ヒロアカ 第一部
ひゅっと音が鳴る。反射的に避けて拳を振るうも感触はない。また空振りだった。
時計もない部屋の中じゃ何分経っているかもわからず、個性はピンポイントで使いたくてもここぞというときに消されるから反動で動けなくなる可能性も含めて使用は早々に諦めた。
滲んだ汗が不快で、深く、息を吐く。
「…………」
向かいの先生は俺ほど疲れていないようで、こんなところで地力の強さを見せつけられても困る。
首筋に冷たい感覚。いつ伸ばしたのか右手の人差し指と中指が首に触れていたようで、爪を立てようとしていたらしい。
奥歯を噛みながら眉根を寄せれば先生の捕縛帯な飛んできて走り出す。
時間無制限、手錠をかけるか参ったと言わせる。二つしかないクリア条件はどちらが目立たずに済むんだろう。
目が覚めたばかりでまだ本調子でないのは覚悟していたけど、動きは鈍いし思考もまとまらない。体力的にも早く終わらせないと辛いのは俺の方で、それなのに解決策が見つからないからイライラして仕方ない。
先回りするように足元に飛んできた捕縛帯に床を強く蹴って飛び上がり、追撃してくる捕縛帯を避ける。
着地して、見据えた先の先生は相変わらず俺を探るような真っ赤な目をしてて何を思っているのかわからない。
いつものように思考がまとめるための落ち着いた精神状態、あるいは時間があれば今頃この訓練の意図を読み取れて答えを出せただろうに、考えようするとすぐに襲ってくる捕縛帯と手足に思考が中断される。
両足をついてすぐさま飛び跳ねて、一回転。横を抜けるように飛んでいった捕縛帯を見送って壁を蹴って方向転換して離れる。
向かいの先生は余計なことは言わないけど、突き刺すような視線がうるさくて仕方ない。一体、俺に何を求めてるんだろうか。
『ヒントだけでもくれません?』
「そんなものは存在しない」
『うええ…』
飛んできた蹴りを避けて、顔に向かって吹き付けられようとしたなにかを回避する。
『え!?なんすかそれ!!』
「催涙スプレーだ」
『こっっっわっ!!本気じゃないですか!』
「最初からそう言ってる」
ぞわりと悪寒が背筋を走ったところで回避にまた専念する。右、左、下、後ろ。最小限の動きで確実に避けて攻撃を喰らわないようにしているけど、最初にもらった脇腹の痛みが段々と重くなって響いてた。
距離を取って腹を押さえて、息を吐く。
「降参は許されてないぞ」
『鬼畜…』
浅くなってる呼吸を一度止め、深く息をする。
考えて、考えて。それから、
「ひとつだけ、教えてやろう」
『は、』
「敵は誰だと思う、緑谷」
飛んできた武器を弾く。じっとりと睨むような赤色の瞳に息が詰まって、弾いたものが床に落ちた音が鼓膜を揺らした。
先生は何故か追撃してこなくて俺を見ているだけ。今までずっと緩まなかった攻撃の手が急に止まったことで汗が首筋を流れる感覚が鮮明になる。
ぽたりと、汗が落ちた。
『敵…?』
「ヒントは終わりだ。考えろ、動け、止まるな、緑谷」
振るわれた脚に反応が遅れて、ガードはしたものの後ろに飛ばされる。重い一撃に思ったよりも近かった壁に頭と背をぶつけた。
『ぐっ、ぅ』
「緑谷、考えろ」
『ふ、っ』
ぶつけた場所が悪かったのか、息が苦しいし頭はクラクラする。
「休んでる暇はないぞ」
立ち上がって、向けられてる鋭い視線に手を伸ばす。
首に触れた冷たさはグローブ。首を掻こうとしたところで、口元を緩めた。
『…ああ、なるほど』
先生が目を見開いた。
息を吸って、上を向く。大きく息を吐いた。
顔を上げた緑谷は首筋に添えてた右手を目元に乗せ、口角を上げる。
『あー、ほんと、俺ってこういうの苦手なんだなぁ』
零すような言葉は誰に聞かせてる訳でもないようで、語調は普段通り、ただ、声色はとても軽い。
纏う空気も先程までの戸惑いが消えて、緊張感も霧散していた。
『はあ〜あ』
ぐるりと首を回して、顔を下ろす。こちらに視線が向いて、緑谷は笑った。
『なんかもうどうでもいいやぁ』
「お前、」
だっと床を蹴る音。身構えた瞬間に襲ってきた右足に構えた左腕へ衝撃が走る。強いしびれに奥歯を噛んで、右足をあげようとしたところで下から衝撃が加わった。
「っ、」
振り上げようとしていた足が下から蹴られていることに後ろに飛んでこれ以上の追撃を逃れようとして、緑谷の右手がいつの間にか捕縛帯に触れていることに気づいた。
ぐっと引っ張られた捕縛帯に釣られて体が浮く。強すぎる力にすぐさま足を振るって、緑谷が手を離したから距離を取った。
見据えた緑谷はうっすらと笑っていて、その表情はあの時に似ていた。
『考えて動くのとか、ほんと俺向かねぇなぁ』
あははと笑って地を蹴り、攻撃が襲ってくる。腕と脚と、自在に身体を扱って戦う緑谷は動きがとても軽い。先程まであった迷いの一切が消えていて、一撃一撃がとてつもなく重い。
対戦開始から二時間三十五分。ようやく答えに辿り着いたらしい。
右耳のインカムから聞こえた音に反応しようとして襲ってきた左腕を構えた右手で防ごうとして、がしゃんという音に目を見開いた。
『つーかまえたっ』
にぱっと年相応に楽しげに笑った緑谷は心底嬉しそうだ。
右手首に揺れる大きな装飾品に、緑谷は満足そうに後ろに倒れて息を吐いた。
『よっしゃーっ!あー!つかれたー!!』
小さな子どもでもいまどき見ない、明るく楽しげな声。投地された四肢に思わず笑って身を屈め、手を伸ばした。
「ああ、よくやったな、緑谷」
『へへっ』
わしゃわしゃと頭を撫でる。汗で濡れた髪が額に張り付いていたから剝がしてやって、手を離した。
「緑谷、敵は見つかったか」
『ぜーんぜーん。わかんねーっす』
「…ふっ、そうか」
完璧主義者の気質があるにもかかわらず、答えがわからなかったのに悔しそうに見えない。
憑き物がようやく落ちた。そんな笑顔に俺も口元が緩む。
ぴぴっと施錠が解けた音が聞こえて扉が開き、影が飛び込んできた。
「出留!」
『んー?あ、人使ー、さっきぶりー』
「おつかれ!最後の追い込み凄かった!!」
『うわ、見られてたの?恥ずかしいー』
「なにが恥ずかしいんだよ!っ〜!俺の相棒が強すぎて最高だ!!」
『はっず!!デカい声でそういうのやめよ!?』
「は?やだけど??」
感極まってるらしい心操の言葉に、わかりやすく緑谷の顔が疲れと興奮以外の理由で赤くなる。
「俺は決めたんだ、出留」
『なにを?』
「出留がすごかったら積極的にがちで褒めて、みんなにもこの素晴らしさを叫んで回るって」
『…は?なにそれ恥ずかしくて俺死ぬんだけど!!?』
「遠慮は良くないって俺はこの一週間で学んだからな。覚悟しろよ、出留」
『そんな覚悟はしたくないんだけど!?』
「俺の相棒かっけー!」
『静かにして?!恥ずかしい!!』
「いやだね」
心操と緑谷のやりとりに息を吐いて目を逸らす。向こう側にはこちらを見守ってたらしいエクトプラズムがいて顔を合わせるなりほっとしたように肩の力を抜いた。
「どうだった」
「心操クンハトテモ成長シテイル。予定通リデ問題ナイダロウ」
「そうか。助かった」
「緑谷クンハドウダ?」
「こちらは考えていたものとは少し違うが…まぁ、予定通り進めよう」
視線を戻した先、心操が緑谷の写真を撮り始めていて、顔を隠すように蹲ってる緑谷に首を傾げた。
「あいつら、なにをやってるんだ?」
「サァ?」
「青春ね!!」
「香山さん、どこから出てきたんですか」
「ふふっ、青い薫りがするところに私はいつでも現れるわ!」
親指を立てて見せる香山さんに息を吐いた。小言を吐く前にさあさあと両手を叩いて注目を集めた香山さんに緑谷もそっと顔を上げて、心操は携帯を下ろす。
「二人ともお疲れ様!そろそろいい時間だし、せっかくだから前回の模擬戦分も含めてお疲れ様会しましょ!お腹は空いてるかしら??」
「はい!」
『えっと…』
「あ、でもその前にシャワー浴びてもいいですか」
『、』
「もちろんよ!」
言いよどんだ緑谷に心操が手を上げる。先に言われると思っていなかったらしい緑谷は目を丸くして、心操が手を取った。
「行こうぜ、出留」
『あ、うん』
引っ張られるようにして二人は部屋を出ていく。
残された俺達は顔を見合わせて、香山さんが右手に持ってる鍵を差し出した。
「連敗おめでとっ、相澤くんっ!」
「止してください」
「ふふっ。緑谷くん本当に強いわねぇ」
「箍が外れたときの彼の身軽さはプロヒーロー顔負けだな」
「下手なサイドキックより強いんじゃないかしら?」
「ええ。全くですね」
「ふふ。それにしても…緑谷くんの強みは頭脳戦だと思っていたけど…予想外だったわね」
「そうでもなかったですよ。弟と幼馴染を見ていればそんな予感はしていました」
手錠を外して、エクトプラズムがくれたタオルで汗を拭う。
普段は考え込んでばかりで思考の渦に飲み込まれることもある弟は、実践となれば直情型。粗暴な言動が目立ち、乗せられやすい幼馴染は実態は視野の広く頭の回転が早い頭脳型。
「その流れでいくのであれば、普段落ちついてると見せかけている緑谷は血縁と同じく直情型でパワータイプ。自らの力で押し勝つ方が得意でしょう」
「訓練ノ相手ガ頭脳型ノ心操クンヤ、爆豪クント相性ガ良イノモ納得ダ」
「ふふ、押し通し勝ちが得意って、相澤くんとは正反対ね」
「ええ。…まぁ、それでも、今回彼奴が最後に選んだのが手錠をはめることなら…彼奴の底はまだしれませんね」
選択肢を二つ用意したのは、緑谷に選ばせるためだった。参ったと言わせるほうがパワー型の選びやすいクリア条件で、手錠はつけるタイミングをはかる必要も戦略もある程度必要なため頭脳型が選びやすい。
笑い始めた時点で俺をうちのめすことを考えるだろうと思っていたが、手錠を腰につけていたポーチから俺に気づかれないよう取り出した上でそれをはめたことを考えれば、気づいてないだけでまだ彼奴には余裕があったんだろう。
「ちょっと、相澤くん?」
片眉を上げた香山さんに顔を上げる。エクトプラズムも呆れたように首を横に振っていて、顔を見合わせた二人のうち、香山さんが声を発した。
「あんまり緑谷くんを追い詰めちゃ駄目だからね?」
「…………そんなことはしませんよ」
「ソノ笑顔ヲ隠シテカラ言ッテホシイナ」
一体俺がどんな顔をしていたというのか。二人に詰め寄るより早く足音が聞こえてきて視線が向かう。
「お待たせしました!」
『お待たせしましたー』
シャワーを浴びたことである程度さっぱりしたらしい二人に香山さんが行きましょうか!と背を押した。
「ランチッシュが腕によりをかけて作ってくれたの!気に入ってもらえたらいいわ!」
「楽しみです!」
『…俺も楽しみです』
背を押されて歩く二人にエクトプラズムと後ろからついていく。
夏休み中のためほとんど稼働していない食堂に入り、以前と同様にキッチンに近い方の席へ向かえばすでに準備をしてくれていたらしいマイクが騒がしく俺達を迎えた。
同じように準備を手伝っていた13号と、パワーローダー、それから発目が顔を上げる。
「お疲れ様ですっ!」
『発目さん?』
「緑谷さんがお元気そうで本当に良かったです!ね!心操くん!」
「うん」
きょとんとする緑谷の手を取り二人は席に座らせる。お互いに両サイドに座って緑谷を挟むとその様子を見ていた13号が微笑ましそうに目尻を落とす。
「あの三人はとても仲がいいんですね」
「ええ、未来の最強ペアに未来の最強エンジニアですもの」
「お、発目の奴そんなこと言ってたのか?」
「ふふ、あの三人はずっと仲良くいて欲しいわね、パワーローダー」
「ヒーローとエンジニアは切っても切れないからねぇ。仲がいいに超したことはないだろうよ」
元気に笑う発目に、嬉しそうな心操、それから照れくさそうながらも頷く緑谷。噛み合わなそうに見えて相性が良いらしい三人に何故か昔を思い出して目を瞑る。
「相澤ー!さっさと座れー!」
「ああ」
手招かれて隣に座る。はからずとも緑谷の向かいであるその場所は、同級生とのじゃれ合いから意識を戻した緑谷と目が合った。
ばちりと火花が散ったような感覚。ぶつかった視線に驚くよりも早く、緑谷は表情を崩す。
「、み」
俺の声はお待たせしましたーのランチッシュの声にかき消される。
緑谷の視線もランチッシュに向かったことで外れ、強く音を立てる心臓を抑えた。
運ばれてくる数々の料理は出来たて特有の湯気を漂わせ、一緒に香りを放っている。思い出したかのように鳴った腹の音は誰にも聞かれていなかったようで隣の山田にも気づかれなかった。
並んだ料理に香山さんが手を叩いた。
「じゃあ揃ったところで!音頭を取ってもらおうかしら、相澤くん!」
「なんで俺が…」
「ふふっ、さぁ早く!料理が冷めちゃうわ!」
こういうのは山田や香山さんのほうがいいだろうに、勧められ息を大きく吐いてから向かいの二人を見据えた。
「日頃から厳しい訓練を二人ともよく頑張ってくれている。俺達は君たちの躍進に期待しているから今後はより一層、力を入れていく予定だ。だが、今日ぐらいはゆっくり飯を食って休んでくれ」
「職業体験のときと同じこと言ってねぇか?」
「そうほいほいと簡単に言うことが出てくるわけ無いだろ」
「ふふっ、それだけ相澤くんがいつもそう思ってるってことね!」
二人の茶々に相変わらず仲がいいとパワーローダーやエクトプラズムは肩を揺らして笑い、ランチッシュと13号が微笑んだ。
「先輩!料理が冷めてしまいますよ!」
「ああ、そうだな」
13号の言葉に両サイドの二人を睨んでから心操と緑谷に視線を戻す。心操はあの時と同じように感極まってるらしく丸くした目を輝かせていて、緑谷は唇を結んで目を泳がせてる。
「本当によく頑張ってくれてる。お疲れ様、乾杯」
「「かんぱーい!」」
「「いただきまーす!」」
聞こえてきた合唱のような挨拶に腹が減っていた面々はすぐに箸を伸ばす。
一人、固まってる緑谷はあの時と同じ表情で、夏先にはどういう意図でその表情をしていたのかわからなかったが、今は手に取るように気持ちがわかる。
箸でつまみあげたおかずをいくつか緑谷の目の前の空皿に乗せる。あからさまに肩を揺らした緑谷は弾かれるようにこちらを見た。
少しだけ、目元が赤い。
「全部食われちまうぞ、緑谷」
『、』
「緑谷さん!こちらもすごく美味しいですよ!」
「出留、こっちも食べてみろ」
俺の行動を倣ったのか両サイドの二人も同じようにおかずを乗せ始めて、皿に隙間がなくなったところで発目が箸を持たせる。
「たくさん食べましょうね!緑谷さん!」
「食べないと体が保たないぞ、出留」
『……あ、…うん。…………ありがとう』
戸惑うように頷いて、俯いて言葉をこぼす。緩んだ口元に箸でつまんだおかずを運んだのを見届けて目を逸らせば山田と香山さんが明るく笑って親指を立てた。
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