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TOUKENRANBU

[物さにSS詰め]


◇やさしいじかん


仕事で大きなミスをしてしまい、主は心が沈んでいた。
いつもより遅い帰宅、足取りは重く、顔には疲れと悔しさが滲んでいる。
彼らのいる本丸へ帰ってきても、今日は刀剣男士たちの顔を見る気力すら湧かなかった。

部屋に戻り、そのまま布団に倒れ込む。
ふとした瞬間に脳裏をよぎるのは、職場での失敗の瞬間。
そして、上司の厳しい声や同僚たちの視線。
反省しなければいけないのはわかっているが、心が折れそうだ。

コンコン、と軽く扉を叩く音がする。

「主様、少しだけお時間をいただいてもいいですか?」

その声は物吉貞宗のものだった。元気で前向きな彼の声に、少しだけ心が動く。

「ごめん、今はちょっとしんどいかも」

か細い声でそう答えるが、扉の向こうから物吉は優しい声で返した。

「もちろん、主様の気持ちも大切です。でも、何か悩んでいるときに一緒に寄り添うのもボクたちの役目だと思っています。それに、主様に少しでも幸運を届けられるかもしれないので」

その言葉に心が揺れた。物吉の前向きな優しさは、不思議と人を拒絶しにくいものがある。

「……じゃあ、少しだけ」

扉を開けると、物吉がにっこり微笑みながら立っていた。
彼は小さなトレイを手に持ち、その上には湯気の立つお茶と小さなお菓子が乗っている。

「頑張りすぎる主様には、甘いものが一番ですよ」

物吉は主の隣に座り、温かいお茶を差し出す。
その動作は自然で、彼が何も責める気持ちを持っていないことが伝わってきた。

「今日は……本当にダメだったんだ」

絞り出すように言葉を口にする。
物吉はただ、うん、うん、と頷きながら話を聞いてくれた。

「でも、僕は主様が頑張ったって知っていますよ。それだけで十分だと思います。」
「でも、結果が出せなかったら意味がないよ」

物吉は首を横に振った。

「失敗は次への糧になるものです。主様がここで諦めない限り、今日のこともきっと良い経験になります。それに、ボクたち刀剣男士も、主様と一緒に進む覚悟がありますから」

彼の瞳には、純粋な信頼が宿っていた。

「主様の頑張りはボクが知っています。そして、ボクが主様に少しでも幸運を運べるなら、それだけで幸せです」

その言葉に、ずっと堪えていた涙がこぼれる。
物吉はそっと涙を拭いながら、微笑み続けていた。

「泣いたら少しは楽になるって聞いたことがあります。だから、たくさん泣いてください。そして、また明日、頑張りましょう。一緒に」

物吉の手から伝わる温かさと優しさに触れ、主は少しずつ、また明日から、前を向ける気がした。





◇風邪っぴき


秋風が冷たく吹き抜ける夜、主の部屋からは微かな咳の音が漏れていた。
いつも元気で、刀剣男士たちを導く主が風邪をひくとは何たる不覚。
主の体調不良の報告を受けた物吉貞宗は、心配でたまらずすぐに部屋を訪ねた。

「主様、大丈夫ですか?」
物吉は控えめに襖を開ける。
布団の中から顔を少しだけ出した主は、頬を赤らめて弱々しく笑った。

「ごめんね、みんなを心配させて……ちょっと熱が出ただけだから、大丈夫だよ」

その言葉を聞いても、物吉の心配は消えない。

「こんなときこそ、ボクの出番です!主様、ボクに看病させてください!」

元気いっぱいの声でそう言う物吉だったが、その瞳には決意が宿っていた。
主を少しでも楽にしてあげたい、そんな想いが伝わってくる。
物吉はまず、濡れたタオルを持ってきて主の額にそっと置いた。
その優しい手のひらが触れるたび、主の心には不思議な安心感が広がる。

「はい、これ。特製の薬草茶を作ってきました。少し苦いかもしれないけど、温かいから飲むと体が楽になりますよ。」

手渡された湯呑みから立ち上る湯気に、心までほっとする。
主はゆっくりとお茶を口に含み、微笑んだ。

「ありがとう、物吉君。君がいてくれると、本当に助かるよ」

その言葉に、物吉は頬を赤らめる。
普段は明るく振る舞う彼も、主から直接感謝されると少し照れるようだ。

夜が更けるまで、物吉は主のそばに寄り添い続けた。
布団を整えたり、冷めたお茶を新しいものに替えたり。
主が少しでも快適に過ごせるよう、細かなところまで気を配る。

やがて、主が眠りについたのを確認すると、物吉はそっと布団を引き上げた。

「主様、どうか早く元気になりますように……」

その小さな声に、眠ったふりをしていた主の胸が少しだけ熱くなる。

「ありがとう、物吉君……」

彼女の囁きは、物吉に聞こえただろうか。流石に聞こえないか。それでもいい。
彼の優しさと温もりが、何よりの薬だった。





◇好き!スキ!Kiss!


秋の夕暮れ。
庭に咲く薄紅色の菊が風に揺れる中、物吉貞宗はそわそわと主のもとへ近づいてきた。
その天真爛漫な笑顔が、いつもどおり胸を温かくさせる。

「主様、今日も幸運をお届けに参りました!」
そう言いながら、物吉は勢いよく抱きつき、そのまま頬に軽く唇を触れさせた。

「ちょ、ちょっと物吉! いきなり何してるの!」
主の頬は真っ赤になり、慌てて彼を引き離そうとする。
しかし、物吉は全く気にせず、微笑みを浮かべたままその手を優しく握る。

「主様、これはボクからの幸運のおすそ分けです! キスは運気を高めるって聞いたことありませんか?」
「そ、そんな言い訳通じないから!」
「ふふ、でも主様、嫌がってるようには見えませんよ?」

物吉の言葉に主は言葉を詰まらせる。
確かに、驚きはしても嫌ではない。それどころか、彼がこうしてそばにいることが嬉しいと感じてしまう自分に戸惑っていた。

「べ、別に嫌ってわけじゃ……でも、あんまり頻繁だと困るの!」
「えぇ~、でも主様が嬉しそうにしてるとボクも嬉しいですし……それに、好きな人にはいっぱいキスしたくなるものですよ?」
「す、好きって……」

主の心臓が一気に跳ね上がる。冗談交じりのように見えるけれど、その瞳は真剣だった。

「ボク、主様のことが大好きです。こんなふうに何度も伝えても足りないくらい。だから、もっと主様に触れたいんです」

その真っ直ぐな言葉に、主は自然と微笑みを浮かべた。

「……本当に正直なんだから。仕方ないな、物吉は」

主がそう呟くと、物吉の顔がさらに明るく輝いた。

「じゃあ、もう一回いいですか?」
「……一回だけよ?」

了承の言葉が終わるか終わらないかのうちに、物吉はそっと主の唇に触れる。
その瞬間、庭に吹く風がさらに優しくなり、遠くで鈴虫が鳴き始めた。

物吉の幸運は、主の心までしっかり届いているようだ。





◇帰らない、返さない


本丸の庭に夏の風が吹き抜ける。
畳の縁側に腰を下ろした主は、夕暮れの空をぼんやりと眺めていた。その隣には、麦茶を手にした物吉貞宗が控えめに座っている。
彼の優しい笑顔は、主にいつも安心感を与えてくれる。

「物吉くん、ありがとう。冷たい麦茶、美味しいよ」
主の声に、物吉は嬉しそうに微笑んだ。
「主様に喜んでもらえるのが、一番です」

そんな穏やかなやり取りの中、主の顔にふと陰りが差す。物吉はその変化を見逃さなかった。

「主様、どうなさいましたか?」
「……実は、話さなきゃいけないことがあるの」

その言葉に物吉の胸がざわつく。

「何でしょう?」

主は少し言葉を探すように間を置いた後、静かに告げた。

「私、そろそろ現世に戻らなきゃいけないの」

物吉の表情が固まる。
その笑顔は一瞬で消え、代わりに困惑と悲しみが入り混じった色が浮かんだ。

「戻る……というのは、本丸を離れるということですか?」
「うん。本当に急な話でごめんね。でも、ずっとこっちにいるわけにはいかないの。現世での生活が待っているから」

言葉は淡々としていたが、主の瞳には深い悲しみが宿っていた。
物吉は胸の奥が締め付けられる思いだった。

「それは、いつ頃の話なんですか?」
「あと一週間くらい……」

物吉は目を伏せ、拳を握りしめた。
いつもなら「主さまの幸せを願うのがボクの役目です」と言えるはずだった。
主を送り出すことこそが、刀剣男士としての務めだ。
だが、彼の心の奥底で、何かが引き裂かれるような痛みが余韻を残していた。

その夜、物吉は自室でひとり考え込んでいた。
主がいなくなる未来を想像すると、胸の奥が恐ろしく空虚になる。

「ボクは……主様を幸せにするためにここにいる。でも、主様がいなくなったら、ボクの存在意義はどこに行くんだろう?」

主を失う恐れに押しつぶされそうになる自分に気づいた物吉は、ある決意を固めた。

「もう、いい子じゃいられない」

翌日、物吉は主のもとを訪ねた。
彼の瞳には、いつもの柔らかさではなく、鋭い意志が宿っていた。

「主様」
「物吉くん、どうしたの?」

彼は彼女の手を取った。その手の温かさに驚いた主は、言葉を失う。

「ボク、主様を帰したくありません」

物吉の声は震えながらも真剣だった。

「……物吉くん?」
「主様が現世に帰ることが幸せだって、頭では分かっています。でも……ボクは、主様がここにいない未来なんて、想像もできないんです」

いつも控えめでおとなしい物吉が、こんなにも自分の気持ちをぶつけてくる姿に、主は戸惑いを隠せなかった。

「主様がいなくなったら、ボクには何も残りません。だから、わがままを言わせてください。主様をここに留めさせてください」

彼の声には強い決意が宿っていた。だが、主は首を振る。

「物吉くん、それはできないの。私にも戻らなきゃいけない理由があるから」

物吉は悲しげな表情を浮かべたが、彼女の手を離さない。

「それでも……ボクは諦めません。」

その言葉を最後に、物吉は主の部屋を去った。

それから彼の行動は少しずつ変わっていった。
主が準備を進めるたびに、物吉はさりげなく邪魔をした。
荷物をまとめようとすれば、必要なものを“うっかり”隠してしまう。
手紙を書こうとすれば、筆をどこかに持っていってしまう。

「物吉くん、これってあなたの仕業?」

主が問い詰めると、彼は少し申し訳なさそうに微笑むだけだった。

「主様が現世に戻る準備が整わなければ、もう少しここにいてくれるかなって……」

主は呆れつつも、その真剣な瞳に何も言えなくなる。

やがて、出発の日が近づいてきた。
主がどうしても現世に戻らなければならない理由は変わらない。
物吉も、それを理解していた。しかし、それでも彼の心は納得しなかった。

「主様、本当に行かれるんですね」

出発前の夜、彼は彼女の前に立ち、静かに尋ねた。

「ごめんね、物吉くん。でも、ありがとう。あなたがいてくれて、本当に幸せだった」

その言葉に、物吉の目に涙が滲む。

「それなら……最後にもう一つだけ、ボクのわがままを聞いてくれますか?」
「何?」
「今夜だけでいいから、ボクをお傍においてください」

主は少し迷ったが、静かに頷いた。
物吉と並んで座り、月明かりの下で夜を過ごす。
彼の手が、そっと彼女の手を包む。その温もりが、彼女の胸を締め付けた。

「ボクは、帰さないですよ、主様」

物吉の囁きは、静かな決意に満ちていた。
その言葉に、主の心も揺れ動く。

「……物吉くん」

彼の真剣な想いに、主は静かに微笑んだ。
そしてその夜、彼女は彼の手を握り返した。

「少しだけ……あなたのわがままに付き合ってあげる。」

その言葉に、物吉は涙をこぼしながら微笑んだ。

朝日が昇る頃、主の出発の準備はまだ整っていなかった。
そして物吉の心には、確かな希望が灯っていた。
彼女がいつか現世に戻るとしても、今この瞬間だけは彼女を守りたい――そんな想いが、二人の時間を満たしていくのだった。





◇あなたの不幸を望む


本丸の朝はいつも穏やかだった。
初夏の柔らかな陽射しが障子越しに差し込み、涼やかな風が庭を渡る。
そんな中、主は今日も執務室で山積みの書類と格闘していた。
隣には、近侍の物吉貞宗が控えている。彼は朝の忙しさもなんのその、常に微笑みを浮かべて主の手助けをしてくれる。

「主様、お茶をどうぞ」

物吉はにこりと笑いながら湯呑を差し出した。
その仕草は優雅で自然で、何の曇りもない。
彼が近侍になって以来、こうして穏やかな朝が続いている。
主は湯呑を受け取りながら感謝の言葉を口にした。

「ありがとう、物吉君。君がいてくれると本当に助かるよ」
「えへへ、ボクは主様のお役に立てるのが一番の幸せですから!」

彼の笑顔を見るたび、心がふっと軽くなるのを感じる。
物吉は明るく前向きな性格で、本丸の空気を和ませてくれる。
だがその日の朝、彼はいつもと違う話題を突然持ち出した。

「そうだ、主様」

湯呑を置き、書類整理をしていた手を止めた物吉がふと呟いた。軽い調子で話し出した言葉が、主の胸を鋭く貫いた。

「“ボクがいない時は不幸になればいいのに”って、どの本丸の物吉貞宗も思っていますよ。もちろんボクも含めて。」
「え……?」

あまりの言葉に、主は思わず手元の筆を落とした。
冗談だろうと思いたかったが、物吉はいつもの笑顔を崩すことなく、あっけらかんと続けた。

「だって、ボクってそういう刀剣ですからね。不幸を幸運に変える――つまり、主様が不幸でないと、ボクが必要なくなっちゃうんです。だから、ボクがいない間くらいは少しだけ不幸でいてほしいな、なんて思ったりして」

彼の声は冗談めいていたが、その底に隠された本音が主には伝わった。
いつも近くにいるからこそ、彼が何を考えているのかがわかる。

「それ……本気で言ってるの?」

主の声は震えていた。物吉はにっこりと笑ったまま、軽く肩をすくめた。

「本気ですよ。でも、それが刀剣男士としてのボクの役目なんです。主様の不幸がなければ、ボクの存在意義なんて薄れちゃうでしょう?」

その言葉に、主は胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
物吉の存在は、本丸にとって幸運そのものだと信じていた。
けれど、それが彼自身の中では「不幸が前提」とされていることに、主は気づけていなかったのだ。

「君が、そんなことを考えていたなんて……」

主は言葉を探しながらも、うまく言い返すことができなかった。
物吉は軽い口調を続けたが、その瞳の奥には一瞬、見逃せない影がよぎったように感じた。

「主様が不幸でいるのが嫌だって気持ちもあるんです。でも、不幸がなければボクは……いい、なんでもないです」

彼は言いかけた言葉を飲み込むと、再びいつものように明るい笑顔を浮かべた。

「まあまあ、この話は忘れてください。ボクは主様のそばで笑顔でいられるだけで満足ですから」

物吉はそれ以上は何も言わず、再び書類整理に戻った。
その背中がどこか寂しげに見えたのは、主の気のせいではなかった。

その日の夜、主は一人で庭を歩いていた。
昼間の物吉の言葉が頭から離れない。彼がどんな思いで日々笑顔を浮かべているのかを考えると、胸が苦しくなる。

「不幸になればいいなんて……物吉君がそんな風に思っていたなんて……」

呟いた言葉が庭の静けさに吸い込まれていく。
月明かりが庭を照らし、その光の下で咲く花々が風に揺れている。

物吉は主にとって欠かせない存在だった。
彼の明るさがどれだけ支えになっていたか、計り知れない。
それでも、彼自身が「不幸を前提とした存在意義」に縛られていると思い込んでいるのなら、それは彼にとって幸福と言えるのだろうか?

「主様、こんな時間にどうしたんですか?」

後ろから聞き慣れた声がして、主は振り返った。
そこには、月明かりに照らされた物吉の姿があった。彼の瞳は琥珀色に輝き、その微笑みはいつもと変わらない。

「君こそ、どうしてここに?」
「主様の姿が見えなかったので探しに来たんですよ。夜風が冷たいので風邪を引かないでくださいね」

そう言いながら、物吉は主の隣に立った。
庭に咲く花を眺めながら、彼はぽつりと呟いた。

「主様、ボクって主様の役に立てていますか?」
「そんなの当たり前じゃない。君がいてくれるおかげで、私はいつも助けられている」
「……ありがとうございます。でも、ボクがいなくなったらどうしますか?」

その問いに、主は答えを出せなかった。
彼がいなくなることなんて考えたくもなかったからだ。けれど物吉は穏やかに続けた。

「ボクがいない間も、主様が幸せでいてくれるなら、それが一番なんです。でも、たまに思うんです。もし主様が幸せであり続けたら、ボクの役割ってどうなるんだろう、って」

彼の声は静かだったが、その言葉の奥にある孤独が伝わってきた。
主は黙って彼の手を取った。

「物吉君、私は君の笑顔に何度も救われた。君がいるだけで本丸は幸せなんだ。だから、君が自分を不幸と結びつける必要なんてない」

物吉は驚いたように主を見上げた。
その琥珀色の瞳に、ほんの少し涙が浮かんでいるのを主は見逃さなかった。

「……主様、それでもボクは、主様のために笑い続けますよ」
「君が笑う理由が、もっと違うものであってほしいよ」

主の言葉に、物吉は静かに微笑んだ。
その笑顔はいつもの明るさとは違い、どこか安心したような穏やかさを帯びていた。

それからの日々、主は物吉との時間をこれまで以上に大切にするようになった。
彼が「不幸」を基盤にしなくてもいいと思える日が来るまで、主はそばに寄り添い続ける。物吉の笑顔の裏にある切なさを知ったからこそ、その笑顔を本当の幸せに変えるために。





◇神隠し


本丸の広間。
主は今日も楽しそうに、他の刀剣男士たちと談笑している。
その柔らかい笑顔に、周囲の男士たちは自然と引き寄せられていた。
彼らの間にあるのは、仲間としての信頼や友情――そう、主にとってはそれだけのはずだった。

だが、物吉貞宗にとっては違った。

少し離れた柱の陰からその光景を見つめる物吉の胸には、静かだった感情が音を立てて膨らんでいくのを感じていた。

主様はどうしてそんなにも優しいのだろう。どうして誰にでも、その笑顔を見せるのだろう。ボクだけの主様なのに。

主が、他の刀剣男士と微笑みながら親しげに話す。
彼らが自分よりほんの少しでも主に近い場所にいるのが許せなかった。
特に、太刀が主のすぐそばに寄り添い、軽い冗談を口にしている様子には、胸が張り裂けるような嫉妬が湧き上がる。

――ボクは、こんな気持ちを抱くためにここにいるのだろうか。

物吉は拳を強く握りしめた。
だがその痛みは、彼の心を冷ますどころか、さらに熱く燃え上がらせるだけだった。

「主様……ボクだけを、見てください」

小さな声でそう呟くと、物吉はその場をそっと離れた。

その夜、物吉は月明かりが差し込む主の寝所へと足を踏み入れた。
静まり返った部屋の中、眠る主の姿はあまりにも穏やかで愛おしかった。
その無防備な寝顔を見ていると、胸の奥で疼いていた独占欲がはっきりと形を成していく。

「主様……ボクが間違っているなら、どうか叱ってください。でも――」

彼はそっと主の手に触れ、まるで何かを奪い取るように呟いた。

「もう誰にも渡しません。これが、ボクだけの幸せです」

物吉の中に眠る力――刀剣としての神秘が静かに目を覚ます。そして、主を包み込むようにその力を巡らせた。

次に目を開けたとき、主は見知らぬ場所にいた。
目の前に広がるのは、柔らかな光が差し込む静かな森。
風に揺れる木々の音が心地よい、けれどどこか現実感のない景色だった。

「ここは……どこ?」

困惑した声で呟くと、木々の間から静かに現れる物吉の姿が目に入る。

「お目覚めですか、主様」

その声はいつものように穏やかで優しい。しかし、その瞳の奥に宿る感情は、主の胸に得体の知れない不安を与えた。

「物吉君……ここ、どこなの?」

主の問いに、物吉は微笑みながら一歩近づく。その笑顔は柔らかいはずなのに、どこか異様な迫力があった。

「ここは、ボクと主様だけの場所です。他の誰もいません。ここでなら、誰にも邪魔されずに主様をお守りできます」

その言葉に、主は息を呑んだ。

「待って、それって……戻れないってこと?」

主の不安げな声にも、物吉の微笑みは変わらない。

「戻る必要なんてありません。ボクがずっと、主様を幸せにしますから」

その瞬間、主はようやく物吉の異変に気づいた。
彼の言葉に滲む独占欲。柔らかく優しいはずの声に隠された、危うい執着。

「物吉君……お願いだから、本丸に戻ろう?みんなが心配してるよ」

主の言葉に、物吉は少しだけ首を傾げた。

「心配ですか? でも、大丈夫です。主様に必要なのはボクだけです。他の誰もいらない。他の誰かに主様を奪われるくらいなら――こうするしかなかったんです」

物吉の瞳が真っ直ぐに主を捉える。
その視線に、主は背筋が凍るような感覚を覚えた。

「主様、ここでボクと一緒に過ごしましょう。誰にも邪魔されずに、ボクたちだけの時間を」

手を差し出す物吉の表情は、あくまで優しい。
しかし、その手を取った先に待つ未来がどうなるのか、主には想像もつかなかった。

「物吉君、お願い……元の場所に戻して……」

懇願するような主の言葉にも、物吉は微笑んだままだった。

「ごめんなさい、主様。でも、これがボクたちの幸せなんです。ボクが、主様を守りますから」

その声は確信に満ちていた。

主は自分がどこにも行けないことを悟り、静かに目を伏せた。
物吉の「幸せ」の中で、どうすれば自分が彼の想いを受け入れずに済むのか――それを考えながら、主は冷たい風の吹き抜ける森の静けさに身を委ねるしかなかった。

物吉の微笑みの裏に潜む狂気と優しさに包まれ、主はその場で答えを探し始める――それが、二人の「幸せ」の形を変える最初の一歩になるのかもしれない。





◇幸運の独占欲

冬の澄んだ空気が漂う神社で、主様が引いたおみくじの紙を広げる。隣に控えるボク、物吉貞宗の心臓は妙に早鐘を打っていた。

「大吉だ!」

主様の嬉しそうな声に、ボクは思わず口角を上げる。でも、同時に胸の奥がむずがゆくなるのを感じた。

――大吉なんて、いらないのに。

「すごい、今年は絶対いい年になるね!」

主様の笑顔が眩しい。でも、どうしても伝えたくて、ボクはすかさず言葉を挟む。

「主様、それはもちろん、ボクがいるからですよ」
「え?」
「ボクは、幸運を運ぶ刀ですからね! 主様にとってはボクがいれば、どんな運勢だって大吉なんですよ。」

主様は少し驚いた顔をしたあと、くすりと笑った。

「そっか。じゃあ、おみくじの大吉はおまけみたいなものかな?」
「そうです! ボクがいるのに、さらにおまけまでついてきたなんて、本当に主様は恵まれてますね!」

冗談めかして言ったつもりだったけど、内心では本気だ。
ボクがいるのに、どうしておみくじなんて引く必要があるんだろう。ボクひとりで主様を幸せにできるのに、って思ってしまう。

ある日、主様が引いたおみくじに「凶」と書かれていたことがあった。そのときも、ボクの胸はざわついた。
主様が落ち込んだ顔をしないように、急いで言葉をかける。

「主様、大丈夫です。凶なんて、ボクがいれば何の影響もありませんよ!」
「そうかな…?」
「もちろんです! ボクは主様の幸運そのものですから。ボクがいるのに、不幸なんて近づけるわけがありません!」

力強く言うと、主様は少しほっとしたように笑った。
「物吉くんがそう言うなら、安心できるね」
そう言ってくれた主様に安堵しながらも、ボクは心の中でそっと誓った。

――ボクがいる以上、主様に他の「ラッキーアイテム」なんて必要ない。

その後も、主様はたびたびおみくじを引いたり、開運グッズを集めたりしていたけれど、ボクはそのたびに主様に伝え続けた。

「主様にはボクがいます。それだけで十分ですよ」

主様が買った幸運の鈴に、主様の手首に巻かれたお守りに、少しだけ嫉妬してしまう自分がいる。でも、それを見せるわけにはいかない。ボクの役目は主様を守ること、幸せにすることだから。
ボクは主様のそばで、これからもずっと幸運を運び続ける。それがボクの誇りだから。
そして、主様の幸運はすべてボクだけで運んでみせる。
他の何かに頼る必要なんて、絶対にさせないんだから。





◇言質

年末の忙しい本丸、審神者はどこにいても仕事に追われていた。
書類の整理や年越し準備に加え、刀剣男士たちの依頼ごとにも対応する日々。

「誰かー! この書類の束、手伝ってー!」

廊下で叫ぶと、軽やかな足音とともに物吉貞宗が現れた。

「主様、お呼びですか? ボクにお手伝いできることがあれば何でも言ってください!」

「物吉くん! さすが私の近侍様!申し訳ないけどこれ頼めるかな?」

彼に仕事をお願いすると、期待以上のスピードで片付けてくれる物吉。そんな彼の姿に感動した審神者は、思わずいつもの調子で口を滑らせる。

「できましたよー」
「やったー!物吉くんありがとう!嬉しい!好き!抱いていいよ!」

いつもなら「また冗談言ってる」と笑われるところだが、物吉の反応は違った。

「……主様、それ、本当ですか?」

真剣な瞳が審神者を捉える。その瞬間、“しまった”と思った。
人間の成りをしているが、目の前にいるのは神様だ。一歩間違えれば命だって奪われかねない。
物吉は、普段の柔らかな物吉とは違う、どこか鋭い光が宿っていた。

「えっ? いやいや、冗談だよ!? いつものノリだってば!」

笑って流そうとするが、物吉は一歩近づいてくる。

「主様がボクに『抱いていい』と言ってくださるなんて……ボク、こんなに幸せでいいんでしょうか?」
「ちょっ、ちょっと待って! 本当に冗談だから! いつものやつだからね!?」

焦る審神者の腕を、物吉がそっと取る。その手は優しいのに、逃げられないほどしっかりと握られていた。

「主様……」

顔を近づけ、低く囁くような声で名前を呼ぶ物吉。普段の可愛らしい彼のイメージが崩れ、胸がドキドキしてしまう。

「本気じゃなかったんですか? 主様がそうおっしゃるなら、ボクは全力で応えたいと思ったんですけど……」
「いや、違う! 違うから! そういうのじゃないから!」

物吉の手から逃れようとするが、意外にも彼の力は強い。

「主様は冗談だとおっしゃいますけど、ボクの気持ちは冗談じゃありません。主様の役に立てることがボクの幸せです……その上でもし、主様が『ボクでは嫌』でないのなら……」

耳元で囁かれる甘い声に、審神者の理性が揺らぐ。だが、ここで流されてはいけないと必死に言い聞かせる。

「いや、そうじゃなくて! 物吉くんは本当にいい子だし、すごく助かってるけど……!」
「助かってる、好き、抱いていい……全部、嬉しいです。主様が本気になるまで、ボクが離さないので」
「ええええええっ!?」

物吉の本気の瞳に、逃げ場を失った審神者。このままでは彼に押し切られる未来しか見えない。

「ちょっと待って、ちゃんと話そう!? まずは落ち着こう! ね!?」
「わかりました。じゃあ、まずは落ち着いて、主様をボクの部屋までお連れしますね」
「待って!? なんでそうなるの!?」

手を引かれ、ついに物吉のペースに巻き込まれる審神者。部屋に向かう途中、誰か助けてくれと心の中で叫ぶが、物吉の微笑みに全てを見透かされているようだった。

こうして、審神者は彼の真っ直ぐすぎる好意に逃げられないまま、年末の大掃除以上に大きな課題を抱えることになったのだった。









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