ヒロアカ 第一部
『なんでこんなことに…??』
「歯は磨いたか」
『あ、はい』
思わず溢した言葉に全く関連しない質問が飛んできて頷く。
あの時、保健室での就寝がもっとも正しい選択だった。周りも先生もそう考えてたはずで、目があった先生もちゃんと頷き、ゆったりと口を開いた。
「リカバリーガール、香山さん、二人とも帰ってくださって大丈夫です」
「え、緑谷くんはどうするの?」
「こいつは目が離せないんで、俺の部屋で寝かせます」
『…………は?』
目を瞬いて固まった俺に、担任と養護教諭も二回大きくはっきりとまばたきをすると顔を見合わせて、担任が笑った。
「ほんっとうに面白いわね!相澤くん!」
「喧しいですよ」
「あまり一人の生徒に肩入れしすぎるのはいかがなものかね…」
「それはオールマイトにも言ってもらえますか?」
オールマイトが肩入れしている生徒が誰かはわからないけど、心当たりがあったのか養護教諭は目を逸らす。
固まったままの俺に三人は話を進めてしまって、少し早めの晩飯と寝る支度、それから明日の準備を終わらせて教師が寝食するための寮にやってきた。
初めて訪れた寮は生徒寮と外見はさほど変わらない。入ってすぐ大きめのロビーがあり、右手に曲がって食堂。左手に進めば浴場で、エレベーターを使えば寮室らしい。
一階に二部屋と生徒寮よりも間取りが大きく取ってあるのか、部屋に入れば広い部屋に迎え入れられた。
「トイレはそこだ。布団はそれを使ってくれ」
『はあ。ありがとうございます』
誘導された部屋にはわかりやすくクリーニング済みと知らせるためか、袋に包まれ折り畳んだ状態の白色の敷ふとんと掛け布団が鎮座してる。
ぐるりと周りを確認する。教師の寮室は一人二部屋らしく、先生は右を仕事部屋、左を寝私室として使ってるらしい。
扉からまっすぐ進んだところにある仕事部屋には資料や電子機器が揃ってて、先生はそこに座って作業をしてるんだろう。近くのテーブルや床には必要な書類の関係か紙やファイル、教科書が雑多に積まれてる。
対して、その部屋から仕切りを超えたこちらの部屋は真ん中に俺用の布団を置くためか部屋の中心から退かしたらしい寝袋や洋服が積まれていて、振り返ると先生と目が合って逸らされた。
「休みの日に片付けるんだ」
『まだ何も言ってないです』
決まった時間だけ外に出る以外は暇な学生をしてる俺と、試験やらすぐ始まる新学期の準備やらで寝る間も惜しんでそうな教師じゃ部屋の荒れ具合が違うのは当たり前だろう。
『別にゴミが散乱してたり虫が沸いてるわけでもないんですし、仕事しててひとり暮らしなら普通なんじゃないですか?』
「…………山田の部屋を見たら死にそうだな」
『山田さん?』
「いや、なんでもない」
失言を隠すようにさっさと仕事用の机に向かい椅子に座った先生は回転式の作りを利用してこちらを見た。
「俺は明日の用意があるから自由にしてくれ」
『はあ、わかりました。ありがとうございます』
くるりと椅子を回してパソコンに向き合った先生の背中に、鎮座してる布団を見てとりあえず持ってきていた荷物を置いた。
両手を空けたところで近くにあるものを分けていく。雑誌はまとめて、服は見つけたランドリーバックに入れる。
「おい、後でやるからそれはほっといて寝ろ」
『あー、自由にしてる最中なんで、お気になさらず』
「気にしないわけがないだろ…」
頭を痛そうに押さえた先生が椅子から立ち上がろうとする気配に顔を上げる。
『借りたものは借りたとき以上に綺麗にして返す主義なんですよ。捨てたりはしないんで安心してください』
「生徒に部屋を片付けてもらって安心して仕事できるか」
『それもそうですね』
言葉は返しつつも手を止めない俺に先生は微妙な顔をして、辺りを確認してからデスクに向かい直した。
「礼はする」
『泊めていただいてるのは俺なんで、宿代としてもらえると助かります』
「………はあ〜」
ある程度整理したところで体を起こす。程よく動いたことで疲れか襲ってきたから切り上げ、洗面所を借りて支度を終わらせたところで布団を敷いた。
『先生はこっちで寝ます?』
「寝袋に入るからスペースは気にするな」
『え、それで疲れとれるんですか??』
「布団よりも安眠できる」
『へー、そうなんですね』
一応真ん中よりも壁側に寄せて敷き、布団に入る。クリーニング後のためか特に気になる臭いはなくて、枕に頭を乗せて天井を見たあとに体の向きを変えた。
「……寝ないのか」
『まだそんな眠くないんで。そのうち寝ます』
視線に気づいた先生が一度こちらを見てから息を吐く。
枕に顎を乗せるようにうつ伏せになって先生の後ろ姿を眺めているのはお気に召さなかったらしい。
眉根を寄せたものの小言は続かずパソコンに視線を戻す。
携帯に表示される時間はここを訪れてから大体一時間ほど立っていて、いつもなら眠る時間を過ぎていた。心配するような弔の連絡が入ってたことに気づいて返事をする。
弔はまだ起きているようでちまちまと会話を続けていく。今日はスピナーとカーレースゲームをする日だそうで、マグネが応援らしい。
前回ヒミコちゃんと弔とやったときはヒミコちゃんがハンドルを切る方向にコントローラーを振り回すから弔にぶつかって大騒ぎになったんだっけと思い出しつつ、スピナーが来たというから楽しんでねと送って連絡を終わらせた。
置こうとしたところでぶぶっと揺れた携帯にまたメッセージかと画面を確認する。
弔からの返事かなと思ったそれはヒミコちゃんからで、明日はやっと好きな人に会えるんですけどどんなお化粧が良いでしょう?と可愛らしい内容だった。
ヒミコちゃんの好きな人が誰か知らないから、どんな人なのかと聞いてみる。一生懸命で、ぼろぼろなのが似合いますと独自の目線の返事が来て無難にナチュラルなのとかがいいんじゃないと返す。
そうですよね!なんて画面の向こうで飛び跳ねている様子が浮かぶ返事に続けて、明日は朝が早いのでもう寝ます、おやすみなさい!とメッセージが飛んできたから挨拶をして締めた。
自由なヒミコちゃんらしいメッセージの履歴に、やっときた眠気から溢れたあくびで滲んだ目元を擦って携帯を置く。
枕に顎を置いて、青白い光に照らされてる背中を眺める。作業中は邪魔なのか適当に一つに縛られた黒髪。手元だけ動かしているようでタイプをする指は時折止まって、横に用意してある飲み物を取ったり、困ったように頭を押さえたりする。
教師ともなれば考えることは多いんだろうなと思っているうちにまぶたが閉じようとして、うとうとしていると椅子についたキャスターが転がる音がして目を開けた。
「すまん、起こしたか」
『…んー、いーえー、まだ寝てないです』
新しい飲み物でも取りに行こうとしたのか空のグラスを持ってる姿に首を横に振って携帯を取る。いつの間にか深夜の時間で、あと数時間もすれば外に出ないといけない。
飲み物を取って戻ってきた先生が椅子に座って、目が合った。
『せんせー寝ないんですか』
「まだもう少し作業がある」
『まじっすかー、寝ないと死んじゃいますよ』
「必要なときに寝てるから気にするな」
『そーなんですかー』
「ああ。君はもう寝なさい。おやすみ」
『はーい、おやすみなさーい』
先生はパソコンに視線を戻して、また背を眺める。
話したことでか少しだけ覚醒してしまった意識にまたぼーっと背中を見つめて、時折意識を飛ばして起きてと浅い眠りを繰り返していればため息が聞こえて目を開ける。
一段落ついたのか大きく伸びをして、目元を解してる先生は顔を上げると俺を見て眉根を寄せた。
「いつ寝る気だ」
『そのうちですねー』
「はあ」
呆れたような先生に、自然と口角が上がる。思わず笑いを零せば怪訝な目が向けられた。
「何が楽しいんだ?」
『なんとなく楽しいんです』
理解できてなさそうな表情の先生に言語化は諦めて目を瞑る。数秒閉じて、開いて、先生は俺の様子に眉根を寄せた。
「眠れないのか」
『あー、そんな眠くないんですよねー』
「……疲れは感じてるのか」
『そりゃーいつもよりはちゃんと〜』
「…………」
先生が視線を揺らして、下に落とす。
「すまない」
『…ん…?』
「君に、負担をかけすぎた」
『……あー、別にそうでもないですよー』
落ちた声色と上がってこない視線に目を瞬けば先生は短く息を吸って、言葉と一緒に吐いた。
「昨日の君の様子が疲労からくるものならば、話を押し付けた俺のせいだ。…君に、これ以上の負担をかけたくない」
力を込めて、手を握った。
「今日の仮免試験も、強制はしない」
『……………は?』
思わず体を起こせばかけてた布団がずれて落ちる。
『…先生、いま、なんて…?』
言葉の意味が理解できなかった。
喉が張り付いたみたいで言葉がうまく出なくて、少し震えた声。
先生は顔を上げない。
「君の体調が最優先だ。昨日の不調を引きずってまですることじゃない」
『…俺に、仮免試験はまだ早いってことですか?』
「………そうはいってないが…今は無理をしてほしく、」
『先生は、俺には、無理だって言いたいんですか』
「そこまでは、」
『――もういいいです。』
目が覚めてしまった。立ち上がって、まとめといた荷物を取って先生の横を抜ける。
「どこに、」
『目ぇ覚めたんで体動かして風呂入ってきます』
「今何時だと、」
『四時。二時間もしたら起きんだからいいでしょう』
靴を引っ掛けて後ろから追ってこようとする気配を睨む。
『ついてこないでください』
「緑谷、何を怒って、」
『怒ってないです』
扉に手をかけて外に出る。さっさと扉を閉めて寮を離れた。
夏のせいか微かに明るい空に舌打ちがこぼれて、首をに指をかけたところでまた舌打ちをこぼす。
森の奥に進んで、前に出久と勝己と訓練した場所にたどり着いた。
荷物を木の影に置いて、大きく呼吸を繰り返し上がった心拍を抑える。何回も繰り返して、少しだけ落ち着いたところで鞄からグローブとブーツを取り出す。装着してあたりを目視し個性で障害をつくり、腕を振るう。
作ったものを壊して、また用意して。何個も壊していればふいに気配を感じて振り返る。
「はよ」
『……おはよ』
「あ?何朝からいらいらしてんだ?」
『…色々あって』
「ふーん」
朝練のために出てきたんだろう勝己は目を細めて、広げた右手のひらに指で丸を作って添えるように構えた。
「避けきれよ!」
『、りょーかい!』
小さくも早い光線をとにかく避けていき、避けきれない分は咄嗟に作った盾で弾く。
空がほとんど青くなったところで勝己は手をおろして、距離を詰めてきたと思うと個性を使わずに蹴りを入れてくるから腕で防ぐ。
防がれたことにか舌打ちをこぼして足を下ろすと胸ぐらをつかまれ、引き寄せられると額に衝撃が走った。ごちんという鈍い音が骨に響き、痛みに目がチカチカした。
収まったところで視線を落とせば勝己が胸ぐらを掴んでた腕に力を入れて引き寄せられ、噛みつかれる。
目を見開けばゆっくり離れ、目尻を釣り上げた。
「今日の試験は舐めプすんじゃねぇぞ!」
『…ああ、もちろん!』
満足そうに鼻を鳴らした勝己が手を離した。
荷物から飲み物を取って突き出される。
「デクもお前も抑えて、俺は一番になる!」
『うん、勝己ならなれるよ』
「あったりめーだ!」
顔を見合わせて笑って、朝練でかいた汗に勝己を見た。
『勝己はこの後どうするの?』
「汗流したらもう集合時間だから行く」
『そっか。俺もそうしよっと』
「つか、朝飯は食ったんか」
『んーや。元から食うつもり無かったしいいかなって。試験会場の周りなんかあるかなぁ』
「さぁな。待機時間とかに食えればいいほうじゃねぇの」
空腹を感じてるような気のする腹を押さえて、ちょっと考えて諦める。胃に物をいれたところで消化するには時間がかかるし、気持ち悪くなるかもしれない。
『…そういえば、試験ってどういう感じなんだろ。知ってる?』
「毎年内容変わんだってよ」
『まぁそりゃそうだよね』
「大体は戦闘とからしいけどな」
『そっかー。それなら開始時点の状況にもよるけと、早めに合流して一緒に戦えたら楽そうだね』
「…………あ?」
勝己がぽかんとする。間の抜けた表情にえ?と思わず返せば勝己は目を丸くしたまま口を動かす。
「クラスで会場ちげーって聞いてねぇんか?」
『……………は?』
「…出留?」
勝己の言葉に思考が止まったものの、なんとなか笑顔を浮かべて見送る。自分の部屋に一度帰ってきて、携帯を取り出し発信すれば向こうは起きてたのかすぐに発信音は途切れた。
「み、」
『試験ってクラス別なんですか』
「あ、ああ、そうだが、」
『わかりました。朝早くに失礼しました』
返事を待たずに通話を切って、持つものを少し増やしてから部屋を出る。
まっすぐ歩いて通用門に向かい、そこにいた警備員が俺の姿を確認して目を瞬く。
「外出ですか?」
『はい。試験に向かいます』
「試験…仮免許試験の会場へは全員でバスで向かうと伺っておりますが…」
『一人で行きたいんで先出たいんですけど無理ですか?』
「そうしますと外出許可が必要です」
『はー、なるほど。わかりました』
携帯をまた出す。もう一度同じところにかければやっぱりすぐ出て、向こうが言葉を発する前に音を出した。
『自分で行くんで今すぐ外出許可出してください』
「は、」
電話を切って続けて携帯をいじる。こんな早くに起きているかは賭けではあるけど、メッセージを送れば五秒と待たずに既読がついて了承が帰ってきた。
丁寧にお礼を入れて、それから待ち合わせ場所を決めれば警備員が耳につけてるインカムを押さえて、困惑した表情でこちらを見る。
「お名前をよろしいですか?」
『1C緑谷出留です』
「ご協力ありがとうございました。確認が取れました。外出許可が出ていますのでお通りいただいて大丈夫です」
『ありがとうございます』
仕事の早い先生でよかったと思いつつ門をくぐる。
足早にまっすぐ駅に向かって、二つ乗ったところで降りた。到着したと入れれば路地の裏手にふわりと黒色の靄は広がり中に飛び込む。進んだその先、開けた場所はどこかの建物の中でぱっと見た感じ工場の中のようだった。
「おはようございます」
『おはようございます。朝からお手間をおかけして申し訳ございません』
ゆらゆらと揺れながらお気になさらずなんて優しく穏やかな言葉を返してくれる黒霧さんの横には弔はいない。
『弔も寝てるような時間ですよね』
「死柄木弔はつい一時間ほど前にゲームを終えて眠りにつきましたよ」
『うわ、ちょー夜ふかししてる』
「とても盛り上がっていましたが、死柄木弔が寂しそうでしたので今度は出留さんも参加ください」
『こちらこそ、ぜひ参加させてください。そのときにはご連絡差し上げますね』
「はい。……ああ、そうでした。そろそろ貴方にお伝えしておかないと」
『?』
黒霧さんはふわりと揺れる。
「出留さん、目的地まではきちんと送り届けますのでもう少々お時間ちょうだいできますでしょうか?」
『はい、大丈夫ですけど…弔のこととかでなにかありました?』
「いいえ。貴方の事です」
『俺?』
「はい」
穏やかに、それでいて楽しそうに黒霧さんは笑う。
「貴方には私と似た個性があります」
『………個性??』
「はい」
頷いた黒霧さんは少し横に靄を広げてみせた。
「私の個性はワープ。正確な座標を必要とする代わりに、最大30km先まで物量に関係なく荷物を指定の場所へ転送するためのゲートを開くことができます」
『30km…範囲すごく広いですし、改めて聞いてもとてもすごい個性ですよね』
「ふふ、そう言ってくださると嬉しいです。今後も貴方たちのお役に立てるよう尽力いたします。……それではここから本題です。出留さんに与えられた個性はテレポート」
『……へ、え?』
固まった俺に黒霧さんは驚いてしまいますよねとふわふわと笑ってる。
「つい先日、私達は貴方を誘拐しましたでしょう?」
『え、はい。そうですね』
「最初に目を覚ますまで、タイムラグがあったことを不可解に思いませんでしたか?」
『あー、たしかに。どんだけ寝てたんだろって思いましたけど…』
「あの時、貴方は誘拐されMr.コンプレスにより気絶させられた後、オールフォーワンのいる施設へ転送されました」
『え、俺って彼処行ったことあったんですか??』
「はい。実は初日に足を踏み入れております」
『ええ…?』
「転送された貴方はそこで、オールフォーワンからテレポートの個性を与えられましたが、個性の定着安定のため深い眠りについてしまい、実際の経過時間と貴方が目を覚ましたときに認識した時間に誤差が出ました」
『あー…』
言われてみれば、いくら驚いてたからと言っても特に疲れてた訳でもないのに丸一日以上寝てたなんて不思議だ。
もう少し考えればわかっただろうに、今の今まで疑問を抱けなかったなんてとてつもなく抜けてる。
『オールフォーワン、さん?って確かオールマイトと戦って捕まった弔の先生ですよね?』
「はい。死柄木弔を拾い上げ、ここまで育ててきた人物です」
『なんかむっちゃすごい人とは聞いてますけど…その人がなんで俺なんかに個性を…それも、希少価値の高い能力をくれたんですか?』
個性を分け与えるなんて話は聞いたことがない。けれど黒霧さんが今の俺に嘘をつく理由が思い当たらないし、オールフォーワンが人から人に個性を移せるのは事実なんだろう。
個性は特殊能力で一人に一つ、大抵の人間が持っているものではあるけど、能力によって希少価値が違う。
火や水、風、電気を扱る能力を持つ人間は存外多く、そこから派生して氷や電磁波を操れる人間もいる。身体能力の向上系もポピュラー。そこからさらに力などが増幅された異形型は昔にあったという迫害の影響でまだ少なめ。
基本的に親から子へ遺伝することが多い能力の中で、元からある身体に関するものや自然の力を操れるもの以外は希少値が高い。
テレポートはその代表格とも言えて、混乱を極めてたあの状況下、挨拶も交わしてない巨悪なんて比喩されてたその人から俺に与えられたとなれば訝しんでしまうのも当然だった。
黒霧さんも質問を予想していたのか特に顔色を変えることなく揺れる。
「貴方が死柄木弔の友達だからです」
『………それだったら別にヒミコちゃんやスピナーとかでも良かったんじゃないですか?』
「いいえ。貴方でなければいけなかった」
『…納得いきません』
「そうですか?」
きょとんとして首を傾げた黒霧さんは考えてみてくださいと優しく言葉を続ける。
「死柄木弔が一番信頼している人間は誰でしょう?」
『…黒霧さんですよね』
「ふふ。そう思ってもらえていたらこの上ないほどの光栄ですが…残念ながら、違います。私は死柄木弔を補佐するためだけに存在する脳無」
『…え、脳無?』
最後の単語に目を瞬けば黒霧さんは右手を俺の肩に乗せて、左手の人差し指だけを立てると口の前に添えた。
「これは貴方にだけお伝えしておきます。私は、死柄木弔に仕えるため、必要な能力を与えられた戦闘のできない脳無です」
『………そんな、重要なこと、なんで俺に』
「何故でしょう。なんとなく、貴方には話してしまいたかったんです」
『…そう、なんですか』
俺の知ってる脳無は保須に行ったときと、神野で見た数袋だけで、どちらも見かけた時間は少なかったけれど理性はなさそうで思考どころか会話すらできそうになかった。
けれど黒霧さんが言うなら頷くしかなくて、黒霧さんは左手も俺の肩に乗せる。
「脳無が死柄木弔の支えになることは難しい。死柄木弔がほんとうに大切にしている人物に、私に何かあったときのため、私の個性と近しい能力をあの人は誰かに渡したかった。そこで目に止まったのが、死柄木弔が一番大切にしている友人の貴方です」
『………………』
「もちろんその能力は貴方自身のものですから、使い方は貴方におまかせいたします。決して悪事を働くのを手伝ってくれという意味ではございませんからご安心ください」
『……な、なに一つ、安心できないんですけど…?』
「ふふ」
意味深に笑って肩から手を離した黒霧さんは近い距離のままで目を合わせる。
『俺が弔たちの望まない形で個性を使うかもしれませんよ?』
「貴方の個性です。ご自由に利用ください」
『………このこと、弔は…?』
「いいえ、知りません」
『…そうなんですね』
「私から死柄木弔にお伝えしておきましょうか?」
『……いや、自分で言います』
「はい。それが良いと思います」
答えのわかりきってたらしい黒霧さんは少し距離を取るとではと声色を変える。
「貴方の個性のことを少々詳しくお伝えしてもよろしいでしょうか」
『…はい、よろしくお願いします』
仮免許試験の前に何をしてるのかと思いながら黒霧さんの言葉をしっかりと聞く。
俺の個性はテレポート。自身と、自身の持っているものを任意の場所へ移送できる。移送範囲は自身から半径5kmが限度で、移送先は自身が訪れたことのある場所に限られる。
『自分か触れてる物限定。距離は短めで、座標はいらないけど行ったことのある場所。…やっぱり黒霧さんすごいですね』
「ふふ、ありがとうございます。ですが、出留さんの能力のほうが咄嗟の判断で利用できる分柔軟性がございますし、触れていれば良いので人も一緒にご移動いただけます」
『たしかに。触れていればって範囲ならそれはありですね』
「試しにまずこちらを転送してみましょう」
渡されたのはボールペンで、右手に取る。転送する場所は広げた左手にして、意識すればふっと握っていたボールペンが消え、左手のひらよりも1mほど上に現れ、重力に従って落ちてきたから咄嗟に掴んだ。
「お上手です」
『これ、思ったよりもずれますね…』
「ええ。慣れが必要かもしれません」
『継続練習か…』
もう一度左手から右手、また右手から左手へと移送を繰り返し、しっかりとイメージどおりの場所近くまで動かせるようになったところで顔を上げる。
『………これ、もし人体の中とかに間違えて転送かけたらどうなるんですかね』
「おや…ではやってみましょう。そちらのボールペンをあちらを指定して移送してみてください」
指されたのは転がっているコンクリートブロックで、ボールペンの移送先を強くイメージする。ふっと今度は左手から消えたボールペンがコンクリートブロックに突き刺さるように現れた。
『え、こわ』
「人がああなると危ないのでイメージが大切です」
『失敗しなくてよかったです…』
手にボールペンを突き刺した日には流血沙汰どころかまず何故そうなったのかと出久と勝己に大変心配される。
人使とかも慌てるだろうなと思ったところであ、と携帯を取り出した。
どれだけ悠長にしていたのか本来つく予定の時間三十分前を表示してる時計に黒霧さんがおやおやと笑った。
「それそろお見送りしないといけませんね」
『本当にすみません、よろしくお願いします』
「お構い無く」
ぶわりと靄が広がる。
足を踏み入れて、振り返った。
『あ、あの、またお世話になってもいいですか』
「……ええ、もちろん。私も、いつでも貴方のことをお待ちしております」
優しく微笑む黒霧さんにむず痒い気持ちになって、そういえばと黒霧さんはポケットから何かを取り出すと包装を剝して、俺の鼻に貼る。
「悪化してはいけませんから」
『ありがとうございます』
そのまま上がった黒霧さんの右手が俺の頭に乗った。
「貴方ならば大丈夫でしょう。試験でのご武運をお祈りいたします。いってらっしゃいませ」
『…はい、いってきます』
手が離れて、左右に振られる。
暖かな眼差しに見送られて外に出た。
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