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【世界を繋ぐもの(依央利夢)】



「どこ行くの。もう夜だよ。しかも雨降ってる」

 依央利の声には、わずかな苛立ちがにじんでいた。けれどそれは叱責ではなく、不安の裏返しだと依央利本人は自認している。

「なんか、こういう雰囲気好きだから、お散歩」

 彼女はあっけらかんと笑って答える。雨に濡れることも、夜の暗がりも、まるで大したことではないように。警戒心の薄さや危機管理能力の低さが、彼女の軽い声に透けていた。

「……はぁ、わかった。僕も行くからちょっと待ってて」

 ため息と共に言う依央利は、眉を寄せながら靴を履きに出る。心配だ、ひとりで行かせたくない──けれど「危ないから行くな」と素直に言えず、妥協のような言葉しか出てこない。

「ひとりでも平気」

 彼女は本気でそう思っているのかもしれない。肩をすくめて軽く言い放つ仕草に、依央利の胸はかすかにざわついた。

「全然平気じゃない。僕も行くから。勝手に行ったら閉じ込めるからね」

 言いながら、声は思わず強くなる。彼女を案じる気持ちが、素直な優しさではなく、不機嫌そうな脅し文句にすり替わってしまう。己の不器用さに気づきながらも、依央利はそれ以上どう言えばいいのか分からなかった。

「お散歩したいワンちゃん?」

 彼女はふっと口の端を上げて、からかうでもなく自然にそう言った。確かに自称国民の犬とは言ってはいるけれども。まさかここで犬と繋げられるとは思わず、だけれどもそうじゃないとも言い切れず。

「それでいいよ」

 依央利は短く答える。声には諦めと呆れが滲んでいた。彼女が自分の心配になど気づいていないことは、もう嫌というほど知っている。
 危ういくらいに自分を顧みず、平然と夜の雨の中へ出ていこうとする彼女。その無頓着さに苛立ちながらも、結局「だからこそ放っておけない」と思ってしまう自分がいる。
 守りたい気持ちと、伝わらないもどかしさが胸の奥でぶつかり合い、ため息に変わった。



「雨の夜ってさ、街灯や車のライトが幻想的で綺麗なんだよね」

 彼女は小さな子どものように目を輝かせながら、濡れた道に反射する光を見つめている。その無邪気さが眩しくて、依央利はほんの少し息を詰めた。

「そうかな」

 依央利の返事は素っ気なかったが、視線は彼女から離れない。彼女の言う“綺麗さ”よりも、暗い道を歩く彼女自身がどうしても気にかかってしまう。

「しかも、雨の音で雑音があまり聞こえなくなる」

 彼女は楽しそうに耳を澄ませる。確かに雨音が世界を包み込んで、街のざわめきを遠ざけていた。彼女はそれを「静けさ」と呼ぶけれど、依央利にとっては「周りの気配が消える」ことに近かった。護るべきものが見えにくくなる、落ち着かない静けさ。

「それはそうかもね」

 相槌を打ちながらも、依央利の手は自然と傘の柄を握る力が強くなる。

「あと、雨と一緒に自分も溶けちゃいそう」

 彼女はふっと笑いながら濡れたアスファルトを見つめた。その軽やかな声に、無防備さと危うさが混じって聞こえる。

「そういうところだよ。ほんと危ない」

 依央利は声を低め、眉をひそめる。彼女の言葉が幻想的に響けば響くほど、現実的な心配が胸を締めつけた。彼女は雨の中に溶けたいのかもしれない。でも自分は、決して彼女を見失いたくなかった。

「傘ってさ、小さな空間だけど、外の世界との境界線が引かれている場所がはっきり分かっていいね」

 彼女はふっと顔を上げ、傘の内側を見回す。その仕草は、秘密の隠れ家を見つけた子どものように無邪気で、どこか安心しきった様子だった。

「まあ雨に濡れなくて済むからね」

 依央利はいつもの現実的な調子で返事をした。だが、本当は彼女の言葉に少しだけ胸を揺さぶられていた。狭い空間に二人きりで閉じ込められている、という事実が、どうしようもなく意識にのしかかる。

「傘が、私と外の世界を繋げてくれてるんだね」

 彼女は小さな声でつぶやいた。隔絶ではなく「繋がり」と表現する彼女に、依央利は一瞬言葉を失う。彼女は雨や闇さえも美しいものに変えてしまう――そんな目で世界を見ていることが、羨ましくもあり、不安でもあった。

「その傘の中に僕もいるんだけど」

 少し拗ねたように言いながら、依央利は視線を横に逸らす。彼女が自分を当然のようにその“繋がり”の中に含めてくれているのか、それともただ無頓着に言葉を零しただけなのか――考えるほどに落ち着かなくなって、わざと素っ気なく聞こえる言い方になってしまう。

「こういうのってマティスの青い窓みたい」

 彼女は遠くを見るように目を細めながら言った。その横顔は、雨に濡れた街灯の光を受けて淡く照らされ、まるで絵画の一部のようだった。

「それ、君が好きな絵画だっけ」

 依央利は問いかけながら、彼女の声に宿る熱を感じ取っていた。好きなものを語るときの彼女は、普段よりずっと真剣で、そして情熱的だ。その姿が目に焼き付くように心に残る。

「そう。一見“窓”が外と内の世界を隔絶させてるように見えるけど、実は窓が外と内の世界を繋げてくれてる、そんな素敵な絵。マティスの青い窓を観に行くのが私の人生のタスクに入ってるくらい大好き」

 彼女の言葉は途切れなく溢れ、雨音と溶け合いながら響いた。その熱意のまっすぐさに、依央利は自然と口元をほころばせる。

「タスク、ね。もし君が生きているうちに見れなかったらどうするの」

 冗談めかして問いかけた声には、からかいよりもむしろ優しさが滲んでいた。彼女が夢中になって語るものを、ただ隣で受け止めたい――そんな気持ちが自然と滲み出るのを、依央利は止められなかった。

「絶対観る」

 彼女は傘についていた水滴を弾くように、力強く言い切った。雨の中でも揺るがないその眼差しは、街灯の光を反射して力強くきらめいている。

「強気だね」

 依央利は口元を緩め、抑えきれない微笑を浮かべた。好きなものを語るときの彼女は瞳の奥が鮮やかに輝く。その表情を見るたび、胸の奥がきゅっと掴まれる。守らなきゃ、なんて建前も要らない。ただ、この瞬間の彼女がひどく愛おしいのだ。

「青い窓は、絶対観る。……から、それまでは死ねない。私の寿命が尽きても、妖怪になっても」

 彼女は夜の雨を見上げながら、迷いのない声で言った。まるで、自分の存在理由をそこにすべて託すみたいに。

「そっか。……じゃあ、ずっと一緒にいられるわけだ」

 依央利の声音は柔らかいが、その奥に微かな震えがあった。彼女が生きる限り、隣に立ち続ける――それは奴隷の義務じゃなく、彼自身の祈りのような誓いだった。

「なんで?」

 彼女は怪訝そうに問い返す。

「僕も、君が生きているうちは死ねないから。君が死ぬまで、何度でも奉仕し続ける」

 口にした瞬間、依央利の胸の奥にひやりとした恐怖が過った。自分はただの奴隷だ、と言い聞かせても、その言葉はどこか恋にも似ていて、そして彼女に縛られることが心地よくて仕方がないように。

「……いらん」

 彼女はぷいと顔を背ける。雨に濡れた頬を隠すように。だがその仕草は、拒絶よりも照れに近かった。依央利はその小さな矛盾が愛おしくて、思わず静かに笑みを零した。

「青い窓は、君と僕も繋げてくれてるね」
「上手い感じにまとめるな」

 彼女は呆れたように言いつつも、どこか楽しげで。

「あはは。いつか君がその大好きな青い窓を見る時は、隣に僕もいたりするのかな」

 依央利は軽口のつもりで投げかけた。けれど胸の奥では、本当に願ってやまない未来をちらりと覗かせてしまっていた。

「え、いるでしょ」

 即答だった。迷いもなく言い切る彼女に、依央利は思わず目を瞬いた。

「そうかな」

 自分の声がわずかに弱くなるのを、本人が一番よくわかっていた。

「ずっと一緒にいるってさっき言ってたじゃん。なんでそこで弱気になるの。自分の言うことに責任もちなよ」

 雨の中で、彼女の視線が真っ直ぐに射抜いてくる。冗談でも気休めでもない、揺るがないその瞳。依央利は一瞬、言葉を失った。胸の奥が急に熱を帯び、喉の奥で呼吸が詰まる。
 そして、照れ隠しのように口元を歪め、笑うしかなかった。

「……そうだね。そうだった。君が嫌って言っても、一緒にいる」

 それは奴隷としての従順さを装った言葉のはずだった。けれど声音の奥には、隠しきれないものが滲んでしまう。――たとえ彼女が拒んでも、隣にいたい。生きている限り、手放す気はない。
 彼はその想いを、雨音の中に紛らせるように小さく呟いた。
 傘の内側に、小さな沈黙が落ちた。雨粒がぽつ、ぽつ、と一定のリズムで弾けて、まるで伴奏のように二人の間をやわらかく満たしていく。その静けさは、寒さよりもむしろ心地よかった。

「じゃあ、ちゃんと青い窓を一緒に見に行こうね。私が妖怪になる前に」

 彼女の声は軽く響いたけれど、その奥にほんの少しの切実さが滲んでいた。

「うん。約束する。君と僕で」

 依央利の声はやわらかく、けれど芯のある響きを持っていた。その一言には、奴隷としての義務ではなく、彼自身の願いと決意が確かに込められていた。
 依央利は彼女の横顔を一瞬見てから、そっと空を仰ぐ。傘越しに覗く夜は重たく沈んでいたが、雨粒が光を散らして滲ませていた。その滲みはどこか幻想的で、約束をそっと包み込むようでもあった。

「でもさ」

依央利は小さく息をついた。吐き出された白い息が、雨の冷たさにすぐにかき消されていく。

「僕らがどんなに願っても、未来が必ずそうなる保証はないんだよね」

 彼の声音には不安というより、淡々とした現実を受け入れている響きがあった。

「縁起でもないこと言わないでよ」

 彼女は眉をひそめるが、その声には怒りよりもかすかな怯えが混じっていた。未来が揺らいでしまうことへの怖さ。それを感じさせたのは、他ならぬ依央利の言葉だった。

「違うよ。絶望じゃなくて、むしろ希望の話」

 依央利はすぐに首を振った。彼女を怖がらせたことに気づき、慌てて言葉を重ねる。

「未来は不確かだからこそ、今こうして君と歩いているこの時間が、奇跡みたいに尊いってこと」

 雨の音がその言葉をやさしく包み込む。
 彼女は一瞬、黙り込んだ。足元の水たまりに街灯の光が揺れて映り込み、二人の影が水面の中でゆるやかに溶け合っていく。その重なりは、ひとつの存在になろうとするようにも見えた。

「……じゃあ、青い窓を観たいって私が言うのも、ただの未来の幻想ってこと?」

 ぽつりとこぼした声には、挑むような強さと、ほんのわずかな不安が混じっていた。

「幻想だからこそ意味があるんじゃないかな」

 依央利の声は雨に溶けるように穏やかだった。けれどその穏やかさの裏には、彼女の願いを決して否定したくないという必死さがあった。

「青い窓を観るっていう約束は、実際に観られるかどうかよりも、君が“観たい”って思うことに価値がある。人間は叶うかどうかより、願うことで生きてるんだと思う」

 彼は言いながら、自分自身の胸に刺さるものを感じていた。――僕だってそうだ。奴隷だなんて言いながら、結局は君と未来を願ってる。その願いがあるから、僕は今日も君の隣に立っていられる。そう思っていた。

「……願いで生きる、か」

 彼女は小さく呟いた。その声音には皮肉も照れもなく、素直に響いた驚きのようなものがあった。
 足元の水たまりに、街灯が星のように揺れる。彼女はその揺れを見つめながら、心の中で何かを確かめるように言葉を続けた。

「じゃあ私は、死ぬまでずっと世界を勝手に綺麗に見続けてようかな。雨の夜を静かだって思ったり、窓に希望を見たり、意味のないものに意味を勝手につけ続けるの」

 依央利は思わず、笑みをこぼす。彼女のそういう強情で、子どもみたいに無鉄砲な生き方が、胸をぎゅっと掴んでくる。

「いいね。それなら僕は、君が見ている世界を、ずっと隣で覗き込んでいるね」

 彼の声には、彼女に言った以上の願いが滲んでいた。――君が生きている限り、僕もその景色を一緒に見たい。君が死んでしまっても、君が見た世界を覚えていたい。そんな思いが、雨音にかき消されるように胸の奥で熱く渦巻いていた。
 ふたりの足音と雨音だけが夜道に響く。未来は不確かで、いつか終わりが来ると知っている。けれど今、この小さな傘の下には確かに宇宙のような温もりがあった。

「願いで生きるなら、死んだらどうなるんだろうね」

 不意にこぼれた彼女の言葉は、雨音に溶けるように淡く響いた。軽口のようでいて、その瞳はふと遠くを見るように翳っていた。
 依央利は歩みを少しだけ緩める。彼女の声色の奥に、自分でも気づいていない寂しさや恐れが滲んでいるのを感じ取ってしまったから。

「……終わるんじゃない?」

 彼は慎重に言葉を選びながら答えた。その声音には残酷さも優しさもない。ただ、真実をそっと差し出すような静けさがあった。

「終わりかぁ。無になっちゃうのかな」

 彼女は苦笑のように呟いた。けれどその笑みは、ほんのわずかに震えていた。

「かもしれない。でも、無になったとしても、君がここで生きていたことが消えるわけじゃないよ」

 依央利の目が、傘の内側でまっすぐに彼女を捉えた。その瞳は夜の闇ににじみながらも、不思議と揺らぎのない光を宿していた。

「どういうこと?」

 彼女は首をかしげる。

「たとえば、君が『青い窓を見たい』って言った。僕はその言葉を聞いた。それだけで、君の願いは僕の中に刻まれた。たとえ君がいなくなっても、君の見た世界や願いは僕の中で生き続ける」

 彼女は少し目を細めた。その言葉は、慰めのようでいて不思議と嘘臭さがなかった。依央利が彼女の言葉や願いを本当に大切に抱き続ける人間だと知っているからだ。

「じゃあ私が死んでも、依央利が覚えててくれるなら、それはまだ生きてるってこと?」
「僕にとってはそうだよ。……でも、逆も同じだと思う」

 依央利は一瞬言葉を飲み込み、それから小さく息を吐いた。

「もし僕が死んだら、君の中で僕が生きている。死んで消えるのは体であって、存在そのものは誰かの中に残るんだ」

 雨粒がまた一段と強くなり、傘を叩く音が激しく響く。
 ふたりは自然と肩を寄せ合った。寄せ合ったというより、気づけばもう寄り添わずにはいられなかった。

「……それなら、死ぬのもちょっと怖くなくなるね」

 彼女の声は小さく震えていたが、その奥にある芯は強かった。

「うん。君が僕を忘れない限り、僕は死んでもここにいるよ」

 依央利は、彼女の中に生き続ける未来を信じるように、静かに言い切った。

「じゃあ、絶対に忘れない」

 彼女の声は、雨のざわめきにもかき消されないほど凛としていた。その誓いは彼女らしい強気さであり、依央利の胸を熱くするものでもあった。
 依央利は頷き、彼女の横顔を見つめる。――どうかこの人が僕を忘れませんように。その祈りが、胸の奥でじんわりと熱を帯びて広がっていく。

「僕も、君を忘れない。だから、死んでもずっと君と一緒にいる」

依央利の言葉は誓いというよりも、夜の雨に自然と溶けていく祈りだった。
 傘を叩く雨音がいっそう強まり、まるで世界中の雑音をすべて閉ざしてくれているように感じられる。その小さな円の内側で、ふたりの呼吸だけが確かに響いていた。
 彼女はふっと笑う。心から安らいだ微笑みだった。依央利はその横顔を見つめ、胸の奥がじんわりと熱を帯びていくのを感じる。――たとえ未来がどう転んでも、この瞬間だけは揺るがない。
 雨に濡れたアスファルトは街灯の光を受けて星空のように瞬き、ふたりの影はその上に寄り添うように伸びていた。まるで、夜空の片隅に新しい星座が刻まれたかのように。

 未来は不確かで、約束も幻想にすぎないかもしれない。
 それでも――今ここで並んで歩く二人の姿は、確かに世界と繋がっていた。


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