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【依央利SS詰め】




◇気弱な君と


窓の外では、秋の風が葉を揺らしていた。
 薄く開けたカーテンから流れ込む風に、テーブルの端に置かれた紙がはらりと揺れる。けれど彼女は、視線を落としたまま、唇を噛んでいた。
 その表情が、僕を苛立たせる。苛立ちというよりも、胸をつかまれて揺さぶられるような焦りだった。
 どうしてそんなふうに、僕から距離をとろうとするんだ。

「はぁ!? なんで僕を解放しようとするの?」

 気づけば声が大きくなっていた。自分でも驚くほど。

「僕は君の奴隷だよ? 君が“行かないで”って言えば、死んでもそばにいるのに!」

 彼女はびくりと肩を揺らし、けれどやはり弱々しい声で言った。

「……でも、私なんか……」

 その言葉が耳に入った瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなった。

「その言葉、禁止!」

 僕は一歩、彼女に近づく。

「“大丈夫”とか“私なんか”って、それは僕の負荷を勝手に減らす呪いの言葉だから!」

 彼女が小さく瞬きをする。瞳が揺れている。
 けれど僕は止まらなかった。止まれるはずがなかった。

「僕をもっと酷使して、依存して、重くて面倒で手がかかる子になってくれなきゃ困るんだってば!」

 言葉に自分の願望がにじみ出てしまう。いや、隠す気もなかった。

 彼女は視線を伏せ、膝の上で指先をぎゅっと握っている。そんな姿が、余計に僕の胸をかき乱す。

「わかってる? 僕はご奉仕マシーンじゃないんだよ?」

 声を抑えようとしても、感情が漏れ出す。

「……いや、奉仕マシーンなんだけど。ただの機械じゃないの!言われたこと以上のことだってできるのに!君と一緒にいる時の僕は、君専用のやつだから。他にエネルギー割きたくないの!」

 彼女の視線がかすかに上がる。けれどその目にはまだ遠慮が残っている。
 だから僕は、さらに言葉を重ねる。

「だからさ……“行かないで”って裾を掴んで。命令して」

 言いながら、彼女のワンピースの裾に視線を落とす。あの布を彼女の手が握る姿を想像して、喉が渇いた。

「そうしたら僕、一生この場から動かないから」

 静かな部屋に僕の声だけが響く。彼女の鼓動の音すら聞こえてきそうなほど、張りつめた空気だった。
 その時、彼女の瞳が揺らいだのを見逃さなかった。

「ほら〜、言いたいんでしょ?」

 僕は少し笑ってみせる。けれどその笑みは、きっと余裕のないものだ。

「“行かないで”って。僕が居なくなるの、実は嫌なんでしょ?……いいから、ちゃんと僕を縛って」

 彼女は小さく首を振ろうとする。だがその動作も弱々しく、否定しきれない。僕はその一瞬を逃さない。

「もっと欲張りになってよ」

 言葉が自然と熱を帯びる。

「君がわがまま言うたびに、僕の存在意義が満たされるんだから」

 彼女の喉が震え、言葉にならない声が漏れる。
 僕はさらに一歩近づき、まるで祈るように囁いた。

「お願いだからさ……僕の負荷を奪わないで? 僕のことを手放さないで」

 自分でも、今の声がどれほど切実か分かる。

「君の“僕が必要”って一言だけで、僕は全部満たされるんだから」

 これ以上ないくらいに、息が、詰まる。沈黙が二人を包む。

 窓の外では、風が葉を鳴らしていた。けれど、僕の耳に届くのは彼女の浅い呼吸と、自分の心臓の音だけだった。
 彼女は唇を震わせ、視線を逸らす。けれど、ほんのわずかに僕のほうへ身体を寄せるその仕草が――答えのすべてを物語っていた。



◇胃袋の容量


昼下がりのコンビニ前。
 空気はほんのり揚げ物の匂いを運び、ガラスケースの中で金色のからあげ棒が湯気を立てていた。

「今日のお昼はっと……」

 ❀は財布を手に、小さく首をかしげる。

「パン食べるつもりだったけど、からあげ棒もいいな。両方買おうかな」

 そのとき、不意に頭の奥で声がした。

『❀ちゃん……あなたの奴隷です。聞こえますか。あなたの胃ではどちらか一方しか食べれません』
「!?」

 思わず周囲を振り返る。けれど、依央利の姿はどこにもない。
 それでも声ははっきり、鮮やかに脳内へ響いた。

『あと、僕が作ったもの以外食べようとしたこと、あとで……っておい!何両方買おうとしてるの!』

 彼の焦りが伝わってきて、❀は吹き出しそうになる。

「フランクフルトも美味しそう」
『ちょっとちょっと!何してるの!?僕は食べれないって言ってるでしょ!なんで追加しようとしてるの!?』
「脳内に直接語り掛けないで」

 呆れ顔でそうつぶやきながら、結局、全部をトレーに載せてしまっている。
 レジに向かう背中へ、依央利の声がなおも追いかけてくる。

『君が自分の胃袋の限界を把握してないからでしょぉ!?そもそも僕以外の作った飯を食べようとって……ああ!?全部買ってるじゃん!?』

 レジ袋を受け取った瞬間、ほんの少しの罪悪感が芽生えた。それでも「美味しそうだから」という一言が、その罪を軽くしてしまう。

 ***

 帰宅。
 玄関の戸を開けたとたん、既に居間で待っていた依央利が鋭い目でこちらを見た。腕を組み、まるで裁判官のような構えで。

「……」
「何か言い残すことは?」

 その声に、小さく肩をすくめる。

「だって美味しそうだったもん」
「百歩譲って、僕以外のクソ飯を食べたことは一旦置いておいてあげる」
「置くだけなんだ」
「当たり前でしょ。許さないから」

 依央利の口ぶりは冷たくとも、目の奥には本気の怒りよりも、心配と苛立ちが入り混じっている。
 彼は袋を覗き込み、眉をひそめた。

「問題はね、君が小食のくせに、食べきれないくせに買ったこと」

 テーブルに並べられたパンとからあげ棒、そしてフランクフルトを順に指差す。

「ほら。やっぱ残してんじゃん」
「食べきれると思った」
「どうして食べきれないのに買うの」
「食べきれると思った」
「それで全部食べれた試しがないじゃん」

 依央利はため息をつき、額を押さえる。

「いい加減自分の胃袋の容量把握して。僕でさえ、君が美味しく食べれる量を作るのにすごく時間かかったんだから」

 その声に、胸が少し痛んだ。
 叱られる子どものように視線を落とし、テーブルの上の食べかけを指でつつく。

「……じゃあ、次は依央利に任せる」

 小さな声だった。けれど、依央利は一瞬言葉を失ったように目を瞬かせ――すぐに顔をほころばせる。

「かしこまりっ。僕に全部任せて」

 その声には勝ち誇った色と、安堵の響きが混ざっていた。
 苦笑しながら「はいはい」と返事をしつつ、胸の奥がほんのり温かくなるのを感じていた。
 食べきれなかった昼食が、冷めたままテーブルに残っている。けれど、二人の間には不思議と甘い余韻が漂っていた。



◇違う音色


シェアハウスのリビングは夕陽に染まりはじめていた。窓から差し込む光が床に長い影を落とし、部屋の空気を柔らかく染めている。
 数人がソファに腰をかけ、それぞれくつろいでいた。

「依央利〜、スイートポテト作って〜」
「依央利くん、これ洗濯やっておいてくれる?」

 軽い声が飛ぶたびに、彼はぱっと顔を上げる。

「はーいよろこんでっ!!」

 両手をひらりと振り、まるで注文を受けた店員のように快活に返す。足取りも軽くキッチンへ向かい、笑い声がリビングに広がった。
 ――頼まれることは楽しい。
 誰かの役に立つのは、呼吸のように自然で、喜びそのものだ。
 けれど。

「依央利」

 ふと、少し控えめな声が彼を呼んだ。
 振り返ると、部屋の隅に立つ彼女の姿があった。遠慮がちに目を伏せ、両手を胸の前で組んでいる。

「大したことじゃないんだけど……あとで、一緒におはなししたいな」

 小さな声だった。けれどその一言が、彼の胸の奥に鋭く響いた。途端に呼吸が詰まり、のどがひくりと鳴る。

「んぐ……」

 曖昧な声しか出せなかった。先ほどまでの明るさとは違い、急に体温が上がるのを感じる笑顔を作ろうとしても、口元がわずかに震えた。

 彼女は一瞬、不安そうに眉を寄せた。

「だめ?」

 その言葉に、彼の心臓が跳ねる。
 「だめ」とは絶対に言えない。むしろ――。

「ううん♡……よろこんで……♡」

 ようやく絞り出した声は、先ほどの軽快さとはまるで違った。甘く、少し震え、彼女だけに向けられる響き。
 周りの誰も気づかないだろう。けれど、彼にとっては大きな告白と同じだった。洗濯も料理も、頼まれれば喜んでやる。だが「おはなししたい」というただそれだけのお願いが、どんな家事よりも重たくて、嬉しくて、胸をかき乱す。
 彼はそっと視線を逸らし、耳まで赤くなっているのを隠そうとした。手元のエプロンをきゅっと握りしめる。
 ――落ち着け。何でもないことのように振る舞え。
 だが心臓は暴れるように鳴り続けていた。

 リビングのざわめきの中、ただ一人、彼だけがひとつの言葉に縛られている。
 「あとでおはなししたい」――その約束が、夕焼けよりも眩しく胸を照らしていた。



◇君なしじゃ


夜のリビング。淡いオレンジ色のライトが、二人を柔らかく包んでいた。
 隣に座る彼女を見つめながら、依央利がぼそりと呟く。

「……僕がいないと、ダメになればいいのに」

 甘え半分、期待半分。
 けれど返ってきたのは――彼の予想をはるかに超える言葉だった。

「んー?既にそうなってはいるよ」
「えぇ!?!?」

 依央利は飛び上がるように振り向いた。耳が一瞬で真っ赤に染まり、目はまん丸になる。
 彼女は微笑み、静かに続けた。

「依央利と出会わなければ、一人でも生きていけたのに……依央利と出会ってしまったから、もう私は依央利がいないと生きていけないなぁ」

 その言葉が耳に入った瞬間、彼の思考は真っ白になった。胸の奥で、何かが爆ぜる。

「え……え、え……? えへ……えへへ〜♡」

 笑い声とも泣き声ともつかない声を漏らしながら、彼の顔はくしゃくしゃに崩れる。にやけた口元が止まらず、瞳は潤んで、もう隠しようがない。

「なにそれぇ!?♡ずるい!可愛すぎる!!反則だよ!!」

 ソファの上で身をよじり、思わず彼女に飛びついてしまう。両腕を回して、子犬のようにぎゅうぎゅうに抱きしめる。頬をすり寄せ、しっぽがあったら千切れるくらいに振っているだろう勢いで、身体中が喜びを表していた。

「も〜〜♡僕もそうだよ〜!君がいなきゃ何もできない〜!呼吸もできない〜!僕の存在意義〜♡」

 腕にしがみついて顔を埋めながら、必死に甘える。まるで「離さないで」と全身で訴える子犬のように。
 彼は頬をすりすりしながら、さらに声を震わせた。

「撤回はナシだからね!?今の言葉!!一生忘れないよ!?僕もう墓まで持ってく〜♡」

 そして最後には、彼女の胸元にしがみついたまま、呟く。

「……ねぇ、僕をもっと縛って。もっと依存して。僕を呼吸みたいにして。だって……僕、もう君のことが大好きすぎて……どうしようもないんだもん♡」

 腕に絡みつき、子犬みたいに離れようとしない依央利。
 その姿は、奴隷でも奉仕者でもなく、ただただ「君が好きで仕方がない」男の子にしか見えなかった。



◇夢うつつ


依央利は目を覚ました瞬間、胸の奥がまだ甘い夢の続きを抱えているのに気づいた。
夢の中で彼女と寄り添って、笑って、触れ合って――その幸福感が、目覚めても消えない。いや、むしろ隣で眠そうにしている彼女を見たら、夢よりずっと可愛くて愛しくて、もう抑えきれなかった。

「今日の朝ごはんね、君が好きなのばっかり用意したんだよ♡」

彼女はまだとろんとした目で「うん……」と小さく返す。
その声があまりにも愛らしくて、依央利は頬が緩むのを止められなかった。

「ヨーグルト、好きでしょ。フルーツ、君が喜ぶかなってたっぷり入れたから♡」
「ほんとだ、おいし……」

小さな声で呟きながら口に運ぶ姿。依央利の胸はとろけそうになる。
ああ、なんでこんなに可愛いんだろう。夢の中より、現実の彼女の方がずっとずっと――。

「ふふ、まだねぼけてるね♡眠い?いいよ、食べ終わったら一緒にベッド戻ろ。君を腕枕してぎゅーってしてあげたいな♡」
「うん……」

こくりと頷く仕草に、理性が吹き飛びそうになる。彼女しか目に入らない。
ふと、口元に白い跡がついているのを見つけて、依央利は微笑んだ。

「あ、ほっぺにヨーグルトついてる……とってあげるね」

そう言って、指で拭う代わりに――彼女の頬に軽く口づけを落とした。

「(ちゅっ)」

甘い音が響いて、彼女の目がぱちりと瞬く。

「……んふ♡かぁいいね♡」

その一瞬で、依央利は完全に夢の続きの中にいた。
いや、夢よりももっと、現実の方が甘い。

「ははは破廉恥ですよ!?!?!」

横で見ていた理解が顔を真っ赤にして叫ぶ。

「朝からセクシーですね」

天彦は微笑ましく見守り感心している。

「は~~……そういうのよそでやってくんない?」

テラはあきれ顔で頭を抱えた。

だけど依央利は気にしない。ただ彼女の手を取って、蕩けるような笑みを向ける。

「もう、ほんと可愛い……どうしよう。君を見てるだけで胸がいっぱいで、息が苦しいくらいだよ♡」

その言葉は、夢から覚めてもなお醒めない恋心そのものだった。



◇運命ごと契約


 目覚めた朝、世界がほんの少し、違って見えた。
 いや――正確には、“見えるようになった”。

 人と人との間に、淡く薄紅の糸が漂っている。日常の風景に紛れ込んだそれは、異空間めいた幻想的な光景が広がっている。ふわりと空気に揺れ、絡まりそうで絡まらない。たった一本で、誰かと誰かを結びつける、儚くも確かな“赤い糸”。

「へぇ。そういうスキルを授かっちゃうんだ、僕。恋のキューピッドとしての新しい負荷かな?よし、どんどん負荷をよこしてー!」

 とはいえ最初のうちは、ただ眺めるだけだった。
 スーパーで見かけた老夫婦の手元に赤い糸が通っていれば、ああやっぱり、と納得できた。
 ファーストフード店でスマホに夢中な男子学生の小指に、まだどこにも繋がっていない糸を見つけたときは、「繋がらない場合もあるのか」と推測できた。
 この街は、目に見えない無数の糸で満ちていた。

 そうした光景を目にすると、真っ先に確かめたくなる顔があった。

「……あの子の糸は、どこに繋がってるんだろうね。できれば、僕との“奴隷契約糸”になっててほしいなぁ」

 ハウスに遊びに来ている友人。
 ――いつか僕の「ご主人様」になってくれると信じている、あの子。早く、会いたい。
 駆け足でハウスへ向かい、息を少し弾ませながらリビングに戻る。胸の奥にほんのわずかな確信と、それ以上に大きな不安を抱え、くつろいでいた君の小指に視線を落とした。

 そこには、確かに赤い糸があった。真っ直ぐに、誰かへ向かって伸びている。
 けれど――

 僕の小指からは、何も伸びていなかった。
 君の糸もまた、僕には繋がっていなかった。

 ……ああ、そういうことか。

 一瞬、世界がぐにゃりと歪んだ気がした。肺の中の酸素が急に薄くなり、内臓が裏返るような、不快で耐え難い感覚。気づけば奥歯を強く噛みしめていた。
 君が顔を上げ、「どうしたの?」と笑う。その優しい問いかけに返せたのは、薄く貼りつけた笑顔だけだった。

「えっと……なんでもないよ。そうだ!ちょっと負荷が足りてないって思ってたところなんだよねー!ほらほら、おやつ作るよ。今日は何が食べたい?僕を酷使して?手間のかかるやつでいいから!」

 声はいつも通り。笑顔も自然にできた。
 ――演技って、案外できるものなんだな。そんなふうに他人事のように思う。
 けれど、君がふと窓の外を見やって嬉しそうに微笑んだ瞬間、僕の目には、その糸の“先”がはっきりと映った。
 まだ見ぬ「運命の相手」へと繋がるその赤い糸を。
 僕は、無言で睨みつける。

「……なんで、僕じゃないの」

 喉の奥で呑み込んだ言葉は、焦げ付くように熱を持ち、苦しさだけが残った。
 心の奥が黒い液体に浸されたように重く、ざらついていた。

 けれど――

「そうだ、依央利。あとで公園までお散歩行かない?最近ちょっと運動不足でさ」

 君が無邪気に話しかけるから、僕の中にあるドス黒い塊は息を潜める。


「かしこまりっ!お茶準備するね!公園でサンドイッチでも食べる?それともクッキー焼こうか?重たい荷物は全部僕が持つから!ついでに首輪も引っ張る?!」
「おやつはここで食べるから大丈夫だし、首輪は引っ張らないよ」

 君が笑えば、僕も笑う。何も知らない従順な“奴隷”を装って、君の隣を歩く。
 いつも通り、変わらない日常。
 けれど、僕の視線はずっと――あの赤い糸の先にあった。

「……切れればいいのに」

 本気で、そう思いながら。

 奴隷が丹精込めて作ったクッキーを食べた君は満足そうに夕方の街を歩く。僕の手には片手で持てる程度の軽い荷物。
 楽しそうに話す君を見つめていると、ふと、小指が糸に触れた。

 ――あれ、今、触れた……?

 ただ“見える”だけじゃなかった。もう一度確かめるように触れると、糸がわずかに震えた。

「……そういうこともできちゃうんだ」

 心臓が急におかしくなったみたいに動き出す。どくん、どくんとやけに音が大きい。君が「どうかした?」と問いかけても、その声は遠く、耳に届かない。

 ――これってもしかして、切れる?

 気づけばハウスの前に立っていた。
 無我夢中で君の手を引き、103号室の扉を開ける。戸惑う声を背に受けながら、そのまま部屋の隅へ君を押し込んだ。

 早く試せ。糸を、断て。
 頭の奥でそんな声が響き、僕は従順に頷いた。

「どうしたの、依央利」
「……どうしても、今日中にやっておきたいことがあるんだ。だから、君は少しだけここでくつろいでて」

 喉が焼けるように痛い。声はかすれ、出すのがやっとだった。

「すぐに終わるから。ごめんね、君に負荷をかけてしまって」
「いや、依央利のベッド使わせてもらってるし、負荷とかは――」

 その続きを聞く前に、僕は君の小指に繋がる糸をそっと握った。誰にも見られないように。誰にも邪魔されないように。

 糸を握り、ゆっくり――引いた。
 ぴん、と張っていた糸が、軋む音を立てる。それはまるで肉を裂くような、不快で――なのに妙に快い音だった。

 ピキッ――

「……ふ、ふふっ……ちゃんと切れた」

 音もなく糸は宙を舞い、途中で千切れた。その瞬間、胸の奥に広がったのは、ぞくりとするほどの快感だった。

「……これで、“運命の人”は消えた」

 静かに笑う。君は何も知らず、「ん?」と笑い返す。だから僕も、にこにこと微笑んだ。

「うん、大丈夫。ごめんごめん、なんでもないの。ちょっと掃除がしたかっただけ」
「えー、朝も掃除してたんでしょ?というか、手に何も持ってないじゃん。奉仕したすぎて発作でも起きたの?」

 君は冗談めかして笑った。その横で、僕の手の中にはまだ、千切れた赤い糸の端がふわふわと漂っていた。

 震え、迷い、宙を彷徨うその糸を――

 僕は、そっと、自分の小指に結びつけた。
 躊躇はなかった。ぎゅうっと、固く、絶対にほどけないように。

「……うん、やっぱりこうじゃなきゃ」

 結びつけた瞬間、胸の奥がじわりと熱を帯びる。それは快楽とも安堵ともつかない、甘く濁った熱だった。

「君が僕以外の誰かに奉仕されるなんて――あり得ないよね。君は僕に命令して、僕だけを酷使して、僕にずっと負荷を与えてくれればいいんだから」

 糸をさらに締め上げる。小指に食い込むその痛みが、契約の証拠のようで心地よい。
 運命なんて要らない。本物かどうかなんてどうでもいい。僕が壊した。僕が作り直した。だから、これは僕たちの“本物”だ。
 誰にも知られず、誰にも触れられず、誰にも壊させない。僕が結び直したこの糸で、君はもう逃げられない。

「……今日は、夜ご飯も食べていきなよ」

 いつもと同じ声、いつもと同じ笑顔。
 けれど、その奥で静かに脈打つものがある。

「僕、頑張っちゃうから。君の胃袋も、時間も、人生も……全部、僕に委ねてよ」

 君は気づかない。何も知らずに笑う君の横で、僕はそっと、その糸を慈しむように撫でた。手の中で、赤い糸がまだかすかに震えている感覚を感じ、口角が上がる。

 その震えが二度と消えないように、僕はもう一度強く結び直した。
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