ヒロアカ 第一部


「いずる、出留」

『ん…』

揺らされた肩と心配そうな声に目を開く。体を起こすと関節も首が鳴った。

足を下ろすとクッションが落ちて近くに母さんが立ってる。

「おはよ、出留。こんなところで寝て…風邪引いたらどうするの?」

『あ、ごめん…母さん。おはよう』

握りしめてた携帯を見ればまだメッセージは返ってきてない。勝己も出久も寝てるんだろうそれに、息を吐いて母さんを見上げる。

『母さん、ちょっと座ってて』

「急にどうしたの?」

『うん、ちょっと。飲み物とってくる』

「わかったわ」

ソファーに座った母と入れ違いで立ち上がり冷蔵庫に向かう。母さんが勢い良く飲むことを考えて、マグカップに牛乳を入れて軽くレンジで温める。

その間に携帯を操作して開いたニュースサイトにはヒーロー殺し逮捕の記事が踊っていた。軽く目を通したところで電子音が鳴ったから携帯をしまう。

ぬるめにしたホットミルクにはちみつをたらして戻った。

『母さん』

「どうしたの、出留」

『うん、落ち着いて聞いてほしいんだけどね。昨日の夜警察から電話があったんだ』

「警察…?」

途端に眉根を寄せた母は不安そうで笑みを繕って手を取る。

『職業体験中に軽く怪我をしたって連絡だったよ。また無茶したのかな、出久』

「け、怪我!?」

『大丈夫大丈夫。一応検査も兼ねて昨日は入院したみたいだけど詳しくは母さんと話してからにしようと思ってまだ聞いてない』

「そう…どこの警察なの?」

『どこだったかなぁ。電話折り返せばつながると思うからかけてみるね』

「出久を迎えにいかないと。いつから開いてるのかしら」

『うん。確認してみる。でも昨日聞いた限りだとそう深い傷でもないみたいだから、軽くあっちで治療して職業体験が終わってから帰ってくるのかも』

「そうね…」

『その辺も聞いてみるよ』

視線を揺らして今にも不安で泣きそうな母さんにマグカップを渡す。ホットミルクを飲んで息を吐くと目線を上げた。

「ごめんね、出留」

『大丈夫。行くなら朝ごはん食べてからにしよ。終わったらご飯作るね』

「うんん、母さんが作っておくよ。電話お願いね」

無理して笑ってる母はきっと何かしていないと気が紛れないんだろう。マグカップを持ってゆっくりキッチンに向かっていったから朝食作りは任せ、俺も子機を取ってソファーに戻り操作する。

リダイヤルでそのまま掛ければ二回とコールせずに繋がった。

「はい、こちら保須警察です。いかがなさいましたか」

『朝早くすみません。昨夜お電話いただきました緑谷と申します』

「緑谷さんですね。ご連絡お待ちしておりました。ただいま担当にお繋ぎ致します」

ぷつりと短い音のあとに保留中なのか静かになる。後ろのキッチンからはシンクの水音に混じって鼻を啜る音が聞こえていて、十秒もせずに音が返ってきた。

「緑谷さんお待たせいたしました。佐景です」

『昨夜はお電話ありがとうございました。折り返しのご連絡なんですが大丈夫ですか?』

「ええ、もちろん。お母様とお話確認いただけたんですね」

『はい。迎えにいくことは可能なんですが、出久の怪我の度合いと、もしそちらで治療などがあるようでしたら帰る日付に合わせてうかがえればと思うんですが、出久はまだ起きてませんよね?』

「出久くんの怪我は足への切り傷が一番大きなものとなります。筋肉や筋には支障ございませんので後遺症はなどは一切ないというのが現状の診察結果です。ただ数針縫っておりますので可能であれば二日ほど安静のため入院いただいてからのご帰宅がよろしいかと思われます。出久くんが起きているかどうか確認してまいりますね」

また保留になった電話口に携帯を取り出して操作する。

起きたのかちょうど返ってきた勝己からのメッセージを返信して、それでもまだ保留が終わらず時間がありそうだったから耳を澄ませる。

とんとんと普段よりも随分と遅い包丁がまな板に触れる音。時折鼻を啜ってるけれど本泣きにはまだ遠い様子に落ち着いてるらしいと安心した。

ぷつりとした音のあとに向こう側で息を吸う音が聞こえる。

「大変お待たせいたしました。出久くんは起きているようで、少し前から事情確認を行っているようです」

『良かった。起きて普通に話せてるんですね』

「はい。出久くんもご学友も傷の大きさに多少の差はございますが意識もはっきりしている状態なのでご安心ください」

『、ありがとうございます』

ご学友の言葉に首を傾げる。出久の職業体験先は一人だったはずだけれど同級生も一緒にいたのだろうか。

メッセージからして勝己ではないそれに眉根を寄せながら、そうしましたらと続ける。

『確認が終わったら出久と話がしたいんですが、電話をするようお伝えいただけませんか?』

「はい。必ずお伝えいたします」

怪我は軽症。安静が好ましいなら下手に動かすよりも母さんも落ち着いたであろう数日後のほうが安心だ。

切った電話に出久からの折り返しを見逃さないよう携帯の音量を確認してしまう。

息を吐いてから立ち上がってキッチンに向かう。

危うげな手つきでフライパンを火にかけようとしてる母さんの横で用意されてた卵を取ってお椀に割った。

「出留、出久は、」

『うん。もう目が覚めてて今は軽い確認中だって。終わったら連絡もらえるよう伝えておいたから折り返し待ち』

「よ、よかったぁ…!」

『大丈夫そうで一安心だね。後は持っていくから母さん座ってて』

「んっ!ごめんね出留っ」

安心から涙を流し始めた母をリビングに誘導し、改めて火をつける。

フライパンと水を入れた小鍋両方を火にかけ、まずは割り入れた卵をかき混ぜてからフライパンに流し込んだ。

用意されてる切り刻まれたハムやネギ。置かれた冷凍ご飯からしてチャーハンを作ろうとしていたらしいそれを引き継ぐ。軽く炒った卵を端に寄せてご飯を入れ、ほぐしながらハムやネギも入れて炒める。

ついでに野菜室からレタスを取り出して数枚千切り、湧いた小鍋の水と、ほとんど熱の通ったチャーハンに適当に切って放り込んだ。

体作りのため中三の春すぎから食べる量が増えた出久がいないため二人分のチャーハンはフライパンの底が隠れる程度しかなく、チャーハンとスープに味をつけてレタスも火が通ったから火を止め、皿に等分して乗せる。

横にスプーンも乗せ二つ皿を持っていけば涙を拭ったのか目元の赤い母さんがいてホットミルクを飲み干した。

『出久からの電話待ってる間にご飯食べちゃお』

「うん」

差し出した皿を受け取って、スプーンを持ち口に入れたことを確認して俺も食べ始める。

つけたままのテレビは天気予報が流れていて本日は晴れだと伝え、そのまま今日やる同チャンネルのバラエティを紹介するCMに切り替わる。ちょうどニュースの流れる番組ではないことに安堵しながらチャーハンを食べすすめ、食べ終わった頃に携帯が揺れた。

飲んでいたスープを置いて、口を拭きながら携帯を取り出せば画面には出久の名前が出ていて皿を重ねながら通話を始める。

『おはよ、出久』

「お、おはよう兄ちゃん」

何故か緊張してる声に笑って、重ねた皿を持ち上げた。

『怪我大丈夫?』

「あ、うん。僕はそうでもなくて…足もほとんど痛みはないよ」

『そっか。安静にしてたほうがいいって聞いたけど、迎えに行くのは日開けてから…職業体験終わってからのほうがいいか?』

「ありがとう、ごめんなさい、兄ちゃん」

『大丈夫』

皿を下げてシンクに置いたとこで母を見る。詳しい怪我の報告はしなかったし、食事を経てだいぶ落ち着きを取り戻してるらしい。

腫れぼったくなった目元を擦ってテレビを眺めていて声量に気をつけながら通話を続ける。

『保須ってことはヒーロー殺しか?』

「う、うん。たまたま別の場所に向かう最中に巻き込まれて…」

『同級生もいたって聞いたけど?』

「飯田くんと轟くんが一緒に。特に飯田くんはちょっと怪我が大きくて今もう一回検査してるみたい」

『そう。…母さんにはヒーロー殺しのことも保須の病院にいることも足縫ったことも伝えてないから、軽い怪我したってことで話し合わせといて』

「ありがとう、兄ちゃん」

『帰ってきたらちゃんと話聞かせてくれよ、出久』

「うん。本当にごめんなさい。ありがとう、兄ちゃん」

『おー。それじゃ一個お願いなんだけど、俺別のとこに連絡しないといけないから母さんに直接かけ直してもらえない?』

「あ、わかった」

『ありがと。じゃ、また後でね』

「うん」

切れた通話に息を吐く。少し待てば母さんの携帯が鳴って慌てながら電話に出て出久と泣き始めたから俺も携帯を操作して耳にあてる。

1コールで切れた呼び出し音に目を瞬いた。

「おはよう、緑谷」

『おはようございます…。早いですね、先生』

「そろそろ掛かってくるだろうと思ってたからな。それで、どうなんだ?」

『とりあえず今日は学校行きますね』

「、大丈夫なのか?」

『ええ、出久とも連絡は取れて元気そうでしたし、母も大丈夫そうなので』

「はぁ。心配なのはお前なんだがな、緑谷」

『あれ?昨日も同じこと仰ってませんでした?俺は怪我してないんで平気ですよ?』

「……そうか」

『えーっと、とりあえず出久のことも含めてお話少しできればと思うので、三十分くらい早めに学校行っても大丈夫ですか?』

「ああ。もっと前から出勤しているし構わない。職員室で待ってる」

『ありがとうございます』

「何かあればすぐに連絡をくれ」

昨日と同じことを言われて切った通話にリビングを見る。

泣きながらも良かったと笑う母に出久はうまいこと話を合わせてくれたんだろうと安堵し、水を出してスポンジと洗剤を取る。

濡らしたスポンジに洗剤をかけて皿をこする。フライパンや菜箸も一緒に洗って、油が落ちただろう頃に視線を落とせば泡が赤くなっていた。驚いて手を止め確認すればいつの間にか切ってたらしい手のひらから血が出てる。

大方置いてあった包丁を洗ったときに切ったんだろう。出した水で傷口をしっかり流して、洗い終わった皿を水切りのラックに置いた。

『学校行く準備してくる』

「うん」

電話に気を取られてる母さんに声を軽くかけてタオルで手を押さえながら部屋に向かい、机から救急箱を取り出し床に座り込んだ。

確認するために開いたタオルは血を吸っていて色が変わっており、押さえがなくなった傷口は開くとすぐに赤色の液体が溢れてくる。

割と深く切ったらしいそれに救急箱から絆創膏を取り出してタオルで再び押さえながら息を吐いた。

『いってぇ…』

タオルが濡れる感覚に眉根を寄せる。心臓より高くするためにベッドの上に肘をおいて息をする。どくどくと押さえてる手が強く脈打っていて血が止まってる気がしない。

机に置いてる時計を見ればまだ少し時間に余裕はあるけれど、そろそろ着替えておきたい頃だった。

タオルを外して、先程よりは幾分かマシな程度血が滲んでるくらいになってるからガーゼを置いてキツめにテープを巻いて止める。

手の開閉に支障は出そうな雑な出来に、いつもはついてからつけるグローブを先にはめて昨日出かけたときの格好からシャツとジャージに着替え、上からパーカーを羽織った。

最近は練習時間が惜しいと人使もジャージで来てるし多少の惰性は許されるだろう。インナーと靴だけは替えられるようにと別に鞄に入れて部屋を出た。

血まみれにしてしまったタオルを水で濯いで、洗濯機に突っ込み他の色の濃い洋服と一緒に洗う。

リビングを覗けば泣きつかれたのかうとうとしてる母さんがいて、近くのタオル地のブランケットを肩からかけた。

『いってきます』

「いずる、いって、らっしゃい」

微睡みながら返された挨拶にそのまま家を出て鍵を締める。

時間を見れば予定通りの時間で、少し早足で駅に向かい電車に乗った。車内の広告も開いた携帯のニュースもヒーロー殺しの話題で持ちきりでなんでも巡回中のプロヒーローと学生が三人巻き込まれ、エンデヴァーというヒーローに助けられたらしい。

エンデヴァーは市民を守り、ヒーロー殺しを捕まえた功績を讃えられていて今はまだ聴取中というヒーロー殺しの背景が期待されていた。

ニュースを見きる頃には電車は雄英最寄りで流れに任せて電車を降りる。そのまま歩いて雄英にたどり着き、学生証を翳して校内に入った。

朝電話した通りならば職員室にいるであろう相澤先生を尋ねるために校舎を歩く。職員室のある階数で少し先の扉が開いた。

中から金髪の線が細い先生が電話をしながら出てきて、その人は俺を見るなり青い顔してさっさと違う部屋に入っていく。見覚えのない人ではあったけれど雄英にいるのならヒーローなんだろうと足を進めて先程の人が出てきた扉を軽く叩いた。

『失礼します』

「緑谷」

入るなり近めの場所に座っていた相澤先生が腰を上げる。

いつもと同じ眠たそうな表情。常に寝不足なのかと思う雰囲気にこっちだと手招かれてついていく。

どうやら初日に来たときと同じ応接室に通されるらしく、座るように言われたから腰かければ向かいに相澤先生も座った。

「それで?弟に何があった」

『朝のニュースのあれなんですけどどうやら保須でヒーロー殺しに遭遇したみたいです』

「また敵か…」

『足は数針縫ったようですが命に別状はないらしく、電話したところかなり元気で当人はそのまま職業体験終了までプロヒーローの元でお世話になりたいと言っていたので最終日あたりに迎えに行く予定です』

「……たしかに、さっきオールマイトにそのプロヒーローから連絡が来てた。そうか…ヒーロー殺しと…。彼奴、また首を突っ込んだのか」

少し低くなった声。真剣味を帯びたことに出久はこの人からどう思われてるのかと苦笑いを浮かべる。

『わかりません。詳しくは会ってから話す予定なんで…』

「なるほど。親御さんはどうなんだ」

『母にはヒーロー殺しの件は伏せているので保須にいることも縫う程の怪我だったことも伝えてません。一応出久からも話を合わせて連絡いれてもらったので問題なさそうです』

「……緑谷、お前は大丈夫か」

『え?ええ。まぁ普通です。そりゃあ出久が怪我したって聞いたときは驚きましたけど電話口でも元気そうだったので一安心してます』

「…………昨日は眠れたのか」

『はい。リビングのソファーで寝落ちたらしくて寝違えたのか体がギシギシですよ』

「……そうか」

昨日の夜、今日の朝とかけられた問いかけに心配症だなと目を瞬く。

『兄弟揃ってご迷惑をおかけして申し訳ありません』

「少なくともお前にはかけられた覚えはないから謝るな。…心操には伝えたのか」

『いいえ。人使に無駄に心配かけるのもあれですし、それにヒーロー殺しが関わってるならあんまり吹聴するのは良くないでしょう?』

「そうだな。…そうしたら予定通り今日も職業体験を始めるが、連絡はこまめに確認しておけ。何かあればすぐに俺にも教えろ」

『はい。よろしくお願いします』

何か言いたげなものの眉根を寄せるだけで話がまとまったから立ち上がった先生に続いて俺も立つ。

時間はだいたい十五分前。普段通りなら人使ももう来ているだろう時間にいつもの実習場に向かうため、用があるという先生とは一度別れて早足で向かう。

開いた扉の向こうにはすでにマスクまでしっかりつけた人使がいて、目が合ったから笑いかけた。

『おはよー』

「おはよ。今日はジャージ着てきてるんだな」

『うん。ちょっと朝バタバタしてたから時短しようと思って』

「そっか」

ベンチに腰を下ろしてブーツに履き替え、インナーと履いてきたシューズをロッカーにしまい二人で更衣室を出た。

『てか今日組手だね。よろしく』

「ああ、よろしくな」

緊張した表情で捕縛帯を握る。俺は全く扱えなかったそれを人使がどのように操るのか楽しみで、雑談をしてるうちに先生が現れた。

「すまん、待たせた」

『大丈夫でーす』

「今日もよろしくお願いします」

「ああ」

先生は先程見たときと同じく黒い洋服と捕縛帯のセットで見慣れた姿だ。

俺が今日は人使との組手だからか他の先生の姿は見当たらない。

「まずは心操、捕縛帯を使ってウォーミングアップしておけ。十分したら組手に入る」

「はい!」

「緑谷は筋トレと軽い組手ならどっちがいい」

『あー、筋トレします。今日朝サボったんで』

「わかった。十分以内にまとめろ」

『わかりました』

支持された通り準備も兼ねて体を動かす。筋トレと言っても特に備品もないし、時間もない。腹筋系やスクワットのような体温の上がる少し早いものをして、腕立ては手のひらが痛んだから諦め、他のことをして息を整えた。

「時間だ。二人とも準備はいいな」

「はい!」

『はい』

「ルールはシンプル。心操はその捕縛帯で緑谷を捕らえたら勝ち。緑谷は制限時間いっぱいまで逃げ切れたら勝ちだ。お互いに打撃などは有効とする。ただしヒーローらしからぬ行動はしないように。質問は?」

「大丈夫です」

『同じく』

「それじゃあ、今から二十分本気でやれ。よーい、スタート」

かけられた合図と同時に飛んできた捕縛帯を避けすぐ距離を取った。

素早く捕縛帯を手繰りながら駈けてくる人使の動きを観察しながら間隔を保つように下がっていく。

風を切り飛んでくる捕縛帯を避けていればそのうち人使の投げるタイミングがだんだん合ってきて足に巻き付きそうになったから仰け反ってバク宙の要領で避けた。飛び込んでこようとした人使にまだ引き寄せてなかった捕縛帯を足で踏み、紐を引かれないようにして腕を振るう。

当たりそうになった腕はぎりぎりで避けられてしまって、踏み込んだ際に離した捕縛帯が今度は腕を捕まえようとするから避けた。

時折捕縛帯は変な方向に飛ぶものの大半は俺を捉えるために投げられていて随分としっかり操縦できていて、短期間でこれなら人使はセンスが大分あるしよっぽど練習したんだろうと思う。

俺には逃げ切る以外の勝利条件はないから本来ならば距離を取って逃げるのが得策だけれど、これは訓練なら多少人使の身になるようにしたほうがいいだろうと接近して攻撃を仕掛ける。

振るった足や腕はすれすれとはいえ大体は避けれていて、体の使い方も体育祭から考えれば格段にうまくなってた。

向かってきた捕縛帯を左手で掴み、思いっきり引き寄せる。

ふわりと浮いた人使が目を見開いたのがわかって、咄嗟に掴まれていない方の捕縛帯を投げようとしたから左手を振ればバランスを崩して床に転がった。

ピピッとタイマーが鳴って、追撃のため走り込もうとしてた足を止める。

「終わりだ」

『あ、ありがとうございました』

「はぁ、ありがとうございました」

流れてきた汗を拭いながら足を進め、手を伸ばす。受け身を取ってきちんと転がったため怪我はなさそうな人使は手を取ると立ち上がって笑った。

「悔しいな。的が動くだけで全然捕まえられない」

『俺的扱いなの??』

「次は絶対捕まえるからな」

『あはは、負けないよ?』

「俺も。……え?」

手を離せば人使が伸びている捕縛帯を纏めて、目を丸くする。何があったのかと声をかけるより早く、肩が掴まれた。

「緑谷」

『え?はい』

ここには俺と人使と相澤先生しかいない訳だから掴んだのは先生だろう。予想通り視線を向ければ先生がいて何故か険しい顔をしてた。

「お前、その左手どうした」

『左手?』

手を上げればグローブから血が流れ出ていて床に垂れてた。

固まってる人使は赤の色が滲んだ捕縛帯を見てから俺を見ていたようで、恐らく最後に掴んで引き寄せたときにつけてしまった血だろう。

『あ…ごめん人使、それ洗わないと』

「そんなことより出留、怪我したのか?いつだ?」

『朝ちょっとミスって。あー…本当悪い、落ちるかな』

手を伸ばそうとしたら捕縛帯を遠ざけるように抱えられ、相澤先生の押さえる場所が肩から腕に変わった。

「すまん心操、こいつを保健室にぶち込んでくる。代わりにプレゼントマイクが来るからすこし訓練しておいてもらえるか」

「はい。出留をお願いします」

『え?大丈夫ですよ??』

「その状態で訓練させられるわけないだろう」

「出留、流石にそれは心配だ。ちゃんと止血してきてくれ」

人使の少し怒った表情と有無を言わさず引かれた腕に歩き出す。言葉のとおりなら保健室に向かうんだろう。血をたらさないようにか持っとけとタオルを渡されて仕方なく左手で握って押さえる。まっすぐ向かった保健室の扉を躊躇いなく開けた。

「おや…どうしたんだい?イレイザーヘッド」

「ちょっとこいつ見てもらえますか」

「ああ、大丈夫…て!どうしたんだい!血だらけじゃないか!早く座らせて!全くどんな訓練してるんだい!」

「いや、朝かららしいです。グローブ外せ」

『はあ』

養護教諭と相澤先生に見据えられてグローブを取る。血が滴りタオルに吸われていき、相澤先生がグローブと一緒にタオルを持つ。グローブ内で血が溢れてたのか指先まで赤く、家で雑につけたガーゼももれなく真っ赤に染まってた。

「なにやったんだい?」

『朝ぼーっとしながら洗い物してたら手のひら包丁で切ったみたいで。そんな深くなさそうなんで大丈夫かなと思いました』

「こんなに血が出てるんだから深くないわけないだろう!一旦血を洗い流すよ」

手際よく用意された桶と水差し。少しずつ水がかけられて血の混じった赤い水が桶に溜まっていく。粗方流れた血に傷口が晒されて手のひらを見たその人は顔をしかめた。

「だいぶばっくり切ってるねぇ」

『そのうちくっつきますよ』

「そりゃあくっつくけど血だって流し過ぎたら良くないことぐらいわかるだろう?兄弟揃って自分の痛みに鈍い子だねぇ」

『あはは』

俺は初めてお世話になるけど、出久は入学初日からここに来ていたらしいし養護教諭とは何度も顔を合わせてるんだろう。纏めて怒られる。

ガーゼで押さえながら止血されて養護教諭の個性だという治癒が施された。ちゅーの声と同時に吸われ、途端に体が重くなった感覚と目眩がしてぐらつけば背が支えられる。

視線を上げれば右手でタオルに包んだグローブ、左手で俺の背を支えてる先生と目が合い眉根を寄せられた。

「緑谷、お前今日は帰れ」

『今帰ると母に心配かけるんで嫌です』

「この怪我で学校行ってるほうが心配されるだろう」

『母には言ってないです』

「「はぁ?」」

サラウンドの声に苦笑いを浮かべて目を逸らす。

『出久のことでだいぶ参ってるみたいだったんで、怪我したの黙って家出てきました。だから気づかれたくないんです』

「気持ちはわからなくもないけどねぇ…親御さんだって気づいたら怪我をしてたじゃ余計心配をかけるよ?」

『その辺はうまくやるんで大丈夫です。左手使わないようにするんで訓練戻っていいですか?』

「お前…」

ぐっと更に寄った眉根にどうにかして居座るための言い訳を考える。最悪いつもの帰宅時間までふらつくのもありかと思ったところで深いため息が聞こえた。

「参加は許さない。見学にしろ」

『はーい』

もしかしたら俺が家に帰らない可能性を考えたのか許可がおりたことに笑顔を返す。タオルに包まれ、ついでにビニール袋に入れられたグローブが返ってきて抱えた。

「アンタねぇ。はぁ…明日も朝一番に保健室寄りな」

『ありがとうございます』

ガーゼが外され、血は止まった様子の傷口が大きめの絆創膏で封をされる。外れないようにと包帯ネットがつけられた。

治癒の個性というのは自身の細胞を活性化させることで怪我の治りを早くするらしい。一気に施すと体に疲れが来るからと三回ほどに分けて治癒されるそうで出久が帰ってくるまでには外れるだろう包帯に小さく息を吐く。

「イレイザーヘッド。治癒をしたと言っても動かしたら傷口が開くからね」

「ええ、見学以外はさせません」

「そうしておくれ」

呆れた顔の養護教諭に頭を下げて保健室を出る。少しだけ先を歩く先生はどうにも不機嫌そうで漂う空気が重い。普段なら生徒がいるため賑やかな校舎も異様に静かで二つ分の足音だけが響いて会話一つない。

治療された左手は朝に比べたら痛みは感じない。代わりに疲労感で重たくなった身体が煩わしくて右手で傷のあたりをなぞった。

折角連絡をくれたのに勝己の言うとおりまた怪我をしてしまった。

「緑谷」

かけられた声に顔を上げる。いつの間にか立ち止まってたのか離れた場所に立つ先生に近寄るため足を進めて近づけば腕を見られた。

「痛むのか」

『ああ、いえ。ちょっと考え事してました』

「…弟のことか」

『どっちかといえば勝己のことですかね?』

「爆豪?」

瞬かれた目に頷く。

『俺、抜けてることがあってよくこういう怪我するんですよ。なんで朝勝己に怪我に気をつけろって連絡もらってたんですけど怪我しちゃったなぁと』

「抜けてるようには見えないがな。最後に怪我をしたのはいつだ?」

『最後に怪我したのはたしか…』

問いかけられたから記憶を探る。高校入学前だから中学在学中。春から夏にかかる暑い時期。落ちて、大きく切った腹の傷口は未だに残っていてなんとなくその辺りに触れながら顔を上げた。

『中二とかですかね?』

「…腹か」

『ええ。ちょっと不注意で足を踏み外してぐさっと。あん時も勝己に気をつけろって言われてたのにやったんで怒られたんですよね』

俺が笑えば目の前の先生の表情は険しくなっていく。

妙な空気に堪えきれず笑みを苦笑いに変えれば先生は前を向いて歩き始めたから俺も置いていかれないよう足を進めた。

「その時は弟になにかあったのか」

『んー、別に何かって程じゃないですけど出久は三日くらい前に野外学習中に迷子になったくらいですかね』

「迷子?」

『本当あん時大騒ぎになったんですよ。携帯ないから連絡もつかないですし予定のルートにもいないしで先生も総出で探し回って』

「どこにいたんだ」

『それが地元の人に保護されてて。理由が迷子の子の親を探してあげてたそうで見つけてあげたところでやっと俺達と逸れてたことに気づいて学校に連絡入れたみたいなんですよ。学校から引率の教師に連絡がいって迎えに行きました』

「人騒がせな奴だな」

『結果的に何もなかったから良かったんですけど先生はもちろん勝己はブチ切れるし、出久は萎縮してと大変でその日の夜とか説教で時間潰れちゃいましたね』

それ嫌な思い出だなと息を吐いた先生に口を開けて笑う。

『あははっ。まぁその前日に勝己と俺も軽くやらかしてたんでお互い様なんですけどね。先生たちもまたかって感じでしたもん』

腹に置いていた手を下ろす。あの時は本当にもう出久に逢えないんじゃないかと心臓が止まりそうで、勝己も焦っていたし、見つかったと聞いたときの安堵といったら言葉にならなかった。

前日に俺達がやらかしてたこともあり先生の怒りは四割増しで、説教も長かったけれど風呂も三人で悠々入れたり良かった点もあったから一概に嫌な記憶と片付けることもない。

今も三人で集まったときに迷子になるなよと話題になるくらいの笑い話。それを相澤先生はどう思ったのか気になったけれど前を向いて歩いているせいで後頭部しか見えず表情は窺えなかった。

出ていったのと同じ実習場に帰ってきて扉を開ける。

先生の後に続いて入ると中には人使とプレゼントマイクがいて丁度休憩中なのかタオルで汗を拭っていた。

目が合うなり人使が固まるから笑って左手を振る。

『ただいまー』

「出留、怪我はどうなんだ?」

『全然問題ないよー。心配症な先生のおかけで今日は見学になったけどね』

「あれだけ血が出てたんだから見学で当然だろ?」

呆れ混じりの言葉にそうでもないのにと手を開いて閉じる。

治癒のおかげか少しだけ引っ張られるような感覚はあるもののそこまで痛くない。絆創膏に血が滲んで色が変わってるのが気になる程度だった。

『別に訓練できそうなんだけどなぁ』

「安静にしてろ」

プレゼントマイクと話していたはずなのに聞こえたのか取り付く島もない返事に息を吐く。

人使もそうしろと頷くから諦めて隅に寄せてある荷物の上にグローブの入った袋をおいた。

ついでに携帯を取れば出久からは母さんをよろしくと、弔からは変わらず誤字混じりのメッセージが来ていて二人に言葉を入れたあとに勝己にも怪我したと送っておく。向こうも訓練中だから流石に連絡は返ってこなかった。

プレゼントマイクから引き継ぎを受け終わったのか、プレゼントマイクが出ていって最初の三人に戻る。人使に軽く話しかけたあとにこちらを見たから手を上げた。

『見学ってどこまでならセーフですか?』

「動かしていいのは口だけだ」

『結構な無理ゲーですね』

「そこから俺達の訓練を見て何かあれば声をかけろ。心操に体の使い方とかアドバイスできるだろ」

『わかりました』

しかたなく膝を抱えて座る。俺がおとなしくする気なのを察して相澤先生は人使に話し掛けてなにか指示を出していく。

捕縛帯の操縦は俺には何も言えることはなくて、取り出した携帯で練習風景を録画する。捕縛帯を振ってる姿を眺めていればうまくいったのか人使が嬉しそうに笑った。

微笑ましい絵面に俺も思わず笑えばはっとした人使が照れ臭そうに眉を顰める。

「撮っただろ」

『ばっちり』

「後で送ったら消してくれ」

『検討しとく』

続けられる訓練に時折口を出して後は録画したり暇になって筋トレをしようとしたりして怒られてと時間を過ごす。

返ってきてた勝己からの怒り混じりのメッセージに笑って返事して、頬杖をついた。

「心操、もっと腕をあげろ」

「は、はい」

「…筋力が足りてないか」

ぶつぶつとつぶやきながら人使を見て捕縛帯の扱いを指示していく。

筋トレや対人練習ならばまだしも捕縛帯の取り扱いについてなにも言えない俺じゃ暇すぎて、とりあえず腹筋から始める。

「おい、緑谷」

『使ってないんで許してください』

「許さん」

『ほんと暇なんです。腕立てじゃないだけ見逃してほしいです』

「はあ…本当に左手は使うなよ」

『はーい』

押し切ったと心中ガッツポーズをかましてそのまま筋トレを続ける。動きを変えるたびに視線が刺さるから左手を使ってないアピールをしながらこなしていって、たまに止めて顔を上げ、筋トレと見学を繰り返した。




「今日はここまでだ」

「はぁ、ありがとう、ございました…」

ぐったりした人使は目に見えて疲れていて暇をしてたのがちょっと申し訳ない。

タオルを差し出して飲み物も渡せば床に転がったまま人使は動かなかった。

『大丈夫?』

「むり…体が分裂しそうだ…」

『それはグロいな』

息を吐いてゆっくり起き上がった人使は飲み物を受け取って一気に飲み物を飲んでまた倒れる。

『マジでヤバそ』

「少し詰め込みすぎたな」

『人使歩ける?』

「休めば、なんとか…」

ぐったりとした姿が遊びすぎたときの勝己と似ていてそうだと首を傾げる。

『おんぶしようか?』

「………起きる」

むくりと起き上がってふらふらしながら更衣室に向かっていく人使に俺も立ち上がってついていく。貸そうとした手をこれも訓練と断られて時間をかけて更衣室にたどりついた。

さして運動をしなかったからインナーはそのままに、靴を履き替えて着てきたパーカーを羽織る。血まみれのグローブとタオルは袋のまま鞄に詰めた。

振り返れば人使も着替えを終わらせたところらしく水を飲んでいて蓋をする。

「次の万全な出留との対戦が楽しみだな」

『ん?今日結構万全だったぞ?』

「出留。手のひら怪我してる奴は万全じゃないぞ」

『ほんとほんと。普通に怪我してんの忘れてたし』

「へー?」

じっとりとした目。息を吐いて首を横に振る人使に本当のことなんだけどと手のひらを見る。確かに最初は痛みはあったかもしれないけど、意識しなければ気にならない程度ならこのくらい怪我にも入らないだろう。

着替えを入れた鞄を肩にかけて二人で更衣室を出る。外には相澤先生がいて人使と近寄った。

「動けそうか」

「大丈夫です」

わざわざ確認するために待っていたようで人使を見て頷く。安心した様子に本当に心配症な人だなと眺めていれば視線がこちらに向いた。

「緑谷はその手無駄に使うなよ」

『大丈夫ですよ。明日も筋トレだけは流石に嫌ですもん』

「朝はリカバリーガールの所へ忘れず行くように。それと、何かあればすぐに連絡をくれ」

『はーい』

今日だけでもう何度も聞いた言葉に間延びした返事をする。

『それじゃ、先生さよーなら』

「また明日お願いします」

「ああ」

先生に挨拶をして二人で帰る。なんだかんだ虚勢を張ってたのか校舎を出るなり歩くスピードが下がった人使とだらだら歩き、家に帰った。

『ただいまー』

声を出してみるけれど返事がなく、靴がないから買い物かなと家の中に入る。

冷蔵庫に買い物してくるねと置き書きがマグネットで貼り付けられていて、手を洗ってから自室に入った。

荷物を置いて救急箱を引っ張り座る。包帯ネットと絆創膏を剥がし、傷口の血を拭ってから新しい絆創膏を貼った。血が染みて色の変わった絆創膏よりはマシの見た目に包帯ネットをつけ直す。

処置を終えてから鞄の中のグローブと、携帯を取った。

風呂場に移動して連絡先の中から発目さんを呼び出してメッセージを送る。返信を待ちながらまずは借りて血のべったりついたタオルを出して水で濯いで、時間が経ってしまったためか落ちそうにない血の色に眉根を寄せる。すぐに渡されたことからおそらく相澤先生か人使の私物であろうそれに洗ったからと言って汚れたものを返すのは気が進まない。

返ってきた発目さんの連絡の通りまずはグローブを濯いでタオルで拭い、それから息を吐いてもう一度携帯を見る。

時間はまだ六時前。だいたいどこの店でもまだ空いている時間なことにグローブとタオルを風呂場に干して携帯と財布を持って外に出る。

母には少し出かけてると連絡を入れて、電車に乗って一番近くにある大きめの駅で降り、それから雑貨屋に入った。

同じくらいのサイズ感のタオルが並ぶ売り場を眺める。

借りたタオルの色は灰。絵柄はなにもなく、血のついたところだけが赤黒くなってしまってた。持ち主が先生なのか人使なのかでラッピングが変わるが、似たようなタオルを返すのがいいだろう。

開いたサイズが同じぐらいの吸水率が高そうで肌触りの良い布地のものを選ぶ。色は似た灰色で端に少しだけ刺繍が入ってしまっていたけれど許容範囲だろうとレジに向かう。

透明のビニールの後にシンプルな紙で包んでもらって受け取り、店を出た。

暇を持て余しているという出久と怒ってる勝己とメッセージを交わしながら家に帰れば食べ物の匂いと母さんの声が迎えてくれた。

「おかえり、出留」

『ただいま。買い物ありがと』

「今日は焼きうどんだよ!」

『おいしそう』

手を洗って荷物を置いてくる。

リビングには夜ご飯が並べられ始めていて、飲み物と箸を持って席についた。

向かい合っていただきますと手を合わせ、箸を持てば母さんが目を丸くする。

「出留、その手どうしたの?」

『ん?ああ、転んで擦りむいた』

「大丈夫なの?」

『うん。剥がれないようにってネットくれたから大きく見えるだけ。明日には治ってるよ』

「そう…出留は落ち着いてて母さん安心だよ」

『俺も出久の頑張り屋は好きだけど、無茶するのは心配だなぁ』

「ほんと心臓がいくつあってもたりないよ…」

『母さんは心配症だね』

「そりゃあ大切な子供に痛い思いしてほしい親なんていないよっ」

笑った母にそうだねと頷いて箸を進める。

母を心配から泣かせる天才である無茶しがちな優しい出久と、二人の間を取り持ち父が滅多に帰ってこない代わりを務める俺。周りから見てもあまり似てないと言われる性格だけど、それで母が安堵してるなら俺も安心だ。


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