ブルーロック



朝起きたら体が痛かった。たぶんこれは昨日重ための物を持って歩き回ったことによる筋肉痛もどきだ。

ゆっくり起き上がって伸びをして、目をこする。部屋を出ればキッチンの方からは生活音が聞こえてて、そっちに向かい扉を開けた。

『おはよ』

「おはよう!」

『体調へいき?』

「うん!もうばっちり!」

ご飯できるから顔洗ってきな!の声に頷いて洗面所に向かう。見た洗濯機は蓋が空いていて中身は空だったからもう母さんが干してくれたらしい。

相変わらず仕事が早いなぁと支度を済ませてリビングに戻ればテーブルにはオムレツと焼いたパン、それからハムが添えてあった。

「軽く食べたら出かけようか」

『うん』

家にある食材は昨日買ったものくらいだし、このままだと明日から食べるものがなくなる。母さんもそれに気づいてるんだろう。頷いてフォークを持った。

もぐもぐと口を動かす。どこかぼんやりとしてる頭の中にこれはまずったかなぁと思いつつ食事を終わらせて、皿を洗う母さんを横目に息を吐く。

「車出すから少し遠くにあるデパート行こうか」

『うん』

鍵や財布、必要なものを持ってる母さんに俺もいつものポーチを首から掛けて車に乗りこむ。

ゆっくりと発車し動き出したから目を瞑る。

「睡、眠いの?」

『ん、ちょっとだけ』

「ついたら起こすね」

『うん』

まだ寒気はない。多分今日一日落ち着いていれば平気のはずだ。

三十分もかからずついたデパートは、引っ越してくる前の土地でも見覚えのあるチェーン店で特に新鮮味は感じなかった。

専用の駐車場に車を止めて母さんと降りて、階層ごとに売ってるものが違うからまずは上の階の日用品売り場に向かって、足りない日用品を買い込む。それから次に一個下の食料品売り場で早ければ今日の夜から食べるだろう食料を選んでかごに入れて、最後に、贈答品としても渡せるようなちょっと見栄えと価格設定のいい店で足を止める。

ケーキを含めた焼き菓子、洋菓子、和菓子、箱詰めされた乾麺やお酒。うーんと唸ってた母さんが俺を見る。

「ねぇ、睡。糸師さんへのお礼何がいいかしら…?」

『えー。なんだろ』

「糸師さん、睡と同じくらいのご年齢の息子さんと娘さんがいらっしゃるのよね?」

『…あ、ごめん。二人とも男の子って言ってたよ。二歳の凛ちゃんと、…俺の一個下だからたぶん五歳の冴』

「に、二歳…?!一番何を食べさせてるかわからないお年頃じゃない…!」

ぐぅっとさらに悩み始めてしまった母さんにあたりを見渡す。

「睡、その息子さんたちなにか好きそうなものとか言ってた…?」

『えー…あ、冴はサッカーしてるんだって。凛ちゃんも一緒にボール遊びするみたい』

「じゃあ甘いものとか食べないかなぁ。体作ってたりするかしら…」

『かも。凛ちゃんは二歳って感じだったけど、冴は俺の持ってた荷物代わりに持ってくれてても全然疲れてなかった』

「もうだめ…なにがいいのかわからない…」

頭を抱える母さんにどうしたものかと俺も首を傾げて悩む。もう一度のあたりを見渡して、母さんの服を掴んだ。

『一回座って考えよ』

「そうね…そうしましょ…」

入ったのはこれもまたチェーン経営の喫茶店で、俺はオレンジジュース、母さんは紅茶を頼んで深く息を吐く。

「そもそも口に入れるものってアレルギーとかもあるわよね…でも挨拶でタオルは差し上げたし、お中元のこの時期に贈答品は被るかも…」

ぐぬぬと頭を抱えてる母さんに届いた紅茶とジュースを受け取って横に置く。うーんうーんと頭を抱えてる母さんは忙しそうでジュースを一口飲んだ。

すっと体の中に通っていく冷たい感覚に、体温上がってるなぁとぼんやりと思って、気づいてしまうと体がダルい気がしてくるから首を横に振った。

『日持ちしそうなお菓子とかのがいいんじゃない?』

「たとえば…?」

『んー、クッキーとかおせんべいとか?』

「缶物かぁ…ありかも…」

『なんだっけ、はちみつ?だけ気をつける?』

「はちみつは一歳未満だけど…外しといたほうが無難ね。もしくは子供用のお菓子に絞って渡すのもありかなぁ…」

思い出したように紅茶に手を伸ばした母さんは頭の中でいろいろ考えてるらしい。

さっきみたいに頭を抱えることはなくなったからほっとして、五分もすればジュースはなくなったし、母さんも考えがまとまったようだった。

「よし!睡!いこっか!」

『うん』

さっきまで悩んでた店をすべて素通りして、母さんはちょっと良さげな値段のフルーツと子供でも食べやすそうなおせんべいを買って包んでもらう。合わせて一枚タオルも用意してこれで準備万端だ。

車に戻って急いで家に戻る。緊張したたおしてる母さんが心臓が落ち着かないとそわそわしてるから落ち着くのを待っていれば、くしゅんっと音が響いた。

ぱっと母さんが顔を上げる。

「睡、風邪?寒い?」

『んーん。鼻がかゆかっただけ。へいき』

「ほんと?無理してない?」

手を伸ばそうとしてきてた母さんに首を横に振る。触られたらたぶん、いつもより熱いのがバレる。

母さんの何か言いたげな顔に口を開こうとして、音楽が聞こえた。

鳴ってるのは母さんの携帯らしく、取って耳にあてながら話し始めた母さんに今度はピンポーンと音が響いた。

電話中の母さんは難しいだろうから俺が立ち上がって、壁についたモニターの前に椅子を引っ張っていってスイッチを押した。

『はい』

「あら、睡ちゃんかしら?糸師です。こんにちは」

『こ、こんにちは、えっと今開けます』

予想外の人物に驚きながら椅子から降りて玄関に向かう。

かけてあった鍵を解いて扉を開ければ昨日も見た穏やかな女性とぱぁっと表情を明るくした凛ちゃんがいてとんっと俺に抱きついた。

「うぃちゃ!はーよ!」

『凛ちゃん、おはよう』

「うぃちゃ!ぽん!」

『サッカーするの?』

「にぃちゃないないのよ!にぃちゃぽんなの!」

『えっと、冴がいないから一緒にサッカーしよってこと?』

「や!」

『ちがったかぁ…』

二歳児との会話は意外と難しい。よく考えれば昨日あれだけスムーズに話せてたのは通訳に冴がいたからで、凛ちゃんの頭を撫でてから顔を上げる。冴の代わりににこやかに微笑んでる糸師さんがいて、糸師さんは嬉しそうに口を開いた。

「凛ちゃんったら睡ちゃんのこと本当に大好きね」

「う!」

「睡ちゃん、もしよかったら冴ちゃんと凛ちゃんと仲良くしてあげてね」

『こ、こちらこそ、よろしくお願いします』

頼むのはむしろこちらの方なのに穏やかにそう言われてしまうとこくこくと頷くしかない。

抱きついてる凛ちゃんが不思議そうに首を傾げて、俺から離れると今度は右手をせいいっぱい伸ばして糸師さんの洋服を掴んだ。

「まま、にぃちゃ、ぽんよ!うぃちゃ!」

「そうねぇ。…睡ちゃん、今日はこのあとお忙しい?ご予定聞いてもいいかしら?」

『えっと、…糸師さんにごあいさつに伺おうと母さんと話してて』

「あら、昨日挨拶してくださったじゃない」

『お礼もしたくて、ちょっと母さん呼んできます』

頭を下げて早足で家の中に入る。扉を開ければ電話を終えたところらしい母さんがいて目があったから先に声を出した。

『母さん、糸師さんがお見えになってるよ』

「え?!」

『お母さんと凛ちゃんが来てて、えっと、どうしよ?』

「御挨拶に伺おうとしてたのにどうして先に…?!」

慌てる母さんと一緒に買ってきていたフルーツとおせんべい、それからタオルも持って玄関に戻る。

さっきと同じように立っている糸師さんと凛ちゃんは俺達を見て目を瞬いてる。母さんはばっと頭を下げた。

「は、初めまして!ご挨拶が遅くなり申し訳ありません!詞詠と申します!」

「あらあら、こちらこそ病み上がりに急にお伺いしてしまって申し訳ありません。糸師です。ご体調は大丈夫ですか?」

「もうなにも、…それより昨日はお気遣いをいただいてしまって…」

「いいんですよ。無理やりお渡ししてしまったけど、ゼリーお口にあいましたか?」

「は、はい!とてもおいしかったです!ご馳走様でした!」

「うふふ。それはよかったわ。睡ちゃんも食べれた?」

『は、はい。すごくおいしかったです』

「うぃちゃ、おいし?」

「うん。凛ちゃんの好きなゼリー、睡ちゃんも好きだって」

「うぃちゃ、りちゃリーしゅきよ!」

ぱぁっと顔を明るくしてきらきらの瞳で俺の服をつかむ小さな手。

『そっかぁ。凛ちゃんと一緒だね』

「しょ!」

俺が凛ちゃんと喋ってる間に母さんは糸師さんと会話することにしたらしい。頭上でご子息に〜とかお世話に〜と話してるから凛ちゃんが退屈しないように手を取って話すことにした。

『凛ちゃんはどの味のゼリーが好きなの?』

「もぉ!」

『桃かなぁ?それなら俺と一緒だね』

「っしょ!!」

きゃっきゃっとはしゃぐ凛ちゃんはとても可愛らしい。その横には同じ水色が隣にいなくて、凛ちゃんの頭を撫でてから目を合わせた。

『凛ちゃん、お兄ちゃんは?』

「にぃちゃ、ぽん!」

『あ、サッカーしてるんだ?』

「にちゃね、ぽんなの!おっきー!ぽんしゅる!」

『大きい…サッカー…もしかして試合??』

「あい!」

強く頷かれてなるほどなと顔を上げる。あわあわしてる母さんと仕方なさそうに受け取った食べ物を持って微笑んでる糸師さんは俺達に気づいてかこちらを見た。

「まま!にちゃ!りちゃとうぃちゃよ!ぽんなのよ!」

ぱたぱたと俺と繋げてない左手を一生懸命振って話す凛ちゃんに糸師さんがそうだったわと目を丸くした。

「詞詠さん、少し伺いしたのですけど、このあとご予定いかがかしら?」

「え?!え、えっと、特には何も…」

「睡ちゃんはどうかしら?」

『何もないと思います…?』

母さんと糸師さんのお家に行くのが今日のビックイベントだったから母さんがないと言ったらもうない。

顔を合わせて首を傾げ合う俺達に糸師さんはでしたら!とにこやかに笑った。

「これから冴ちゃんのサッカーの試合に行くんですけど、ぜひ一緒に行ってくださいませんか?」

「にぃちゃね、ぽんなの!」

はしゃいでる凛ちゃんに母さんとまた顔を合わせて、一回頷いた。

必要なものは特にないというから、渡したフルーツを一度しまいに行った糸師さんに俺はポーチだけ持つ。

四人で向かうのはここから少しだけ離れたところにある市営のグラウンドらしい。

試合は後三十分もくらいで始まるらしく、つく頃にはちょうどいいんじゃないかと糸師さんは微笑んでた。

「にぃちゃねー!ぽんなの!」

『凛ちゃんはいつも応援しに行ってるの?』

「おっきいのよ!」

「ふふ。ええ、ほぼ毎回応援に行ってるわ。凛ちゃん、大きいと多いが混ざってるの」

『そうなんですね…』

「凛ちゃん二歳って伺いましたけど、たくさんお話できるんですね」

「私がたくさん話しかけちゃうからか凛ちゃんもたくさんお話するようになったんです」

「…やっぱり話しかけると早く話せるようになるんですね…」

「一概にはそう言えませんわ。冴ちゃんも同じくらい話しかけてましたけどあまりお話してくれなくて、凛ちゃんが産まれてから話すようになりましたの」

「そうなんですね…」

子供のいる母同士話は尽きないのか、ずっと会話が続いてる。俺もたくさん話す凛ちゃんの相手をしていればあっという間に目的地にたどり着いた。

目的地には人がたくさんいた。試合と言っていたしお互いの関係者が集まってるんだろう。

グラウンドを囲うように母さんの背よりも高い柵が立っていて、その周りにたくさん人がいて試合が始まるのを待ってるらしい。

「父母席はあっちにあるんですよ」

「あ、でも私達は…」

「大丈夫ですよ。結構お友達を連れてきてる方も多いですから。それにあっちのほうが日陰ですし座ってゆっくり見れますのよ」

受付を済ませて糸師さんはこちらへと階段を登る。段差は低めだったから凛ちゃんとゆっくり登って、息が少し上がったところで階段は終わった。

「にぃちゃ!にぃちゃ!」

登りきった先でごきげんな凛ちゃんに二歳児よりも体力がないことに傷つきつつ、空いている場所に座った。

人が集まってて賑やかな応援席とは違って、グラウンドはまだ真ん中に人がいない。準備中なのかいないグラウンドは静かなくらいで、ぽーっと見てれば出入り口から人が流れ出てきた。

「にちゃ!」

「えっと、冴くんは…」

「冴ちゃんはあの青色のユニフォームの10番ですわ」

「10番!ストライカーなんですね!」

「ええ。冴ちゃんサッカーにゴール決めるときが一番楽しいんですって」

二人の会話を元に目を細める。じっくりと見ればピントが合ったようで、昨日会った赤髪と青色の服。背中に白抜きで10と数字が振られてた。

「睡、見える?」

『うん』

「あら、もしかして睡ちゃん遠くて見えづらい?」

『だ、大丈夫です』

「にちゃないない?」

『うんん。見えてるよ。大丈夫』

ちょっと心配されてる間にピーっと大きな音がした。

「あ、始まった!」

大きなグラウンド、半分のところで線が引かれていて、右と左でユニフォームの色が違う。

青色の集団の中に冴はいて、ボールは相手チームかららしくつま先でボールを蹴った相手が同じ色のユニフォームの人にボールを渡たして蹴り始めた。

「にぃちゃぽんよっ!」

頑張れ!とはしゃぐ凛ちゃんに、ボールを中心に走り回るみんなを見つめる。

サッカーのルールはよく知らない。したこともないし、見たこともない。両端にあるかごにボールを入れれば勝ちなのはわかる、その程度。

わいわいと賑やかにボールをとった、とられたを繰り返すグラウンドで、冴はじっと相手と味方の動きを見てるらしい。

何かを待ってるみたいな、そんな感じの時間にまた笛の音。グラウンドにいた人たちが一度全員中に戻っていって、どうやら休憩みたいだ。

「もう休憩ですか?」

「ジュニアサッカーは前後半それぞれ15分から20分なんですよ」

「大人の半分くらいなんですね…」

「ええ。だから冴ちゃんったらいつも短い、足りないって怒るんです」

「ふふっ、とてもサッカーがお好きなんですね」

「にぃちゃ、ぽん、まだ?」

『いま休憩中みたいだから出てきたらまたサッカーするんじゃないかな?』

「ぽん!」

試合が休憩中だからその間に俺と凛ちゃんも水分補給をする。まだ陽が高いから外にいるだけでも暑いのに、こんな中で何十分も走ってるなんてすごい。

試合が再開するらしく人が出てきてまたピーっと音がした。

最初と同じようにボールを追いかける人たちはさっきよりもゴールをしようと必死で、冴も、動き出した。

「冴ちゃんがんばってー!」

「さ、冴くん、がんばれー!」

「にぃちゃ!れーよ!」

母さんたちと同じように手を大きく振る凛ちゃんは、俺の服を掴んで大きな瞳で俺を見る。

「うぃちゃ、れーよ!」

『あ、うん、』

ほーっとしてしまったけど、ちゃんといるからには応援しないと。

声を出すために、大きく息を吸った。

『さ、冴!がんばれ!』

「にちゃ!れー!」

一瞬、水色がこちらを見た気がした。

ボールを奪うのに体の向きを変えたからそう見えただけかもしれない。

すっとボールを奪った冴はすぐさまボールを蹴りながら走り出して、前からくる相手を華麗に避けていく。自由自在にボールを操ってすごい速さで走っていく冴はもう網の前で、振りぬいた足がボールを蹴りだした。

ピーっと長い笛の音。沸き立つ応援席に冴はすっと顔を上げて、体の向きを変えて、口角を上げたように見えた。

「あら…あらあら」

どこか楽しそうな声をこぼす糸師さんに、あれ?と目を瞬く母さん。凛ちゃんのにぃちゃ!しゅごい!!のきらきらした表情。

水色が俺を見てるような気がしたから手を振って、そうすれば冴はすっと視線を外して、また最初と同じ場所に戻った。

「にちゃしゅごね!!」

『うん。すごかったや』

「ボールぽんよ!!」

『だね。冴がボール持ってから誰も触れなかったよ』

「にぃちゃしゅごいのよ!!」

兄が褒められたことにとても嬉しそうな凛ちゃんと話していれば試合が再開する音が響く。

一回ゴールした冴は警戒されているらしくボールが回ってこなくて、そんな中でも冴は気にせず走ってボールを取りに行くとまたするすると人の合間を縫ってネットを揺らした。

湧き上がる応援席。また決めた!の嬉しそうな声が至るところから聞こえて、母さんと凛ちゃんの歓喜の声に冴はまたこちらを見ていて、とんっと背が撫でられた。

「睡ちゃん、よかったら冴ちゃんに手を振ってあげて?」

『え、はい…?』

さっきみたいに手を振れば、見えたのか頷いて刺さってた視線が外れる。

首を傾げて糸師さんを見上げれば和やかに微笑んでいてありがとうと感謝された。



結局あの後また一点ゴールした冴によって3ー0と表記された得点表に試合は終了した。

一試合で3点獲得することはハットトリックというらしい。一つまた知識が増えたところで俺達は応援席から降りて出入り口に向かい、試合後でわいわいとしてる人混みに近づいた。

試合後の反省会というものをしてるらしいそれぞれのグループに、解散っという合図が聞こえるか聞こえないかのタイミングでその中から一人、人が出てきた。

「冴ちゃん。お疲れ様」

「ん」

「にぃちゃ!しゅごね!ぽんよ!」 

「当たり前だ。兄ちゃんだからな」

ふんすと鼻を鳴らしてはしゃぐ凛ちゃんの頭を撫でた冴は次に俺を見て、口を閉ざす。じっと見つめられてあまりの眼力に何かしただろうかと目を瞬いていればとんとんとまた背中を撫でられた。

「睡ちゃんと睡ちゃんのお母さんも応援に来てくれたのよね」

『あ、』

「睡ちゃんサッカー見るの初めてだったんでしょ?試合どうだった?」

『えっと、すごかった、です』

「あ、糸師さん!ちょっと良いですか!」

聞こえてきた声は見知らぬ人の声で、呼ばれた糸師さんと近くにいた母さんの視線が外れる。それでもずっと俺を見てる視線に顔の向きを戻せば冴の眉間の皺は深い。

「………」

『えっと、冴、お疲れ様』

「ん。どうだった」

『その、初めてサッカー見たんだけど…冴、すごいね。ボールが生きてるみたいだった』

見たこともやったこともないからルールはよく知らないし、大変さもわからない。けどたぶん、冴はあのグラウンドに立っていた中で一番すごかった。

『冴が一番早かったし、えっと、ぜんぶなにしてもかっこよかった…!』

「…そうか」

目尻を落として口角が上がる。若干目元が髪の色に近い色に染まって、さっきまでの眉間の皺はすっかり消えてた。

「うぃちゃ、にぃちゃれーなのよ!」

「ああ。凛と睡の声聞こえてたぞ」

「にちゃ!」

にこにこの凛ちゃんの頭をなでて、冴は優しい表情のまま目線を上げると手を伸ばす。左手が髪触れて、顔が近づいてきて、あ、と思ったときにはまた口が塞がれててすぐに離れた。

固まってる俺にきゃっと楽しそうな笑い声が響く。

「にぃちゃ、うぃちゃしゅき!」

「ああ。好きだ」

「りちゃ、うぃちゃしゅきー!」

「一緒だな」

「う!しゅき!」

「ああ。凛ならいいぞ」

「あい!」

慣れたように凛ちゃんを抱えた冴によって、凛ちゃんの目線が上がって、またぺたりと暖かくて小さなてのひらが頬に触れる。それからちゅっと可愛らしい音が立てられて離れた。

『……………、え』

ぽかんとしてしまった俺に二人は似たような笑顔を浮かべていて、満足そうなその表情に何も言えない。

昨日といい今日といい、この二人はいったい俺をどうしたいんだろう。

「わー!糸師彼女!?」

「え?!彼女ー?!」

冴と同じくらいの歳の男の子がわらわらと集まってくる。抱えられてる凛ちゃんはきょとんとして、冴は不愉快そうに眉根を寄せた。

「勝手に見んな」

「糸師すげー!もー彼女いんの!?」

「いつからいつから?!」

「ねぇ!名前教えて!」

どんっと勢いよくぶつかった人の手が肩に置かれる。ふらついた俺に慌てるような声がして、ぐっと引っ張られた。

「…おい」

昨日と同じように引っ張られ、腕が回される。地を這うように低い、とても不機嫌そうな声が耳元で聞こえた。

「俺の睡に触んじゃねぇ」

見開かれた目と低い声。ひりついた空気にひゅっと誰かが息を吸って目を泳がせる。

「ご、ごめん、糸師」

「つ、次は気をつける」

「次なんかねぇよ。二度と睡に話しかけるな。視界にも入れるな。触れるなんて論外だ。その腕へし折られたくなけりゃ触んじゃねぇ」

あまりの勢いに全員が静かになって、ぺたりと俺の頬に小さな手な触れた。

「うぃちゃ、だいじょう?」

『うん、大丈夫だよ。えっと、冴もありがとう。大丈夫だからさ、落ち着いて?…あと、その、空気悪くしてごめんなさい』

「あ、いえ…」

「睡、そんな奴ら気にすんな」

『けど俺のせいだし…』

「睡は悪くねぇ。彼奴らがわりぃ」

ぷいっと顔を逸した冴に凛ちゃんも真似するように顔を背けて、どうしたものかと頬を掻いた。今後も冴と凛ちゃんと仲良くするならチームメイトの子たちとも顔を合わせることがあるはずだ。

気まずい空気も、冴とチームメイトが仲違いするのも良くない。

『ありがとう、冴。でもほんとに俺の体力がなくてふらついただけだから気にしないでよ。それから…詞詠です。素敵な試合を見させてくださってありがとうございました。みなさんすごかったです』

「っ、ほんと?!」

「ありがとう!」

「でも今日の試合冴がハットトリックで得点王なんだよなぁ」

「次は俺が得点王だから!また見に来てね!」

『はい。ぜひ。みなさん応援してます』

「うん!応援して!」

「やべー!冴の彼女ちょーかわいい!」

沸き立つチームメイトたちにいつこの彼女っていう誤解を解けばいいのか悩む。

チームメイトの子たちが口々に名乗ってくれたけど到底覚えきれるわけもなくて、曖昧に笑って頷き、口を開く。

『みなさん本当にお疲れ様でした。みなさんも親御さんが待ってるみたいですし、俺は冴と凛ちゃんと帰るので失礼しますね』

「また来てねー!」

「ばいばーい!」

手を振りかえしてあげて、散っていったチームメイトの子たちを見送る。振り返ればじっとりとした目で俺を見てる冴がいて、凛ちゃんは兄と俺を見比べてこてんと首を傾げてた。

『冴、おまたせ』

「……………」

『冴?』

なにも言わない冴に目を瞬く。なんだろうと思ったところで、そういえばとポーチからずっと持ったままだったそれを取り出して渡す。

『今日もだけど、昨日は本当にありがとう。これ、よかったら使って?』

「…なんだ、それ」

『タオル借りたから、それも洗って持ってきてるんだけど、それとは別にお礼にと思って…ごめん、要らないよな』

「勝手に決めるな。要る」

差し出された手にそっと包みを置く。受け取った冴は包装を眺めてから口元を緩めて、やっとまとってた重くて怖い空気を溶かした。

『洗ったタオルもあるんだけど…』

「ん」

『今渡して邪魔にならない?』

「ならない」

同じくポーチからタオルを取り出す。こっちは包んだりしてないからすぐに手にとって、冴は昨日の俺みたいに首にかけた。

「………」

首元のタオルを見て、目を細めた冴になにかあったかなと首を傾げる。抱っこされてる凛ちゃんがタオルに鼻先を寄せて、目を丸くした。

「うぃちゃ!」

『俺?』

「にぃちゃ、うぃちゃ!」

「だな。偉いぞ、凛、よくわかったな」

「あい!」

楽しそうな二人に首を傾げる。すっかり機嫌が治り楽しそうな二人は一体なにに喜んでるんだろう。

「冴ちゃん、凛ちゃん、睡ちゃーん」

一人ずつ名前が呼ばれて顔を上げる。穏やかに微笑んでる糸師さんと、その横に立ってあわあわしてる母さんに凛ちゃんがまま!と正しく呼んだ。

「そろそろ帰りましょうかー」

「ああ」

「あい!」

息子二人と目を合わせて糸師さんに俺も向かいに立った母さんを見上げて、何故かまだあわててる母さんに首を傾げた。

『どうしたの?』

「あ、えっと、ううん、」

言葉を選んでるというより何を言ったらいいのかわからなそうに母さんに目を瞬く。母さんは俺を見て視線を迷わせたあとに諦めたように目線を落とした。

「睡、たのしかった?」

『うん。楽しかった』

「……睡もサッカーしたい?」

『うーん、俺は見てるのがいいなぁ』

「そっか…」

残念そうで、ほっとしたような声。心当たりがなかったわけじゃないけど気づかないふりをして、きゅっと右手が掴まれた感覚に肩を揺らしてそちらを見る。

「うぃちゃ!ぎゅーよ!」

「睡、凛と手つなげ。帰るぞ」

『あ、うん』

昨日と同様に俺の手を取ってる凛ちゃんと、その反対側をすでに繋いでる冴に手を握り返す。

「ぽかぽかねー!」

『うん?そうだね…?』

「ふふ。すっかり仲良しさんねぇ」

「はい…。というか、だ、大丈夫でしょうか…?」

「うふふ、そんなにご心配なさらなくてもなにもございませんわよ。これからもよろしくお願いしますね」

「ううん…こちらは願ってもないんですけど…大丈夫かしら…?」

母さん二人の正反対な会話に首を傾げようとして、手が引っ張られた感覚に意識を移す。

「うぃちゃ!うぃちゃ!おうちよ!」

「睡、帰るぞ」

『うん』

ごきげんな凛ちゃんに冴は歩き始めて、三人で進む。糸師さんと母さんは後ろからついてきてた。

「凛、アイス食べるか?」

「う!」

「冴ちゃん、凛ちゃん、お家に詞詠さんからいただいたフルーツがあるわよ」

「もぉ!!」

「フルーツ?」

「昨日のお礼ってですって。冴ちゃんが素敵なことをしたお返しね」

「……ふん」

穏やかな糸師さんの言葉に冴が鼻を鳴らしてそっぽ向いて、三歩進んだところで足を止めた。

「凛」

「う?」

「睡と手繋いでろ」

「あい!」

凛ちゃんと手を離したらしい冴はすたすたと逆走すると母さんの前に立った。

「糸師冴です」

「あ、丁寧にありがとうございます。詞詠累です。昨日はご迷惑をおかけしました。睡を助けてくださって本当にありがとうございます」

「別に。睡だったからいいです」

「えっと…もしかして睡と会ったことあったのかしら?」

「ない。昨日が初めてです」

母さんと冴の会話がどこか不思議で、話の理解できていなそうな凛ちゃんはともかく、糸師さんが普通ににこにこしているから悪いことだはなさそうだけどなにか引っかかる。

『母さ、』

「詞詠さん」

「え、はい」

「睡を俺にください」

『「え」』

言葉の意味がしきれずに固まる俺達に、糸師さんは直球でいったわねーと笑う。

先にはっとしたのは母さんで、戸惑うような顔で冴を見つめた。

「あ、あの、冴、くん?」

「俺は必ず世界一のFWになって、睡に何一つ不自由させない。どんなときでも俺が睡を守る。睡のことは俺と凛が幸せにします。な、凛」

「あい!」

『な、ん??』

「はぇ…」

「ふふ。パパが見たら驚くわね」

にこにこしてる糸師さんは携帯をかまえてるからたぶんこの内容を撮影してるんだろう。これは後から見たら恥ずかしくて死んじゃうんじゃないかなと思いつつ、視線が母さんと冴を行ったり来たりする。

「睡を俺にください」

「え?!……えっ…嫌です」

「は?」

「ひぇ。ごめんなさい。睡はまだあげられません」

「まだ?いつならいいんだ」

「せ、せめて成人してから、お互いの同意の元なら、大丈夫です…」

「わかりました」

冴がすっと視線を上げて、糸師さんを見据える。

「………母さん、撮ってるな」

「撮ってるよ〜」

「ん。ならいい」

断られたのに満足そうに頷いた冴はすたすたとこちらに歩いてきて、ずっとおとなしく待ってた凛ちゃんの横に立つと手を繋ぎ直す。

「帰るぞ、凛、睡」

「う!」

『え、うん…?』

歩き出した二人に同じようについていって、どうしたらいいかわからず振り返る。

母さんの微妙そうな表情とにこにこの糸師さん。

「睡、前見て歩け。あぶねぇぞ」

「あうないのよ!」

『ご、ごめん。気をつける』

右側からの指摘に前を見る。真ん中の凛ちゃんがたくさん話して、冴はそれに相槌と通訳をして、俺も頷いたり返事をしたりしていればいつの間にか家にたどり着いていた。

うちの家の前で足を止めれば母さんがそわそわと俺を見て、冴が合図すれば繋いでた手が解かれる。隣の凛ちゃんの頭をなでた。

『凛ちゃん、今日もたくさんお話してくれてありがとう。たのしかった。またね』

「う!」

『冴も、試合お疲れ様。すごくかっこよかった。また見に行かせてね。またな』

「ん」

差し出された頭に仕方なく同じように頭を撫でて、二人分の髪に触れて手を下ろそうとすれば手が掴まれてじっと見つめられる。

まっすぐなその水色はもう見覚えがあって、すっと近づいてきた顔に今までと同様に口が塞がれてすぐに離れる。冴が凛ちゃんを抱えれば凛ちゃんも小さな手を俺に添えて口を合わせて、二人して満足そうに笑う。

「ひょ…っ、さ、最近の子わからない…!」

「あらあら、情熱的ねぇ」

顔を真っ赤にして目を泳がせる母さんと頬に手を添えて微笑む糸師さん。今日一日で振り回されっぱなしの母さんは心労でまた熱を出してしまうかもしれない。

「おやすみ」

「おんみ!」

『おやすみ…?』

昨日もやったやりとりに思わず首を傾げてしまって、冴は凛ちゃんを抱えたまま歩き出す。

「それじゃあ、詞詠さん、これからもぜひよろしくお願いしますね」

「は、はい…こちらこそ…?」

「睡ちゃん、またね」

『は、はい』

うふふと楽しそうな糸師さんも二人の後を追いかけて、残された俺と母さんは顔を合わせて、とりあえず鍵を開けて家に入る。しっかりと戸締まりをして、リビングに入り、ソファーに崩れ落ちた。

「睡?!」

『だめ…母さん…熱い…』

「え?!熱!?ちょっとまってね!」

慌てながらもすぐさま体温計と水分を持ってきてくれた母さんによって額に体温計が翳された。

「9℃…!いつから熱かったの?」

『かえる、ちょっとまえ…』

「んん!もう!無理して!」

『ごめんなさい…』

「謝らなくていいからお水飲んで!」

『ん』

水分補給、着替え、手は洗う気力がないから除菌ジェルを使って、あれよあれよと気づけばベッドに寝かされてた。

『母さん…明日…』

「学校はおやすみ。気にしないで体調戻しましょうね」

『ん…』

貼られた額と首元の熱冷ましが心地よい。目をそのまま瞑って、そうすれば疲れてたらしい体は重たくなって意識はとんだ。



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