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Dr.stone

[All The Love In Your World ]


 私、小川杠が生きてきた短いようで長い人生の中で、大樹くんの色んな表情を隣で見てきた。笑った顔や、驚いた顔、涙を流す顔だって知っている。
 人類が石化して失われた文明を復興すべく奮闘する日々で、汗水流して作業する姿や、敵からの攻撃を受ける大樹くんを見て、何度心臓を掴まれたように胸が締め付けられたか分からない。優しく真っすぐで、そして頑固な部分がある大樹くんの、すべてを一人で背負い込んで突き進もうとする背中を、いつだって見てきた。

 千空くんがロケットで宇宙へ行き、再び世界が息を吹き返した頃に、私と大樹くんは恋人になった。もしかしたら告白されてすぐにプロポーズされたから、婚約者と呼ぶ方が正しいのかもしれない。いずれにせよ、私達二人の関係性は大きく変わった。今まで明確に名前をつけられなかった甘酸っぱい関係に、ついに名前が付いた。だからといって、私達の世界に変化があったわけではないけれど、恋人という特権で大好きな人を独占できるのはたまらなく嬉しかった。
 大樹くんは、どんなに苦しい状況でも希望を失わず、ひかりを湛えた瞳のまま誰かの前に立って、躊躇する人たちを後押しするような立ち振る舞いで、きらきらと笑っている。どこにだって届くような声で、「大丈夫だ」と皆に安心を与えてくれる。
 出会った人すべてに元気を与えるあのまぶしい笑顔は、言うなれば太陽のようなあたたかさだ。そのぬくもりは彼が今まで積み重ねてきた努力と苦労の証。そんなあなたのひかりに、私はいつだって救われてきた。大樹くんは、私にとって太陽だった。
 そんな大樹くんと恋人になった。恋人になったと言っても、大それたことはしていないと思う。ただ、二人で過ごす時間が圧倒的に増えたのは、大きな変化といってもいい。恋人だから、手を密着するように絡める。恋人だから、理由や衝動じゃなくてもハグができる。恋人だから、キスだって、する。心だけじゃなくて身体も密着するようなことが増えた。
 大樹くんは太陽だ。触れられた大樹くんの体温に、心がほどけていく。「大好きだ」と言われる度に、顔が熱くなる。そばにいるだけで、心があたたかくなる。そして、私にだけじゃなく、全ての人にぬくもりを与えている。
 世界で一番大好きな人と愛し合うことができる。人生において最上の幸せだ。そんな、世界最高の日が更新されていく毎日。なのに、更新されていくはずなのに、心に薄暗い翳りが広がっていく。

 悲しきかな、大樹くんはキスより先に進もうとしない。


◇ ◇ ◇


 白と緑の髪を揺らしながら砂利道を歩く青年がいた。「Dr.stone」と呼ばれ世界から絶賛された石神博士は、少しばかり浮ついた足先で砂ぼこりの舞う道を進んでいる。彼は幼馴染たちを祝うために、今日は珍しく研究所を抜けているのだ。
 つい先日、幼馴染たちから春頃に結婚式を挙げるかもしれないと報告を受けた。予定だから、変わるかもしれないと付け足されたが、これが祝わずにはいられない。石世界の苦楽を共にした世界の偉人、フランソワお手製のカットケーキを3つを準備して、二人が暮らしている家へと足を運んだ。
 本来なら2つでいいのだが、あの幼馴染たちのことだ。千空も一緒に食べようと自分達の分を分け与えてくるだろうから、その思考を先読みして3つ用意しておいた。妙な部分で機転を利かせなければならないのが玉に瑕だが、それも愛嬌。己のことが大好きな幼馴染にやれやれと首を振るが、悪い心地はしなかった。似たようなやりとりをこれまでに何度もしてきたおかげか、今となっては微笑ましくさえ感じるのだ。

 インターホンを鳴らすと、千空の目線より低い栗色の毛並みがふわりと出迎えてくれた。
「いらっしゃい千空くん!」
 日の光に包まれたような声と、くっきりと形作られた笑顔。にこにこと笑う杠を見て、そういえば鼓膜を破るほどの活気ある声がないことに気づく。
「テメーが真っ先に出迎えてくれるなんて珍しいな」
「いつもは大樹くんが飛び出してくるもんね」
「おー、いの一番に大樹が出てくると思ったから意外だわ」
「大樹くんは今、ご近所さんのお引越しの手伝いに行ってるんだ。荷物が多くて大変だろうからって、そっちに飛び出して行っちゃった」
「今日、越してきたのか?」
「そうみたい。私たちも聞いてなかったからちょっとびっくりしちゃった。千空くんが来たってすぐ大樹くんに連絡するね」
 そう言葉を連ねて綺麗に微笑んだ杠の顔に、以前にも何度か感じた奇妙な引っ掛かりを覚えた。
「いや、気にすんな。今連絡したら色々と気ぃ使わせちまうだろ」
「そう?でもせっかく千空くんが来てくれたのに」
 この幼馴染相手に得も言われぬ胸騒ぎを感じたら、その直感は正しいのだと過去の経験が物語っている。渋る杠を制止し、込み入った話をするためのロードマップを頭の中で書き上げる。
「まあ、このまま帰るのもなんだしな。ひとまずお邪魔させていただくわ」
 杠の様子を観察するためにも、まずは時間がほしい。そうして折を見て、彼女から詳しく話を聞き出すことにした。


◇ ◇ ◇


「忙しいのにわざわざ時間とってくれてありがとう」
 千空くんが持ってきてくれたケーキのお礼に、ロケットの型を使って焼いたクッキーをお皿に乗せてテーブルに置く。後で引っ越してきたご近所さんにおすそ分けするつもりで作っていたのだが、まさかこんな形で千空くんにも食べてもらうことになるとは思っていなかった。フランソワさんお手製のケーキは「テメーらが揃った時に食え」と言われたので、お言葉に甘えることにした。千空くんは意図してないだろうけど、このタイミングで千空くんが私たちにケーキを渡すということだから、このクリームにはきっとフランソワさんからもお祝いの気持ちが存分に込められているのだろう。見えていないだけで、いろんな人からのお祝いされているのかもと考えたら、胸の奥をくすぐられているかのようなこそばゆさを感じた。
「大事な幼馴染様のめでたい話だ。時間なんざいくらだってくれてやる」
 目の前の幼馴染だって、ぶっきらぼうな言葉遣いでもその表情はやさしさに満ちているから、意識していないと口元がすぐにだらけてしまう。
「嬉しいですな。でも、世界の偉人である石神博士をこんなことで独占しちゃって、後からバッシングされちゃうかも」
 そうでなくても、人類の未来に向けて日々研究を重ねている科学者だ。石世界の偉人として名を馳せる彼の時間をあまり無駄にはしたくない。
「俺がプライベートで何してようが俺の自由なんだよ。テメーが気負うことなんかじゃねえ。んなこと気にするより、今日の晩飯どうするか考えとけ」
「ありがとう。またおかず詰めて千空くんとこに届けにいくね」
「そりゃあ、おありがてぇ」
 用事があるなしに関わらず、彼には時折おかずのおすそ分けを届けに行く。お菓子を大量に作った日なんかは、共に働いてくれているルリさん達だけじゃなく、千空くんの職場の人たちにもおすそ分けさせてもらっている。だからか、私や大樹くんが研究所に顔を出してもいつも快く迎え入れてくれている。今日のお礼に、今度ラーメンの具材を量産しておこう。煮卵や叉焼なら家でも作れるだろう。
「んで、最近なんかあっただろ」
 おもむろに、核心を突く質問を投げかけられた。お茶請けに出したクッキーを片手に、さも片手間で聞いていますという雰囲気を出している千空くん。でも、その実とても真剣に考えてくれているのだから、この幼馴染はずっと昔からお人好しだ。
 しかし、悩みという悩みなんて、今思いつくものはひとつしかない。それも、一筋縄ではいかないような悩みだ。
「どうしたの、急に」
「テメーの顔に書いてあんぞ。大樹のことで悩んでますってな」
千空くんの目に射止められた。その目は決して責めたてるようなものではなくて、心配の色が滲み出ている。
「そっか」
 彼の不器用なやさしさには昔から救われていた。それこそ、中学時代に大樹くんに関する恋の悩みは全部千空くんに聞いてもらっていたほどだ。
「話してもいいの?」
「じゃなきゃわざわざ聞かねえよ」
 眉間にしわを寄せてやれやれといった顔をする千空くん。でも、幼馴染であっても、こんなことは千空くんに相談していいものか分からない。とは言っても、私一人じゃ最善の答えに辿り着けないから、結局は頭の切れる千空博士に頼ってしまうのだけれども。
「テメーが話したくないってんなら無理には聞かねえ。……でも、その様子だとずっと悩んでんじゃねえか?話す話さないは別にして、溜め込むのは良くねえ」
「おっしゃる通りです」
 以前、千空くんが「テメーらには隠し事ができねえ」と降参のポーズをして笑っていたけれど、千空くんだって私や大樹くんのことはほかの人よりもきっとずっと深いところまで知っている。この先も、この英雄にはあらゆる場面で手を差し伸べてもらうのだろう。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「ん」
 甘えてばかりもよくないけれど、千空くんの助けがないと自分ではもうどうにも解決できそうにないくらい思い悩んでいた。ゆっくりと深呼吸をして、話す準備をする。
「……大樹くん、恋人なのに、キス以上のことをしてくれないんだ」
 自分でも爆弾発言をしている自覚はあったけれど、案の定、隣からうめき声が聞こえた。まだ内容も詳しく話していないのに、言った傍から千空くんは頭を抱えている。
「あ゙―、一応聞いておくが、それ、俺に話していいやつか?」
「いいやつだよ。というか、なかなか千空くん以外に話せる人がいないから……」
 苦笑いで返すと、千空くんは深いため息を吐いていた。指を数本立てて、途方もない感情論の最善の答えを導き出してくれている。「あ゙―」や「ゔ―」などと苦い物でも食べた後のような声も出ているが。
「あ゙―、そりゃあれだろ」
 しばらく待っていれば、彼が解決策を示してくれる。そうやって何度も手を差し伸べてくれるから、最後にはいつも千空くんに頼ってしまう。
「テメーを大事にしてくれているって証拠じゃねえか?」
「え?」
 彼らしからぬ、この手の相談に対するお決まりの台詞を言われ、唖然とする。
「大事にされてるのはわかるよ。……でも、もう恋人になって半年は経ったし、来年の4月には結婚式を挙げる準備もしてるのに、このままでいいのかなって」
 大樹くんからの告白は、お付き合い云々を通り越してプロポーズだった。近いうちに婚姻届けを出す予定まで立ててあるくらい、お互いにこれ以上の人はいないと感じている。だからこそ、いつまで経っても次の段階に進めないこの関係に悩んでしまうのだ。
「そうか、4月には結婚式か……」
 何やら感慨深い表情をしているが、今はそれが問題ではない。
「私も恋人同士のあれこれに詳しくないけど……高校生の頃に聞いた話だったら、付き合って1週間もせずに事に及ぶこともあるんだって。じゃあ半年間なにもなかった私たちはかなり出遅れてるんじゃないでしょうか」
 切羽詰まった調子で言うと、前髪の上からデコピンをされた。思わず、ツンと痛むおでこを押さえると鼻で笑われた。
「長い人生の中で大事に大事にしている証拠じゃねえか。そんな焦るもんでもねえだろうよ。テメーらにはテメーらのペースがある」
 他人と比べていたらキリがない。私達は私達でゆっくり歩めばいいのだろう。千空くんの言い分はごもっともだ。
 それでも、自分には女としての魅力がないんじゃないかとか、大樹くんは私をそういう対象で見てないんじゃないかとか、そんなことばかりが頭を掠めて焦ってしまうのだ。
「……いっそのこと私の方から大樹くんを押し倒すとか、そういう感じで私がリードする的な感じの方がいいのかな」
 ぽつりと零した言葉に、また唸り声がきこえた。
「杠テメー……それは、やめといた方がいいぞ」
 頭痛の時のような顔をして千空くんが言った。今までに何度か見てきたその顔は、成功する確証はあるけれど何かを犠牲にしてしまうリスクを重んじている時のものだ。
「痛いのは私だけだし、それも最初のうちだから」
「そこじゃねえ。……いや、そこもそうなんだが」
 リスクがあるとしたら、最初の痛みだけ。でも、それは避けられないことだし、時間がどうにかしてくれるわけでもないのだ。
「……じゃあ、どうして?」
 近頃は女の子の方からグイグイいくことなんて珍しくもないのに。純粋な疑問なのにタチの悪いものを相手にしている表情をする千空くん。
「……獣を野に放つのと同じだからなんだよ。んなことは大樹も望んでねえからな。だから、一歩間違えりゃテメーだけじゃなくて大樹も傷つくことになる」
 意味が分からない。獣じゃないから手を出さないのではないか。それとも、私が獣になることが良くないと言いたいのだろうか。
「……わからないよ」
 私の考えていることがお見通しかのように、千空くんが言葉をさらに重ねてきた。
「わからないなら、話合うのが一番だぞ」
「それはわかっているけど」
 大樹くんは優しいから、私の欲求には絶対に応えてくれる。でも、それだけじゃなくて彼の意志で私を求めてほしい。大切なのはきっと、分かり合うことだけじゃなくて求めあうことだろうから。
「私が誘惑したら、大樹くんも乗り気になってくれる……はず、だから。大樹くんに後ろめたい思いなんてさせないよ」
 私の返事を聞いた千空くんは、私の頬をじんわりとつねった。
「いひゃいよ、せんくぅくん」
「それはエゴってやつだ」
「へ?」
 思わず千空くんの顔を見ると、出来の悪い生徒を居残りで教える教師の顔をしている。
「他人の気持ちは他人のものだ。他人の気持ちを自分がコントロールできると思っているから、そう考えちまうし、思い通りにならなくて余計に焦るんだ」
 図星を突かれた。ぐうの音も出せずに驚く私に構わず、千空くんは続ける。
「テメーだってわかってんだろ。プロのメンタリストだって他人の気持ち全部コントロールしてるわけじゃねえ。ゲンですらできねえことは俺たちにもできねえかんな。だから、俺たちは相手に訊くんだ。何故、と。俺の望みと相手の望みは何だと。そうすりゃ相手は相手なりに応えてくれる。それを聞いた俺たちは、また言葉を返すんだ。お互いの納得がいくまでな。それがコミュニケーションってもんだろ」
「千空くん……」
「行動に移したくなる気持ちもわかるが、大樹は杠の本音を知っても無下にすることは絶対にねえ。お互いの最善の道を共に考えてくれるはずだ。それこそ、テメーの欲しいもんをちゃんと与えてくれるかもな」
 言葉の発した主をみると、慈愛の眼差しを向けられていたことに気付く。そんなやさしく優しく真綿で包むような眼差しを向けられてしまったら、今抱えている不安なことも、全てまっさらになって消えてしまいそうだ。
「千空くんって、たまにズルいですな」
涙声になっていることに気付いていた。目を閉じてこみあげてくる涙を抑え込む。
「あ?どこがだよ。可愛い幼馴染さまの悩みを一緒に解決しようってだけだろ」
「そういう、言葉では素っ気ないのに、芯ではやさしいところですぞ」
 目尻ににじみ出た涙を指先で拭っていると、ポンポンと頭を撫でられた。
「杠、テメーには何度だって助けられてきた。気づいてねえかもしれねえが、俺はテメーの器用さだけじゃなくて、湧き出てくるような優しさに何度も救われてる。テメーがそうしてえなら、あのデカブツの背中を蹴って杠の望むもんを渡してやれって嗾けてやりてえくらいだ。でも、そうじゃねえ」
「うん」
「最初に言ったが、テメーらにはテメーらのペースがある。それは無理やりどうこうするもんじゃねえ。だから、言葉を使ってお互いの気持ちを確かめるんだ」
「そう、だよね」
「……できそうか?」
「うん、ありがとう千空くん」
 ここずっと息が詰まるくらいに悩んでいたからか、彼の言葉を聞いて楽に呼吸ができた。誰かに話すことで下ろせる荷物がここにあるのだ。

「だがなあ、テメーの言いたいことはよーく分かるわ。デカブツのやつ、婚前交渉しないって頑なに自制してそうだしよ」
「あはは、あり得そうですな……」
 顔を真っ赤にして慌てる大樹くんが容易に想像できる。
 想像の大樹くんを微笑ましく眺めていたら、千空くんが釘を刺すように暴走するなと小言を言った。
「しかしまあ、テメーは大樹にとって麻薬みたいなもんだからな。下手なことは絶対にするな」
「なんでそんな忠告みたいな感じになってるんだろう……。人を劇薬みたいに言うし」
「みたい、じゃなくて実際に劇薬なんだよ」
「ワオ……」
 苦笑いする私に、千空くんはついにため息をついた。
「次の日、動けなくなっても知らねえぞ」


◇ ◇ ◇


「帰ってきたぞー!千空が来ていたというのに、悪いことをしてしまった!」
「おかえり大樹くん。千空くんが人助けはいいことだから気にするなって言ってたよ」
 日が沈んだ頃に、大樹くんが家に帰ってきた。千空くんからお土産をもらったことを伝えるとすぐに「お返しを用意しなければ!」と意気込んでいる。これはラーメンの具を渡しに行く日はそう遠くないだろう。
「こどもたちがたくさんいてなー!運ぶものがたくさんあったぞ!」
「大樹くんが来てくれて大助かりだね」
「段ボールから荷物を開けていた娘さんが途中から己の服で着せ替えを始めてしまってな、母親に怒られていたが最終的にみんなでファッションショーをしていた」
「引っ越しの時ってよく脱線しちゃうよね。私もアルバムとかを見つけたら作業止めて見入っちゃうかも」
「アルバムかー!久しく見てないな。そういえば、彼らが着ていた服の中にユズクロブランドがあって、とても嬉しくなったぞ!」」
 仕事以外の場面で自分のブランドを目にすると嬉しくなる。それは大樹くんも同じようで、喜びを共有してはまた仕事に精を出す。ありがたいことに仕事も波に乗ってきて、これからの生活にも道筋が立っている。
 何の不満もない、不満なんてないのだ。

 大樹くんは太陽だ。
 子どもの頃の純情さをそのままに、大きく、強く育った。宝島での握手も、コーンシティでもハグも、彼はその純情故に照れていた。今でこそ抱きしめたり手を繋いだりと当たり前のようにできているが、それができるようになるまではお互いしどろもどろだった。
 世界の復興を目指していたころはずっと、真っすぐと前を向いて生きて来た大樹くんの揺るがない強さ、けっして弱さを感じさせない大樹くんの強さに、どうやったら手が届くか、どうすれば彼が背負う重い荷物を共に背負うことができるか、大樹くんのためにしてあげられることを、いつでも考えていた。無鉄砲なくらい、過酷な茨の道にひとりで突き進んで行こうとする背中を、ぜったいに見失わないようにしたかった。
 いつのまにか、追っていた背中はなくなって、手を取り合って共に歩くようになっていた。やっと、彼の隣に立てる人間になれたのだと喜んでいた。それだけでよかったと思っていた。
 存外、自分も欲深い人間で、目標が達成されるともっともっとと上を目指したくなる。それが恋なら、もっと相手の奥深くに根付きたくなる。もっと彼が欲しくなる。手のひらに触れた太陽のやわらかなぬくもりじゃなく、燃え盛る熱に焦がされたくなるのだ。彼に初めて手を取られた時から、愛するならば彼がいいと、身も心も全て焼き尽くされたいと叫んでいた。
 でも、きっと大樹くんはそうじゃない。
 手を繋ぐだけで心底嬉しそうに笑ってくれるし、抱きしめればこれ以上ないくらいに幸せだと言ってくれる。けれど、そこから先には進まない。きっと、彼は私ほど欲がないのだ。
 そんな彼から、初めてキスをされた時は心底驚いた。
 あの彼にも、私とキスをしたいと思ってくれていたのだと。私と同じ気持ちでいてくれたんだと。
 だから、期待してしまっていたのだ。
「どうした杠」
 大樹くんはやさしすぎる。
 やさしすぎるから、何も言えなくなってしまう。そのやさしさを無下にしたくないから。

『テメーらにはテメーらのペースがある』
 求めすぎは良くないのかもしれない。
 千空くんの言う通り、ゆっくりと愛を育んでいけばいい。

 そっと両手を広げて見つめれば、大樹くんは私の意図を察して抱きしめてくれる。ゆるやかに。壊れモノを扱うかのように。
 おひさまに抱きしめられたようなあたたかさが、ぎゅうっと私を包みこんで、今までの緊張がゆるりとほどけていく。
 大きなてのひらで肩を抱く強さが心地いい。時折擦るように背中を撫で下ろされて、またぎゅうと力を込めて抱きしめられた。
そのぬくもりに身を委ねて、目を閉じる。

 初めて私たちがキスをした、星が降る夜。
 あの光景を、あの温度を、あの日の大樹くんを、絶対に忘れないように、何度も何度も記憶の輪郭をなぞっていた。大樹くんと私を取り囲む世界が生み出した一瞬のきらめき。あまりに尊いそのかがやきに、なにもかもを差し出してしまったってかまわない、とさえ思った。それ以外にだって、大樹くんと共に目に焼き付けた景色の数々を、わたしは大切に大切に抱えている。それを忘れずに抱えていればいい。
 頭の中で自分に言い聞かせていると、一層強く、大樹くんに抱きしめられた。
「杠、大好きだ」
 その言葉を聞いて、心の奥がたちまち燃え盛った。
 やっぱり、嫌だ。大樹くんが等身大の愛を伝えてくれているのに、何もせずにいられるわけがない。大樹くんからの愛が、熱が、どうしようもなく愛おしくて、体が言うことを聞かずに勝手に動き始める。ぎゅむりと抱き着いて、彼の肩に全ての体重を乗せるように力を入れる。
 案の定、二人してソファに雪崩れ込んだ。
 驚いたように私の瞳を覗きこむ、きらきらと光を反射するまるい瞳。驚いた表情でも私からすればとてもきらめいているから、思わず目を細める。熟れた苺のように赤くなる顔を眺めながら、恋人になっても初心な反応をする大樹くんが可愛くて愛しくて仕方なかった。私だけが知っている大樹くんの表情は、私を惹きつけてやまない鮮烈な魅力の塊なのだ。
「ゆゆゆ、ゆずりはぁ!?ど、どう、どどどうした!?」
 慌てる大樹くんはわあわあと言葉になっていない声を上げている。それを人差し指を口元に持って行き「しーっ」と子どもを躾けるような口ぶりで制止する。私が言ったことを律義に守ろうと、口を結んで固唾を呑む大樹くんは、やっぱり愛おしくて仕方なかった。
 期待か不安かわからない鼓動の高鳴りに気が焦ってしまう。もう戻れないところまで来ている。
「……ないよ」
 伝えたかった言葉は緊張で声がかすれて、ほとんど音になっていないだろう。
「……杠?」
 なら、お互いの息がかかる距離で見つめ合う。さっきから顔が沸騰したかのように熱い。きっと、目の前の彼に負けず劣らず私も顔が赤いに違いない。
「私、もう待てないよ、大樹くん」
 髪が彼の頬にかかっているのを視界の端で捉えながら、さらに距離を詰めていく。私なりの精一杯を詰め込んで、そのまま2人の距離をゼロにすべく、大好きな人に口付けを落とした。

 永遠とも刹那とも呼べるような時間だった。
 バクバクと心臓が鳴っている。自分でも驚くほど大胆な行動をしてしまい、恥ずかしさに目を瞑って唸っていると、ずっしりと低い声をかけられた。
「杠」
 目を開くと、大樹くんの力強い眼差しに射抜かれていた。
「いいのか?」
「な、なにが?」
 普段の大樹くんでは絶対にあり得ない、相手が委縮するような目つき。まるで、獲物を狙う狼のような鋭さ。気が動転してしまい、訳も分からないまま意図を尋ねる。大樹くんはそんな私から目をそらさず、じっと見つめていた。
「杠のことを、抱いても」
 その言葉で、今まで隠されていた彼の情愛を目の当たりにしてしまった。
 質問を投げかけているはずなのに、己の肩を掴む手は逃がさないとばかりに力も熱も籠っている。触れるところが全て火傷しそうなくらいに熱くて、のぼせてしまいそうだ。胸に淀んでいた翳りも、頭の中で燻っていた焦りも、ずっと前から溢れていた恋慕も。触れられたところから蒸発して、それからすべて溶かされていく。

 最初からこの人の愛には敵わなかった。

 そう思い、ここから先は大樹くんの導きに身を委ねることにした。観念したかのようにその腕のなかに体重をすべて放るように預けると、もう待ちきれないといった表情の大樹くんがその両腕で私の身体を優しく抱き込んで囲われる。
「うん、いいよ。大樹くん」
 きっともう戻れない。今夜、私たちの関係はまた大きく変わっていく。それでも良かった。否、それをずっと待っていた。この両手を、覚悟と共に添える。
「そうか……良かったのか」
 何かを思案するかのようにゆっくりと下ろされた瞼が、再び私を射止めるようにぎらりと光を湛えて開かれた。
「私のこと、いっぱい愛してよ」 
 降ってくる太陽の熱に今夜、燃やし尽くされるのだろう。大きな目が輝くように見開かれて、それから心底嬉しそうに細められた。再び彼の唇と私の唇が触れる。これから、星が降る長い夜が始まる。

 そうして、太陽のように熱い瞳の奥で、きらきらと散りばめられた一等星が弾けた。
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