ブルーロック



凛と冴は俺が引っ越してくるまでは二人で仲良しの兄弟だったらしい。

うまれてまだ1000日くらいのぽやぽやふわふわな凛と、唯我独尊の名をほしいままにしてるのに弟だけはしっかりと守る冴。

凛は誰に対してもにこにこしていて出会う人間のすべての視線を奪って。冴も同じ造形の顔立ちをしているけど小さな頃から他者への興味が薄く、何をされてもふいっと顔を背けてしまうか真顔かのどちらかだったそうだ。糸師ご両親いわく、ここまで正反対だとお互いのパラメータを半分こではなく0と100で分けたのかなとにこやかに笑っていた。

誰にでも愛想がよい凛と警戒心と外への関心が薄い冴。そんな二人が俺と顔を合わせたのは引っ越してきたその日の夕方だった。

「ごめんね、睡」

『ん、へいき。あとはやっておくからゆっくり休んで』

真っ赤な顔にごほごほと咳を溢して、呻くように頷いた母さんに扉を静かに閉める。

住んでいた地を離れて見知らぬ土地へ引っ越してきた俺達親子だったけど、荷物を運び入れた瞬間に母さんはふらふらと倒れ込んでしまった。

離婚、転職、引っ越し。それから俺の転校手続き。市役所への書類提出などもあっただろうからやることが多すぎてパンクしてしまったのかもしれない。

俺とは違い、母さんは体も弱くないし職業柄体調管理をしっかりしているから今回のこれはきっといろいろ重なった結果で、二、三年に一度の大きな症状に寝ていれば治るからと部屋にこもった。

母さんは本当に丸一日ほど、食事と睡眠を取るだけで熱も下がるし咳も収まるから俺がこの間にやっておくのは自分の食事の用意くらいだ。

普段であれば多少存在している食材は引っ越ししたてのために冷蔵庫の中身も棚の中身もすっからかんで、手始めにと鍵やお金、それから携帯を入れたポーチを持って外に出た。

近所の地理を把握しておくことは大切だろう。

住宅街だから周りはウチと同じような家が建ち並んでいて、そういえば挨拶回りはしなくていいのかと考えて、一旦家に戻る。

荷造りして前の家から持ってきたものとは別の、母さんが買って別に用意してあった紙袋を持って外に出た。

手始めに隣の家のインターホンを押す。響いた音が空気に溶けて、少し待ってみても音がしないから次に向かう。

母さんがご近所付き合いは大切だからと大量に用意した挨拶の品は九個。うちを基点に両サイド二軒分と、通りを挟んで向かいの家たち五軒分らしい。

隣の家は人がいて、休日だったらしい私服の男性が出たから挨拶をして後にする。通りを挟んで向かいの家に行って、こちらも端から押していけば二つ出た。最後、向かいの通り五軒目の家のインターホンを押す。こちらからもはーい!と元気の良い声が聞こえた。

『はじめまして、近所にひっこしてきた詞詠です。ごあいさつにうかがいました』

「あらあら、ご丁寧にありがとうございます!ちょっとまってくださいねー!」

ぴっとモニターの消える音がして、すぐに扉が開く。向こうから現れたのは母と同い年くらいの女性で、ぱちぱちと目を瞬くと俺に近寄った。

「詞詠さん?」

『はい。詞詠です。僕は息子の詞詠 睡で、母と一緒にひっこしてきました。こちらはごあいさつの品です。よかったら使ってください』

「本当にありがとう…?えっと…お母さまは?」

『少し体調をくずしていて、風邪をうつしてしまわないよう家にいます。またあらためてごあいさつに伺いに参ります』

「ご体調を?それはたいへん。病院はかかったの?」

『はい。たぶん明日には治ってるとおもいます』

実際は看護師の知識でただの疲れからくる熱と風邪だからと家にこもっているだけなのだけど、それを体調不良と聞いただけで不安そうにしたとても人の良さそうなこの人に伝えたら、そのまま家に来そうな気がしたから嘘を吐く。

少し不安そうながらもそれなら安心ねと微笑んで、それから俺を見つめてふふと声を転がした。

「詞詠くん、小さいのにしっかりしていてすごいわね」

『ありがとうございます』

「うちの冴ちゃんとそんなに歳変わらなそうなのに、とってもしっかりしてる。詞詠くんは今いくつなのかしら?」

『6歳です。来年小学校に入ります』

「あら、じゃあ冴ちゃんの一つお兄さんね!あのね、うちには冴ちゃんと凛ちゃんって息子が二人いて、冴ちゃんは貴方の一つ年下なの。今は二人とも遊びに行っちゃっていないけど今度はこちらからご挨拶に伺うから、もしよかったら仲良くしてあげてちょうだいね?」

『はい。こちらこそよろしくお願いします』

うふふと嬉しそうなその人は冴ちゃんと凛ちゃんにお友達が増えるかもと微笑んでいて、赤とピンクを混ぜたような髪色と似た色に頬を染めてるからなんだかとても幼く見える。

「あ、そうだわ!ちょっと待っててね!」

ぱたぱたと軽やかに足音を立てて一度家の中に入っていく。待っていてねと言われた手前、帰るわけにもいかずじっと待っていれば数十秒とかからずにその人はなにかを持って戻ってきた。

「詞詠くん、ご挨拶に来てくださってありがとう。いただきもののゼリーなの。開封は一切してないからよかったらお母様と召し上がってくださいね」

『え、』

渡された紙袋がずっしりと重たくて目を瞬く。開封してないの言葉の通りなら紙袋の中身の箱は重さ的に六、七個はゼリーが入ってるはずだ。

『あの、えっと』

「うふふ。改めまして、私は糸師です。ご近所さん同士。これからもよろしくね。詞詠さん」

『…ありがとう、ございます』

返そうにも自身の両手を繋いで微笑まれては渡しようがない。諦めて頭を下げてお礼を口にすれば糸師さんはなにか言おうとして、同時に電子音が響き始めた。

家の中から聞こえてくるそれに糸師さんがはっとして、冴ちゃんかしら?と首を傾げる。

一歩足を引いて顔を上げた。

『お時間くださりありがとうございました。母といただきます』

「いえいえ。お母様におだいじにとお伝えくださいね」

『はい。ありがとうございます』

もう一度頭を下げて玄関から離れる。最後まで左右に手を振ってくれた糸師さんが扉を閉じたところで急いで家に戻る。

いただいたゼリーは冷蔵庫に。留守だった家に渡すためのカードを書いて、さっき留守だった家に粗品を入れて回りきれてなかった隣の家二軒も挨拶をした。

ようやくなくなった挨拶品にあらためてポーチをしっかり持って歩き出す。

迷子にならないように道を確認しながら進んで、母さんが言っていたスーパーにたどり着く。時間を見れば家から二十分と少しかかっていて、周りを見ながら歩いていたからか予定より時間が経ってた。

かごを持って、必要なものを取っていく。

たまごと、うどんと、ねぎ。母さんが風邪のときの食事はいつも煮込みうどんで、最後に味噌と醤油、白だしも入れるとかごはかなり重たい。

一人で持って帰れるか若干不安な重さのかごをレジに持っていって、土曜日の夕方より少し早いタイミングのレジは空いていたからすぐに通された。

ぴっぴっと音を立てて一つずつ左から右のかごに移されていく商品。眺めていればレジをしてくれている年配の女性はお姉ちゃんと口を開いた。

「一人でおつかい?」

『はい』

「えらいねぇ。こんなに重たいのたくさんあるけど大丈夫?」

『がんばってもってかえります』

「怪我しないようにね?あ、バッグあるなら詰めてあげるから貸してごらん」

『すみません。ありがとうございます』

気さくな女性は差し出したエコバッグにささっと崩れないよう手際良く荷物を詰めてくれて、はいと差し出された。

「わ、結構重たいわね。本当に気をつけて帰るのよ、お姉ちゃん」

『はい。親切にしてくださりありがとうございました』

「いーのいーの。また来てねー」

ひらひらと手を振ったその人にお辞儀をして、バッグを受け取る。ずっしりとした重みにやっぱり個別にして買えばよかったかなと思いつつスーパーを出た。

先程来たのと同じ道を確認しながら進んでいく。家を出たのは昼を一、二時間過ぎたくらいでまだ明るい時間帯だったけど、挨拶回りや買い物をしていればすっかり陽は傾き始めてる。表示を確認した携帯には特に連絡は来てないから母さんはまだ寝てるんだろう。

走ることは出来ないから行き道よりも少し早足で歩く。比較的平坦な道ではあるけど十分も歩くと息が上がってしまって、心臓が痛かった。

朝からあちこち移動して、荷物を持っているのもそうだけど、早足で帰ろうとするのはちょっとやりすぎだったかもしれない。

くらくらしてきて、これはまずいかもと壁際に寄ろうとして、膝から力が抜ける感覚にふらついたところでぐっと腕が引っ張られた。

「……………」

『はっ、かはっ』

じっと俺を見おろす透き通った緑っぽい水色。どことなく不機嫌にも見える眉間の皺に何か言おうとして、噎せた。

「ねぇちゃ、だいじょう?」

小さくて柔らかい、舌っ足らずな声が少し離れたところから聞こえて、心配してくれてる言葉の主を探そうとにもばくばく言ってる心臓と整わない呼吸。ちかちかしてる視界に体の自由が聞かなかった。

かひゅっと空気が器官を抜ける嫌な音がしてる。

荷物の重みに痺れてる左手にだけ力を込めて、落とさないように気をつける。冷や汗が出てきたところでなにか聞こえて、ばしゃりと冷たいものが降ってきた。

切り損ねていつもよりも長い髪の毛からぼたぼたと水が垂れてく。真っ白になった頭の中に熱くて仕方のなかった体からすっと熱が引いていく感覚がして、呼吸が落ち着いたところで顔を上げた。

「落ち着いたか」

『、はい。ありが、と…ござ、ます』

目を合わせれば片眉が不服そうに上がってさらに眉根が寄る。

「飲め」

『あ、え』

押し付けられたボトルを受け取って、キャップの開けられてたそれと目の前のその子を見比べる。相変わらずじっと、強くまっすぐな瞳で見つめられてて梃子でも動かなそうなその様子に諦めて口をつける。

するりと体に染みるように入っていく液体は冷えてはいないだろうに体の中を通れば冷たい。

ボトルの中身を減らして口を離せばやっぱりまだ眉根を寄せられてた。俺と同じくらいの位置にある水色をぼんやりと眺めていれば彼は俺からボトルを受け取ってキャップを締め、鞄にしまった代わりに布を取り出して俺の頭に被せた。

「拭け。風邪ひく」

『え、はい…?』

「…ちっ」

返事をしたのに何故か舌打ちをこぼして、何かをつぶやくと両手を上げて俺の頭を挟むようにタオルで髪を拭う。垂れていた水気が吸われていく感覚。人に頭を拭かれるなんても初めての経験に手のひらと目にぎゅっと力を入れて耐える。

「ん、終わり」

『ありがとう、ございます…』

はらりと頭から外されたタオルは首元にかけられた。

向かいのその子は少しだけ眉間の皺を薄めてさっきよりも空気が穏やかになったように思う。

「にぃちゃ!」

可愛らしい声。くいくいと服を引かれたことに視線を落としたその子は横に立ってる小さな子供を見つめて首を傾げた。

「どうした?」

「くしゅなる!おうちよ!」

「そうだな、凛。着替えないと風邪ひく」

「ん!」

言いたいことが伝わったことにかぱぁっと表情を明るくして大きく頷いたその子はもう一人と同じように水色の瞳をしてる。髪色はつやつやとした黒色だったけど、美しく整ってる顔の造形とよく似た目元からして血縁なんだろう。

「行くぞ」

『え』

「家どっち」

『あ、あっちです…』

「ふーん。帰るぞ、凛」

「う!」

大きく頷けばさらりと髪が靡く。小さなその子は片手を男の子とつなぐと反対の左手を俺に差し出した。

「ねちゃ!おてて!」

『え』

「りちゃとね、おててぎゅーよ!」

はやくはやくと小さくて白い手を広げて見せてくる。きらきらとしてる丸い瞳とふわりとしたほっぺたにを泳がせて、手をすでに繋いでる男の子はぐっと眉根を寄せた。

「凛と手つなげ」

『でも、』

「ねちゃ、りちゃとぎゅーや??」

うるっとした瞳に慌てて手を伸ばして、力を入れずきないように気をつけながら小さくて柔らかい手を握った。途端にぱぁっと花が咲くように表情を綻ばせたその子は隣を見上げた。

「にぃちゃ!ねえちゃとおててぎゅよ!」

「ん、なら帰る」

「おうち!まま!」

「ああ」

二人が歩き出せば、きゅっと掴まれてる手に俺もつられるように進む。

なにが楽しいのか、きゃらきゃらと笑いながら歩く真ん中の子と、その向こう側で無表情の男の子。

『あ、あの、どこに向かってるんですか?』

「家」

『え、誰の…』

「お前の。あっちなんだろ」

『あっちですけど、えっと、ひとりで大丈夫です』

「さっきまで死にかけてたやつの言葉とは思えねーな」

呆れたみたいに目を細めた息を吐かれれば図星で何も言えなくなる。

だいぶマシになったとはいえ一度つきかけた体力は休んでもいないのに回復することはなくて、買い物袋を持ったままの左手の痛みに眉根を寄せた。

「住所は」

『すみません、引っ越してきたばかりでまだ覚えてなくて…』

「なら方向転換するからこまめに教えろ。…あと、」

伸びてきた手がまたたきより早く俺の左手からそれを奪う。

重みを支えるために傾いてたのか、急になくなった袋に体がふらついて、驚いてそちらを見ればやっぱり彼はまだ眉根を寄せてた。

「この重さでふらついてたのか」

『あ、あの、』

「俺が持つ。お前は道案内と凛と手を繋ぐことに専念しろ」

『いや、けど』

「早く歩け」

男の子は俺と同じくらいの身長なのに買い物袋を難なく持っていて、有無を言わせない口調に隣を見る。

間に挟まれて嬉しそうに歩いてるその子は跳ねるように歩いていて、手を繋いでなければ走り出してしまいそうなくらいに羨ましいほど元気だ。視線に気づいたのかぱっと顔を上げたその子はにぱっと笑う。

「ねちゃ!」

『あ、はい』

「りんよ!」

『えっと、凛ちゃん?』

「う!」

自己紹介をしてくれたらしいその子に自然と口元が緩む。

『お名前教えてくれてありがとう。凛ちゃんいくつ?』

「凛は二歳だ」

「にぃ!」

『そっかぁ。凛ちゃんはお兄ちゃんとお出かけしてたのかな?』

「にぃちゃボールぽんなのっ!」

『ボール…?』

「う!」

きらきらの目で大きく頷くその子に目を瞬く。凛ちゃんは二歳の割には意志の疎通が図れるタイプらしく、元気に話してくれて、ボールの単語に首を傾げた。

『野球?』

「や!」

『えーっと、じゃあサッカーかな?』

「ぽん!」

「合ってる。サッカーだ」

「ぽんなるの!!」

『そっかぁ』

にこにこの凛ちゃんと少し表情筋が仕事を放棄してるらしいお兄さん。凛ちゃんがたくさん話してくれるおかげで気まずい沈黙が流れることはなくて、大きめの分かれ道に彼はこちらを見た。

「どっち」

『えっと、たぶん右…』

「…お前、いつ越してきたんだ」

『今日です』

「目印になるもんとか、近所の人間の名前とかわかるもんねぇのか」

若干困ったように歪んだ表情に記憶を探る。朝見た家の色。それから周りにあったのは同じような一戸建ての家。大きな看板や店も特になかった気がする。

『家の壁がは灰色で、えっと、周りもおんなじような家が…家の人は……あ、』

「あ?」

『道路挟んで向かいの、五軒くらい隣に…たしか、いとし?さんて方が住んでいらっしゃって、お子さんにご兄弟がいるって』

「………」

すっと目を細めて男の子に視線を泳がせる。

『あ、えっと、さっきあいさつにお伺いしただけで一回しか話せてないからお名前間違えてるかも、すみません』

「…いや。大体どのへんかわかった。安心しろ」

間違っていなかったらしく詰まってた息を吐く。男の子はこっちだと大きな分かれ道を左に進んだ。

早速間違っていたらしい道順に肩を落とす。情けない限りだ。

「ねちゃ!」

『ん?なぁに、凛ちゃん』

「くしゅない??」

『く…?あ、えっと、大丈夫。凛ちゃんのお兄さんがタオル貸してくれたから寒くないよ』

「わ!にちゃしゅごい!」

『ん、そうだねぇ』

きゃっきゃっと笑う凛ちゃんに男の子はふんすと満足気に鼻を鳴らす。妹に対しては柔らかく、豊かになるらしい表情に、とても仲のいい兄妹なんだろうなと微笑ましくなる。

そういえばきちんと礼を伝えられてなかったなと思って、この際だからと口を開いた。

『凛ちゃんのお兄さんはすごいね。助けてくれた上にタオルも貸してくれたし、荷物も持ってくれて道案内までしてくれてる。引っ越したばかりで知らない人しかいないから、こんなに優しい人がいてすごく助かっちゃった』

「にぃちゃしゅごいの!!」

『うん』

言葉の意味はどこまで理解できてるのかわからないけど、自身の兄が褒められたことだけは正しく伝わったらしい。にぃちゃしゅごいとぴょんぴょん跳ねてる凛ちゃんに頷いて、視線を感じて目線を上げればふいっと顔を逸らされた。

「あっちだ」

『あ、はい』

「にちゃしゅごいねー!」

「…ん」

三人で、俺に気遣ってかそれとも凛ちゃんを気にしてか、ゆっくりと道を進んで。見覚えのある通りに差し掛かったところで凛がぱぁっと笑った。

「りちゃ、おうち!」

『凛ちゃんのお家もこの辺なの?』

「う!ねちゃは?」

『うん。もうすぐそこ。あの、』

「凛、母さん呼んでこい」

「あい!!」

足を止めた男の子は手を離す。俺も凛ちゃんの手を離して、そうすれば凛ちゃんはすぐ目の前にある門の中に入っていく。見覚えのある表札と外装にえ、と、声が漏れた。

『ここ、?』

「糸師冴だ」

聞こえた声に顔を上げる。じっと俺を見てる水色の瞳。すっかりと暮れはじめた陽に照らされた髪は、たしか赤とピンクを混ぜたような色をしていて、ここでゼリーを持たせてくれた女性とよく似ていた。

慌てて頭を下げる。

『本当にありがとうございました。糸師さん』

「冴」

『さ、冴くん?』

「冴」

単語で伝えられる固有名詞と不機嫌そうに寄った眉根に口を開く。

『あ、ありがとうございます。…冴…?』

「………敬語もいらねぇ」

少しだけ上がった口角と下がった目尻。満足そうに緩んだ表情に可愛いところがあるなと目を瞬いて、がちゃりと扉の開く音に視線を向けた。

「あら!凛ちゃんが呼んでるからどうしたのかと思ったら冴ちゃんもうご挨拶したのね??」

「した」

「ねちゃ!くしゅなる!」

「ほんと、髪が濡れてるわ?どうしたの?」

『あ、えっと、手違いで水を被ってしまって』

「手違い…??」

ぱちぱちと大きな瞳を丸くして首を傾げる。糸師さんは自分の息子を見て、持っている物に目を瞬いた。

「冴ちゃん、それは…?」

「こいつの。道で死にそうになってたから拾って持って帰ってきた」

「え??」

『その、お恥ずかしながら買い物帰りに体力が尽きかけていたところ冴くんに、』

「冴」

『…冴に助けていただき、道案内してくださったんです。荷物はその時に代わりに持ってくれました』

「あら、冴ちゃんが??珍しいわね?」

きょとんとした糸師さんに、冴は俺の腕を取って引っ張った。急に力を込められてふらついて、支えるように服が掴まれた。

「拾ったから俺のモン。な、凛」

「う!」

『!?』

「あらまぁ」

固まる俺に楽しそうに笑う糸師さん。満足そうな冴と楽しそうな凛ちゃんに頭の中が真っ白になって、ポーチの中から音楽が響き始めた。

『あ、』

「電話…もしかしてお母さんじゃない?」

『かもしれません。ちょっと失礼します』

ポーチから携帯を取り出して、画面を見れば案の定母さんの文字が並んでる。短く操作して耳にあてた。

『もしもし?』

「睡、どこ…いるの?」

『あー、まだ外。ごめん』

「そと…?大丈夫…?」

『うん。買い物帰りだから、えっともう2分もかからないよ。すぐ帰るね』

「ごめ、ね」

『へいき』

ガラガラの小さな声に通話を終えて携帯をしまう。眉尻を下げた糸師さんがこてりと首を傾げた。

「お母さんのご体調は…」

『だいぶ良くなったみたいです。夜ご飯食べて寝たらもう大丈夫かと』

「夜ご飯…?もしかしてそのお買い物袋…」

『はい。今日の夜ご飯です』

「そうだったのね。お手伝いしましょうか?」

『お気遣いありがとうございます。簡単なものですませるので大丈夫だと思います』

「ねちゃ?だいじょう?」

『うん。大丈夫。心配してくれてありがとうね』

二人に笑いかけて、それから買い物袋を受け取るために近くにある顔を見た。

『えっと、』

「送る」

「そうね。冴ちゃん見送ってあげてちょうだい」

「りちゃも!」

「ふふ。じゃあ二人で仲良く行って帰ってくるのよ」

「う!」

「ん」

さっきと同じように右手が凛ちゃんに繋がれて、凛ちゃんの右手は冴に繋がれる。

糸師さんに見送られて歩きだして、家を五軒分の距離をゆっくり進んで、まだ違和感のある我が家にたどり着いた。

「ここか?」

『はい。ここです。ありがとうございます』

「ねちゃおうち?」

『うん、そうだよ』

凛ちゃんと繋いでる手を解いて、さらさらとした髪を撫でてから離れる。

『冴、本当にありがとうございました』

「一人で動くな。どこか行く前に家に来い」

『それはさすがに申し訳ないので大丈夫です…』

「道が覚えられるまではすくなくとも出歩くな。今日みたいに野垂れ死ぬぞ」

『今日のがたまたまだっただけです…』

「お前体力ねーだろ」

『、』

「筋肉もほとんどついてねーし、日焼けもしてない。体が追いつかねぇのにムリしたら倒れるに決まってる。そんなんでふらふらしてたら攫われるぞ」

『それは…』

思っていたよりもよく見られてたらしい。続きの言葉が出てこない俺に冴はふんっと鼻を鳴らして、凛ちゃんがきょろきょろと俺と兄の顔を見比べて目を瞬いた。

「にちゃ、ねちゃわるい、メよ!」

「いじわるはしてねぇ。凛と同じで一人で外に出たら危ないって教えてた」

「ねちゃ!りちゃいっしょ、あうない!!」

メッと小さな手の人差し指を立てて×を作った凛ちゃんに苦笑いを返す。

すでに六歳なのに、俺は二歳の妹と同じ扱いをされてるらしい。

手を伸ばしてもう一度凛ちゃんの髪をなでて、それから冴が持ってくれていた袋を受け取った。

『毎回は申し訳ないから、たまに頼らせてもらってもいいですか?』

「毎回」

『たまにで』

「毎回だ。な、凛」

「あい!」

よく分かってないだろうに、問いかけられれば全肯定と体を使って表情を浮かべる凛ちゃんに冴は目を細めた。

「わかったな」

『うーん…』

「ねちゃ!」

くいっと服を掴まれた感覚に視線を向ける。くらくりとした大きな瞳が輝いてた。

「おなまえ!」

『ああ。そういえば…睡だよ。凛ちゃん。よろしくね』

「うぃちゃ!」

『んはは、惜しいなぁ』

まだ難しかったのかもしれない。音はあっていたから頭をなでてあげる。再度うぃちゃと少し足りない音で名前を呼ばれて笑っていれば、すっと影が揺れて伸びてきてた手が俺の肩にかけたままだったタオルに触れてた。

「睡」

正しく紡がれた俺の名前に視線を向ける。まっすぐと俺を見ている水色はとても強くて、何か言うよりも早く口が塞がれ、出そうとしてた言葉は物理的に留められた。

固まる俺にすぐに冴は離れて、じっと俺を見たあとに一つ、頷く。隣にいる凛ちゃんを抱えた。

「凛」

「うぃちゃ!うぃちゃ!!」

ずっと繋いでた小さくて白い手のひらが伸びて俺の頬に触れ、ぺたりとした感触のあとに先ほどと同じように口が塞がれる。

何が起きてるのかわからず固まったままの俺に凛ちゃんはにぱぁっと笑った。

「うぃちゃ、おんみ!」

『おん…?』

「おやすみなさい、だ」

『ああ、なるほど…?』

「おんみ!」

『うん、おやすみなさい…?』

「おやすみ。しっかりと休めよ」

『あ、はい…』

ぽかんとしてる間に冴は凛ちゃんを抱っこしたまま歩きだしてしまって、その姿を見送る。

すっかりと姿が見えなくなっても固まってた俺に、ポーチの中の携帯が揺れたことで意識は戻ってきて、そのまま鍵をさして扉を開けた。

ちょうどよく寝室から降りていたらしい母さんと目が合う。つけてる白色のマスクと反対に赤らんだ顔にまだ熱は高そうだなと靴を脱いだ。

『ただいま。遅くなってごめん』

「、睡、どしたの…、顔真っ赤、熱?」

『あー、うーん、熱ではない…』

「大丈、夫?くるしいとこは?」

『ほんとに平気。すぐ作るね』

「え、うん…?」

二人でリビングへ。母さんはリビングに、俺はキッチンに向かおうとしたところで母さんはあれ?と首を傾げた。

「睡、そのタオルど、したの?」

『あ、』

肩を隠すように首元にかけられてるタオルはうちにはない色のもので、母さんが不思議に思うのも仕方ない。

すすいだ鍋に水をためて、火にかける。

『話すとちょっと長くなっちゃうんだけど平気?』

「うん」

『買い物の前にご近所さんにあいさつ回りに行ってね、向かいの家の五軒目に糸師さんって方が住んでるの。ごあいさつしたら同じくらいの息子さんがいるって言ってて、これからよろしくねってゼリーくださって、あ、ゼリーは冷蔵庫はいってる』

「、ゼリー??」

『うん。いただきものでたくさんあるからって。断るのも悪いからそのままいただいて、それで買い物行ったんだ』

少しずつ頭の中を整理しながら、手を動かすことは忘れない。食材は切って、沸いた水にだしやしょうゆを入れて、味噌も溶かす。

『色々買ったら遅くなったから急いで帰ろうとしてたらつかれちゃって、』

「、大丈夫?!」

大きな声が聞こえて思わず肩を揺らす。

顔を上げれば慌てたように立ち上がってる母さんがいたから首を横に振った。

『平気。ふらふらしてたらしくて近くにいた男の子が助けてくれた』

「ふらふらって…」

さっきまで赤かった顔が青白くなるから苦笑いを浮かべて目を逸らす。

『その時に男の子がタオル貸してくれて、それから道案内もしてくれたんだ。一緒に妹さんがいたんだけど二人とも俺に気ぃつかってくれてたくさん話しながら帰ってきたんだけど、そしたらその親切な子たちが糸師さん家の息子さんだった』

「……そう、なのね…」

安心と不安。いろいろ混ざった声を零して椅子に座ったらしい母さんにうどんを入れて火を強める。

『タオル返すのもそうなんだけど、助けてくれたり道案内したくれたりしたからお礼したいんだけど、何がいいかなぁ』

「ゼリーのお礼もしないと…」

『そうだね』

たまごを割って落とす。蓋をして、火を通してる間に深めの器を2つと箸を用意した。

「私、も糸師さんにご挨拶し、たいわ」

『うん。一緒に行こ。母さんの体調が良くないって話したら心配してたし、夜ご飯作るの手伝おうかってすごく気にしてくれた』

「うう…最初からご迷惑を…」

頭をおさえてる気配に火を止めて、器にうどんをよそる。麺、卵、ネギ、汁の順で器を満たして一つずつ運んでテーブルに置いた。

いただきますと手を合わせて挨拶をして箸を持つ。

『母さんいつからお仕事だっけ?』

「明後日から…明日、朝のうちにお礼…用意して、行くのがいいかな…」

ううんと唸りながらうどんをちまちまと啜る母さんに同じように麺を啜る。1玉を半分こしたうどんは、風邪ひきの母さんと俺が分けるとちょうどいい量になる。

母さんよりも少し遅れて食べ終わったうどんの器を重ねて、食事を終えたことでまた血色のよくなった赤らんだ顔で母さんは頷いた。

「よし、朝から買い物行ってくる」

『ん、ついてく』

「ええ、よろし、くね。睡」

『うん』

新しい水を冷蔵庫から取り出そうとした母さんがあ、と声をこぼして、そちらを見れば箱を取り出したところだった。

「これ?」

『ん、それ』

「お中元とかでいただく、立派なやつ…」

お高いやつだぁと身震いする母さんはお礼どうしましょうとそのまま震えていて、持ったままの箱をもらって封を開けた。

『おいしそう』

「睡が好きなの、ある、ね」

『うん。母さん、半分こする?』

「そうね…」

笑った母さんにカップを一つ取り出す。しっかりと閉じられてる封を切って、スプーンをさして掬った。

喉越しのいい周りと、その中に入ったごろりとした感触。ももの味のゼリーは今までに食べたことのないくらいももの味がしっかりしてて甘い。

『母さん、これすごくおいしい』

「よかった、ねぇ」

嬉しそうに頷く母さんに半分ほど減らしたカップを渡す。母さんも口に運んで、おいしいと目を輝かせて、二人であっという間に一つ食べきってしまった。

「歯、磨いて寝るんだよ」

『はーい』

最後の休息に向かう母さんを見送り、風呂に入って、着ていた洋服は洗濯物のかごに溜めようとして一旦手を止める。借りてたタオルがあるからそれと一緒にちょっと量が少ないけど洗剤と回す。

明日返すのなら早めに洗っておいたほうがいいに違いない。

母さんはお礼を用意すると言ってたけど俺もなにか合わせて用意するべきか考えようとして、ふと、思い出す。

『息子たちってことは凛ちゃん妹じゃなくて弟じゃん』

後で母さんに訂正しておかないと、糸師さんに挨拶に行った母さんが驚くかもしれない。

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