あんスタ(過去編)


【紅紫一年・晩秋】


僕がそれに気づいたのは偶然に偶然が重なった結果で、たぶん奇跡にも近い確率だった。

たまたま一日ちゃんと授業に出て、ジャージを持ってたから体育にも出席して、じゃんけんに負けてしまったから用具の片付けを任された。

その日の体育は急遽体育の先生が休みになった関係で本来予定していた野球ではなくて比較的用具もルールも少ないサッカーにだった。

使ったボールを用具室に押し込んで扉を締めたところで裏手、普段なら人も近寄らないようなそこから複数の人が話す声が聞こえる。

言い争うとまでは言わないけど、あまり穏やかではない声色になんとなく足を進めた。

「ふざけんなよ!」

そこにいたのは声を荒らげる三年生数人で、囲まれるようにして誰かが立っているらしい。何も返さないでいるその子にぎゃんぎゃんと汚い言葉を投げつけたそれのうちの一人がそこに置いてたバケツを勢い良く振った。

ぱっと取り囲んでた人たちはそれを避ける。ばしゃりとよく耳にする水の音が響いた。

濡れ鼠になってしまったその子は頭から水を垂らしていて、ゆっくりと顔を上げると微笑む。

『…―今日は、もういいですか?』

澄んだ赤色の瞳はとても冷えていて、見据えられているのは僕じゃないのに心臓が掴まれたような錯覚がした。

案の定、見据えられた本人たちは一瞬肩を震わせてから舌打ちを響かせる。

「っ、あんまちょーしこいてんじゃねぇぞ!」

「次邪魔したらただじゃおかねぇ!」

凄んだつもりなんだろうけど全く意に介しない表情の彼に、悪態をついて遠ざかっていくその人たちのほうが気圧されてたように見えた。

三人が消えたのを見てため息を吐いたその子は濡れて張り付いた前髪を上げ、その拍子にばちりと音でも立ちそうなくらいしっかりと目があってしまう。

「『かぜ』ひいちゃいますよ?」

なんとなく声をかけて近寄り、持ってたタオルで頬を撫でる。驚いたように目を丸くしたあと細めるともう一度、静かに息を吐いた。

『お見苦しいものを見せてしまってすみません』

「『ぬすみみ』してたのはぼくですから『きにしない』でください」

ぽんぽんと肌を撫でても髪の方から垂れてくる水で濡れてしまうから纏めるように拭う。迷ったように視線を左右に振ったあと伸びてきた手がタオルを受け取った。

『お手数をおかけしました』

慣れた手つきで髪を拭う彼に今度は僕が目を細める。

「……―『あれ』は、よく『ある』んですか?」

『………そんなに頻繁ではないですよ』

微妙な間。返ってきた言葉は信憑性にかけるけどそれ以上なんて言ったらいいのかわからない。

「…『もしも』こまったら、ぼくじゃなくてもいいので『かならず』だれかに『そうだん』してくださいね」

唇を一瞬噛んだ彼はいつものように微笑む。

『もしそのときになったら、頼らせていただくかもしれません』

「…―はい、いつでも『まってます』よ」

タオルで水分がある程度なくなった毛先に触れると柔らかくて、一緒に触れた頬は少し冷たい。

「『かぜ』をひかないようきをつけてください。『きがえ』はあるんですか?」

『部室に用意がありますので、そんな気になさらないでください』

「……きみはすこし、ひとに『しんぱい』されてることを『じかく』したほうがいいです。みていて『あぶなっかしい』」

『…ええ、気をつけます』

あまり意味のわかってないようなその表情と声に不安を覚えないわけではないけど、ぽっと出の僕が言ったところできっと、僕の気持ちの三割だって伝わらない。

歯痒さを感じるのはたぶん、僕が自覚している以上に彼は大きな存在だからなんだろう。

「…はい、きをつけてください」

ちょっとでも、ほんのすこしでもいいから僕の気持ちが伝われと願いを込め、タオルを顔にかけてその上から唇を寄せた。



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