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【依央利SS詰め2】
◇ゼロの温度
台所の明かりが、まだ柔らかく灯っている。夕食を片づけ終えたあと、依央利は湯気の立つマグを手に、ぽつりと話し始めた。
「ねえ。ゼロが発明されたのって、意外とあとからなんだよ」
「へえ?」
向かいに座る彼女が顔を上げる。その瞳に、オレンジ色の光が反射して揺れた。依央利は、少し得意げに続けた。
「昔の人たちは、“何もない”っていう状態を“数”として扱う発想がなかったんだ。たとえば古代ローマ数字にはゼロが存在しない。Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ……って続いていくけど、“ゼロ個”を表す記号がないんだよ。でもね、紀元前五〜六世紀ごろのインドの数学者たちが、“何もない”という状態そのものを“数”として考え始めた。そこから“0”という概念が生まれたんだ」
ちらりと彼女の様子をうかがうと、湯飲みを手にしたまま静かに聞いてくれている。依央利は、指先でテーブルに小さな円を描きながら、言葉を重ねた。
「その発明がすごいのは、ゼロがあったから“桁”が生まれて、十進法ができたこと。10、100、1000……って、位取りの考え方ができるようになった。つまり、ゼロがなかったら、僕たちの計算も、コンピュータも存在しなかったんだ。“ゼロは、何もないのに、すべてを支えてる”ってわけ」
小さく笑って、肩をすくめる。
「なんか、不思議だよね。何もないのに、全部の根っこにいるんだ」
その瞬間、彼女がぽつりとつぶやいた。
「ゼロって……依央利みたいだね」
「……え?」
思わず顔を上げる。その声には、からかいの色はなかった。彼女は少し目を細め、言葉を選ぶように続ける。
「依央利って、自分のこと“空っぽ”とか“滅私”とか言うけど、そうは見えないの。ゼロって、何も持ってないようでいて、実は世界の仕組みを支えてる。依央利も、そういう人だよ。“何もない”ふりをして、全部を支えてる」
静寂。
時計の針がひとつ、またひとつ、時を刻んでいく。依央利は何か言おうとして、喉の奥で言葉が絡まった。心のどこかが、きゅっと熱くなる。
“空っぽ”という言葉で覆ってきた場所に、今、その言葉がゆっくりと染み込んでいく。
「……支えてる、か」
かすれた声でつぶやく。
「僕、そんな……たいしたものじゃないよ」
そう言いながらも、頬が少し赤い。その様子を見て、彼女はそっと笑った。
「たいしたものだよ。だって私、依央利がいないと立っていられないもん」
「……」
視線が合った瞬間、依央利は目を逸らした。耳まで赤くして、マグを持ち直す。
「ずるいなあ。そんなこと言われたら……空っぽでいられなくなるかもしれないじゃん」
照れ笑いの中に、どこか震えるような響きが混ざる。その“揺れ”は、確かに依央利の胸の奥に生まれた“熱”の証だった。彼女は優しく目を細める。
「いいんだよ、空っぽじゃなくて。依央利は、ちゃんと“ある”から」
その言葉に、依央利はほんの少しだけ笑った。
ゼロのように、何もないはずの心の中に――“ひとつ”の温もりが確かに存在した。
◇奴隷の添い寝
最初の頃、僕はちゃんと“添い寝係”だった。
それはつまり、「距離を保ったまま、彼女が眠りやすいように見守る役」。
お腹をぽんぽんして、髪を少し撫でて、呼吸が落ち着いたらそっと離れて——
そのルールを作っていた。
だって、近づきすぎたら、絶対に僕の下心がばれるから。
でも、人間って弱い。目の前で無防備に眠る君が寝返りを打つたび、その体温が少しだけ触れるたびに、心臓が跳ねて、眠れなくなる。
冷たい空気が包み込んだ静かな夜。「……寒くない?」って聞いたら、「少しだけ」って言われて。
少しだけ。
——その言葉が、僕の理性の崩壊スイッチだった。
気づいたら、そっと肩を抱いていた。ほんの一瞬だけ、のつもりだった。でもその一瞬が、毎晩の“当たり前”になっていった。いまではもう、僕の腕の中に彼女がいないと落ち着かない。
寝返りを打たれて体が離れると無意識に引き寄せてる。完全に抱き枕の逆転現象。
でも、奴隷たるものご主人様が最優先。僕が無意識にしていることもぜんぶ彼女のためになることなはず。
だから、君にこの状態に疑問を持たれていても、すぐに理由を見つけられる、はず。
「でも、僕に包まれてる方が君も安心して眠れるでしょ?」
……うん、完璧。
これは“君のため”っていう盾なんかじゃない。無我なんてどこにあるんだなんてどこかの声も聞こえないふり。僕の甘えも、照れも、欲も全部その裏に隠せる。しかも効果絶大。彼女は文句を言いながらもちゃんと腕の中にいるんだもん。
体温がじわじわと伝わって、胸の奥がじんわりと熱くなる。呼吸のタイミングが合って、頬が触れるたびに、世界が静まる。この瞬間だけは、僕が誰かのために存在してるんじゃなくて、君と一緒に“生きてる”感じがする。
でも、それを口に出すのはずるい気がして。だから僕はまた、都合のいい言葉でごまかす。
「奴隷ですから。ご主人様の安眠が最優先です」
腕の中で小さく笑う気配がして、「ほんとは依央利が甘えたいだけでしょ」って囁いたとき、胸が跳ねてしまったけれど、抱きしめる腕は緩めない。
——ばれた。
でも、離したくない。
君の髪に顔を埋めて、聞こえないくらい小さな声で、つぶやく。
「……好きだから仕方ないでしょ」
たぶん、気づかれてない。でもいい。この距離なら、息の音と一緒に僕の気持ちも届いてる気がするから。
◇可愛い奴隷
「依央利くんって可愛いね」
これは出会ってまだ間もない頃に君から言われた言葉。その頃の僕は都合よく言葉を受け取って喜んでいたんだ。
「……え、今なんて?僕、今、“可愛い”って言われた?ちょ、ちょっと待って。可愛い=使いやすい、扱いやすい、つまり——!」
「わ、なんか迫ってきた」
「僕が可愛いってことはつまり便利な奴隷だよって意味ですね!?契約更新します!? ね!?ねっ!!?」
慌ててポケットから契約書を取り出して差し出す。
「ほら、サインして!今すぐ!」
君は笑いながら止めに入るけど、僕にはそれがご褒美でしかなくて。だって笑った顔が、眩しすぎる。やっぱり君をご主人様にしてよかったんだ。心臓が変に跳ねたけど、それを“忠誠心の高鳴り”ってことで誤魔化していた。
恋なんて、そんなものあるわけないって、まだ本気で思ってた頃の僕。
そんな時期を通して。君のことを好きだと認めてしまった頃に。
「ねぇ依央利、やっぱり可愛いね」
また……言われた。“可愛い”って。でも、前と違って、今はその言葉が胸の奥に沈んでいく。ザワザワして、落ち着かない。どう返せばいいかわかんなくなって、言葉が喉につっかえた。
「え、あ……可愛い?そっか……」
ごまかすように笑うけど、頬が熱い。絶対、赤くなってる。見られたくない。君に知られたらまずい。僕が“君を好き”だなんて、そんなの——奴隷失格だから。
それでも口が勝手に動く。
「ちなみに君は、可愛い人ってタイプ?」
言っちゃった。何聞いてんの僕!?やめろ、バカ!君がぽかんとしてる。やばい、逃げろ!
「いや、なんでもない!はい!追加のお茶注ぎますね!熱々の!舌やけどしそうなら僕が冷ましてあげるから!!」
慌てて背を向ける。視線の奥で、君が笑ってた。その笑い声が、胸に刺さって痛いのに、嬉しくて、どうしようもなかった。
そんな苦くて甘い時期も越えて、僕が君の奴隷兼恋人という役割をもらったある日。
「依央利、やっぱり可愛い」
今はもうそんな君の言葉なんてお手の物。ちゃんと、受け止められる。だって僕は——君の隣にいられることが何より誇らしいから。それにーーー
「うんうん。君も可愛いからね♡」
言いながら、君の頬を指でつん、と突く。君は真っ赤になって、むすっとして。その顔が愛しすぎて、堪えきれない笑みがこぼれる。
「あとで、たーっぷり奉仕してあげるね♡」
「……だから、そういう言い方やめてってば!」
「えー?奉仕だよ?“好き”をこめた、全部の、奉仕♡」
そう言って抱きしめると、君の手が僕の背に触れた。あのとき、震えながら隠してた“想い”が、ようやく繋がった瞬間だった。
◇もちもちほっぺ
「いおり、ほっぺた柔らかいね〜」
そう言って、君の指が僕の頬をむにゅ、と挟んだ。え、なにこの状況。朝からずっとこんな調子だし、僕の顔をこねるのが流行ってるの?
「……あの、僕、今、家事の途中なんだけど……」
「いいからいいから。はい、もっちもち〜♪」
両手で頬を伸ばされる。左右同時に。たぶん、顔面が完全におもちになってる。視界の端で、君がニコニコしてるのが見える。可愛い。いや、そうじゃなくて。
「ちょ、ちょっとぉ……や、やめて……! 洗い物、進まな……」
「うるさい、可愛いんだからじっとして」
「ひゃっ……!?そんな言い方……っ、ずるい……!」
いつもはあまり聞けない命令口調に胸を高鳴らせていたら、君の指が軽くすべって頬に体温が伝わる。その瞬間、心臓がどくんと跳ねた。なんで……こんな、ただのスキンシップで、息が詰まりそうになるんだろ。
「ねえ、依央利」
「な、なに……」
「このもちもち、ずっと触っててもいい?」
「……奴隷的には、ご主人様の自由ですけど……」
そんな顔で聞かないでよ。僕、もうちょっとで正気なくすところだったじゃん。
「じゃあ、もうちょっとだけ」
「うぅ……わかった……あなたの従順な奴隷は大人しくもちもちされています……」
君の指が、優しく頬をなぞる。指の温もりが、皮膚の奥にじんわり沁みてくる。くすぐったくて、くるしくて、でも――幸せで。
「……依央利、顔赤い」
「っ、そんなことない!熱とかじゃないけど、も、もともとこういう血色なんだよ!」
「ふふっ、嘘つき」
その笑い声が、やけに胸に刺さった。
僕の中の“奴隷”は、「ご主人様が笑うならそれでいい」と言う。
でも、本当の僕は……ただ、君の指先を感じていたいだけだった。
◇怒りの理由
もうずっと、103号室のベッドで布団にくるまりながら時計を見ていた。針は日付を跨いで久しい。いつもなら「お待たせしました!」と誇らしげに布団へ潜り込んでくる依央利の姿が、今夜に限って見当たらない。
(……遅い。どうしたんだろう)
小さな不安が胸を撫で、冷たい夜気が頬を掠めた。そっと部屋を出て、廊下を歩く。リビングの方から、柔らかい灯が滲んでいた。
「ふんふんっ♪ あとこれ片付けたら完璧……っ、わっ、危ない……!」
楽しげな鼻歌。けれど、その身体はふらついて今にも倒れそうだった。洗い終えた食器が山積み、テーブルには畳まれた洗濯物。夜中まで、一人でここまで整えたのだと悟る。
「……依央利さん!」
声を上げると、びくっと肩を震わせて振り向く。
「わっ!?どうしてここに……あ、待たせすぎちゃった?ごめんね!ちょっと家事に夢中になってて……」
その笑顔に滲む疲れを見て、夢主の胸に何かが弾けた。
「もう……そんなふうにするなら、一緒に寝ません!」
その一言に、依央利の顔から色が消える。
「えっ!?そ、それは困る!僕の負荷が減っちゃう!ごめん!今日からもっと早く布団に入るから!」
「そういうことじゃないです!」
張り詰めた声。でも、言葉はそこで途切れた。心配の言葉が喉で詰まり、代わりに沈黙だけが落ちた。
廊下の時計が夜中の二時を告げる。二人の間に流れるのは、誤解と未完成な思いだった。
* * *
翌朝。
「……おはようございます」
依央利の声は少しかすれていた。笑顔の輪郭も、どこか滲んでいる。
「どうしたんですか依央利さん。顔色、悪いですよ?」
「え?そ、そうかな。ちょっと夜更かししただけで」
理解が声をかける。依央利の微笑むその瞳に、眠れない夜の影が見えた。心の奥で何かが、ひび割れる音を立てた。
(大丈夫……君が許してくれさえすれば、また眠れる)
そう信じながら、依央利は笑い続けた。だが夜がくるたび、103号室のベッドは広すぎた。目を閉じても、隣にいない現実だけがやけに鮮明で。
(どうして駄目なんだろう。謝ったのに……)
わからない。理由がわからないまま、夜が幾つも過ぎていった。
* * *
「いい加減どうにかなんねえのか」
「依央利くん、まるで失恋した人みたいだもんね」
誰かの冗談が、胸を刺した。
(……失恋、か)
そうかもしれない。負荷をくれる人の隣に眠れないのなら、それはもう立派な喪失だ。
夜の廊下。202号室の前で立ち止まる。手を伸ばせば、すぐそこに君がいる。けれど、ノックができない。指先を下ろす。扉の木目が、やけに遠かった。
* * *
「❀ちゃん」
202号室で休もうとしていたの、住人のひとりが呼び止めた。
「依央利くん、君と喧嘩してから眠れてないみたい。顔色も悪いよ」
「……そんな」
思い出す。あの夜の、彼の困ったような笑顔。「怒らせた」と勘違いして、必死に謝っていた顔。
(私、あの時……ちゃんと伝えられなかった)
胸の奥がじんと熱くなるのを感じていた。
* * *
数日後の夜。リビングに並んだ椅子。二人を座らせ、住人たちは静かに席を外した。残されたのは、夢主と依央利だけ。時計の針が、静かな音を刻む。
「……あの夜、怒ったのは……」
夢主の声は少し震えていた。
「依央利さんが倒れそうになるまで無理してたからなんです。私、待たされたことなんて怒ってません。……心配だったんです。あなたのことが」
依央利の瞳が揺れた。
「……僕のこと、心配して……?」
「当たり前です。あなたはいつも誰かのために動く。でも、自分のことを後回しにして。そんなの、見てる方が苦しいです」
依央利はゆっくりと立ち上がり、彼女の前にしゃがんだ。その瞳には、どこか安堵と痛みが混ざっていた。
「……僕、怒らせたと思ってた。でも、本当は心配してくれてたんだね」
その言葉にそっとうなずいた。
「依央利さんの優しさが好きです。だからこそ、壊れてほしくなかったんです」
少しの沈黙ののち、依央利は微笑んだ。
「……ありがとう。君の“優しさ”をようやくちゃんと見つめられた気がする。もう無理はしない………って約束はできないかもしれないけど、努力はする。だから、もう一度……一緒に寝てもいい?」
「……はい」
その一言に、夜の空気がやわらかくほどける。
二人の間を流れる沈黙が、今度はやさしい。
――その沈黙の中で、気づく。
愛とは、相手を変えることでも、支配することでもない。ただ、相手の「限界」や「弱さ」に気づき、それでも寄り添おうとする意志のこと。人はすれ違いながら、少しずつ相手の本当を知っていく。夜の痛みの中でしか、見えない優しさもある。
依央利が差し出した手に、自分の手を重ねる。温度が混ざり合う。時計の針が、またひとつ時を刻む。その音が、まるで“赦し”のように響いた。
二人の間に流れるのは、もう気まずい沈黙ではなく。すれ違いを越えて、ようやく辿り着いた“理解”という名のぬくもりだった。
◇ゼロの温度
台所の明かりが、まだ柔らかく灯っている。夕食を片づけ終えたあと、依央利は湯気の立つマグを手に、ぽつりと話し始めた。
「ねえ。ゼロが発明されたのって、意外とあとからなんだよ」
「へえ?」
向かいに座る彼女が顔を上げる。その瞳に、オレンジ色の光が反射して揺れた。依央利は、少し得意げに続けた。
「昔の人たちは、“何もない”っていう状態を“数”として扱う発想がなかったんだ。たとえば古代ローマ数字にはゼロが存在しない。Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ……って続いていくけど、“ゼロ個”を表す記号がないんだよ。でもね、紀元前五〜六世紀ごろのインドの数学者たちが、“何もない”という状態そのものを“数”として考え始めた。そこから“0”という概念が生まれたんだ」
ちらりと彼女の様子をうかがうと、湯飲みを手にしたまま静かに聞いてくれている。依央利は、指先でテーブルに小さな円を描きながら、言葉を重ねた。
「その発明がすごいのは、ゼロがあったから“桁”が生まれて、十進法ができたこと。10、100、1000……って、位取りの考え方ができるようになった。つまり、ゼロがなかったら、僕たちの計算も、コンピュータも存在しなかったんだ。“ゼロは、何もないのに、すべてを支えてる”ってわけ」
小さく笑って、肩をすくめる。
「なんか、不思議だよね。何もないのに、全部の根っこにいるんだ」
その瞬間、彼女がぽつりとつぶやいた。
「ゼロって……依央利みたいだね」
「……え?」
思わず顔を上げる。その声には、からかいの色はなかった。彼女は少し目を細め、言葉を選ぶように続ける。
「依央利って、自分のこと“空っぽ”とか“滅私”とか言うけど、そうは見えないの。ゼロって、何も持ってないようでいて、実は世界の仕組みを支えてる。依央利も、そういう人だよ。“何もない”ふりをして、全部を支えてる」
静寂。
時計の針がひとつ、またひとつ、時を刻んでいく。依央利は何か言おうとして、喉の奥で言葉が絡まった。心のどこかが、きゅっと熱くなる。
“空っぽ”という言葉で覆ってきた場所に、今、その言葉がゆっくりと染み込んでいく。
「……支えてる、か」
かすれた声でつぶやく。
「僕、そんな……たいしたものじゃないよ」
そう言いながらも、頬が少し赤い。その様子を見て、彼女はそっと笑った。
「たいしたものだよ。だって私、依央利がいないと立っていられないもん」
「……」
視線が合った瞬間、依央利は目を逸らした。耳まで赤くして、マグを持ち直す。
「ずるいなあ。そんなこと言われたら……空っぽでいられなくなるかもしれないじゃん」
照れ笑いの中に、どこか震えるような響きが混ざる。その“揺れ”は、確かに依央利の胸の奥に生まれた“熱”の証だった。彼女は優しく目を細める。
「いいんだよ、空っぽじゃなくて。依央利は、ちゃんと“ある”から」
その言葉に、依央利はほんの少しだけ笑った。
ゼロのように、何もないはずの心の中に――“ひとつ”の温もりが確かに存在した。
◇奴隷の添い寝
最初の頃、僕はちゃんと“添い寝係”だった。
それはつまり、「距離を保ったまま、彼女が眠りやすいように見守る役」。
お腹をぽんぽんして、髪を少し撫でて、呼吸が落ち着いたらそっと離れて——
そのルールを作っていた。
だって、近づきすぎたら、絶対に僕の下心がばれるから。
でも、人間って弱い。目の前で無防備に眠る君が寝返りを打つたび、その体温が少しだけ触れるたびに、心臓が跳ねて、眠れなくなる。
冷たい空気が包み込んだ静かな夜。「……寒くない?」って聞いたら、「少しだけ」って言われて。
少しだけ。
——その言葉が、僕の理性の崩壊スイッチだった。
気づいたら、そっと肩を抱いていた。ほんの一瞬だけ、のつもりだった。でもその一瞬が、毎晩の“当たり前”になっていった。いまではもう、僕の腕の中に彼女がいないと落ち着かない。
寝返りを打たれて体が離れると無意識に引き寄せてる。完全に抱き枕の逆転現象。
でも、奴隷たるものご主人様が最優先。僕が無意識にしていることもぜんぶ彼女のためになることなはず。
だから、君にこの状態に疑問を持たれていても、すぐに理由を見つけられる、はず。
「でも、僕に包まれてる方が君も安心して眠れるでしょ?」
……うん、完璧。
これは“君のため”っていう盾なんかじゃない。無我なんてどこにあるんだなんてどこかの声も聞こえないふり。僕の甘えも、照れも、欲も全部その裏に隠せる。しかも効果絶大。彼女は文句を言いながらもちゃんと腕の中にいるんだもん。
体温がじわじわと伝わって、胸の奥がじんわりと熱くなる。呼吸のタイミングが合って、頬が触れるたびに、世界が静まる。この瞬間だけは、僕が誰かのために存在してるんじゃなくて、君と一緒に“生きてる”感じがする。
でも、それを口に出すのはずるい気がして。だから僕はまた、都合のいい言葉でごまかす。
「奴隷ですから。ご主人様の安眠が最優先です」
腕の中で小さく笑う気配がして、「ほんとは依央利が甘えたいだけでしょ」って囁いたとき、胸が跳ねてしまったけれど、抱きしめる腕は緩めない。
——ばれた。
でも、離したくない。
君の髪に顔を埋めて、聞こえないくらい小さな声で、つぶやく。
「……好きだから仕方ないでしょ」
たぶん、気づかれてない。でもいい。この距離なら、息の音と一緒に僕の気持ちも届いてる気がするから。
◇可愛い奴隷
「依央利くんって可愛いね」
これは出会ってまだ間もない頃に君から言われた言葉。その頃の僕は都合よく言葉を受け取って喜んでいたんだ。
「……え、今なんて?僕、今、“可愛い”って言われた?ちょ、ちょっと待って。可愛い=使いやすい、扱いやすい、つまり——!」
「わ、なんか迫ってきた」
「僕が可愛いってことはつまり便利な奴隷だよって意味ですね!?契約更新します!? ね!?ねっ!!?」
慌ててポケットから契約書を取り出して差し出す。
「ほら、サインして!今すぐ!」
君は笑いながら止めに入るけど、僕にはそれがご褒美でしかなくて。だって笑った顔が、眩しすぎる。やっぱり君をご主人様にしてよかったんだ。心臓が変に跳ねたけど、それを“忠誠心の高鳴り”ってことで誤魔化していた。
恋なんて、そんなものあるわけないって、まだ本気で思ってた頃の僕。
そんな時期を通して。君のことを好きだと認めてしまった頃に。
「ねぇ依央利、やっぱり可愛いね」
また……言われた。“可愛い”って。でも、前と違って、今はその言葉が胸の奥に沈んでいく。ザワザワして、落ち着かない。どう返せばいいかわかんなくなって、言葉が喉につっかえた。
「え、あ……可愛い?そっか……」
ごまかすように笑うけど、頬が熱い。絶対、赤くなってる。見られたくない。君に知られたらまずい。僕が“君を好き”だなんて、そんなの——奴隷失格だから。
それでも口が勝手に動く。
「ちなみに君は、可愛い人ってタイプ?」
言っちゃった。何聞いてんの僕!?やめろ、バカ!君がぽかんとしてる。やばい、逃げろ!
「いや、なんでもない!はい!追加のお茶注ぎますね!熱々の!舌やけどしそうなら僕が冷ましてあげるから!!」
慌てて背を向ける。視線の奥で、君が笑ってた。その笑い声が、胸に刺さって痛いのに、嬉しくて、どうしようもなかった。
そんな苦くて甘い時期も越えて、僕が君の奴隷兼恋人という役割をもらったある日。
「依央利、やっぱり可愛い」
今はもうそんな君の言葉なんてお手の物。ちゃんと、受け止められる。だって僕は——君の隣にいられることが何より誇らしいから。それにーーー
「うんうん。君も可愛いからね♡」
言いながら、君の頬を指でつん、と突く。君は真っ赤になって、むすっとして。その顔が愛しすぎて、堪えきれない笑みがこぼれる。
「あとで、たーっぷり奉仕してあげるね♡」
「……だから、そういう言い方やめてってば!」
「えー?奉仕だよ?“好き”をこめた、全部の、奉仕♡」
そう言って抱きしめると、君の手が僕の背に触れた。あのとき、震えながら隠してた“想い”が、ようやく繋がった瞬間だった。
◇もちもちほっぺ
「いおり、ほっぺた柔らかいね〜」
そう言って、君の指が僕の頬をむにゅ、と挟んだ。え、なにこの状況。朝からずっとこんな調子だし、僕の顔をこねるのが流行ってるの?
「……あの、僕、今、家事の途中なんだけど……」
「いいからいいから。はい、もっちもち〜♪」
両手で頬を伸ばされる。左右同時に。たぶん、顔面が完全におもちになってる。視界の端で、君がニコニコしてるのが見える。可愛い。いや、そうじゃなくて。
「ちょ、ちょっとぉ……や、やめて……! 洗い物、進まな……」
「うるさい、可愛いんだからじっとして」
「ひゃっ……!?そんな言い方……っ、ずるい……!」
いつもはあまり聞けない命令口調に胸を高鳴らせていたら、君の指が軽くすべって頬に体温が伝わる。その瞬間、心臓がどくんと跳ねた。なんで……こんな、ただのスキンシップで、息が詰まりそうになるんだろ。
「ねえ、依央利」
「な、なに……」
「このもちもち、ずっと触っててもいい?」
「……奴隷的には、ご主人様の自由ですけど……」
そんな顔で聞かないでよ。僕、もうちょっとで正気なくすところだったじゃん。
「じゃあ、もうちょっとだけ」
「うぅ……わかった……あなたの従順な奴隷は大人しくもちもちされています……」
君の指が、優しく頬をなぞる。指の温もりが、皮膚の奥にじんわり沁みてくる。くすぐったくて、くるしくて、でも――幸せで。
「……依央利、顔赤い」
「っ、そんなことない!熱とかじゃないけど、も、もともとこういう血色なんだよ!」
「ふふっ、嘘つき」
その笑い声が、やけに胸に刺さった。
僕の中の“奴隷”は、「ご主人様が笑うならそれでいい」と言う。
でも、本当の僕は……ただ、君の指先を感じていたいだけだった。
◇怒りの理由
もうずっと、103号室のベッドで布団にくるまりながら時計を見ていた。針は日付を跨いで久しい。いつもなら「お待たせしました!」と誇らしげに布団へ潜り込んでくる依央利の姿が、今夜に限って見当たらない。
(……遅い。どうしたんだろう)
小さな不安が胸を撫で、冷たい夜気が頬を掠めた。そっと部屋を出て、廊下を歩く。リビングの方から、柔らかい灯が滲んでいた。
「ふんふんっ♪ あとこれ片付けたら完璧……っ、わっ、危ない……!」
楽しげな鼻歌。けれど、その身体はふらついて今にも倒れそうだった。洗い終えた食器が山積み、テーブルには畳まれた洗濯物。夜中まで、一人でここまで整えたのだと悟る。
「……依央利さん!」
声を上げると、びくっと肩を震わせて振り向く。
「わっ!?どうしてここに……あ、待たせすぎちゃった?ごめんね!ちょっと家事に夢中になってて……」
その笑顔に滲む疲れを見て、夢主の胸に何かが弾けた。
「もう……そんなふうにするなら、一緒に寝ません!」
その一言に、依央利の顔から色が消える。
「えっ!?そ、それは困る!僕の負荷が減っちゃう!ごめん!今日からもっと早く布団に入るから!」
「そういうことじゃないです!」
張り詰めた声。でも、言葉はそこで途切れた。心配の言葉が喉で詰まり、代わりに沈黙だけが落ちた。
廊下の時計が夜中の二時を告げる。二人の間に流れるのは、誤解と未完成な思いだった。
* * *
翌朝。
「……おはようございます」
依央利の声は少しかすれていた。笑顔の輪郭も、どこか滲んでいる。
「どうしたんですか依央利さん。顔色、悪いですよ?」
「え?そ、そうかな。ちょっと夜更かししただけで」
理解が声をかける。依央利の微笑むその瞳に、眠れない夜の影が見えた。心の奥で何かが、ひび割れる音を立てた。
(大丈夫……君が許してくれさえすれば、また眠れる)
そう信じながら、依央利は笑い続けた。だが夜がくるたび、103号室のベッドは広すぎた。目を閉じても、隣にいない現実だけがやけに鮮明で。
(どうして駄目なんだろう。謝ったのに……)
わからない。理由がわからないまま、夜が幾つも過ぎていった。
* * *
「いい加減どうにかなんねえのか」
「依央利くん、まるで失恋した人みたいだもんね」
誰かの冗談が、胸を刺した。
(……失恋、か)
そうかもしれない。負荷をくれる人の隣に眠れないのなら、それはもう立派な喪失だ。
夜の廊下。202号室の前で立ち止まる。手を伸ばせば、すぐそこに君がいる。けれど、ノックができない。指先を下ろす。扉の木目が、やけに遠かった。
* * *
「❀ちゃん」
202号室で休もうとしていたの、住人のひとりが呼び止めた。
「依央利くん、君と喧嘩してから眠れてないみたい。顔色も悪いよ」
「……そんな」
思い出す。あの夜の、彼の困ったような笑顔。「怒らせた」と勘違いして、必死に謝っていた顔。
(私、あの時……ちゃんと伝えられなかった)
胸の奥がじんと熱くなるのを感じていた。
* * *
数日後の夜。リビングに並んだ椅子。二人を座らせ、住人たちは静かに席を外した。残されたのは、夢主と依央利だけ。時計の針が、静かな音を刻む。
「……あの夜、怒ったのは……」
夢主の声は少し震えていた。
「依央利さんが倒れそうになるまで無理してたからなんです。私、待たされたことなんて怒ってません。……心配だったんです。あなたのことが」
依央利の瞳が揺れた。
「……僕のこと、心配して……?」
「当たり前です。あなたはいつも誰かのために動く。でも、自分のことを後回しにして。そんなの、見てる方が苦しいです」
依央利はゆっくりと立ち上がり、彼女の前にしゃがんだ。その瞳には、どこか安堵と痛みが混ざっていた。
「……僕、怒らせたと思ってた。でも、本当は心配してくれてたんだね」
その言葉にそっとうなずいた。
「依央利さんの優しさが好きです。だからこそ、壊れてほしくなかったんです」
少しの沈黙ののち、依央利は微笑んだ。
「……ありがとう。君の“優しさ”をようやくちゃんと見つめられた気がする。もう無理はしない………って約束はできないかもしれないけど、努力はする。だから、もう一度……一緒に寝てもいい?」
「……はい」
その一言に、夜の空気がやわらかくほどける。
二人の間を流れる沈黙が、今度はやさしい。
――その沈黙の中で、気づく。
愛とは、相手を変えることでも、支配することでもない。ただ、相手の「限界」や「弱さ」に気づき、それでも寄り添おうとする意志のこと。人はすれ違いながら、少しずつ相手の本当を知っていく。夜の痛みの中でしか、見えない優しさもある。
依央利が差し出した手に、自分の手を重ねる。温度が混ざり合う。時計の針が、またひとつ時を刻む。その音が、まるで“赦し”のように響いた。
二人の間に流れるのは、もう気まずい沈黙ではなく。すれ違いを越えて、ようやく辿り着いた“理解”という名のぬくもりだった。