あんスタ
「しろくん、朝だよ」
柔らかな声がかかり、ふわりと髪を撫でられる。擽ったさを覚えながら瞼を上げれば霞む視界に映った泉さんはいい子と笑って俺の髪をもう一度撫でる。
「お風呂入っちゃいな」
『…ん、はい…』
「あと、おはよう」
『おはようございます…』
寝起きはいいほうだし、何度も来てるここで今更道に迷うようなヘマはしないから、のろのろと足を進めて浴室に向かった。
タオルから着替えまで用意された脱衣所。泉さんなんて思いながら服を脱いで中に入る。ノズルを回せば温かいお湯がすぐに出てきて体をぬらした。
頭からお湯を浴びてるうちにぼんやりしてたのか水がかなり流れていて、慌てて水を止めてからシャンプーをつけた。髪を洗い、体も洗い、顔も洗って風呂を出た。だいぶしっかりしてきた意識に息を吐いてからタオルで水を吸っていく。髪を乾かすのがめんどくさい。
「ちゃんと髪も乾かしなよぉ」
『はい』
扉越しに聞こえてきた俺の思考を読んだかのように釘を差す声に諦めからもう一度息を吐いて服を着る。そのまま用意されていたドライヤーに手を伸ばした。
温風を浴びながら気持ち程度髪を整えて乾かす。大体乾いたところで冷風に切り替え毛先の跳ねを直してからドライヤーをしまった。
扉を開けるとキッチンから水を流す音が聞こえてて、そちらに向かう。顔を覗かせれば予想通り泉さんがいて手には洗い終わったらしいミキサーがあった。
「ん、ちゃんと乾かしたね」
『はい』
満足そうに笑った泉さんはトレーの上にコップを三つ用意した。
「しろくん、王様起こしてくるからあとお願い」
『わかりました』
すっかり分担された役割に今更疑問も意見もない。俺の横を抜けて階段を上がっていった泉さんを見送って、用意されてた飲み物も一緒にトレーにのせて持ち上げる。キッチンからダイニングまで運んでコップと飲み物を置いた。
「おはよう!」
ばんっと勢い良く開いた扉から現れた寝癖付きの月永さんに笑む。
『おはようございます』
「お!今日はゆで卵あるのか!?珍しいな!」
「タンパク質が取りたい気分だったからねぇ」
所定になってる椅子に座るとテーブルに用意された食事に目を瞬く。つっけんどんに返して椅子に座った泉さん。飲み物をそれぞれのグラスに注いで俺も座った。
いただきますと手を合わせてヨーグルトを食べてればサラダを食してた泉さんが顔を上げる。
「しろくん、今日の授業時間割わかってる?」
『一応は…昨日体育があったので今日はないから多分大丈夫かと』
「もし忘れ物があったら言いなよ。持ってれば貸すから」
「俺でもいいぞ!」
月永さんが元気よく手を上げた拍子にテーブルが揺れグラスが倒れそうになる。泉さんが咄嗟に手を伸ばしたから倒れはしなかったものの眉間に皺を寄せた。
「ちょっと!」
「悪い悪い!」
あまり悪びれた感じのしない月永さんの返事に泉さんは諦めたように息を吐いて、また食事を再開させた。
朝食を取りきって、制服に着替えながらニュースをチェックする。さほど代わり映えしない一覧に本当に世界は回ってるのかなんて思いながらスクロールしていって携帯をポケットにしまった。
「しろくん、王様、そろそろ出るよぉ」
「おう!」
『はい』
泉さんの家は俺の家よりも学校から遠い。普段より30分くらい早く出て最寄り駅に向かう。朝の通勤、通学ラッシュに被らないようにしているとはいえ人が多く、乗り込んだ電車は密着なんてほどではないけど隣との間隔が狭かった。
「そういえば、アンタ巴と天祥院に会ったんだって?」
『はい』
「だいぶ困ってたみたいだったけど、あれどういう状況だったんだ?」
『職員室の帰りに巴さんとお会いして、少し話してから授業に向かおうとしたら天祥院さんと青葉さんにお会いしたって感じですね』
「トラブルメーカーだねぇ」
「いつも通りだな!」
雑談しているうちに駅について、人の流れに乗って降りる。駅を出れば広場で、朝から何かイベントでもやるのか騒がしい。
「あーもうこんな季節なんだねぇ」
泉さんが苦虫を潰したような表情で息を吐く。隣の月永さんもあーなんて言葉を溢してるから首を傾げた。
『なにかやるんですか?』
「…毎年恒例新入生歓迎会」
『え…そんな行事ありましたっけ?』
「正式行事じゃないし、区分はB1だからねぇ」
「強制じゃないから別に無理に出る必要はないぞ!」
『そうなんですか…お二人は出られたんですか?』
「まぁ、一応」
「俺とセナともう一人で出たぞ!」
『ユニット単位なんですか?』
「個人でも問題ないよ。ただユニットならその分目立つし名も売れるから今後のためにってねぇ」
そんなものなのかと聞いてるうちに校舎が見えてくる。ぐるりと校舎を囲う少し高めの塀に沿って歩いていけば同じ制服を着た学生が増えてきてた。
「流石に2日連続で出席はしてないだろうけど、巴と天祥院には気をつけなよ」
『はい』
2日連続が珍しいなんて本当にレアキャラの扱いなんだろう。昨日のあれはおそらく奇跡の部類で、だからこそ月永さんも斎宮さんもあんなに驚いてたのか
「なにかあったら連絡な!」
『わかりました』
頷けば腕をパシパシと叩かれる。少し腰を落とせば頭が撫でられた。
「じゃ!今日も一日頑張れ!」
「気は抜かないこと」
『はい』
二人を見送って教室に向かう。昨日よりも人の多い廊下はもちろん視線が集まりやすくて居心地が悪い。気持ち早めに動く足のおかげで教室は目と鼻の先だった。
「やぁ!おはよう!」
見間違いかと思ったけどやっぱり駄目だったらしい。錦糸をゆらして微笑んだその人に表情が固まりそうになる。
『お、はようございます、巴さん』
「うんうん!僕のことちゃんと覚えてくれてたんだね、よかった!」
『人を覚えるのは得意なので…』
「そうかいそうかい!」
明るく話すその人に視線が今まで以上に集まる。どんどん息苦しくなっていく空間に思考か止まりそうで、呼吸を意識した。
はやく、誰かに、
『巴さん、こんなところでお会いするとは思ってなかったです』
「僕が学校にいることはおかしなことかい??」
『そういうことでは…ここ、一年の階なので二年の巴さんがいらっしゃるのは不思議だなと。誰かに用事でもあったんですか?』
引きつりそうになる笑顔を違和感がないよう心がけて問い掛けてれば目を丸くした巴さんが嬉しそうに笑う。
「面白いことを言うね!僕は人に用があることなんて滅多にないよ。今日のここにいたのは君のためさ」
『そうだったんですか。お待たせしてしまってすみません、ご用件は…』
「僕と新入生歓迎会に出よう!」
手を広げて笑うその人からふわりと甘い香りがした。誘惑するわけでも威嚇するわけでもないそれは無意識下で放たれたものだろう。
言われた意味を理解するのに一度固まった俺は言葉を反芻する。新入生歓迎会とは、さっき泉さんと月永さんが言ってたあれか
「うんうん、まだ新入生歓迎会のことは知らないよね!これは悪い日和!」
俺が固まったのを誤認した巴さんは軽い様子で謝罪をして口を開く
「今日のHRで詳しい案内があると思うけど、毎年この時期になると新入生歓迎会と称してB1をするんだ。参加人数は一人から五人まで。参加資格は新入生。何をするも自由だけれどライブをすることが多いかな」
『………参加資格が新入生なら、巴さんはどうして僕に一緒に参加をしようと?』
「ここからがミソでね、グループ…まぁ学園風に言うのならユニット内に新入生が一人でもいれば在校生の参加も認められているんだ」
『なるほど』
「面白いだろう?これは自由参加だし、受付締切は来週末になるだろうから今すぐに答えはいらないけど、」
不意に言葉を切った巴さんの手が伸びて、俺の髪に触れる。慣れない感覚に足を引きそうになったけど紫石が見据えているから動けなかった。
「僕は君にも劣らない…いいや、君を超えるよ」
『、』
まっすぐ見え据えられてたのは時間にして数秒。一分にも満たないはずだ。それでも心臓が止まったみたいに苦しいし、息ができなかった。ふっと離れた手に小さく息をすれば器官が鳴ってしまいそうで、不自然ならないよう首元を緩めた。
『それは、どういう―…』
「意味は君が一番わかってるはずだよ?」
にっこりと笑った表情に周りが騒ぎ立ててる気がする。そんな喧騒さえ遠のいて聞こえる頭に不味い気がして、ポケットに手を入れた。俺の行動に気づいていないわけではないだろうけど見咎めない巴さんは足を一歩引く。
「君は特別らしいから、きっと他からも声がかかるんじゃないかな?けれど、そこに選ぶ余地はないだろう?」
『………―考え、ときます』
「良い返事を待っているよ!」
最後に俺の肩をたたいて微笑んだ巴さんが離れていく。三年の教室は一階なのに階段を上がっていったからきっと授業に出る気はないんだろう。
巴さんがいなくなったことでさらに集中する視線にこらえ切れず、足を動かす。混乱する頭でとにかく歩いて教室を素通りし、人目を避けるように階段を下がった。
どこに向かえばいいのかわからず歩いて、視界に入った教室に鍵を差し込む。すんなりと解けた鍵。開けた扉から体を滑り込ませて鍵をかけ、その場に座りこんだ。
『は、っはひゅっ』
限界を迎えたようで息がおかしい。胸元を抑えて秒数を数えながら息をする。掃除がされてるのか埃っぽくはないけど篭った臭いと消毒液の臭いがする部屋の空気に息は楽にならなくて、頭が真っ白になりそうだ。
手探りで取り出した携帯のロックを外さずとも通話できるように設定してる番号に発信する。
「…どうしたの?」
『ひゅ、ひゅっ』
「どこにいるか言える?」
『はっ、ほけ、しつっ』
「今すぐ行くからちょっとだけ待ってて」
「おい!瀬名、もう始まるぞ!」
電話は切らないでおいてくれるのか向こう側で泉さんの行動を咎めるような声が聞こえてる。それを泉さんは無視したのか、ざわめきのあとに足音が響き出した。
「しろくん、ゆっくり息をして」
『は、ふぅひゅ』
「そう、吸って、吐いて」
『ひゅ、ひゅ…はっ』
「いいこだね。もうつくから」
電話と扉越し、廊下に響き始めた駆ける足音に震える手で鍵をあければ僅差で扉が開いて、泉さんが俺の目を塞いだ。
「大丈夫、大丈夫」
『げほっ』
「うん、息をしようね」
『ひゅ、ふ…』
「いいこ、いいこ」
抱きしめられてるのか暖かい。心許なくて縋るように泉さんの服を握り息をする。さっきまでの臭いは泉さんにかき消されて、力が抜けた。
『はー…』
「上手」
凭れる俺の背を撫でる泉さんの声が近い。チャイムが鳴り響いたことに、今日も満足に授業に出られなかったと考えられるくらいには思考が戻ってきて、ゆっくり目をあければ微笑まれた。
『も…だい、じょうぶ、です』
「うん、そうだねぇ」
髪が撫でられて頬がなぞられる。たぶん、俺の目を覗き込んでた。
「なにに悩んでるの?お兄ちゃんに言ってみな?」
『………―新入生歓迎会…のことなんですけど…』
「うん」
『…それで、一緒に出ないかって、声をかけられて…』
「ふぅん、そう」
ぽんぽんと頭を撫でながら優しい声が先を促すから、苦しさを覚えずに言葉が出せる。
『その時、人の目が集まって…苦しくて…』
目を閉じて泉さんの胸元に頭をのせれば泉さんの鼓動が聞こえた。
「まだ、怖い?」
『…―はい』
「そっか」
遠くなり始めた意識に泉さんが笑った気がした。ぽんぽんとそのまま頭を撫でられて、もう一度鳴ったチャイムに瞼を上げる。
『いず、みさん…俺、授業…でます』
「ん、いいこだね」
目元に唇が触れたあと、手をおろす。俺も体を起こせば目が細められた。
「それじゃ、行こうか」
『はい…泉さん、ありがとうございました』
「どーいたしまして」
手を取られて立ち上がれば少し息が苦しくて、ため息ではないけど息を吐けば背を撫でられた。
「大丈夫なの?」
『はい、大丈夫です』
「そ。駄目ならいつでも連絡しなよね」
『ありがとうございます』
扉を開ける。一瞬、踏み出すのに躊躇っていれば背中が押されて右足を廊下を踏んだ。
「後ろ、支えてるから早くしなよ」
左足も右足の横によせて、同じように出てきて扉を閉めた泉さんを見上げた。
『…ありがとうございます』
「別にぃ」
顔を背けた泉さんに笑えば先に歩き始めてしまったから後ろから慌てて追いかける。ほとんど駆け足で教室に滑り込めば同時にチャイムがなった。
.