このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

TOUKENRANBU

[ばけもののかぞく]


本丸の中庭には、夜の冷たい空気が漂っていた。月明かりが静かに降り注ぎ、木々の影を伸ばしている。大和守安定は縁側に座り、夜空を見上げていた。

「……主」

小さく呟いたその声は、月夜に消えていく。安定は手にしていた小さな布切れを握りしめた。それは昼間、主が手拭いで涙を拭ったものだった。

笑っているのに、心が泣いている。

ここ最近の主の様子を思い出すたび、胸が締め付けられるようだった。本丸ではいつもぎこちない笑顔を浮かべ、「大丈夫だよ」と繰り返している主。しかし夜になると、ふと襖の向こうから静かな嗚咽が聞こえる。それは、安定にとって刃よりも鋭く心に刺さるものだった。

「安定」

昼間の主の声が耳に蘇る。安定に話しかける時も、無理に笑顔を作っているのが分かる。その笑顔の奥に、言葉にできない悲しみが隠れていることも。
主に何かがあったんだ――現世で。
それは刀剣男士としてすぐに悟った。しかし、刀である自分には、現世に行く術がない。主を苦しめる何かを直接取り除くことができない。それが悔しくて仕方がなかった。

「僕じゃ……何もしてあげられない」

安定は握りしめた布を膝の上に置き、深く息をついた。

それでも何もできないままでいるわけにはいかなかった。だから、彼は夜な夜な主の部屋の近くに足を運ぶ。主の涙の音が聞こえるたび、障子越しに静かに座り込むだけだった。言葉もかけず、ただ近くにいるという事実を、気配で感じ取ってもらえるように。

その夜も同じだった。主の部屋の前でそっと膝をつき、障子越しに耳を澄ます。主の泣き声は静かに続いている。

「主……」

小さく名前を呼んでみる。もちろん返事はない。だが、涙の音は少し弱まったような気がした。
本当に、これしかできないのか。
自分を責める感情が胸に湧く。それでも安定は、夜の冷気を感じながらその場に座り続けた。
やがて、泣き声が止むのを確認すると、安定はそっと立ち上がり、主の部屋に向かって小さく呟いた。

「おやすみなさい、主。また明日、笑顔で会おうね」

障子の向こうで、微かに何かが動く気配があった。主はきっと、眠りにつこうとしているのだろう。安定は静かに背を向け、縁側へと戻っていく。
いつか、きっと。
安定は心の中で誓った。主がその笑顔を本物にできる日が来るように、そしてその笑顔を守り続けられるように、全力を尽くすと。

夜空には、安定のそんな決意を見守るように星が輝いていた。


***


安定は、その日もいつものように主の帰還を出迎えた。
現世への帰省から本丸に戻ってくる主は、いつもふらふらとした足取りで疲れ切った様子を見せていた。
しかし、今日は違った。

「……主、その腕、どうしたの?」

安定の目に飛び込んできたのは、主の袖口から覗く薄紫色のアザだった。
彼は思わず主に駆け寄り、その腕をそっと掴む。主は驚いたようにその手を振り払おうとしたが、力が入らず、ただ困ったように笑ってみせた。

「大丈夫だよ、安定。ちょっとぶつけただけだから」

その笑顔が、安定の心に深く刺さる。何度も見てきた、無理に作られた笑顔。

「嘘でしょ?」

安定の声が震える。主は何も言わず、ふらつきながらそのまま自室へと消えていった。
胸に渦巻く疑念と不安を抑えきれず、安定はすぐに加州清光を探した。主の初期刀である清光なら、この状況を知っているかもしれない――そう思ったのだ。
清光は刀剣の手入れをしているところだった。安定の焦りが伝わったのか、手を止めて振り向く。

「清光……!あるじの、主の腕にアザがあった。何があったのか知ってる?」
「お前、見たのか……?」

安定は息を切らしながら問い詰めるように言った。その声に清光は少し眉をひそめ、視線を落とした。

「……誰にも言うなよ」

清光の低い声に、安定の胸がざわついた。

「主は――毒親に搾取されてる」

その一言に、安定は息を呑んだ。

「現世に行くのは、毎月の給料を親に渡すためだよ。その親が、主のことをどう扱ってるのか……お前も、さっき見ただろ?」

清光の声には抑えきれない悔しさが滲んでいた。

「暴力……って、まさか……!」

安定の言葉が詰まる。

「親の機嫌が悪いと、そうなる。主は、ずっとそれに耐えてるんだ」

清光の瞳が揺れる。彼もまた、この事実に胸を痛めているのは明らかだった。

「何もしなくていいの?!」
「俺もずっと考えてんだよ!!」

安定の声が怒りに震えたのと同じくらい、清光の声も悲しく震えていた。

「俺たちが現世の人間に手を出すと、罰せられるんだよ。そうなると、刀剣管理の不行きとして最終的に主に迷惑がかかってしまう。俺たちまで主の負担になってしまうと、元も子もないだろ?」

清光は安定の言葉を遮るようにそう言ったが、その表情には自嘲が浮かんでいた。

「そんなのおかしいよ!」

安定は拳を握りしめ、清光を睨む。

「清光はそれでいいの?主がこんなに傷ついてるのに、黙って見てるだけなんて……!」

その言葉に、清光は少しだけ目を閉じ、深く息を吐いた。そして、静かに言った。

「いいわけないだろ。俺だって、いますぐにでも主の親を殺してやりたい。でも、それができないんだよ。この世界のルールじゃ……俺たちは手出しできない」

その声には、刀剣男士としての無力さに対する怒りと悔しさが滲んでいた。安定はその言葉に何も返せなかった。ただ、その場に立ち尽くすしかなかった。
主を守りたい。それなのに、何もできない。
胸の中に渦巻く怒りと無力感を抑えきれず、安定は拳を強く握りしめた。その手から血が滲みそうなほど力を込めても、どうしようもない現実を変えることはできなかった。

「……主のために、僕たちにできることってなんだろう」

呟いたその声は、小さく震えていた。清光は何も言わなかった。ただ、黙って手元の刀を研ぎ続けるだけだった。
二人の間に漂う沈黙が、夜の空気に冷たく溶け込んでいった。


***


安定は縁側で立ち尽くしていた。主がまた現世に向かうための道具を手に取り、旅支度を整えている姿を、何も言えず見ているしかなかった。
止めなきゃ――でも、どうしたらいい?
安定は胸の奥で渦巻く焦りを押さえきれず、ついに意を決して駆け寄った。

「主、行かないでよ!」

主は驚いたように振り向いたが、その顔には相変わらず困ったような笑みが浮かんでいた。

「安定……ありがとう。でも、行かないと審神者を続けられないから」
「そんなの……そんなの、おかしいよ!なんで主が傷つかなきゃいけないんだ!僕、嫌だよ。もうこれ以上、主があんな風に帰ってくるの、見たくない」

安定の声は泣きそうに震えていた。自分でも抑えきれない感情が、次々と言葉になって溢れ出す。
けれど主は、何も言わずにただ弱々しい笑顔を浮かべた。そして、安定の頭を軽く撫でると、小さく呟いた。

「ごめんね」

その言葉だけを残して、主は光の中へ消えていった。
安定はその場に座り込んだ。どうしようもない無力感が胸に広がり、涙がこぼれそうになる。

「泣くなよ」

聞き慣れた声が頭上から響いた。振り返ると、そこには清光が立っていた。

「清光……」
「主を止められなかったんだろ?しょうがない。俺もずっと言ってきたけど、止められなかったからさ。でも、お前が泣いてたら主はもっと辛くなるぞ」

清光は淡々とした口調で言いながら、安定の横に腰を下ろした。そして、ふっと小さく笑った。

「関与するのはダメだけど、様子を見に行くくらいなら問題ないだろ」
「……どういうこと?」

清光は目を細め、安定を真っ直ぐに見つめた。

「俺たちも、こっそり現世に行くってことだよ」

その言葉に、安定は目を見開いた。

「でも、それって……」
「直接現世のものに関与しなければ、罰せられることはない。主がどんな状況にいるのか、ちゃんとこの目で確かめよう。それくらいはしてもいいだろ」

清光の提案に、安定は迷うことなく頷いた。主を守るためなら、何でもしたかった。

二人は気配を消し、こっそりと現世に降り立った。そこは古びたアパートの一室だった。主が暮らす場所とはとても思えないほど荒れ果てた空間だった。

「ここが主の家……?」

安定が呟いたその時、奥の部屋から怒鳴り声が聞こえてきた。

「いつも遅いんだよ!どれだけ待たせる気だ!」

男の罵声は外にまで聞こえている。声の主は主の親だった。続けて、何かが激しく床に投げつけられる音が響いた。

「……っ!」

安定は反射的に駆け出そうとしたが、清光が腕を掴んで止めた。

「駄目だ、安定。手を出したら、俺たちは罰せられる」
「でも、主が……!」

安定の瞳には涙が浮かんでいた。それでも、清光の表情は変わらなかった。

「アイツの心は人間じゃない。我が子をあんな風に扱うなんて……まるで化け物だ」
「……今は見守るしかない。けど、絶対に帰ったら主のためにできることを考えよう」

清光の言葉に、安定は拳を握りしめて耐えた。
部屋の中では、主が弱々しく謝り続けていた。その声を聞きながら、二人はただ黙って立ち尽くしていた。

本丸に戻った後、安定は主のために何かできることはないかと考え続ける。そして、清光もまたその横で静かに刀を研ぎながら、同じ思いを抱えていた。
主を、何とかして守りたい。
その気持ちは、ますます強くなっていった。


***


本丸の庭に柔らかな夕陽が差し込む頃、主と刀剣男士たちが賑やかに笑い合っていた。
今日は主の好きな菓子を用意しての茶会だ。仕事を分担したことで、主が少しでも気を休める時間を作ろうと安定が本丸のみんなに相談した結果だった。

「こんなに楽しい時間を作ってくれて、本当にありがとう」

主が微笑む。その顔は穏やかで、以前よりも柔らかくなっているように見えた。安定は主の隣に座りながら、その笑顔を静かに見つめていた。安定は主を見守りながら、一層心の中で主を支える決意を固めていた。
――でも、これじゃ駄目だ。
安定はそう思わずにはいられなかった。夜、主の部屋から聞こえる泣き声。それは今も変わらず続いている。楽しい時間をどれだけ作っても、根本的な何かが主を縛りつけている限り、涙は止まらない。

「……根本を変えなきゃ」

安定は心の中で静かに決意を固めた。

夜、安定は一人で縁側に座り込んでいた。庭には涼しい夜風が吹き抜けているが、胸の中は熱い焦燥感で満たされていた。
僕が何もしなければ、主はきっとずっとこのままだ。清光も他のみんなも、主を想って協力してくれているけど、現世での問題に直接手を出すことには踏み込めない。だけど――僕はもう見ているだけなんてできない。
安定は刀を握りしめ、静かに立ち上がった。

翌日、安定はひとり準備を整え、本丸を出る決意をした。現世への道具を手に取り、こっそりと主の後を追うつもりだ。

「主を守れるのは僕しかいない」

自分に言い聞かせるように呟きながら、安定は現世への扉を開いた。
降り立った先は、主が暮らすアパートだった。薄暗い廊下に立ちながら、安定は静かに気配を消し、主の部屋へと近づいた。
部屋の中からは怒声が響いている。

「お前のせいで金が足りないんだ!」

安定の心が激しく揺れた。中では主が小さな声で謝り続けている。それだけではない、鈍い音とともに主が倒れ込む姿が見えた。

「……っ!」

安定は思わず刀を握り直した。身体が勝手に動きそうになる。
駄目だ、冷静になれ――罰を受ける覚悟があるなら、確実に主を救う方法を見つけなきゃ。
安定は深呼吸をし、目を閉じた。そして、動かないと決めた自分を責めながらも、現場を冷静に見守った。

本丸に戻った安定は、胸に抱えた怒りと悔しさを誰にも言えず押し込めていた。清光が不審そうに声をかけてきたが、安定はただ笑って誤魔化した。
これ以上、清光にも他のみんなにも迷惑はかけられない。僕一人で、何とかする。
安定はその夜、こっそりと行動を起こす計画を練り始めた。

「主を泣かせる奴を、許すわけにはいかない」

その瞳には、誰にも言えない強い覚悟が宿っていた。


***


主が現世の家の扉を開けた瞬間、いつもの罵声も、物が飛んでくる気配もなく、ただ静寂だけがそこに広がっていた。
ごみが散らかった部屋の中でひときわ目立つのは、小さな卓上に置かれた一枚の紙だった。

『もう帰ってこなくていい』

殴り書きのような文字が、嫌でも目に飛び込んでくる。しかし、その字はあの父親にしては嫌に端正な字だ。主はその場に立ち尽くし、何度もその文面を読み返した。信じられない気持ちと、これが本当に現実なのかという困惑が胸を満たしていく。

幼いころから父の暴力と理不尽な支配の中で育ってきた。母の記憶はなく、かつて「ママはどこにいるの?」と尋ねた時に受けた怒鳴り声と暴力だけが、胸に深い傷跡を残している。

「……どうしたらいいんだろう」

誰もいない部屋に呟くが、返事は当然ない。手掛かりもなければ、行く宛もない。しばらくその場に立ち尽くした後、主はふらふらと本丸へ帰るための道具を取り出した。
本丸に帰り着くと、いつものように穏やかな時間が流れていた。

「おかえりなさい、主」

一番に迎えに来てくれたのは安定だった。柔らかな笑顔で主を見つめる彼の顔を見た瞬間、主の中にあった緊張の糸がぷつんと切れた気がした。

「おかえり、主。今日は疲れた?」

清光も軽やかな足取りで近づいてくる。その後ろには鶴丸や堀川たちの姿も見え、次々に温かい言葉をかけられる。

主はぎこちなく頷いて、なんとか笑みを返す。刀剣男士たちの優しさに触れるたび、現世での出来事が夢のように思えてきた。

「……どうしたらいいんだろう」

また同じ言葉が口をつく。けれど、今回は一人じゃなかった。

「何も決めなくていいよ、主」

安定が優しく声をかける。

「まずは少し休んで。それから、ゆっくり考えればいい」

清光も頷き、軽く肩に触れる。

「そうそう、俺たちがいるんだから、焦らなくて大丈夫」

主はその言葉に、小さく頷いた。焦らなくてもいい。ここには、ただ自分を迎え入れてくれる場所があるのだから。

その夜、主は久しぶりに深く眠ることができた。刀剣男士たちがそばにいるという安心感が、心を少しずつ解きほぐしていく。現世での困惑や苦しみが完全に消えるわけではないけれど、この本丸でなら、もう少し頑張れそうな気がした。


***


夜の静寂が本丸を包む中、安定は一人、刀の手入れをしていた。鋼の刃が月明かりを受けて冷たく輝く。布に油を馴染ませながら、彼は刃に付いた汚れを丁寧に拭き取っていく。

「放置すると錆びてしまうからね」

誰に言うでもなく呟く声が、部屋の中に小さく響く。
今日の出来事を思い返す。今日斬った化け物は驚くほど弱く、己が刃を振るった瞬間に、その存在すらもあっけなく消え去った。

「……あの程度だったら、もっと早く僕が始末しておけばよかった」

布を刃に滑らせながら、彼はぽつりと呟く。その声に怒りや憤りはなく、ただ静かで冷ややかだった。自分がもっと早く行動していれば、誰も苦しまずに済んだかもしれない。その思いが心の奥底にわだかまりとなって残る。
だが、その言葉を知る者は誰もいない。本丸の仲間たちがいる中で、安定だけが抱える孤独な責任感だった。

刃を綺麗に拭き終えると、安定はその刀を見つめた。

「僕は主を守るためにここにいるんだ。だから、迷いなんて持つべきじゃない」

そう自分に言い聞かせるように呟き、刀を鞘に収める。安定にとってその言葉は、主や仲間たちには見せることのない決意の形だった。
その夜もまた、誰にも知られることのないまま、彼の独り言は静かに夜闇へと溶けていった。


***


本丸の庭に、秋風がそっと吹き抜ける。主は縁側に座り、ぼんやりと空を見上げていた。その顔にはどこか生気がなく、心の奥底まで疲れ果てているようだった。

現世で捜索願を出し、警察や政府に父の行方を依頼してから、どれだけの時間が過ぎただろう。それでも父は見つからない。ずっと父に従うことが自分の役目であり、生きる意味だと思ってきた。そんな父がいなくなった今、心の中には空っぽな虚無感だけが広がっていた。

「……わたし、どうしたらいいんだろう」

ぽつりと呟いた声は、誰にも届かない。それがさらに孤独を深めていくような気がして、主は膝を抱えて小さくうずくまった。

「主」

聞き慣れた声に顔を上げると、安定がそっと隣に腰を下ろしていた。いつも通りの穏やかな笑顔を浮かべているが、その瞳にはどこか心配の色が滲んでいる。

「まるで心が空っぽになっちゃったみたいなの」

主は正直に告げた。自分の言葉があまりに弱々しく聞こえて、苦笑いすらできない。

「そうだね」

安定は否定することなく、ただその言葉を受け止めた。しばらく何も言わずに主を見つめた後、静かに続ける。

「でもさ、主。これからは僕らのことを家族だと思えばいいよ」

その言葉に、主は目を見開いた。

「家族……?」
「うん。清光も、堀川も、和泉守も、みんな主のことを大事に思ってる。だから、僕らが主の家族になればいいじゃない」

安定の声は穏やかで、まるで遠くから流れてくる暖かな風のようだった。その柔らかな笑顔を見た瞬間、主の中で何かが弾けた。

「……!」

涙が一滴、また一滴と頬を伝う。止めようとしても止まらない。自分でも驚くほどぽろぽろと溢れてきた。

「安定……」

主は声にならない声で彼の名を呼ぶ。それでも、安定は慌てることなく、優しく微笑んだままだった。

「泣いていいんだよ、主。ずっと頑張ってたんだから」

その言葉に背中を押されるように、主は膝に顔を埋めて声を上げて泣いた。嗚咽が止まらない。ずっと知らなかった。こんなにも人の言葉や存在が心を温かくすることがあるなんて。

「……ありがとう」

泣き疲れて絞り出すように呟いたその言葉に、安定は「うん」と静かに頷いた。
その日、主は初めて嬉し涙というものを知った。そして、自分が本丸という新しい家族に守られていることを、心の底から実感した。


***


あの夜から、本丸での日々は少しずつ変わっていった。

わたしは、これまで刀剣男士たちとどこか距離を置いていたことに気がついた。彼らの優しさを知りながらも、踏み込む勇気がなかったのだ。でも、安定くんの「家族」という言葉に救われたその夜から、わたしは少しずつ彼らと心を通わせるようになった。

朝、目を覚ますと、すでに堀川くんが台所で朝食を用意してくれている。

「主さん、今日の朝ごはんは和食にしてみました。お味噌汁と卵焼き、漬物も手作りですよ」

彼の笑顔は眩しくて、わたしの心まで明るくする。

「ありがとう、堀川くん。すごくいい匂いがするね」

そう言うと、彼は照れくさそうに笑った。
鶴丸さんも遅れてやって来て、わたしの隣に腰を下ろす。

「おいおい、きみ。最近笑顔が増えたんじゃないか?まるで俺のいたずらが成功した時みたいに楽しそうだな」

からかうような言葉をかけられて、思わず笑ってしまう。

「そんなことないですよ。でも、みんなが優しいから、なんだか楽しいなって思えるようになったんです」

自然に口をついて出た言葉に、鶴丸さんも堀川くんも目を丸くする。

「おお、これは驚きだ。きみがそんな風に言うなんて、俺までうれしくなっちまうな」

鶴丸さんが大げさに手を叩き、堀川くんも「そうですね」と頷いてくれた。
昼間は庭でのんびり過ごすことが多くなった。今までは仕事に追われてばかりで、自分の時間を持つ余裕なんてなかったけれど、最近は刀剣男士たちが手伝ってくれるおかげで、少しずつ気持ちに余裕が生まれてきた。

ある日、わたしは縁側で本を読んでいると、清光が近づいてきた。

「主、何読んでるの?」

彼が覗き込むように聞いてくる。

「江戸時代の風俗について書かれた本だよ。清光たちの時代が気になって」

そう答えると、清光は「へえ、勉強熱心だね」と笑った。

「でも、難しいことばっかり書いてあるんだよね」

少し困った顔をすると、清光は隣に座って本を覗き込んできた。

「だったら、俺たちに聞けばいいじゃない。直接教えてあげるよ」

その言葉に、わたしは思わず笑顔になる。
夜になると、わたしの部屋にはよく誰かが訪れる。時には安定くんが静かな声で今日の出来事を話してくれたり、清光が新しい着物のコーディネートを見せてくれたりする。

ある夜、安定くんがわたしの部屋を訪ねてきた。

「主、少し散歩に行かない?」

彼の誘いに頷いて、二人で庭を歩く。月が明るく、足元を照らしてくれる。

「最近、主が前よりずっと笑顔になってくれて、僕も嬉しいんだ」
安定くんが優しく言う。その言葉に胸がじんわりと温かくなった。

「安定くんのおかげだよ。あの夜、あんなに優しい言葉をかけてくれて、わたし……本当に救われたんだ」

そう告げると、彼は「家族なんだから当然だよ」と照れくさそうに笑った。その顔を見て、わたしもつられて笑った。
本丸での日々は穏やかで、暖かい。以前は遠く感じていた彼らの存在が、今では本当に大切な家族のように思える。まだ心の中に空っぽな部分があるけれど、それを少しずつ埋めてくれる人たちが、ここにはいる。

わたしはこの場所で、少しずつ自分を取り戻していくのだろう。家族と共に、ゆっくりと歩んでいこうと心に誓った。


***


父の捜査報告を聞いた帰りに現世の家に寄った。久々に来たアパートは誰もいないからかずっと散らかっていた。狭い部屋の中に所狭しと積まれたゴミ袋と壊れた家具、使い古された生活用品が無造作に転がっている。

「僕がゴミを分別しておくよ、主は荷物を整理して」

安定はそう言って、手早く片付けを始めた。手際の良さに感心しながら、わたしは物置と引き出しの整理を始めた。

「主、このペンかすれちゃってたから捨てていいよね」
「うん」

中には、ほとんど使われていない文房具や古びた衣類、時折目にする記憶の欠片のような品々があった。使い込まれた木製の玩具や、色褪せた小さなノート──けれど、それらに触れる気にはなれない。ただ捨てるために箱へ放り込むだけだ。

ふいに、安定の声がした。

「主の家にはアルバムはないの?」

彼は、ゴミ袋を縛りながら振り返って尋ねてきた。その表情は、どこか期待するようなものだった。

「アルバム……?」

わたしはその言葉を繰り返してみる。記憶の中にそれらしきものが浮かばない。

「家族と撮った写真とか、小さい頃の主の写真とか、ないのかなって」

安定は、明るい声で続けた。しかし、その言葉を聞いてわたしの心には重い影が落ちた。
家族と写真を撮った記憶なんてない。そもそも、父がわたしを可愛がったことなんて一度もなかった。写真どころか、まともな家族の思い出すらないのだ。

「たぶん、ないと思う」

そう答える声が乾いていたのを、安定が気にしていないことを祈る。

「そっか……小さい頃の主を見てみたかったな」

彼は少し残念そうな顔をして笑う。その無邪気さが、わたしの心を痛く締め付けた。
小さい頃のわたしなんて、見る価値なんてない。父の暴力で体中傷だらけだったし、いつも怯えて縮こまっていた。もし写真が残っていたら、その姿を思い出してしまうだけだ。

──残っていなくてよかった。

心の中でそう呟いて、わたしは黙々と作業を続けた。
部屋を片付ける中で、家族の思い出など見つかるはずもなかった。ただ、安定がわたしの過去に少しでも興味を持ってくれたことが、不思議な気持ちを呼び起こしていた。

帰り道、安定がふと口を開く。

「主、これからは僕らと一緒に新しい思い出を作ればいいよ。家族写真だって、これから撮れるだろうし」

その言葉に、わたしは胸の奥が熱くなるのを感じた。新しい思い出──考えたこともなかった。だけど、安定の優しい笑顔を見ていると、それが不可能ではないような気がした。

「そうだね」

かすれた声で答えながら、わたしはそっと目を伏せた。
これから先、どんな未来が待っているのかはわからない。それでも、安定と一緒なら、少しずつでも前に進んでいけるかもしれないと思えた。


***


本丸の縁側に座り、庭を眺めながらわたしは思いを巡らせていた。あの父に振り回された日々、自分の意思を封じ込め、ただ従うことでしか生きてこられなかった時間のことを。あの頃の自分は、何を考えていたのだろう。
ふと、安定が隣に腰を下ろした。彼は手元で茶碗を傾けながら、柔らかな声で言う。

「主、少し顔が曇ってるよ。何か悩んでる?」

その問いかけは不思議と心に沁みた。本丸に来てから、誰かに自分の気持ちを聞かれることが増えた気がする。ここでは、わたしがわたしであることを認めてもらえる。

「ううん、大丈夫。ただ、少し過去のことを思い出してただけ」

そう答えると、安定は少し考え込むように目を細めた。

「そっか。でもさ、過去のことって、時々自分を縛る鎖みたいになるよね」

その言葉に、わたしは静かに頷いた。

「……そうだね。だから、わたし、ずっと怖いんだ。父のことを思い出すたびに、何もかもがよみがえってきて、縛られてる気がして」

その時、安定が茶碗を置き、まっすぐにわたしを見つめた。その目は、わたしを包み込むような優しさに満ちていた。

「でもね、主。過去は変えられないけど、向き合うことはできるよ。そして向き合った分だけ、きっと主は強くなれる」
「……わたしに、できるかな」

その不安げな問いに、安定は笑って首を振った。

「主ならできるさ。だって、ここに来てから、少しずつ変わってるの、僕は知ってるから」

それは、確かに感じていたことだった。本丸のみんなの気遣いが、少しずつわたしの心を溶かしていた。笑顔の清光、忙しい仕事を分担してくれる物吉、優しく励ましてくれる長谷部、たまに茶目っ気たっぷりに話しかけてくれる鶴丸……みんなの言葉や仕草が、どれだけわたしを支えてくれているか、知っている。
けれど何より、安定の穏やかで、それでいて芯のある優しさがわたしを後押ししてくれている。

「主には、本丸のみんながいる。それに、僕もそばにいる。だから一歩踏み出してみようよ」

その言葉を聞いた瞬間、胸の中に何かが灯るような感覚がした。

「ありがとう、安定。……わたし、決めたよ。過去の自分と決別する」

安定は微笑みながら、そっと手を伸ばしてきた。

「あなたなら、できるって知っているよ」

手のひらに触れた瞬間、その温もりがわたしの勇気となった。もう逃げるわけにはいかない。父がいなくなった理由を知るために、そして過去に囚われた自分を解き放つために、わたしは過去へ飛ぶ決意をしたのだった。


***


わたしはアパートの廊下にひっそりと立っていた。
古びたドアの向こうから漏れる音を頼りに、過去の父が何をしていたのかを確認していた。政府からは「審神者一人で過去に行くな」と厳しく言われていたが、わたしはどうしても知りたかった。父が、なぜ突然姿を消したのか、その真実を。
過去に干渉さえしなければ大丈夫。そう自分に言い聞かせながら、わたしは時空を飛んだ。

何度かの飛躍で見た父の姿は、やはりわたしの記憶にある通りだった。酒をあおり、酔い潰れる日。賭け事に熱中して負け、部屋の中のものを壊して怒りをぶつける日。それらの光景は、まるで過去のわたしを追体験するようで、胸が締め付けられた。

そして、またある日のアパートの前。

「なんだお前!どこから来た!なんだその手に持っているものは!!」

アパートの部屋から聞こえてきたのは、耳にこびりついて離れない父の叫び声だった。怯えにも似たその声を聞いた瞬間、わたしの足はすくみ、体が硬直する。目を閉じ、耳を塞ぐ。父の怒鳴り声はまるでPTSDのように私の身体に刻み込まれて、脳が自分を守ることだけ考えろと思考を鈍らせる。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

しかし、ドタバタと荒れ狂う音が廊下にまで響いてくる。何が起こっているのか、気にはなったが、わたしには見る勇気がなかった。

しばらくして、音がぴたりと止んだ。静寂が訪れると同時に、好奇心と恐怖がせめぎ合う。わたしは震える手で、そっと回りこみ、恐る恐る玄関のドアを開けた。
そこにあったのは、血だまりに倒れ込む父の姿。そして、目が合ったのは――安定だった。

「……えっ?」

驚きと混乱で声が出なかった。どうしてここに安定がいるのか理解が追いつかない。そんなわたしをよそに、安定はまるで散歩でもしているかのような軽やかさで、微笑みながら手を振ってみせた。

まるで「よく来たね」とでも言うように。


***


アパートの廃れた玄関に立ち尽くし、わたしは目の前の安定を見上げていた。頭の中は混乱でいっぱいだった。

「安定……? どうしてここに……いつの間についてきてたの?」

震える声で問いかけると、安定は少し首を傾げ、無邪気な笑みを浮かべる。その表情は、本丸でいつも見せてくれる優しい安定そのものだった。

「ついてきた? 何のこと?」

その答えに、心臓が締め付けられるようだった。

「だって、さっきまで縁側で私を励ましてくれたじゃない……過去の自分と決別する勇気をくれたのに」

言いながらわたしの声は震えた。だが、目の前の安定はそんなわたしを見て、何かを思いついたように目を見開き、そこからさらに穏やかに笑った。

「あなたは未来から来た主だね」

その言葉は、まるで明るい未来を祝福するかのようだった。

「……何を言ってるの?」

「過去と向き合う勇気が出たくらい、未来では元気になってくれて嬉しいよ」

その笑顔は優しく、どこか慈愛に満ちているようだった。けれど、背筋を這うような寒気がわたしを襲う。安定がここにいること、その安定が父と対峙していた事実――すべてがあまりにも異常だった。

「父を……殺したの?」

わたしの声は小さく、ほとんど聞き取れないほどだったが、安定ははっきりと答えた。

「そうだよ。主を傷つける敵だからね」

その言葉に、わたしの足元から力が抜けた。涙が勝手に流れて止まらない。

「どうして……どうしてそんなことをしたの?」

安定はわたしの涙をじっと見つめていたが、足元に転がる死体を蹴り飛ばし、やがて一歩、また一歩と近づいてきた。

「主、まだ泣いてる……その涙も、きっとコイツが原因なんだよね」
「違う、やめて、どうして……こんなこと、して」

後ずさろうとするが、足が震えてうまく動かない。次の瞬間、わたしは安定の腕に包まれていた。

「主を、あなたをどんなものからも守りたかった。ただそれだけだよ」

耳元で囁くように言われたその言葉は、紛れもない安定の声だった。だが、その温かさの中に確かに潜む狂気が、わたしを凍りつかせる。
安定の抱擁は力強く、暖かく、そして異常なほどに絡めとられるようなものだった。

「大丈夫。これから先、どんなことがあっても主は僕が守るよ」

その声はまっすぐで、愛情に満ちているはずなのに、わたしにはその純粋さが今は何より恐ろしい。
わたしの中でパラパラと何かが崩れていく感覚がする。自分が弱かったせいで、頼ってしまったせいで、安定がこんなにも歪んでしまったのだと悟った。その事実が胸を締めつけ、後悔で頭がいっぱいになる。安定の言葉が優しいほど、わたしは胸の奥が痛くなる。

わたしが刀から呼び出したやさしいかみさま。

「あなたが怖いと思うもの、辛いと感じるもの、全部ぜんぶ僕が壊してあげる」

それを、わたしの手でばけものに変えてしまった。
4/10ページ
スキ