしなくともいずれ杠には伝わるだろう。いつだって、彼の杠への想いは優しく溢れ出ていた。
「そうだね……うん、そう……」
それでも真剣に悩んでいる杠に、思わず救いの手を差し伸べてしまいたくなる。困った旧友を前に、どうにも助け舟を出したくなるのが人情というものだ。
「大樹には俺からしれっと聞いといてやろうか?」
「それは……!ちょっと恥ずかしいかも」
「なら、ちと返事は遅くなるかもしんねえが、メンタリスト様に頼ってみるか?連絡しとくぞ」
石世界で初めて同盟を結んだ彼を思い浮かべる。敏いゲンならとっくの昔にバレているのだろうが、遠い遠い遥昔から、大樹と杠が添い遂げる眩しい未来をずっと夢見ていた。誰かに話したことはない、3700年前からのささやかな願い。その願いのために、もう少しだけ彼らの背中を押してやろう。
「……じゃあ、お願いしてもいい?」
これ以上二人にすれ違いが起きないように代替案を出すと、杠はコクリと頷いた。
◇ ◇ ◇
「……っつーことがあったわけだが、どう思う?メンタリスト」
『うんそれシンプルに大樹ちゃんは杠ちゃんにキスしたいだけだわ』
「やっぱそう思うか」
『なんでその場で言ってあげなかったの?千空ちゃん』
「あの場で言っても杠は信じねえだろ」
『ふーん……』
「んだよニヤつきやがって」
『別にー?じゃあさ、杠ちゃんにはこう返事をしてあげたらいいんじゃない?』
「どんな返事だよ」
『それはね~……』
◇ ◇ ◇
「杠―!こっここ、こっちを向いてくれないか!?」
この時が来た、と杠は思った。時計を見れば長針と短針が数字の10あたりを共に指している。もうそろそろ寝室に向かってもいい時間なのだが、大樹と杠は寝室には向かわずリビングのソファに座りくつろいでいた。
「なんだいね大樹くん。改まって」
振り返った先には、いつにも増して真剣な顔つきをした恋人が見つめている。
「(今日こそは、杠と……!!)」などと大樹は意気込んで、キスをする先―――杠の唇にそっと触れるのだが、やはり、そこから先に進むことはできずにいた。
「んむっ……」
大樹くんのいつものふにふにが始まった、と杠は思った。このやりとりももう何度も繰り返すと、当初のような緊張はなくなる。それに、先ほど旧友から仕入れた情報でこの行為の意味も知ったのだ。緊張する方がおかしい。それでも、普段の生活ではあまりない接触にドギマギとしていた。
「(しかし、いざとなると心の準備が全くできん!!)」
背中から冷や汗が垂れていくのを感じ、ぐっと喉を詰まらせる大樹とは対照的に、愉快そうに目を細める杠。
「……えいっ!」
「んむっ!?」
突如、杠の方から大樹の唇に触れた。驚きのあまり目を白黒される大樹に、杠はにっこりと笑いかける。
「えへへ、大樹くんいつも私の唇さわるでしょ?」
「ん、うむ」
楽しそうな声色と息のかかる距離で笑いかける恋人に目を白黒とさせながらも、ひとまずの返事をした。稀にない杠から急接近に心臓が跳ね上がる。己の魂胆を遂に見透かされたのだろうか。もしや、今までの己の行動に痺れを切らして、杠の方から触れてくるのではないだろうか。となると、心の準備どころではない。心無しか、背中だけでなく顔や手からも緊張の汗が滲み出てくる。遂に今日、杠と恋人としてキスをする。しかも、杠の方から。そう結論付けた大樹は、全身を赤く染め上げる。ともすれば、今ここで全身が爆発しそうだった。
「だから、今日は私からも大樹くんへ“いたずら”の仕返しをしてみました!」
得意げな杠の瞳に射止められる。予想を大幅に外した大樹は、目の前のことに反応が遅れた。
「……へ?」
そんな中、杠は上機嫌だった。千空がゲンにわざわざ聞いてくれたのだ。メンタリストが『恋人としての戯れ』と言うのなら間違いないのだろう。ついでに『同じことをやり返してやればいい』というアドバイスまでもらったのだ。理由さえ理解できれば何も恐れることなどない。
「イタズラ?」
大樹は、世界に一人取り残されたような気分だった。目の前にいる最愛の人とは、これまでに数多の困難を共に乗り越え、言葉などなくとも互いの意図が伝わるくらいには心を通わせていた。だから、今回も、己が踏みとどまっている間も杠は同じ気持ちで、己の意思を尊重して待ってくれているのだと思っていた。いや、慢心していた。想いは、言葉や行動に示さなければ相手に伝わらない。今みたいに。
「ふふ、大樹くんいつも私に可愛いいたずらしてたでしょ?ずっと、どういうことなのかなって悩んでたんですぞ」
驚いた様子の大樹を見て、さらに嬉しくなる。ここしばらく抱えていた悩みが解決して上機嫌な杠は、大樹の纏う空気が変わったことに気付かなかった。
「それにしても、大樹くんの唇は柔らかいですな」
大樹の腕や手を触るたび、彼の体は鋼か何かなのではないかと思うくらいに屈強な筋肉の硬さに舌を巻かされていた。そんな彼にも柔らかい部分があるのだと嬉しくなる。
「……」
大樹からの返事がない。時計の針の音だけが部屋に響いている。部屋を包む沈黙に、心がざわめく。
「……大樹くん?」
呼びかけても、返事がない、それどころかピクリとも動かない。反応を見せない大樹に、不快にさせてしまったかと一気に背中から冷や汗が垂れていく。思わず、触れていた指を咄嗟に離した。距離感を見誤っただろうか。大樹は些細なことでは怒らないだろうが、今の一連のやりとりの中に、彼を怒らせることをしてしまったのだろうか。それとも、日頃から彼に負担をかけていたのだろうか。恋人なのだからと、無意識に甘えすぎていたのかもしれない。
「杠、違うんだ」
謝罪の言葉を考えている間に、お互いの鼻がくっつきそうな距離に恋人が迫っていた。今までにない至近距離に、杠は顔を一気に赤らめる。
「へ?」
捕まったわけでもないのに、杠は動けないでいた。見上げた先にあった、大樹の燃え上がる瞳を見てしまったからだ。その熱に大樹の想いが溶け込んで身体が甘く痺れている。今までにない圧迫した距離感と、強い視線に身動きが取れない。どうしてこんなことになっているんだと、一気にバクバクと暴れ出す心臓を落ち着かせる間もなく、大樹は言葉を続けた。
「杠、好きだ。大好きだ」
大樹の真心が伝わってくる、嘘偽りない言葉だ。
「わ、わたしも、大樹くんが大好きだよ?」
大樹の勢いに呑まれて、同じように愛の言葉を返す。この様子だと、怒らせてはいないのだろうとひとまず安心する。はあ、と詰まった緊張ごと吐き出した。
すると彼は、わざわざ自分に愛を伝えるために沈黙していたのだろうか。そもそも、先ほどまでじゃれ合っていたはずなのに、一体どこで彼のスイッチが入ったのだろう。本当にもう、彼から与えられる愛は突然で心の準備ができない。
「違うんだ。杠が、どうしようもなく好きなんだ。今、それを伝えたい。まだまだ、伝え足りない。きっと、俺は杠に全く伝えられていなかった」
そんなことはない。これ以上ないくらいに愛をもらっている。そう言葉を並べることはできなかった。大樹の真っ直ぐな瞳に、胸がいっぱいになって言葉が上手く出てこない。
「どうか、不甲斐ない俺を許してほしい」
悲しげな声色で紡がれたそれに胸が締め付けられて、身体が思うように動かなくなる。それでも、最愛の人からの想いに少しでも返したい。不自然な動きで己の身体に触れられていた大きな手を取って、包み込むように絡める。大きく目を見開いた彼の瞳の奥に、自分の姿が見えるくらいの至近距離。彼の言葉に、心に寄り添いたかった。
「杠、俺は臆病で腰抜けだ。こうやって恋人になってからも、ずっと杠に対して腰抜けだった」
大樹の瞳の奥に、燃え滾る太陽のような熱が見える。その真っ赤な熱は溢れんばかりに主張しているのに、躊躇うかのように揺らいでいるのが、どこまでもいとおしい。
「……大樹くん」
今やっと、杠は彼が何をしたかったのかを理解した。もしかすると、石世界をゼロから築き上げた幼馴染やアドバイスをくれたメンタリストには、初めからこの答えを知っていたのかもしれない。自分で気づかなくてはならないことだったから二人とも黙っていたのだろうが、杠は心の中で二人に意地悪だと非難した。
大樹の、杠への想いはいずれ溢れ、胸にしまっておけなくなる。そしてそれが、いつのまにか杠の心にまで染みわたっていく。純情も愛情もひっくるめて、二人を満たしていく。まさに今、愛が伝染していた。
それは、見えないだけでずっと前からそこにあったのだから。
「杠。俺が、本当にしたかったことはーーー」
◇ ◇ ◇
七海財閥が運営しているホテルの一室に、スーツのままベッドに飛び込む男がいた。
「大樹ちゃん、杠ちゃんとキスできたかな~」
移動中に千空から電話がかかってきたかと思えば、彼の幼馴染達の恋愛相談をされた。そんな面白いことがあったら、今日の国際会議での司会だって苦じゃなかった。
「まあ、今まで心の準備をしてた時間が、ただじゃれてるなんて勘違いされてたって知ったら、流石の大樹ちゃんも男が廃るって腹をくくるでしょ」
大樹と杠。ふたりの好むもの、身を置く世界はいつでも陽だまりが咲いたように暖かいものだった。そんなぬくもりにゲンは何度も助けられていた。だから、少しでも彼らの行く末が幸福なものになるのなら、多少の無茶ぶりすら受け入れることだってできる。
「不覚にもあの二人の愛のキューピットになっちゃうなんて、俺もいいコトしちゃったね~」
ゲンは、ご機嫌なハミングを打ちながら独り言を落とすと、日本がある方角を見て、愛おし気な表情をして笑った。