TOUKENRANBU
[初期刀と近侍の攻防]
ある日の本丸、庭の木漏れ日の中で加州清光と物吉貞宗が向き合っていた。清光の目は鋭く、物吉は余裕を纏い微笑んでいる。
「物吉」
清光が口を開いた。
「主の一番が誰かって、わかってるよな?」
物吉は首を傾げて見せた。
「もちろん、ボクですけど?」
「はぁ?お前いつからそんな勘違いしてんだよ」
清光は腕を組み、鼻で笑った。
「主の初期刀は俺なわけ。主が審神者になった時から俺が支えてきてんの。それに戦場でも内番でも、いつだって俺が最前線で活躍してる。つまり、主の一番は俺に決まってんの」
物吉は肩をすくめ、少し考える素振りを見せた。
「うーん、でも清光さん、あまり近侍をしていませんよね。主様のお側にいつも控えて、おはようからおやすみまでお守りしているのはボクです。それに、ボクが来てから主様が幸運に恵まれてるって、みなさん言っていますよ?」
清光の眉がピクリと動いた。
「それがどうしたっての。幸運になんて頼らなくても、俺は実力で主を守れるけど?」
「実力だけで守るのも立派ですが、主様の心に寄り添うのも大事ですよね」
物吉は一歩近づき、柔らかい笑みを浮かべた。
「主様が夜に寂しそうなとき、そばにいたのはボクですよ?」
清光は言葉を詰まらせたが、すぐに言い返した。
「そ、それはたまたまだろ!俺だって、本当は主と一緒にいたいけど、遠征部隊に組まされることが多いし、部隊の引率しないといけないの!」
「そうですか?」
物吉はさらに一歩前に進み、清光の顔を覗き込むようにした。
「でも、主様が『物吉はいつもそばにいて安心する』って言ってたの、聞こえちゃいました」
清光の顔がどんどん赤くなる。口をもごもごとさせ、何を言うか迷っているようだった。
「……そんなの、俺にだって言ってくれてるに決まってるだろ!」
すると、本丸の方から主がのんびり歩いてきた。
「二人とも、どうしたの?喧嘩してる?」
清光と物吉はピタリと口を閉じ、同時に振り向く。主の顔には少しの困惑が浮かんでいる。
「ううん、喧嘩なんてしてないよ!」清光が慌てて言い、「そうですよ」物吉もすかさず微笑む。
「清光さんとボク、仲良しですから、ね!」
「そうそう、俺たち“シュミ”も合うみたいだからさ!」
主は二人の言葉に少し安心したようで、笑顔を見せた。
「そっか。清光も物吉も優しいから喧嘩なんてしないよね。いつもありがとう」
「もちろんだよ、主!」
「当然です、主様」
清光は満面の笑みで答え、物吉も柔らかく返した。
主は満足げに頷き、「それじゃあ、もうすぐ朝食だから二人とも来てね!」と告げると、廊下を楽しげに歩き去っていった。
その背中が見えなくなった瞬間、清光と物吉は再びお互いを見つめ合う。
「お前、わかってるよな?」
目を細め清光が低い声で言い、「もちろんです」と、物吉は微笑みを深めた。
「でも清光さん、勝つのはボクですよ」
「ふん、見てろよ」
二人の攻防に全く気づかない主は、この朝も穏やかで平和な本丸に満足していた。
***
ある日の午後、物吉貞宗は主の執務室で湯飲みを片手に、静かに主の作業を見守っていた。主は書類に目を通しながら、時折思案するようにペンを止める。その横顔を見つめながら、物吉はふと考えた。
――なぜ、ボクはこんなにも長く主様の近侍を任されているんだろう?
近侍に任命された当初は「主様にお役に立てるなら」と純粋に喜び、精一杯務めようと決意していた。しかし最近、清光とのやり取りを通じて、自分がなぜ主のそばにいるのかが気になり始めていた。
少し迷ったが、物吉は思い切って口を開いた。
「主様、少しお伺いしてもいいですか?」
「ん?」
主はペンを置き、物吉に視線を向けた。
「どうしたの?」
「ボクが近侍を任されている理由って、何なんでしょうか?」
物吉は少し恥ずかしそうに微笑んだ。「
ボクでなくても、清光さんや他のみんなでもいいはずなのに、ずっとボクでいいのかなって」
主は少し驚いたようだったが、すぐに柔らかい表情になった。
「物吉くんがそんなこと言うなんて珍しいね。でもねー、理由は単純明快、シンプルなことなんだ」
物吉は少し身を乗り出した。
「お聞かせいただけますか?」
主はふっと視線を遠くに向け、優しく語り始めた。
「物吉くんがそばにいるようになってから、私の不幸がなくなったんだよ」
その言葉に物吉は目を丸くした。
「ボクが……ですか?」
「うん。でもそれだけじゃないんだ」
主は物吉の目をまっすぐ見つめた。
「物吉くんは、幸運を運んでくれるだけじゃなくて、私に幸福を運んでくれるんだよ」
物吉は胸が温かくなるのを感じた。その一言がどれほど嬉しいか、言葉では表せなかった。
「物吉くんがいるとね、私、自然と笑えるし、何があっても大丈夫だって思えるんだ。だから、近侍はずっと物吉くんにお願いしたいんだよ」
主は少し照れくさそうに微笑んだ。
その瞬間、物吉は思わず主を抱きしめていた。
「主様……!」
主は驚いて少し固まったが、すぐに柔らかく笑った。
「物吉くん、どうしたの?」
物吉は顔を真っ赤にしながらも、主を抱きしめる腕に力を込めた。
「……ボク、主様の役に立ててるんですね。本当に嬉しいです」
「もちろんだよ。物吉くんは私にとって、なくてはならない存在だよ」
その言葉に、物吉の目に涙が浮かんだ。
「主様……これからも、ずっとボクがそばにいますね。幸運も幸福も、全部運び続けますから!」
主は物吉の背を軽く叩いて微笑んだ。
「頼もしいな。これからもよろしくね、物吉くん」
物吉はその言葉に胸を張りながら、心の中で何度も繰り返した。
――主様の幸福を守れるなら、ボクは何だってできる。
***
冬の日差しが差し込む廊下を、加州清光は足早に歩いていた。
向かっている先は、主が執務を行う部屋だった。
最近、物吉とのやり取りを通じて感じる違和感が、清光の胸を締め付けていた。
確かに、自分は主が審神者になって最初に手にした刀だ。
主が初めて刀剣男士とを統べた時も、迷いながらも前に進もうと決意したときも、すべてを共にしてきたのは清光だった。
だが、物吉が本丸に来てからというもの、近侍として主のそばにいる時間がめっきり減ってしまった。
そのことを、物吉に指摘されたときには悔しさを感じたが、冷静に振り返れば否定できない事実だった。
「……主に言おう。俺もまた、近侍として主のそばにいたいって」
清光は心の中でそう決意し、執務室の扉の前で立ち止まった。
軽く息を整え、ノックをしようとしたその瞬間――。
扉の隙間から、物吉の声が聞こえてきた。
「主様……これからも、ずっとボクがそばにいますね。幸運も幸福も、全部運び続けますから!」
続いて、主の柔らかな声が返ってくる。
「頼もしいな。これからもよろしくね、物吉くん」
清光は思わず扉に手を添え、中を覗き込んだ。
その光景に、息を呑む。
物吉が主を抱きしめていた。
しかも、それを主は嫌がるどころか、自然に受け止めている。むしろ穏やかに微笑み、物吉の言葉を優しく受け入れていた。
清光の心が大きく揺れた。
――なんで、主はそんな顔してるんだよ……俺には、そんな表情を見せたことなんて……
胸の奥にわだかまっていた不安が一気に押し寄せる。
物吉の言葉が、主にとってどれほど重みを持っているのかを痛感させられるような瞬間だった。
清光は、握りしめた拳をそっと緩め、扉から手を離した。
「……俺、何してんだろうな」
自嘲気味に呟きながら、その場から離れる。足取りは軽いはずなのに、体が鉛のように重かった。
本丸の中庭に出ると、冷たい風が頬をかすめた。清光はベンチに腰を下ろし、空を見上げる。
――俺は、本当に主の一番なのか?
自分がずっとそうだと信じてきたものが、ぐらついている。
物吉がいることで、主がどれだけ安心し、どれだけ幸福を感じているのかを、あの執務室での光景は物語っていた。
「……俺、何やってんだよ……」
自分が近侍として主のそばに立てないことが、こんなにも胸を苦しめるなんて思わなかった。
清光は拳を膝の上で握りしめ、風に揺れる木々の音を聞きながら、自分の心を持て余していた。
そのとき、どこからか主の声が聞こえた気がした。
「清光―、どこにいるの?」
その声に、清光の胸が少しだけ温かくなった。
――まだ、終わりじゃない。俺は、主の一番でありたいんだ。
清光は再び立ち上がり、風を受けながらそっと呟いた。
「……俺も、ちゃんと主のそばに戻るからな」
その言葉は、自分自身への誓いだった。
***
本丸が騒然としていた。敵が突然襲撃してきたのだ。
普段は穏やかな時間が流れる本丸が、一瞬で戦場へと変わる。刀剣男士たちは総出で敵を迎え撃ち、主を守るために奮闘していた。
その中で、物吉貞宗は主のそばに立ち、盾のように振る舞っていた。
「主様、ここから動かないでください!必ず守ります!」
物吉の声はいつもと変わらない明るさを保ちながらも、緊張が滲んでいた。
だが、現れた敵の中にはこれまでにないほどの強敵がいた。
巨大な体躯と圧倒的な力を持つその敵を前に、物吉は苦戦を強いられていた。
「くっ……!」
敵の一撃を受けて、物吉は大きく吹き飛ばされた。地面に叩きつけられた彼の体は血で染まり、明らかに重症を負っている。
「物吉くん!」
主は叫びながら駆け寄ろうとした。
しかし、その隙を狙って敵は主に向かって手を伸ばす。その巨大な手が主を掴もうとした瞬間――。
「主に触るんじゃねえよ!」
清光の声が響き渡り、彼の刀が敵の腕を斬りつけた。
「清光!」
主は驚きの声を上げる。
「大丈夫?主」
清光は主を背に庇うように立ちはだかった。その眼には迷いも恐れもなく、ただ主を守るという強い決意が宿っていた。
敵は激昂し、清光に襲いかかる。しかし清光は冷静だった。素早い動きで敵の攻撃をかわし、鋭い一撃を繰り出す。
「俺を見くびるなオラァ!!」
激しい戦いの末、清光は敵の急所を斬りつけ、その巨体を崩れ落ちさせた。敵が完全に動かなくなったのを確認すると、清光は振り返り、心配そうに主を見つめた。
「主、無事?」
主は震える声で頷いた。
「清光、ありがとう……助かったよ」
清光は安堵の息をつき、微笑みを浮かべた。しかしその視線はすぐに、倒れたままの物吉に向けられた。
「物吉!おい、大丈夫か!?」
清光は主と共に物吉の元へ駆け寄った。
物吉は苦しそうに息をしながらも、弱々しい笑みを浮かべた。
「清光さん……主様を守ってくれて、ありがとうございます」
「お前、何言ってんだよ。こんな無茶しやがって……!」
清光は物吉の血まみれの体を見て、胸が締め付けられるようだった。
物吉は薄く目を開け、主を見つめた。
「主様……無事で、本当に良かったです……」
主は涙を浮かべながら、物吉の手を握りしめた。
「物吉くん、ありがとう……でも無理はしないで。すぐに手当てをするからね」
清光はその光景を見つめながら、自分の胸に渦巻く感情を押し殺した。
俺も物吉も、主を守りたいって気持ちは同じだ。絶対に主を守り抜いてみせる。清光は物吉を背負いながら、心の中で静かに誓った。俺は、これからも主のそばに立ち続ける。そのために、何があっても乗り越えてみせる。
戦いの後の静寂の中、清光の決意はさらに固いものとなっていた。
***
敵の襲撃が終わり、本丸には静けさが戻っていたが、空気には緊張が漂っていた。刀剣男士たちはそれぞれ傷を負いながらも、互いに無事を確認し合っていた。
その中で、主は必死の形相で物吉貞宗の体を抱えていた。
「物吉くん……!お願いだから、目を閉じないで!」
物吉は血に染まった体で弱々しく微笑む。
「主様、大丈夫です……主様が無事なら、それで……」
「大丈夫じゃないよ!こんなに酷い怪我をして……」
主の声は震えていた。刀剣男士の傷の治療は、主である自分しかできない。その責任を重く感じながらも、目の前の物吉を助けるため、手を震わせながら傷口に触れた。
その場にいた清光は、それを黙って見つめていた。
物吉の呼吸が少しずつ落ち着いていくのを感じ、主は安堵の表情を浮かべた。
「よかった……物吉くん、あと少しだから、頑張ってね」
「主様……ありがとうございます」
物吉はかすれた声で言い、少しだけ目を開けた。
「ボクは、主様に幸運を運ぶはずなのに……こんな姿を見せて、ごめんなさい」
「そんなことないよ!」
主は物吉の手を強く握った。
「物吉くんは、私を守ってくれた。それだけで十分だよ。本当にありがとう」
その言葉に、物吉は満足そうに微笑むと、再び目を閉じた。
一部始終を見守っていた清光の胸には、複雑な思いが渦巻いていた。
物吉が命を懸けて主を守ろうとしたこと、そして主がこんなにも真剣に物吉を大切にしていること。
清光は拳を握りしめながら、静かに言葉を漏らした。
「俺だって、主を守りたい……ずっと、そう思ってきたのに」
しかしその言葉を口にしても、主の耳には届かなかった。主は物吉の治療に全力を注いでいたのだ。
治療が終わり、物吉が静かに眠りについた頃、主はようやく深いため息をついた。
「物吉くん……本当に、よかった」
主は疲れた顔で清光に向き直った。
「清光、ありがとう。ここまで物吉くんを守ってくれて……」
清光は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに微笑みを作った。
「……主と物吉が無事でよかった。それだけで俺は十分だよ」
しかしその微笑みの奥には、自分自身への問いが渦巻いていた。
――俺は、主にとって本当に一番の存在なのか?それとも、俺より物吉のほうが……?
清光は視線を物吉に向けた。主を守るために傷ついた彼の姿が、清光の胸に突き刺さるようだった。
「……主、俺ももっと強くなる。もっと主の力になれるように」
清光は静かにそう誓いを立てると、そっと主の肩に手を置いた。
「少し休みな。俺が見張ってるからさ」
主は清光の言葉に甘えるように頷き、疲れた体を休めるためにその場を後にした。
清光は眠る物吉を見下ろし、心の中でそっと呟いた。
――物吉、お前がどんなに頑張っても、俺は主の初期刀だ。主を守る一番は、俺なんだからな。
その言葉には、決意と焦燥が入り混じっていた。
***
本丸は再び静けさを取り戻していた。
襲撃してきた敵はすべて倒され、傷を負った刀剣男士たちも主の手で治療を受け、皆が平穏な時間を過ごしていた。
しかし、物吉貞宗の心には重い影が差していた。
自室の窓辺で、物吉は外の庭をぼんやりと眺めていた。風に揺れる木々の音や、遠くから聞こえる他の刀剣男士たちの笑い声が耳に入るが、その心は晴れなかった。
――主様を守ると言ったのに、僕は……守れなかった。
あのとき、敵の猛攻を前に力及ばず倒れ、主が敵に攫われそうになった瞬間。
それを救ったのは、自分ではなく清光だった。
「……清光さんは、すごいな」
物吉は呟くように言った。
初期刀として、長い間主を守り続けてきた清光。自分にはない強さと覚悟が、清光にはあった。それを目の当たりにして、物吉の胸には嫉妬と悔しさが渦巻いていた。
――僕は、主様にとって本当に必要な存在なのか?幸運を運ぶだけで、本当にいいのか?
物吉は自分の手のひらをじっと見つめた。その手は確かに、何度も主に感謝されてきた。
「物吉くんがいてくれるから安心する」
「物吉くんは幸運を運んでくれるだけじゃなく、私に幸福も運んでくれる」
そう言われたときの嬉しさは、今でも忘れられない。
でも――
あのとき、清光のように主を守る力があれば、もっと違った未来があったのではないか。
清光がいなかったら、主は攫われていたかもしれない。その事実が、物吉の心を深く蝕んでいた。
「……ボク、このままでいいんでしょうか」
幸運を運ぶだけの刀。笑顔を振りまくだけの刀。
それで主のそばに立つ資格があるのか、自分でも分からなくなっていた。
物吉は小さく息を吐き、心の中で問い続けた。
――ボクは、これからどうすればいい?主様を守れる強さが欲しい。でも、それはボクらしくないことなのかな……?
そのとき、ふいに背後から声がした。
「物吉」
振り返ると、そこには清光が立っていた。軽い笑みを浮かべているが、その眼差しはどこか真剣だった。
「清光さん……」
「お前、ずっとここで考え込んでたろ。何を悩んでるのかは知らないけどさ」
清光は物吉の隣に腰を下ろし、続けた。
「俺だって、主を守れなかったことが何度もある。強い敵に出くわして、主が危険な目に遭ったとき、自分の無力さを思い知るたびに、どうすりゃいいんだろうって考えるよ」
物吉は驚いたように清光を見つめた。
「清光さんが、そんな風に思うなんて……」
「当たり前だろ。俺だって完璧じゃない」
清光は苦笑を浮かべた。
「でも、俺たちは刀だ。主のために折れる覚悟で戦う。それが、俺たちの役目だろ?」
物吉は清光の言葉にハッとした。
「お前も、あのとき主を守ろうとしただろ。それで十分じゃないの」
「でも……ボクは結局、主様を守りきれなくて……」
「だからって、悩んでばっかじゃ主に顔向けできないだろ。大事なのは、次にどうするかじゃねえの?」
清光の言葉は、物吉の心に静かに響いた。
「……次に、どうするか」
「そうだよ」
清光は立ち上がり、物吉に手を差し伸べた。
「俺たちは主を守るためにいる。それを忘れなければ、きっと何とかなるって」
物吉は清光の手を握り、立ち上がった。その胸には、少しだけ光が差し込んだ気がした。
――僕も、もう一度主様を守る力を手に入れるために進まなきゃ。
そう心に誓いながら、物吉は清光と共に再び歩き出した。
***
稽古場には、木刀がぶつかり合う乾いた音が響いていた。物吉貞宗と加州清光が手合わせをしている。
物吉の動きは軽やかで小回りがきいているが、その剣筋には迷いがあった。清光は鋭く攻めながら、その一瞬の隙を見逃さなかった。
「ほら、そこが甘い!」
清光が声を上げ、物吉の木刀を弾き飛ばした。
物吉は転がる木刀を追いかけるように視線を落とし、悔しそうに息を吐いた。
「やっぱり、ボクはまだまだですね……」
清光は木刀を肩に担ぎながら、少し笑って肩をすくめた。
「まぁ、すぐには上手くならないさ。でも、ちゃんと向き合おうとしてるのは偉いよ」
「ありがとうございます、清光さん。」
物吉は少しだけ顔を上げて微笑んだ。そのとき、ふと稽古場の入り口から聞き慣れた声がした。
「二人とも、お疲れさま」
振り返ると、主が湯気の立つ湯呑と茶菓子を載せたお盆を持って立っていた。
「主様!」
物吉はぱっと顔を明るくし、立ち上がった。
「稽古の合間にどうかなと思って。冷めないうちに飲んでね」
主はにこやかに微笑みながら、すっと清光にお茶を手渡した。清光は少し驚きながらも、いつものように軽く笑って受け取った。
「ありがとう、主」
物吉も次に手渡されたお茶を受け取り、「ありがとうございます!」と礼を言った。
主の気遣いに二人はほっと息をつき、縁側へ移動して腰を下ろした。庭を眺めながら、三人でお茶を楽しむ時間は、稽古場の熱気とは違う穏やかな空気を運んでくれる。物吉と主が何気ない話をしている中、清光は何とはなしにお茶を手に取りながら考えていた。
――今、主が最初に俺にお茶を渡してくれたのって、ただの順番かな?
些細なことではあるが、主が清光に先にお茶を手渡したことが妙に頭に引っかかる。たまたまかもしれない。だが、そう考えながらも、そのあとに主が物吉に目を向けて話す様子をぼんやり眺めている自分に気づき、思わず眉をひそめた。
その日の夕食時、本丸の広間には刀剣男士たちが集まり、賑やかな食事が始まっていた。主もそこに座り、皆と楽しげに会話を交わしていた。
清光はいつものように主の隣の席に座り、他の刀剣男士たちと軽口を叩き合いながら食事を楽しんでいた。そんな中、主が立ち上がり、みんなにお茶とおしぼりを配り始めた。
「お疲れさま、清光」
清光が顔を上げると、主がまず自分にお茶とおしぼりを差し出してきた。
「ありがと」
清光は自然と受け取りながらも、またもや胸の奥に小さな疑問が生まれた。
他の刀剣男士たちには順番にお茶を配っていたが、主が真っ先に自分に渡してくれることに、ふと気づいたのだ。
「……」
清光はお茶を口に運びながら、これが偶然ではないことを感じ始めていた。
そういえば、主と二人きりで本丸を切り盛りしていた頃も、主はいつも自分を優先して気遣ってくれていた。
――あれは、どうしてなんだろう。俺が初期刀だから?それとも……?
清光の胸には、小さな期待と不安が入り混じった感情が芽生えていた。主のその行動が、ただの気遣い以上の意味を持っているのかどうか。それを知りたいと思う自分がいることに気づいたのだ。
その夜、清光は縁側に出て夜風を感じながら考え込んでいた。
主が自分に示す特別な行動の理由が知りたい。だけど、それを尋ねて確かめるのが怖い自分もいる。
「……俺って、主にとって何なんだろうな」
清光は自分に呟きながら、手にした木刀をぎゅっと握りしめた。
その理由を聞く日は、きっとそう遠くはないだろう――そう思いながらも、心はまだその答えを求める準備ができていなかった。
***
夕方、縁側で主と並んで座っていた物吉貞宗は、庭に揺れる草木を眺めながら穏やかに微笑んでいた。
「今日はいい天気ですね、主様。こうしてゆっくりするのも、たまにはいいものです」
主は物吉の言葉に軽く笑いながら答えた。
「そうだね。物吉くんとこうして話すの、なんだか落ち着くよ」
「ボクもです、主様」
物吉は嬉しそうに応じたが、主の表情が少しだけ照れくさそうに変わったのを見逃さなかった。
「なんか、物吉くんってさ、会話の中でよく『主様』って呼んでくれるよね」
主は少し視線を庭に向けて言った。物吉はきょとんとした表情を浮かべた。
「気づいてる?」
「えっ?……そうなんですか?ボク、無意識でした」
主は恥ずかしそうに微笑みながら頷いた。
「うん、いつも自然に呼んでくれるから、ちょっと恥ずかしい。でも……なんだか嬉しいなって思って」
その言葉に物吉の胸が温かくなり、自然と顔が紅潮していくのがわかった。
「主様が嬉しいって思ってくれるなら……ボク、これからも呼びますね。何度でも」
主はその言葉に少し驚いたように目を瞬かせ、それから柔らかい笑みを浮かべた。
「ありがとう、物吉くん」
物吉は頬を赤らめながらも、その笑顔に応えるように微笑んだ。
しかし、その瞬間、胸の奥に決意が生まれた。
――ボクは、主様を守れる存在になりたい。あの日みたいなことは、もう絶対に繰り返さない。
ふと、敵に襲撃された日の記憶が脳裏をよぎる。自分が未熟だったせいで、主様を危険な目に遭わせてしまった。ボクの役目は主様を守ることだ。それを果たせなければ、存在意義なんてない。
「主様」
物吉は真剣な表情になり、隣に座る主をまっすぐ見つめた。
「ボク、もっと強くなります。主様を守るために。どんな危険があっても、ボクが必ず主様を守り抜きます」
その強い言葉に、主は少し驚いた顔をしたが、すぐに優しい笑みを浮かべた。
「ありがとう、物吉くん。でも、無理はしないでね。あなたがそばにいてくれるだけで、私は安心できるんだから」
「それでも、ボクは強くなりたいんです」
物吉の声には揺るぎない決意が込められていた。
「主様のそばに立つために、ボク自身もっと成長したいから」
主は物吉をじっと見つめたあと、はにかむように微笑んだ。
「物吉くん、ほんとに真面目だね。でも、そういうところが好きだな」
その言葉に、物吉の顔が一瞬で真っ赤になり、慌てて目をそらした。
「そ、そんな風に言われたら、ボク……なんだか、暑くなってきましたね!」
主はその反応にくすっと笑い、再び庭に目を戻した。
物吉は湯呑を握る手に力を込める。
――主様。ボクは絶対に強くなります。そして、何度でも主様を呼びます。その名前を、ボクが守り続けるために。
物吉の心に新たな決意が芽生える中、夕陽が二人を穏やかに包み込んでいた。
***
夕方、柔らかな陽射しが本丸の庭を優しく照らす中、縁側では主と物吉貞宗が並んで座り、穏やかな時間を過ごしていた。
庭の奥、木々の陰に隠れるようにして二人を見守るのは、物吉の兄弟刀、太鼓鐘貞宗と亀甲貞宗だ。
「そこだ、物吉にいちゃん!」
太鼓鐘が拳を握りしめ、小声で興奮気味に呟く。
「派手にいっちまえよ!主に向かって『オレが絶対守る!だからオレのこと見てくれ!』とかさ!」
物吉の姿を食い入るように見つめながら、太鼓鐘は足踏みをしてもどかしさを隠しきれない。
だが、縁側の物吉は主との会話の中で、時折頬を染めたり視線をそらしたりするばかりで、そんな大胆な言葉を口にする気配は微塵もない。
「くっそー!なんで照れてばっかなんだよ!にいちゃん、もっとガツンといかなきゃ伝わんねーって!」
その様子を見て、亀甲は微笑みを浮かべながら隣で腕を組んだ。
「まあまあ、太鼓鐘くん。物吉くんだって、きっと色々と考えているんだよ。あの真面目で誠実な性格だからね、すぐに行動に移すのは難しいんだろう」
「でもさ、亀甲にいちゃん!主が他の刀に取られたらどうすんだよ!?」
亀甲は太鼓鐘の言葉に肩をすくめて笑う。
「それはそれで面白そうだけどね。でも、大丈夫だよ。あの二人の間には、確かに特別な何かがある」
そう言いながら、亀甲は縁側の二人をじっと見つめた。物吉が湯呑を手にしながら主の言葉に一生懸命応じ、主が微笑みを返すその光景に、彼の目は楽しげに輝いている。
「とはいえ、少し焦らされるようで……ゾクゾクするね」
亀甲が楽しげに声を漏らすと、太鼓鐘は「おいおい!楽しんでる場合じゃないだろ!」と声を潜めながら突っ込んだ。
「まあまあ、太鼓鐘くん」
亀甲は穏やかに笑い、太鼓鐘の肩をポンと叩く。
「物吉くんはきっと、タイミングを見計らっているんだよ。だから、ぼくたちは見守るだけでいい」
「でもよー……!」
太鼓鐘は唇を噛みながら、物吉を見つめ続けた。
「にいちゃんがこんなに主のこと好きなの、絶対バレバレだよなぁ。ああもう、もどかしい!」
亀甲はそんな太鼓鐘の肩を再び軽く叩いて微笑む。
「でもね、それが恋というものさ。焦らずじっくり見守るのも悪くないよ」
「……うー、落ち着かねぇ!」
太鼓鐘は髪をかきむしりながら視線をそらしたが、再び物吉に目を向けると、なんだかんだで応援する気持ちは変わらない。
「頑張れよ、物吉にいちゃん……!今度こそちゃんと伝えろよな!」
亀甲はそんな太鼓鐘の横顔を楽しげに眺めながら、「物吉くんのペースで進めばいいさ。それにしても、焦らされるのは嫌いじゃない……むしろ大好きだよ」と独り言のように呟く。
物吉と主が穏やかに微笑み合う縁側の光景を、二人の兄弟刀はそれぞれの想いを胸にそっと見守り続けていた。
***
夕暮れ時、本丸の廊下を歩いていた加州清光は、意を決したような表情で執務室の扉を叩いた。中から主の「どうぞ」という声が聞こえると、清光はゆっくりと扉を開ける。
「主、今ちょっといい?」
机に向かって作業をしていた主は、顔を上げてにっこり微笑んだ。
「清光、どうしたの?」
その笑顔を見た瞬間、清光の胸が軽く高鳴るのを感じた。けれど、今日はそれを意識しないようにしなくちゃいけない。何でもない会話の中で、それとなく知りたいことを探ろうと決めていたからだ。
「いや、別に大したことじゃないんだけどさ」
清光は柱に寄りかかり、さりげない調子で口を開いた。
「主ってさ、俺たちに何かする時、真っ先に俺のところに来るよね?」
主は少し驚いた顔をして、それから考え込むように首を傾げた。
「……そうかな?」
「そうだよ」
清光は言いながら、少し笑って肩をすくめた。
「ほら、例えばさ。お茶とか、おしぼりとか、いつも一番最初に俺に渡すだろ?」
「ああ……言われてみれば、そうかもね」
主はクスリと笑い、手を止めて清光を見上げた。
「でも、それって無意識かも」
その言葉に、清光は思わず眉を寄せた。
「無意識って……なんで?」
主はしばらく考えるように視線を巡らせ、それからふっと柔らかい表情になった。
「たぶん、清光が私の“始まりの一振”だからじゃないかな」
その言葉を聞いた瞬間、清光の胸が軽く痛む。
「そっか、初期刀だもんな」
口元に笑みを浮かべて言ったが、その声にはどこか力がなかった。
主は清光の様子に気づいたのか、少し首を傾げてその顔を見つめた。そして、まるで何かを思い出すように微笑んだ。
「ううん、違うよ」
その一言に清光は目を見開く。
「初期刀って、特別なんだよ」
主は静かに言葉を紡いだ。
「清光は私の宝物なの。最初に私と一緒に歩き始めてくれた、大事な思い出が詰まった一振だから」
その声はどこか懐かしさと愛しさが混じった響きで、清光の胸に深く染み込んでいった。
「だから、無意識に清光を優先しちゃうのかもね」
主はふわりと微笑み、まるで一番大事なものを見守るような目で清光を見つめた。
清光はその視線を受け止めながら、胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じた。主の言葉が、心の奥深くまで響いていた。
「……そう」
清光は小さく呟いた。
「まあ、初期刀だし、特別なのは当然だよな」
そう言いながらも、彼の顔にはかすかに赤みが差し、心臓の鼓動が早くなるのを抑えきれなかった。
「ふーん……主にとっての“宝物”か」
清光は目をそらしながら、つい微笑んでしまう。
主が「清光?」と首を傾げたが、その声に応えることなく清光は振り返り、扉の方へと歩き出した。
「それじゃ、俺はそろそろ行くね」
「うん。また明日ね、清光」
扉を閉める直前、清光はちらりと主を振り返り、柔らかい笑みを浮かべた。
「主、ありがとう」
その言葉の意味を深く考える間もなく、主は微笑んで手を振った。清光はそっと扉を閉じながら、自分の胸に残る高鳴りをそっと抱きしめた。
――俺が主にとって特別なんだって。そんな風に思われてるなら、俺ももっと……。
清光は微かな期待と誇りを胸に、足早に廊下を歩き出した。
***
夜の帳が降りる頃、本丸の廊下を主が歩いていた。理由もなく心が沈み、何かがあったわけでもないのに元気が出ない。こういう時、無性に甘えたくなる。頭の中で浮かんだのは、いつもそばにいてくれる加州清光の顔だった。
ふらふらと清光の部屋に向かい、扉を軽く叩く。中から返事はないけれど、薄く開いている扉の隙間から柔らかい灯りが漏れているのを見て、主は「お邪魔します」とだけ呟いて部屋に入った。
部屋の中では、清光が鏡の前に座り、マニキュアを丁寧に塗っているところだった。整った指先が繊細に動く様子に見惚れつつも、主は何も言わず清光の背中に近づく。そして、思わずその背中にぎゅむりと抱きついた。
「……主?」
清光は驚いた声を上げ、塗りかけの指先を止めた。後頭部に感じるのは主の額。ぐりぐりと押し付けてきて、まるで子猫のように甘えてくる。
「清光……なんか、元気出ない……」
その小さな声に、清光の胸がぎゅっと高鳴った。主の体温が、肌越しにじんわりと伝わってくる。
「な、何かあったの?」
動揺を隠すため、努めていつも通りの声を出そうとする清光。
「何もないんだけど、なんか……ただ、清光に甘えたくなっただけ」
その言葉に、清光の心臓がさらに速く跳ねる。こんなに鼓動が大きくて、主に聞こえてしまうんじゃないかと不安になるほどだ。
「あーもう……主、急にこんなことするなよ。びっくりするだろ?」
そう言いながらも、清光の声はどこか柔らかい。ふと、主と自分が本丸に来たばかりの頃を思い出す。あの頃の主は、まだ頼りないところも多く、こうやってよく清光に甘えてきたものだった。
「でもさ、主がこうやって甘えてくれるの、なんか懐かしい」
清光はそっとマニキュアを置いて、後ろの主の腕に軽く手を添える。自分の鼓動がまだ早いままだということに気づき、少し照れ臭くなるけれど、それ以上に胸が温かい。
「俺はさ、主のためならいつでも大歓迎だかんね」
その言葉に、主が「ありがとう」と呟きながらさらに額を清光の背中に押し付けてくる。清光は苦笑しながらも、内心ではたまらなく嬉しかった。
塗りかけで少し滲んだマニキュアなんて、今はどうでもいい。
「さ、これで少しは元気になった?」
「うん、清光のおかげで元気出たよ」
清光が振り返ると、主は頬を赤くして微笑んでいた。その笑顔を見て、清光は胸の奥に熱いものが広がるのを感じた。
「まったく、仕方ない主だなー」
清光は小さく笑いながら、主の頭を優しく撫でた。
「でも、いつでも甘えに来なよ。俺は主の“始まりの一振”なんだからさ」
その言葉に、主はさらに嬉しそうに笑い、清光の胸を温かく満たした。
***
冷えた風が吹き抜ける本丸の朝、主はどこか元気がない様子で部屋にこもっていた。清光とのやり取りの後も、どうにも体がだるく、思考もぼんやりとしていた。
「主様、失礼します」
控えめなノックの音とともに物吉貞宗が顔を出した。その表情は、主の様子を気遣うように柔らかい。
「物吉くん……どうしたの?」
主の声は掠れていて、目元にも疲れが滲んでいる。それを見た瞬間、物吉は状況を悟った。
「主様、もしかして熱があるんじゃないですか?」
「え……?そんなことない、と思うけど……」
主が手を額に当てるよりも早く、物吉がそっと手を伸ばして主の額に触れた。
「……やっぱり少し熱いです。ボクが看病しますから、今日はゆっくり休んでください」
物吉は微笑んで、すぐに部屋を整え始めた。枕元に水を置き、濡れたタオルを主の額に乗せる。その手際の良さに主はぼんやりと感心しながら、「物吉くん、ありがとう」と呟いた。
「ボクにできることなんて、これくらいしかありませんから」
物吉はそう言って、主の手をそっと握った。その温もりに、主は儚げに笑いながら「物吉くんがいてくれて心強い」と言葉を紡ぐ。
その言葉に、物吉の胸が熱くなる。それと同時に、清光の顔が脳裏に浮かんだ。
――清光さんならどうするだろう?主様をもっと安心させる言葉をかけられるんじゃないか。もっと上手にお世話をするんじゃないか。
物吉は知らず知らずのうちに清光をライバル視している自分に気づき、心の中で小さくため息をついた。
そうして、目を閉じて安心したように眠る主を見つめる。その顔は、物吉にとって何よりも大切で、守りたい存在だった。
「主様のお役に立てるなら、それでいいんです」
けれど、その言葉の裏にある小さな嫉妬や競争心が消えない自分を、どこかで自嘲していた。
――清光さんより先に、誰よりも主様のお側にいたい。
そんな思いが、自分の中にあることを認めざるを得ない。それでも、今は目の前の主のためにできることをするだけだと、物吉は自分を言い聞かせた。
「主様、どうかお大事に」
小さな声でそう呟きながら、物吉はそっと主の手を握り続けた。
***
暖かな午後の光が差し込む主の部屋。風邪をひいた主のために、二人の刀剣男士がそれぞれの思いを胸に部屋の扉を叩いた。
「主、俺だよ。入るね。」
「主様、失礼します。」
加州清光と物吉貞宗。偶然にも同じタイミングで部屋に入ってきた二人は、互いに手に何かを持っていることに気づいてピタリと動きを止めた。
「……清光さん、それは?」
「プリンだよ。ほら、主って甘いもの好きだし、風邪の時はこれくらい喉越しがいい方が食べやすいだろ?」
清光が得意げにプリンを掲げると、物吉は微妙な表情で首を振る。
「でも、こういう時の主様はみかんゼリーが食べたい気分なんです。主様の普段の様子からしても、ボクの選択が正しいはずです」
「……は?」
清光の眉がピクリと動いた。
「いやいや、主はプリンが好きなの。だから、俺が用意したこれが絶対正解だって」
「主様の好みを否定するつもりはありませんけど、今の主様にとって食べやすいのは、果物の爽やかさを感じられるゼリーですよ」
バチバチと火花が散る二人。どちらも引かない。
「じゃあ、主に聞いてみるか?」
「ええ、もちろん。」
二人は息ぴったりに振り返り、主に尋ねた。
「主、どっちが食べたい?」
まだ少しだるそうな主は、二人の争いに困ったような笑みを浮かべながら答えた。
「……どっちも食べたい」
その一言に、清光と物吉は同時に「えっ」と声を漏らした。
「だって、清光のプリンも美味しそうだし、物吉くんのみかんゼリーも食べたいし……二つとももらえるなら嬉しいな」
主が申し訳なさそうに笑うと、清光は頭を掻きながら苦笑し、物吉も肩をすくめて柔らかく微笑んだ。
「まったく、主ってば欲張りなんだから」
「でも、それが主様の魅力ですよね」
結局、二人はそれぞれ用意してきたものを主に渡し、主が美味しそうに食べる様子を見守ることにした。
「清光さん、引き分けですね」
「……まあな。次は負けないけどね」
そう言いながらも、清光の表情はどこか穏やかだった。
その日はどちらも譲らない争いから始まったが、最終的には主の笑顔で二人とも満足する結果に終わったのだった。
***
月が高く昇る静かな夜。風邪で体調を崩した主は、布団の中で何度も寝返りを打ちながら、眠れないまま時間を過ごしていた。体がだるいのに、熱のせいでうまく眠れず、心細さも募る。
「……少し水を飲もう」
ゆっくりと布団から抜け出した主は、フラフラとした足取りで厨房へ向かった。
その頃、厨房では――。
「だから、今夜は俺が添い寝するから!」
「清光さん、主様の看病はボクが担当しているんです。添い寝も当然ボクがするべきです」
「は?そもそも俺は初期刀だよ?主と一番長く一緒にいる俺がするのが安心だろ!」
「ボクだって主様のおそばにずっといるんです。譲る気はありません!」
小声ながらも激しく言い争う清光と物吉。どちらも主を気遣う気持ちは真剣そのもので、一歩も譲らない様子だった。
「……何してるの?」
ふいに聞こえた声に、二人はピタリと動きを止めた。振り返ると、主が疲れた顔をしながら厨房の入り口に立っている。
「主!? こんな時間にどうしたの!?」
「主様、寝ていなきゃダメじゃないですか!」
「奥で声が聞こえたから、気になって……二人とも、どうしてこんなところで喧嘩してるの?」
主が疑わしげな目を向けると、清光と物吉は口ごもりながら互いに視線を送る。
「それは……その……」
「どちらが主様の添い寝をするかで少し……」
物吉が正直に白状すると、主は呆れたようなため息をつき、それからふっと笑った。
「二人ともそんなことで喧嘩しないでよ。じゃあ、三人で寝よう」
「えっ?」
「三人で?って、主、それ大丈夫?」
「大丈夫だよ。真ん中で寝れば安心するし……それなら二人とも納得するでしょ?」
主の提案に、清光と物吉は顔を見合わせ、渋々と頷いた。
こうして、主の部屋に戻った三人は一つの布団を広げ、川の字になって横になることに。
「主、こっちの枕、使いやすいからどうぞ」
「ボクが冷やしておいたタオルもありますよ」
清光と物吉はなおも主を気遣いながら小さな争いを続けていたが、真ん中で二人のやり取りを聞いていた主は、やがて疲れたように微笑みながら、二人の手をそっと握った。
「ありがとう。清光も物吉くんも、いつも優しくしてくれて……おかげで安心して眠れそう」
その言葉に、二人は互いに視線を交わし、静かに息をついた。
「じゃあ、主が眠るまで、ちゃんとそばにいるよ」
「ボクも絶対に離れませんから」
そうして、清光と物吉に見守られながら、主は少しずつ眠りに落ちていった。二人は何も言わず、静かに主の寝顔を見つめていた。
――どちらが勝ちでも負けでもない。ただ、主のためにそばにいる。それが二人にとって、今の一番の幸せだった。
***
朝、窓の外から差し込む陽の光に目を細めながら、主はゆっくりと体を起こした。昨日の倦怠感が嘘のように和らいでいる。
「……あ、熱も下がってるみたい」
おでこに手を当ててみると、もう熱っぽさはほとんど感じられない。少し喉が渇いているけれど、昨日のようなだるさはない。ようやく風邪が治ったらしい。
「そういえば……清光と物吉くん、昨日ずっとバチバチしてたよね」
昨日の出来事が脳裏に蘇る。プリンかゼリーかで言い争う二人、添い寝のことで口論する二人。どちらもいつもは息の合った様子で主を支えてくれる二人には珍しい光景だった。
「きっと私が風邪を引いたから、心配で取り乱してたんだよね」
主はくすりと笑った。清光も物吉も、自分の体調を気遣うあまり、少し熱くなってしまったのだろう。その気持ちが嬉しくて、思わず布団の中で小さくなった体を伸ばした。
「風邪が治ったこと、早く二人に伝えなくちゃ」
主は布団から抜け出し、清光と物吉を探すために部屋を出た。
縁側のほうへ歩いていくと、そこには朝の陽射しを浴びながら話をしている清光と物吉の姿があった。
「昨日の主様、本当に心配でしたよね……でも、今朝は落ち着いてるといいな」
「そうだな。早く元気になってくれないと、俺だって気が気じゃないよ」
二人が主のことを話しているのを聞き、主は思わず足を止めた。昨日の言い争いが嘘のように、今日は穏やかに会話を交わしている。
「あの、清光、物吉くん」
声をかけると、二人は同時に振り返り、驚いたように立ち上がった。
「主!もう起きて大丈夫なの?」
「熱はどうですか!?無理はしないでください!」
二人の勢いに、主は思わず笑みを浮かべた。
「大丈夫。熱も下がったし、体も軽くなったよ。二人が色々してくれたおかげだね」
そう言うと、清光と物吉はほっと胸を撫で下ろした。
「そりゃ当然でしょ。俺たちは主を守るのが役目なんだから」
「ボクたちがいれば、主様はもう何も心配いりませんよ」
昨日の険悪した様子が嘘のように、二人は微笑みながら主を見つめる。その表情に、主は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
「ありがとう。本当に、二人がいてくれてよかった」
その一言に、清光と物吉の顔が少し赤く染まった。
「そ、そう言われると……まぁ、やってよかったって思うよね」
「主様、いつでも頼ってくださいね。ボクたち、全力で支えますから」
清光と物吉のそんな言葉に、主は心から安心しながら、穏やかな朝を迎えたのだった。
***
主が去った後、清光と物吉は縁側に並んで腰を下ろしていた。朝の澄んだ空気の中、少しだけ静かな時間が流れる。
「……主が元気になったのは良かったけどさ」
清光がぽつりと口を開く。
「俺たち、昨日はちょっと張り合いすぎたんじゃない?」
「清光さんが言います?プリンだ添い寝だって、ずいぶん熱くなってましたけど」
物吉が肩をすくめながら、しかし口元には小さな笑みを浮かべている。
「それを言うならお前だって、『主様のことはボクが一番わかってます』とか自信満々に言ってたじゃん」
「それは事実ですからね」
さらりと言い返す物吉に、清光は「あ゙?」と声を低くする。
「まぁ、俺は別にいいけどね。主が嬉しそうならそれで」
清光はやや強がるように言って、空を見上げた。その横顔を見ながら、物吉は目を細める。
「そうですね。ボクも、主様が笑ってくれるならそれでいいです」
一見穏やかなやり取り。しかしその裏には、互いに譲れない気持ちが渦巻いていた。
清光は「自分は初期刀だ」という自負と共に、主の傍で積み重ねてきた時間への自信を持っている。一方の物吉も「主様のお傍で守る」という役目と、いつも主を観察してきた経験がある。
そして――どちらも主のことが大切で、大好きだった。
「……まあ、主が俺のことを宝物だって言ってくれたわけだし」
ふと清光が漏らしたその言葉に、物吉はピクリと反応した。
「そうなんですか。でも主様もボクに『特別』って言ってくださいましたよ」
互いに譲らない視線が交錯する。
「……まぁ、いいよ。どうせ主が選ぶのは――」
「それはボクですよ」
「はあ?何言ってんの」
穏やかだった雰囲気が一転、ふたりの間に火花が散る。主が戻ってくる気配がないのを確認すると、どちらからともなく小さく声を張り上げ始めた。
「俺は主の“始まり”の刀なんだよ!お前とは信頼の深さが違う!」
「始まりがどうあれ、主様が必要としているのは今のボクです!」
「一番は俺だ!」
「いいえ、ボクです!」
熱くなる清光と物吉。だが、縁側の先に広がる庭には、そんなふたりを静かに見守るような朝の陽射しが降り注いでいる。
この本丸の審神者は知らない――
自分を巡って清光と物吉がこんなにも激しく争っていることを。そして、その攻防が簡単に終わることはないだろう。
主の心をどちらが射止めるのか。ふたりの戦いは、今日もひそかに続いていくのだった。
ある日の本丸、庭の木漏れ日の中で加州清光と物吉貞宗が向き合っていた。清光の目は鋭く、物吉は余裕を纏い微笑んでいる。
「物吉」
清光が口を開いた。
「主の一番が誰かって、わかってるよな?」
物吉は首を傾げて見せた。
「もちろん、ボクですけど?」
「はぁ?お前いつからそんな勘違いしてんだよ」
清光は腕を組み、鼻で笑った。
「主の初期刀は俺なわけ。主が審神者になった時から俺が支えてきてんの。それに戦場でも内番でも、いつだって俺が最前線で活躍してる。つまり、主の一番は俺に決まってんの」
物吉は肩をすくめ、少し考える素振りを見せた。
「うーん、でも清光さん、あまり近侍をしていませんよね。主様のお側にいつも控えて、おはようからおやすみまでお守りしているのはボクです。それに、ボクが来てから主様が幸運に恵まれてるって、みなさん言っていますよ?」
清光の眉がピクリと動いた。
「それがどうしたっての。幸運になんて頼らなくても、俺は実力で主を守れるけど?」
「実力だけで守るのも立派ですが、主様の心に寄り添うのも大事ですよね」
物吉は一歩近づき、柔らかい笑みを浮かべた。
「主様が夜に寂しそうなとき、そばにいたのはボクですよ?」
清光は言葉を詰まらせたが、すぐに言い返した。
「そ、それはたまたまだろ!俺だって、本当は主と一緒にいたいけど、遠征部隊に組まされることが多いし、部隊の引率しないといけないの!」
「そうですか?」
物吉はさらに一歩前に進み、清光の顔を覗き込むようにした。
「でも、主様が『物吉はいつもそばにいて安心する』って言ってたの、聞こえちゃいました」
清光の顔がどんどん赤くなる。口をもごもごとさせ、何を言うか迷っているようだった。
「……そんなの、俺にだって言ってくれてるに決まってるだろ!」
すると、本丸の方から主がのんびり歩いてきた。
「二人とも、どうしたの?喧嘩してる?」
清光と物吉はピタリと口を閉じ、同時に振り向く。主の顔には少しの困惑が浮かんでいる。
「ううん、喧嘩なんてしてないよ!」清光が慌てて言い、「そうですよ」物吉もすかさず微笑む。
「清光さんとボク、仲良しですから、ね!」
「そうそう、俺たち“シュミ”も合うみたいだからさ!」
主は二人の言葉に少し安心したようで、笑顔を見せた。
「そっか。清光も物吉も優しいから喧嘩なんてしないよね。いつもありがとう」
「もちろんだよ、主!」
「当然です、主様」
清光は満面の笑みで答え、物吉も柔らかく返した。
主は満足げに頷き、「それじゃあ、もうすぐ朝食だから二人とも来てね!」と告げると、廊下を楽しげに歩き去っていった。
その背中が見えなくなった瞬間、清光と物吉は再びお互いを見つめ合う。
「お前、わかってるよな?」
目を細め清光が低い声で言い、「もちろんです」と、物吉は微笑みを深めた。
「でも清光さん、勝つのはボクですよ」
「ふん、見てろよ」
二人の攻防に全く気づかない主は、この朝も穏やかで平和な本丸に満足していた。
***
ある日の午後、物吉貞宗は主の執務室で湯飲みを片手に、静かに主の作業を見守っていた。主は書類に目を通しながら、時折思案するようにペンを止める。その横顔を見つめながら、物吉はふと考えた。
――なぜ、ボクはこんなにも長く主様の近侍を任されているんだろう?
近侍に任命された当初は「主様にお役に立てるなら」と純粋に喜び、精一杯務めようと決意していた。しかし最近、清光とのやり取りを通じて、自分がなぜ主のそばにいるのかが気になり始めていた。
少し迷ったが、物吉は思い切って口を開いた。
「主様、少しお伺いしてもいいですか?」
「ん?」
主はペンを置き、物吉に視線を向けた。
「どうしたの?」
「ボクが近侍を任されている理由って、何なんでしょうか?」
物吉は少し恥ずかしそうに微笑んだ。「
ボクでなくても、清光さんや他のみんなでもいいはずなのに、ずっとボクでいいのかなって」
主は少し驚いたようだったが、すぐに柔らかい表情になった。
「物吉くんがそんなこと言うなんて珍しいね。でもねー、理由は単純明快、シンプルなことなんだ」
物吉は少し身を乗り出した。
「お聞かせいただけますか?」
主はふっと視線を遠くに向け、優しく語り始めた。
「物吉くんがそばにいるようになってから、私の不幸がなくなったんだよ」
その言葉に物吉は目を丸くした。
「ボクが……ですか?」
「うん。でもそれだけじゃないんだ」
主は物吉の目をまっすぐ見つめた。
「物吉くんは、幸運を運んでくれるだけじゃなくて、私に幸福を運んでくれるんだよ」
物吉は胸が温かくなるのを感じた。その一言がどれほど嬉しいか、言葉では表せなかった。
「物吉くんがいるとね、私、自然と笑えるし、何があっても大丈夫だって思えるんだ。だから、近侍はずっと物吉くんにお願いしたいんだよ」
主は少し照れくさそうに微笑んだ。
その瞬間、物吉は思わず主を抱きしめていた。
「主様……!」
主は驚いて少し固まったが、すぐに柔らかく笑った。
「物吉くん、どうしたの?」
物吉は顔を真っ赤にしながらも、主を抱きしめる腕に力を込めた。
「……ボク、主様の役に立ててるんですね。本当に嬉しいです」
「もちろんだよ。物吉くんは私にとって、なくてはならない存在だよ」
その言葉に、物吉の目に涙が浮かんだ。
「主様……これからも、ずっとボクがそばにいますね。幸運も幸福も、全部運び続けますから!」
主は物吉の背を軽く叩いて微笑んだ。
「頼もしいな。これからもよろしくね、物吉くん」
物吉はその言葉に胸を張りながら、心の中で何度も繰り返した。
――主様の幸福を守れるなら、ボクは何だってできる。
***
冬の日差しが差し込む廊下を、加州清光は足早に歩いていた。
向かっている先は、主が執務を行う部屋だった。
最近、物吉とのやり取りを通じて感じる違和感が、清光の胸を締め付けていた。
確かに、自分は主が審神者になって最初に手にした刀だ。
主が初めて刀剣男士とを統べた時も、迷いながらも前に進もうと決意したときも、すべてを共にしてきたのは清光だった。
だが、物吉が本丸に来てからというもの、近侍として主のそばにいる時間がめっきり減ってしまった。
そのことを、物吉に指摘されたときには悔しさを感じたが、冷静に振り返れば否定できない事実だった。
「……主に言おう。俺もまた、近侍として主のそばにいたいって」
清光は心の中でそう決意し、執務室の扉の前で立ち止まった。
軽く息を整え、ノックをしようとしたその瞬間――。
扉の隙間から、物吉の声が聞こえてきた。
「主様……これからも、ずっとボクがそばにいますね。幸運も幸福も、全部運び続けますから!」
続いて、主の柔らかな声が返ってくる。
「頼もしいな。これからもよろしくね、物吉くん」
清光は思わず扉に手を添え、中を覗き込んだ。
その光景に、息を呑む。
物吉が主を抱きしめていた。
しかも、それを主は嫌がるどころか、自然に受け止めている。むしろ穏やかに微笑み、物吉の言葉を優しく受け入れていた。
清光の心が大きく揺れた。
――なんで、主はそんな顔してるんだよ……俺には、そんな表情を見せたことなんて……
胸の奥にわだかまっていた不安が一気に押し寄せる。
物吉の言葉が、主にとってどれほど重みを持っているのかを痛感させられるような瞬間だった。
清光は、握りしめた拳をそっと緩め、扉から手を離した。
「……俺、何してんだろうな」
自嘲気味に呟きながら、その場から離れる。足取りは軽いはずなのに、体が鉛のように重かった。
本丸の中庭に出ると、冷たい風が頬をかすめた。清光はベンチに腰を下ろし、空を見上げる。
――俺は、本当に主の一番なのか?
自分がずっとそうだと信じてきたものが、ぐらついている。
物吉がいることで、主がどれだけ安心し、どれだけ幸福を感じているのかを、あの執務室での光景は物語っていた。
「……俺、何やってんだよ……」
自分が近侍として主のそばに立てないことが、こんなにも胸を苦しめるなんて思わなかった。
清光は拳を膝の上で握りしめ、風に揺れる木々の音を聞きながら、自分の心を持て余していた。
そのとき、どこからか主の声が聞こえた気がした。
「清光―、どこにいるの?」
その声に、清光の胸が少しだけ温かくなった。
――まだ、終わりじゃない。俺は、主の一番でありたいんだ。
清光は再び立ち上がり、風を受けながらそっと呟いた。
「……俺も、ちゃんと主のそばに戻るからな」
その言葉は、自分自身への誓いだった。
***
本丸が騒然としていた。敵が突然襲撃してきたのだ。
普段は穏やかな時間が流れる本丸が、一瞬で戦場へと変わる。刀剣男士たちは総出で敵を迎え撃ち、主を守るために奮闘していた。
その中で、物吉貞宗は主のそばに立ち、盾のように振る舞っていた。
「主様、ここから動かないでください!必ず守ります!」
物吉の声はいつもと変わらない明るさを保ちながらも、緊張が滲んでいた。
だが、現れた敵の中にはこれまでにないほどの強敵がいた。
巨大な体躯と圧倒的な力を持つその敵を前に、物吉は苦戦を強いられていた。
「くっ……!」
敵の一撃を受けて、物吉は大きく吹き飛ばされた。地面に叩きつけられた彼の体は血で染まり、明らかに重症を負っている。
「物吉くん!」
主は叫びながら駆け寄ろうとした。
しかし、その隙を狙って敵は主に向かって手を伸ばす。その巨大な手が主を掴もうとした瞬間――。
「主に触るんじゃねえよ!」
清光の声が響き渡り、彼の刀が敵の腕を斬りつけた。
「清光!」
主は驚きの声を上げる。
「大丈夫?主」
清光は主を背に庇うように立ちはだかった。その眼には迷いも恐れもなく、ただ主を守るという強い決意が宿っていた。
敵は激昂し、清光に襲いかかる。しかし清光は冷静だった。素早い動きで敵の攻撃をかわし、鋭い一撃を繰り出す。
「俺を見くびるなオラァ!!」
激しい戦いの末、清光は敵の急所を斬りつけ、その巨体を崩れ落ちさせた。敵が完全に動かなくなったのを確認すると、清光は振り返り、心配そうに主を見つめた。
「主、無事?」
主は震える声で頷いた。
「清光、ありがとう……助かったよ」
清光は安堵の息をつき、微笑みを浮かべた。しかしその視線はすぐに、倒れたままの物吉に向けられた。
「物吉!おい、大丈夫か!?」
清光は主と共に物吉の元へ駆け寄った。
物吉は苦しそうに息をしながらも、弱々しい笑みを浮かべた。
「清光さん……主様を守ってくれて、ありがとうございます」
「お前、何言ってんだよ。こんな無茶しやがって……!」
清光は物吉の血まみれの体を見て、胸が締め付けられるようだった。
物吉は薄く目を開け、主を見つめた。
「主様……無事で、本当に良かったです……」
主は涙を浮かべながら、物吉の手を握りしめた。
「物吉くん、ありがとう……でも無理はしないで。すぐに手当てをするからね」
清光はその光景を見つめながら、自分の胸に渦巻く感情を押し殺した。
俺も物吉も、主を守りたいって気持ちは同じだ。絶対に主を守り抜いてみせる。清光は物吉を背負いながら、心の中で静かに誓った。俺は、これからも主のそばに立ち続ける。そのために、何があっても乗り越えてみせる。
戦いの後の静寂の中、清光の決意はさらに固いものとなっていた。
***
敵の襲撃が終わり、本丸には静けさが戻っていたが、空気には緊張が漂っていた。刀剣男士たちはそれぞれ傷を負いながらも、互いに無事を確認し合っていた。
その中で、主は必死の形相で物吉貞宗の体を抱えていた。
「物吉くん……!お願いだから、目を閉じないで!」
物吉は血に染まった体で弱々しく微笑む。
「主様、大丈夫です……主様が無事なら、それで……」
「大丈夫じゃないよ!こんなに酷い怪我をして……」
主の声は震えていた。刀剣男士の傷の治療は、主である自分しかできない。その責任を重く感じながらも、目の前の物吉を助けるため、手を震わせながら傷口に触れた。
その場にいた清光は、それを黙って見つめていた。
物吉の呼吸が少しずつ落ち着いていくのを感じ、主は安堵の表情を浮かべた。
「よかった……物吉くん、あと少しだから、頑張ってね」
「主様……ありがとうございます」
物吉はかすれた声で言い、少しだけ目を開けた。
「ボクは、主様に幸運を運ぶはずなのに……こんな姿を見せて、ごめんなさい」
「そんなことないよ!」
主は物吉の手を強く握った。
「物吉くんは、私を守ってくれた。それだけで十分だよ。本当にありがとう」
その言葉に、物吉は満足そうに微笑むと、再び目を閉じた。
一部始終を見守っていた清光の胸には、複雑な思いが渦巻いていた。
物吉が命を懸けて主を守ろうとしたこと、そして主がこんなにも真剣に物吉を大切にしていること。
清光は拳を握りしめながら、静かに言葉を漏らした。
「俺だって、主を守りたい……ずっと、そう思ってきたのに」
しかしその言葉を口にしても、主の耳には届かなかった。主は物吉の治療に全力を注いでいたのだ。
治療が終わり、物吉が静かに眠りについた頃、主はようやく深いため息をついた。
「物吉くん……本当に、よかった」
主は疲れた顔で清光に向き直った。
「清光、ありがとう。ここまで物吉くんを守ってくれて……」
清光は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに微笑みを作った。
「……主と物吉が無事でよかった。それだけで俺は十分だよ」
しかしその微笑みの奥には、自分自身への問いが渦巻いていた。
――俺は、主にとって本当に一番の存在なのか?それとも、俺より物吉のほうが……?
清光は視線を物吉に向けた。主を守るために傷ついた彼の姿が、清光の胸に突き刺さるようだった。
「……主、俺ももっと強くなる。もっと主の力になれるように」
清光は静かにそう誓いを立てると、そっと主の肩に手を置いた。
「少し休みな。俺が見張ってるからさ」
主は清光の言葉に甘えるように頷き、疲れた体を休めるためにその場を後にした。
清光は眠る物吉を見下ろし、心の中でそっと呟いた。
――物吉、お前がどんなに頑張っても、俺は主の初期刀だ。主を守る一番は、俺なんだからな。
その言葉には、決意と焦燥が入り混じっていた。
***
本丸は再び静けさを取り戻していた。
襲撃してきた敵はすべて倒され、傷を負った刀剣男士たちも主の手で治療を受け、皆が平穏な時間を過ごしていた。
しかし、物吉貞宗の心には重い影が差していた。
自室の窓辺で、物吉は外の庭をぼんやりと眺めていた。風に揺れる木々の音や、遠くから聞こえる他の刀剣男士たちの笑い声が耳に入るが、その心は晴れなかった。
――主様を守ると言ったのに、僕は……守れなかった。
あのとき、敵の猛攻を前に力及ばず倒れ、主が敵に攫われそうになった瞬間。
それを救ったのは、自分ではなく清光だった。
「……清光さんは、すごいな」
物吉は呟くように言った。
初期刀として、長い間主を守り続けてきた清光。自分にはない強さと覚悟が、清光にはあった。それを目の当たりにして、物吉の胸には嫉妬と悔しさが渦巻いていた。
――僕は、主様にとって本当に必要な存在なのか?幸運を運ぶだけで、本当にいいのか?
物吉は自分の手のひらをじっと見つめた。その手は確かに、何度も主に感謝されてきた。
「物吉くんがいてくれるから安心する」
「物吉くんは幸運を運んでくれるだけじゃなく、私に幸福も運んでくれる」
そう言われたときの嬉しさは、今でも忘れられない。
でも――
あのとき、清光のように主を守る力があれば、もっと違った未来があったのではないか。
清光がいなかったら、主は攫われていたかもしれない。その事実が、物吉の心を深く蝕んでいた。
「……ボク、このままでいいんでしょうか」
幸運を運ぶだけの刀。笑顔を振りまくだけの刀。
それで主のそばに立つ資格があるのか、自分でも分からなくなっていた。
物吉は小さく息を吐き、心の中で問い続けた。
――ボクは、これからどうすればいい?主様を守れる強さが欲しい。でも、それはボクらしくないことなのかな……?
そのとき、ふいに背後から声がした。
「物吉」
振り返ると、そこには清光が立っていた。軽い笑みを浮かべているが、その眼差しはどこか真剣だった。
「清光さん……」
「お前、ずっとここで考え込んでたろ。何を悩んでるのかは知らないけどさ」
清光は物吉の隣に腰を下ろし、続けた。
「俺だって、主を守れなかったことが何度もある。強い敵に出くわして、主が危険な目に遭ったとき、自分の無力さを思い知るたびに、どうすりゃいいんだろうって考えるよ」
物吉は驚いたように清光を見つめた。
「清光さんが、そんな風に思うなんて……」
「当たり前だろ。俺だって完璧じゃない」
清光は苦笑を浮かべた。
「でも、俺たちは刀だ。主のために折れる覚悟で戦う。それが、俺たちの役目だろ?」
物吉は清光の言葉にハッとした。
「お前も、あのとき主を守ろうとしただろ。それで十分じゃないの」
「でも……ボクは結局、主様を守りきれなくて……」
「だからって、悩んでばっかじゃ主に顔向けできないだろ。大事なのは、次にどうするかじゃねえの?」
清光の言葉は、物吉の心に静かに響いた。
「……次に、どうするか」
「そうだよ」
清光は立ち上がり、物吉に手を差し伸べた。
「俺たちは主を守るためにいる。それを忘れなければ、きっと何とかなるって」
物吉は清光の手を握り、立ち上がった。その胸には、少しだけ光が差し込んだ気がした。
――僕も、もう一度主様を守る力を手に入れるために進まなきゃ。
そう心に誓いながら、物吉は清光と共に再び歩き出した。
***
稽古場には、木刀がぶつかり合う乾いた音が響いていた。物吉貞宗と加州清光が手合わせをしている。
物吉の動きは軽やかで小回りがきいているが、その剣筋には迷いがあった。清光は鋭く攻めながら、その一瞬の隙を見逃さなかった。
「ほら、そこが甘い!」
清光が声を上げ、物吉の木刀を弾き飛ばした。
物吉は転がる木刀を追いかけるように視線を落とし、悔しそうに息を吐いた。
「やっぱり、ボクはまだまだですね……」
清光は木刀を肩に担ぎながら、少し笑って肩をすくめた。
「まぁ、すぐには上手くならないさ。でも、ちゃんと向き合おうとしてるのは偉いよ」
「ありがとうございます、清光さん。」
物吉は少しだけ顔を上げて微笑んだ。そのとき、ふと稽古場の入り口から聞き慣れた声がした。
「二人とも、お疲れさま」
振り返ると、主が湯気の立つ湯呑と茶菓子を載せたお盆を持って立っていた。
「主様!」
物吉はぱっと顔を明るくし、立ち上がった。
「稽古の合間にどうかなと思って。冷めないうちに飲んでね」
主はにこやかに微笑みながら、すっと清光にお茶を手渡した。清光は少し驚きながらも、いつものように軽く笑って受け取った。
「ありがとう、主」
物吉も次に手渡されたお茶を受け取り、「ありがとうございます!」と礼を言った。
主の気遣いに二人はほっと息をつき、縁側へ移動して腰を下ろした。庭を眺めながら、三人でお茶を楽しむ時間は、稽古場の熱気とは違う穏やかな空気を運んでくれる。物吉と主が何気ない話をしている中、清光は何とはなしにお茶を手に取りながら考えていた。
――今、主が最初に俺にお茶を渡してくれたのって、ただの順番かな?
些細なことではあるが、主が清光に先にお茶を手渡したことが妙に頭に引っかかる。たまたまかもしれない。だが、そう考えながらも、そのあとに主が物吉に目を向けて話す様子をぼんやり眺めている自分に気づき、思わず眉をひそめた。
その日の夕食時、本丸の広間には刀剣男士たちが集まり、賑やかな食事が始まっていた。主もそこに座り、皆と楽しげに会話を交わしていた。
清光はいつものように主の隣の席に座り、他の刀剣男士たちと軽口を叩き合いながら食事を楽しんでいた。そんな中、主が立ち上がり、みんなにお茶とおしぼりを配り始めた。
「お疲れさま、清光」
清光が顔を上げると、主がまず自分にお茶とおしぼりを差し出してきた。
「ありがと」
清光は自然と受け取りながらも、またもや胸の奥に小さな疑問が生まれた。
他の刀剣男士たちには順番にお茶を配っていたが、主が真っ先に自分に渡してくれることに、ふと気づいたのだ。
「……」
清光はお茶を口に運びながら、これが偶然ではないことを感じ始めていた。
そういえば、主と二人きりで本丸を切り盛りしていた頃も、主はいつも自分を優先して気遣ってくれていた。
――あれは、どうしてなんだろう。俺が初期刀だから?それとも……?
清光の胸には、小さな期待と不安が入り混じった感情が芽生えていた。主のその行動が、ただの気遣い以上の意味を持っているのかどうか。それを知りたいと思う自分がいることに気づいたのだ。
その夜、清光は縁側に出て夜風を感じながら考え込んでいた。
主が自分に示す特別な行動の理由が知りたい。だけど、それを尋ねて確かめるのが怖い自分もいる。
「……俺って、主にとって何なんだろうな」
清光は自分に呟きながら、手にした木刀をぎゅっと握りしめた。
その理由を聞く日は、きっとそう遠くはないだろう――そう思いながらも、心はまだその答えを求める準備ができていなかった。
***
夕方、縁側で主と並んで座っていた物吉貞宗は、庭に揺れる草木を眺めながら穏やかに微笑んでいた。
「今日はいい天気ですね、主様。こうしてゆっくりするのも、たまにはいいものです」
主は物吉の言葉に軽く笑いながら答えた。
「そうだね。物吉くんとこうして話すの、なんだか落ち着くよ」
「ボクもです、主様」
物吉は嬉しそうに応じたが、主の表情が少しだけ照れくさそうに変わったのを見逃さなかった。
「なんか、物吉くんってさ、会話の中でよく『主様』って呼んでくれるよね」
主は少し視線を庭に向けて言った。物吉はきょとんとした表情を浮かべた。
「気づいてる?」
「えっ?……そうなんですか?ボク、無意識でした」
主は恥ずかしそうに微笑みながら頷いた。
「うん、いつも自然に呼んでくれるから、ちょっと恥ずかしい。でも……なんだか嬉しいなって思って」
その言葉に物吉の胸が温かくなり、自然と顔が紅潮していくのがわかった。
「主様が嬉しいって思ってくれるなら……ボク、これからも呼びますね。何度でも」
主はその言葉に少し驚いたように目を瞬かせ、それから柔らかい笑みを浮かべた。
「ありがとう、物吉くん」
物吉は頬を赤らめながらも、その笑顔に応えるように微笑んだ。
しかし、その瞬間、胸の奥に決意が生まれた。
――ボクは、主様を守れる存在になりたい。あの日みたいなことは、もう絶対に繰り返さない。
ふと、敵に襲撃された日の記憶が脳裏をよぎる。自分が未熟だったせいで、主様を危険な目に遭わせてしまった。ボクの役目は主様を守ることだ。それを果たせなければ、存在意義なんてない。
「主様」
物吉は真剣な表情になり、隣に座る主をまっすぐ見つめた。
「ボク、もっと強くなります。主様を守るために。どんな危険があっても、ボクが必ず主様を守り抜きます」
その強い言葉に、主は少し驚いた顔をしたが、すぐに優しい笑みを浮かべた。
「ありがとう、物吉くん。でも、無理はしないでね。あなたがそばにいてくれるだけで、私は安心できるんだから」
「それでも、ボクは強くなりたいんです」
物吉の声には揺るぎない決意が込められていた。
「主様のそばに立つために、ボク自身もっと成長したいから」
主は物吉をじっと見つめたあと、はにかむように微笑んだ。
「物吉くん、ほんとに真面目だね。でも、そういうところが好きだな」
その言葉に、物吉の顔が一瞬で真っ赤になり、慌てて目をそらした。
「そ、そんな風に言われたら、ボク……なんだか、暑くなってきましたね!」
主はその反応にくすっと笑い、再び庭に目を戻した。
物吉は湯呑を握る手に力を込める。
――主様。ボクは絶対に強くなります。そして、何度でも主様を呼びます。その名前を、ボクが守り続けるために。
物吉の心に新たな決意が芽生える中、夕陽が二人を穏やかに包み込んでいた。
***
夕方、柔らかな陽射しが本丸の庭を優しく照らす中、縁側では主と物吉貞宗が並んで座り、穏やかな時間を過ごしていた。
庭の奥、木々の陰に隠れるようにして二人を見守るのは、物吉の兄弟刀、太鼓鐘貞宗と亀甲貞宗だ。
「そこだ、物吉にいちゃん!」
太鼓鐘が拳を握りしめ、小声で興奮気味に呟く。
「派手にいっちまえよ!主に向かって『オレが絶対守る!だからオレのこと見てくれ!』とかさ!」
物吉の姿を食い入るように見つめながら、太鼓鐘は足踏みをしてもどかしさを隠しきれない。
だが、縁側の物吉は主との会話の中で、時折頬を染めたり視線をそらしたりするばかりで、そんな大胆な言葉を口にする気配は微塵もない。
「くっそー!なんで照れてばっかなんだよ!にいちゃん、もっとガツンといかなきゃ伝わんねーって!」
その様子を見て、亀甲は微笑みを浮かべながら隣で腕を組んだ。
「まあまあ、太鼓鐘くん。物吉くんだって、きっと色々と考えているんだよ。あの真面目で誠実な性格だからね、すぐに行動に移すのは難しいんだろう」
「でもさ、亀甲にいちゃん!主が他の刀に取られたらどうすんだよ!?」
亀甲は太鼓鐘の言葉に肩をすくめて笑う。
「それはそれで面白そうだけどね。でも、大丈夫だよ。あの二人の間には、確かに特別な何かがある」
そう言いながら、亀甲は縁側の二人をじっと見つめた。物吉が湯呑を手にしながら主の言葉に一生懸命応じ、主が微笑みを返すその光景に、彼の目は楽しげに輝いている。
「とはいえ、少し焦らされるようで……ゾクゾクするね」
亀甲が楽しげに声を漏らすと、太鼓鐘は「おいおい!楽しんでる場合じゃないだろ!」と声を潜めながら突っ込んだ。
「まあまあ、太鼓鐘くん」
亀甲は穏やかに笑い、太鼓鐘の肩をポンと叩く。
「物吉くんはきっと、タイミングを見計らっているんだよ。だから、ぼくたちは見守るだけでいい」
「でもよー……!」
太鼓鐘は唇を噛みながら、物吉を見つめ続けた。
「にいちゃんがこんなに主のこと好きなの、絶対バレバレだよなぁ。ああもう、もどかしい!」
亀甲はそんな太鼓鐘の肩を再び軽く叩いて微笑む。
「でもね、それが恋というものさ。焦らずじっくり見守るのも悪くないよ」
「……うー、落ち着かねぇ!」
太鼓鐘は髪をかきむしりながら視線をそらしたが、再び物吉に目を向けると、なんだかんだで応援する気持ちは変わらない。
「頑張れよ、物吉にいちゃん……!今度こそちゃんと伝えろよな!」
亀甲はそんな太鼓鐘の横顔を楽しげに眺めながら、「物吉くんのペースで進めばいいさ。それにしても、焦らされるのは嫌いじゃない……むしろ大好きだよ」と独り言のように呟く。
物吉と主が穏やかに微笑み合う縁側の光景を、二人の兄弟刀はそれぞれの想いを胸にそっと見守り続けていた。
***
夕暮れ時、本丸の廊下を歩いていた加州清光は、意を決したような表情で執務室の扉を叩いた。中から主の「どうぞ」という声が聞こえると、清光はゆっくりと扉を開ける。
「主、今ちょっといい?」
机に向かって作業をしていた主は、顔を上げてにっこり微笑んだ。
「清光、どうしたの?」
その笑顔を見た瞬間、清光の胸が軽く高鳴るのを感じた。けれど、今日はそれを意識しないようにしなくちゃいけない。何でもない会話の中で、それとなく知りたいことを探ろうと決めていたからだ。
「いや、別に大したことじゃないんだけどさ」
清光は柱に寄りかかり、さりげない調子で口を開いた。
「主ってさ、俺たちに何かする時、真っ先に俺のところに来るよね?」
主は少し驚いた顔をして、それから考え込むように首を傾げた。
「……そうかな?」
「そうだよ」
清光は言いながら、少し笑って肩をすくめた。
「ほら、例えばさ。お茶とか、おしぼりとか、いつも一番最初に俺に渡すだろ?」
「ああ……言われてみれば、そうかもね」
主はクスリと笑い、手を止めて清光を見上げた。
「でも、それって無意識かも」
その言葉に、清光は思わず眉を寄せた。
「無意識って……なんで?」
主はしばらく考えるように視線を巡らせ、それからふっと柔らかい表情になった。
「たぶん、清光が私の“始まりの一振”だからじゃないかな」
その言葉を聞いた瞬間、清光の胸が軽く痛む。
「そっか、初期刀だもんな」
口元に笑みを浮かべて言ったが、その声にはどこか力がなかった。
主は清光の様子に気づいたのか、少し首を傾げてその顔を見つめた。そして、まるで何かを思い出すように微笑んだ。
「ううん、違うよ」
その一言に清光は目を見開く。
「初期刀って、特別なんだよ」
主は静かに言葉を紡いだ。
「清光は私の宝物なの。最初に私と一緒に歩き始めてくれた、大事な思い出が詰まった一振だから」
その声はどこか懐かしさと愛しさが混じった響きで、清光の胸に深く染み込んでいった。
「だから、無意識に清光を優先しちゃうのかもね」
主はふわりと微笑み、まるで一番大事なものを見守るような目で清光を見つめた。
清光はその視線を受け止めながら、胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じた。主の言葉が、心の奥深くまで響いていた。
「……そう」
清光は小さく呟いた。
「まあ、初期刀だし、特別なのは当然だよな」
そう言いながらも、彼の顔にはかすかに赤みが差し、心臓の鼓動が早くなるのを抑えきれなかった。
「ふーん……主にとっての“宝物”か」
清光は目をそらしながら、つい微笑んでしまう。
主が「清光?」と首を傾げたが、その声に応えることなく清光は振り返り、扉の方へと歩き出した。
「それじゃ、俺はそろそろ行くね」
「うん。また明日ね、清光」
扉を閉める直前、清光はちらりと主を振り返り、柔らかい笑みを浮かべた。
「主、ありがとう」
その言葉の意味を深く考える間もなく、主は微笑んで手を振った。清光はそっと扉を閉じながら、自分の胸に残る高鳴りをそっと抱きしめた。
――俺が主にとって特別なんだって。そんな風に思われてるなら、俺ももっと……。
清光は微かな期待と誇りを胸に、足早に廊下を歩き出した。
***
夜の帳が降りる頃、本丸の廊下を主が歩いていた。理由もなく心が沈み、何かがあったわけでもないのに元気が出ない。こういう時、無性に甘えたくなる。頭の中で浮かんだのは、いつもそばにいてくれる加州清光の顔だった。
ふらふらと清光の部屋に向かい、扉を軽く叩く。中から返事はないけれど、薄く開いている扉の隙間から柔らかい灯りが漏れているのを見て、主は「お邪魔します」とだけ呟いて部屋に入った。
部屋の中では、清光が鏡の前に座り、マニキュアを丁寧に塗っているところだった。整った指先が繊細に動く様子に見惚れつつも、主は何も言わず清光の背中に近づく。そして、思わずその背中にぎゅむりと抱きついた。
「……主?」
清光は驚いた声を上げ、塗りかけの指先を止めた。後頭部に感じるのは主の額。ぐりぐりと押し付けてきて、まるで子猫のように甘えてくる。
「清光……なんか、元気出ない……」
その小さな声に、清光の胸がぎゅっと高鳴った。主の体温が、肌越しにじんわりと伝わってくる。
「な、何かあったの?」
動揺を隠すため、努めていつも通りの声を出そうとする清光。
「何もないんだけど、なんか……ただ、清光に甘えたくなっただけ」
その言葉に、清光の心臓がさらに速く跳ねる。こんなに鼓動が大きくて、主に聞こえてしまうんじゃないかと不安になるほどだ。
「あーもう……主、急にこんなことするなよ。びっくりするだろ?」
そう言いながらも、清光の声はどこか柔らかい。ふと、主と自分が本丸に来たばかりの頃を思い出す。あの頃の主は、まだ頼りないところも多く、こうやってよく清光に甘えてきたものだった。
「でもさ、主がこうやって甘えてくれるの、なんか懐かしい」
清光はそっとマニキュアを置いて、後ろの主の腕に軽く手を添える。自分の鼓動がまだ早いままだということに気づき、少し照れ臭くなるけれど、それ以上に胸が温かい。
「俺はさ、主のためならいつでも大歓迎だかんね」
その言葉に、主が「ありがとう」と呟きながらさらに額を清光の背中に押し付けてくる。清光は苦笑しながらも、内心ではたまらなく嬉しかった。
塗りかけで少し滲んだマニキュアなんて、今はどうでもいい。
「さ、これで少しは元気になった?」
「うん、清光のおかげで元気出たよ」
清光が振り返ると、主は頬を赤くして微笑んでいた。その笑顔を見て、清光は胸の奥に熱いものが広がるのを感じた。
「まったく、仕方ない主だなー」
清光は小さく笑いながら、主の頭を優しく撫でた。
「でも、いつでも甘えに来なよ。俺は主の“始まりの一振”なんだからさ」
その言葉に、主はさらに嬉しそうに笑い、清光の胸を温かく満たした。
***
冷えた風が吹き抜ける本丸の朝、主はどこか元気がない様子で部屋にこもっていた。清光とのやり取りの後も、どうにも体がだるく、思考もぼんやりとしていた。
「主様、失礼します」
控えめなノックの音とともに物吉貞宗が顔を出した。その表情は、主の様子を気遣うように柔らかい。
「物吉くん……どうしたの?」
主の声は掠れていて、目元にも疲れが滲んでいる。それを見た瞬間、物吉は状況を悟った。
「主様、もしかして熱があるんじゃないですか?」
「え……?そんなことない、と思うけど……」
主が手を額に当てるよりも早く、物吉がそっと手を伸ばして主の額に触れた。
「……やっぱり少し熱いです。ボクが看病しますから、今日はゆっくり休んでください」
物吉は微笑んで、すぐに部屋を整え始めた。枕元に水を置き、濡れたタオルを主の額に乗せる。その手際の良さに主はぼんやりと感心しながら、「物吉くん、ありがとう」と呟いた。
「ボクにできることなんて、これくらいしかありませんから」
物吉はそう言って、主の手をそっと握った。その温もりに、主は儚げに笑いながら「物吉くんがいてくれて心強い」と言葉を紡ぐ。
その言葉に、物吉の胸が熱くなる。それと同時に、清光の顔が脳裏に浮かんだ。
――清光さんならどうするだろう?主様をもっと安心させる言葉をかけられるんじゃないか。もっと上手にお世話をするんじゃないか。
物吉は知らず知らずのうちに清光をライバル視している自分に気づき、心の中で小さくため息をついた。
そうして、目を閉じて安心したように眠る主を見つめる。その顔は、物吉にとって何よりも大切で、守りたい存在だった。
「主様のお役に立てるなら、それでいいんです」
けれど、その言葉の裏にある小さな嫉妬や競争心が消えない自分を、どこかで自嘲していた。
――清光さんより先に、誰よりも主様のお側にいたい。
そんな思いが、自分の中にあることを認めざるを得ない。それでも、今は目の前の主のためにできることをするだけだと、物吉は自分を言い聞かせた。
「主様、どうかお大事に」
小さな声でそう呟きながら、物吉はそっと主の手を握り続けた。
***
暖かな午後の光が差し込む主の部屋。風邪をひいた主のために、二人の刀剣男士がそれぞれの思いを胸に部屋の扉を叩いた。
「主、俺だよ。入るね。」
「主様、失礼します。」
加州清光と物吉貞宗。偶然にも同じタイミングで部屋に入ってきた二人は、互いに手に何かを持っていることに気づいてピタリと動きを止めた。
「……清光さん、それは?」
「プリンだよ。ほら、主って甘いもの好きだし、風邪の時はこれくらい喉越しがいい方が食べやすいだろ?」
清光が得意げにプリンを掲げると、物吉は微妙な表情で首を振る。
「でも、こういう時の主様はみかんゼリーが食べたい気分なんです。主様の普段の様子からしても、ボクの選択が正しいはずです」
「……は?」
清光の眉がピクリと動いた。
「いやいや、主はプリンが好きなの。だから、俺が用意したこれが絶対正解だって」
「主様の好みを否定するつもりはありませんけど、今の主様にとって食べやすいのは、果物の爽やかさを感じられるゼリーですよ」
バチバチと火花が散る二人。どちらも引かない。
「じゃあ、主に聞いてみるか?」
「ええ、もちろん。」
二人は息ぴったりに振り返り、主に尋ねた。
「主、どっちが食べたい?」
まだ少しだるそうな主は、二人の争いに困ったような笑みを浮かべながら答えた。
「……どっちも食べたい」
その一言に、清光と物吉は同時に「えっ」と声を漏らした。
「だって、清光のプリンも美味しそうだし、物吉くんのみかんゼリーも食べたいし……二つとももらえるなら嬉しいな」
主が申し訳なさそうに笑うと、清光は頭を掻きながら苦笑し、物吉も肩をすくめて柔らかく微笑んだ。
「まったく、主ってば欲張りなんだから」
「でも、それが主様の魅力ですよね」
結局、二人はそれぞれ用意してきたものを主に渡し、主が美味しそうに食べる様子を見守ることにした。
「清光さん、引き分けですね」
「……まあな。次は負けないけどね」
そう言いながらも、清光の表情はどこか穏やかだった。
その日はどちらも譲らない争いから始まったが、最終的には主の笑顔で二人とも満足する結果に終わったのだった。
***
月が高く昇る静かな夜。風邪で体調を崩した主は、布団の中で何度も寝返りを打ちながら、眠れないまま時間を過ごしていた。体がだるいのに、熱のせいでうまく眠れず、心細さも募る。
「……少し水を飲もう」
ゆっくりと布団から抜け出した主は、フラフラとした足取りで厨房へ向かった。
その頃、厨房では――。
「だから、今夜は俺が添い寝するから!」
「清光さん、主様の看病はボクが担当しているんです。添い寝も当然ボクがするべきです」
「は?そもそも俺は初期刀だよ?主と一番長く一緒にいる俺がするのが安心だろ!」
「ボクだって主様のおそばにずっといるんです。譲る気はありません!」
小声ながらも激しく言い争う清光と物吉。どちらも主を気遣う気持ちは真剣そのもので、一歩も譲らない様子だった。
「……何してるの?」
ふいに聞こえた声に、二人はピタリと動きを止めた。振り返ると、主が疲れた顔をしながら厨房の入り口に立っている。
「主!? こんな時間にどうしたの!?」
「主様、寝ていなきゃダメじゃないですか!」
「奥で声が聞こえたから、気になって……二人とも、どうしてこんなところで喧嘩してるの?」
主が疑わしげな目を向けると、清光と物吉は口ごもりながら互いに視線を送る。
「それは……その……」
「どちらが主様の添い寝をするかで少し……」
物吉が正直に白状すると、主は呆れたようなため息をつき、それからふっと笑った。
「二人ともそんなことで喧嘩しないでよ。じゃあ、三人で寝よう」
「えっ?」
「三人で?って、主、それ大丈夫?」
「大丈夫だよ。真ん中で寝れば安心するし……それなら二人とも納得するでしょ?」
主の提案に、清光と物吉は顔を見合わせ、渋々と頷いた。
こうして、主の部屋に戻った三人は一つの布団を広げ、川の字になって横になることに。
「主、こっちの枕、使いやすいからどうぞ」
「ボクが冷やしておいたタオルもありますよ」
清光と物吉はなおも主を気遣いながら小さな争いを続けていたが、真ん中で二人のやり取りを聞いていた主は、やがて疲れたように微笑みながら、二人の手をそっと握った。
「ありがとう。清光も物吉くんも、いつも優しくしてくれて……おかげで安心して眠れそう」
その言葉に、二人は互いに視線を交わし、静かに息をついた。
「じゃあ、主が眠るまで、ちゃんとそばにいるよ」
「ボクも絶対に離れませんから」
そうして、清光と物吉に見守られながら、主は少しずつ眠りに落ちていった。二人は何も言わず、静かに主の寝顔を見つめていた。
――どちらが勝ちでも負けでもない。ただ、主のためにそばにいる。それが二人にとって、今の一番の幸せだった。
***
朝、窓の外から差し込む陽の光に目を細めながら、主はゆっくりと体を起こした。昨日の倦怠感が嘘のように和らいでいる。
「……あ、熱も下がってるみたい」
おでこに手を当ててみると、もう熱っぽさはほとんど感じられない。少し喉が渇いているけれど、昨日のようなだるさはない。ようやく風邪が治ったらしい。
「そういえば……清光と物吉くん、昨日ずっとバチバチしてたよね」
昨日の出来事が脳裏に蘇る。プリンかゼリーかで言い争う二人、添い寝のことで口論する二人。どちらもいつもは息の合った様子で主を支えてくれる二人には珍しい光景だった。
「きっと私が風邪を引いたから、心配で取り乱してたんだよね」
主はくすりと笑った。清光も物吉も、自分の体調を気遣うあまり、少し熱くなってしまったのだろう。その気持ちが嬉しくて、思わず布団の中で小さくなった体を伸ばした。
「風邪が治ったこと、早く二人に伝えなくちゃ」
主は布団から抜け出し、清光と物吉を探すために部屋を出た。
縁側のほうへ歩いていくと、そこには朝の陽射しを浴びながら話をしている清光と物吉の姿があった。
「昨日の主様、本当に心配でしたよね……でも、今朝は落ち着いてるといいな」
「そうだな。早く元気になってくれないと、俺だって気が気じゃないよ」
二人が主のことを話しているのを聞き、主は思わず足を止めた。昨日の言い争いが嘘のように、今日は穏やかに会話を交わしている。
「あの、清光、物吉くん」
声をかけると、二人は同時に振り返り、驚いたように立ち上がった。
「主!もう起きて大丈夫なの?」
「熱はどうですか!?無理はしないでください!」
二人の勢いに、主は思わず笑みを浮かべた。
「大丈夫。熱も下がったし、体も軽くなったよ。二人が色々してくれたおかげだね」
そう言うと、清光と物吉はほっと胸を撫で下ろした。
「そりゃ当然でしょ。俺たちは主を守るのが役目なんだから」
「ボクたちがいれば、主様はもう何も心配いりませんよ」
昨日の険悪した様子が嘘のように、二人は微笑みながら主を見つめる。その表情に、主は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
「ありがとう。本当に、二人がいてくれてよかった」
その一言に、清光と物吉の顔が少し赤く染まった。
「そ、そう言われると……まぁ、やってよかったって思うよね」
「主様、いつでも頼ってくださいね。ボクたち、全力で支えますから」
清光と物吉のそんな言葉に、主は心から安心しながら、穏やかな朝を迎えたのだった。
***
主が去った後、清光と物吉は縁側に並んで腰を下ろしていた。朝の澄んだ空気の中、少しだけ静かな時間が流れる。
「……主が元気になったのは良かったけどさ」
清光がぽつりと口を開く。
「俺たち、昨日はちょっと張り合いすぎたんじゃない?」
「清光さんが言います?プリンだ添い寝だって、ずいぶん熱くなってましたけど」
物吉が肩をすくめながら、しかし口元には小さな笑みを浮かべている。
「それを言うならお前だって、『主様のことはボクが一番わかってます』とか自信満々に言ってたじゃん」
「それは事実ですからね」
さらりと言い返す物吉に、清光は「あ゙?」と声を低くする。
「まぁ、俺は別にいいけどね。主が嬉しそうならそれで」
清光はやや強がるように言って、空を見上げた。その横顔を見ながら、物吉は目を細める。
「そうですね。ボクも、主様が笑ってくれるならそれでいいです」
一見穏やかなやり取り。しかしその裏には、互いに譲れない気持ちが渦巻いていた。
清光は「自分は初期刀だ」という自負と共に、主の傍で積み重ねてきた時間への自信を持っている。一方の物吉も「主様のお傍で守る」という役目と、いつも主を観察してきた経験がある。
そして――どちらも主のことが大切で、大好きだった。
「……まあ、主が俺のことを宝物だって言ってくれたわけだし」
ふと清光が漏らしたその言葉に、物吉はピクリと反応した。
「そうなんですか。でも主様もボクに『特別』って言ってくださいましたよ」
互いに譲らない視線が交錯する。
「……まぁ、いいよ。どうせ主が選ぶのは――」
「それはボクですよ」
「はあ?何言ってんの」
穏やかだった雰囲気が一転、ふたりの間に火花が散る。主が戻ってくる気配がないのを確認すると、どちらからともなく小さく声を張り上げ始めた。
「俺は主の“始まり”の刀なんだよ!お前とは信頼の深さが違う!」
「始まりがどうあれ、主様が必要としているのは今のボクです!」
「一番は俺だ!」
「いいえ、ボクです!」
熱くなる清光と物吉。だが、縁側の先に広がる庭には、そんなふたりを静かに見守るような朝の陽射しが降り注いでいる。
この本丸の審神者は知らない――
自分を巡って清光と物吉がこんなにも激しく争っていることを。そして、その攻防が簡単に終わることはないだろう。
主の心をどちらが射止めるのか。ふたりの戦いは、今日もひそかに続いていくのだった。