ヒロアカ 第一部
ぽんっとノックにしては妙に軽い音が聞こえて返事をして扉を開ける。誰も立っていない外に首を傾げて、下に気配を感じたから視線を落とした。
『……猫?』
するりと俺の足に絡まるように体を擦っているのは見覚えのない薄い紫の毛の色をした猫で、腰を下ろして手を伸ばす。
猫は人に慣れてるのか嫌がることもなく簡単に抱え上げられて、腕の中にしまってから顔を見た。毛の色と同じく紫色の瞳をした猫の目は重たく、半目というか少し眠たそうに見えてじっと見ているうちに隣人を思い出す。
猫といえば人使だろう。迷い猫かもしれないし、外に逃がす前に人使に見せてやろうと部屋を出た。
少し歩いて隣の扉に近づき首を傾げる。微かに開いている扉に目を瞬いた。人使にしては不用心なそれに扉へ手を伸ばして一応ノックをする。
コンコンと音を立ててから息を吸おうとして、胸元をぺしりと叩かれたことに視線を落とす。
『なぁに?』
「にゃ」
短く鳴いた猫は首を横に振る。生憎と猫の言葉は理解できないから額をなでて、それからもう一度ノックした。
『人使、俺だけど居ないの?扉開いてんよ』
「にゃー」
またぺしりと叩かれる。不思議な猫の行動に目を瞬きながら三度目のノックをして取っ手に手をかけた。
『人使、入るよ』
最初から開いていた扉はなんなく俺と猫を招き入れる。
足を進めるといつもの部屋の中には人使の影はなく、床に人使がよく着てる部屋着が落ちてた。そこまで進んで部屋着を拾って、周囲を見渡す。
人使がこんなふうに洋服を脱いでどっかに出掛けるなんて珍しく、珍しすぎて考えられない。
むずがるように猫が身じろいで腕から飛び出す。猫は部屋着の上に降り立つとじっと俺を見上げて、また短く鳴いた。
不服そうな重たいまぶたの瞳と紫色。目を瞬いて、まさかと思いながら視線を合わせるように腰を下ろした。
『人使?』
「にゃ!」
元気に鳴いた猫が頷いて俺の腕に飛び込んだから息を吐いて、とりあえず顎の下を撫でる。
『なんでこうなってんの…って、人使にもわかんねぇか。とりあえず先生のとこ行くよ』
「にゃあ」
尻尾が緩く動いて腕に絡む。牙を立てられなかったということは異論もないだろう。
人使の部屋を出て、自室から鍵と携帯、財布を持つ。自室と人使の部屋も一応鍵をかけてから携帯に持ち替えて先生を呼び出すけどコール音だけが響いて繋がりそうになかった。
『先生忙しいのかもな。遠いけど職員寮まで行くしかないかぁ…』
「にゃあ」
『大人しくしててな、人使』
「んぐぅむ」
妙な鳴き声は仕方ないとでも言いたげで、早足で職員寮に向かう。普通科の寮を抜けて職員寮に入る。妙に騒がしいそこに腕の中の人使が顔を上げて俺を見た。
『忙しそうだな』
いつもなら入り口に一人はいるはずの教師は見当たらず、教師たちの声が違う階からしてる。
寮内を歩き回るのも失礼かとすぐ近くにある待機用の椅子に腰掛けて人使を太ももの上におろした。人使は俺の人差し指に鼻先を押し当てたり舐めたりして小さく鳴く。
「なぁー」
『ごめんなぁ。何言ってるかわかんね…あ、この後口田くんのとこ行ってみようか』
「にゃ!」
ぴこんと立った耳に怒ってはないんだろうと検討をつけて毛並みに沿って撫でる。ももの上の暖かさに人使も随分落ち着いているようで尻尾も過剰に動くことはない。
撫でているうちに足音が聞こえて顔を上げればセメントス先生がこちらに向かって歩いてきていて、目が合うなり一瞬固まって首を傾げた。
「君は…申し訳ございません、おまたせしてしまって。ご用件を伺います」
『いえいえ。一年Ꮯ組緑谷出留です。相澤先生はいらっしゃいますか?』
小走りで寄ってくるセメントス先生に人使を抱え直して立ち上がる。お互いに向き合ったことで腕の中のものに目が行って、セメントス先生が固まった。
「もしや、ご用件はその子に関してでしょうか…」
『え、ええ、そうだったんですけど…もしかして、その黒猫…』
「………」
セメントス先生の腕の中。じっと俺を見据えてくるのは眠たそうな赤色の目。体を覆う艶のある黒色の毛は少し人使よりも長めでもさもさしてる。
俺の腕の中にいる人使にセメントス先生が天を仰いだ。
「お察しの通り、こちらにいるのが相澤教員です…」
『あー、これは授業でなんかあったっぽいですね。こっちは同じく一年Ꮯ組の心操人使です』
「はぁ…」
問題が増えたとあからさまに肩を落としたセメントス先生に腕の中の猫達は静かに顔を見合わせていて、とりあえずと言葉をつなげた。
『俺達は先生に会えたらA組の口田くんのところに行こうと思ってたんです。会話できないのも不便ですから』
「私達はリカバリーガールに検査でもしてもらおうかと…あ、」
セメントス先生の腕の中から飛び上がった影を目で追って、頭に重みがかかる。腕の中の人使が驚いたように短い声を上げて、頭の上でそのまま先生は収まった。
『先生も口田くんのとこ行きますか?』
「にゃあ」
『はーい』
「相澤教員…やっと捕まえたのに…」
肩を落としたセメントス先生に苦笑いを返して、一応許可をもらって今度はA組の寮に向かう。
『先生、そこ安定感悪くないですか?』
「ん」
『肩とか腕の中でも平気ですよ』
「…にゃ」
短く返す先生はするりと肩の上に前足を置いて、人使を左腕に寄せれば右腕に降り立った。
二匹になってもさして重みは変わらず、頭の上でバランスを取る必要もなくなったからまた早足で歩く。
Ꮯ組の寮を越えてその先のA組寮にたどり着いて、扉をくぐった。
「あれ?お兄さん?」
ちょうどよく前を通りかかったのは耳郎さんで首を傾げられる。周りには誰もおらず一人でキッチンにでも向かってたであろう様子に笑みを返した。
『おじゃまします』
「いやいや、寮だし気にしなくても…緑谷呼びます?それとも爆豪?」
『うんん、えっと、口田くんいるかな?』
「口田?口田ならこっちの部屋なんで案内します」
『ごめんね、ありがとう』
隣に並んで、そこで初めて腕の中の二人に気づいたのか目を輝かせた。
「猫…!可愛い!迷い猫ですか?」
『あー、うーん、…そんなとこ』
べしりと黒色の尻尾が俺の腕を叩くから言葉を濁して苦笑いを浮かべる。耳郎さんが二人を取り出したスマホで写真を撮った後に俺を見上げた。
「懐かれてるなー。人懐っこいのかな…触っても平気ですかね?」
『んー。大丈夫ですか?』
「…にゃ」
仕方なさそうに短く鳴いた先生と頷いた人使に耳郎さんが表情を緩めて、ゆっくりそっと手を伸ばす。
まずは人使の背中をなでて、それからまた失礼しますと先生の背を撫でる。
「うぉぉ…やわらかい…超かわいい…!」
『良かったね。耳郎さん』
「うん…!……あ、口田のところ行かないと」
思い出したように手を下ろして歩き始めた耳郎さんについていく。腕の中の二人が体の力を抜いて腕に凭れたから笑って、階段を上がっていくつか扉を越えたところで足を止めた。
「ここが口田の部屋なんですけど…えっと、代わりにノックしちゃいますね」
『ありがとう』
両手の塞がった俺に気遣った耳郎さんが扉を叩く。口田ーと扉に声をかけてもう一度叩いて、少しすると中からノブが回された。
「あ!口田!」
『急にごめんね、こんにちは』
ぺこりと頭を下げる口田くんはきょろきょろと辺りを見たあとに俺の腕の中に視線を留める。
少し見合って、二人がにゃあと鳴いたところであわあわと両手を忙しなく動かし始めた。
「え、口田??」
驚く耳郎さんに苦笑いを零し、腕の中の二人はにゃあにゃあと鳴く。口田くんは慌てながら俺を見た。
『やっぱり二人と会話できるんだ。すごいなぁ』
「二人?」
「……耳郎さん、この猫たち…相澤先生と、心操くんです…」
「はあ!??」
耳郎さんの声に二人が驚いたのか一瞬跳ねて俺の腕の中に潜る。猫のような行動に口田くんは目を彷徨わせて、それからこちらへと招かれた。
扉をしめると靴を脱いで、どうぞと促された床に座る。元からいたうさぎがちらりとこちらを見て隅に行くから少し申し訳なく思いつつ二人を下ろした。
床に降りた二人はその場で伸びて、人使は俺の正座したももの上に戻ってくる。
先生はちょこんとその場に座り直してにゃあにゃあと鳴き始め、それに口田くんは頷きながらメモをする。耳郎さんは鳴いてる先生と足の上で毛繕いをしてる人使を見比べて俺の顔を見た。
「お兄さんはいつ気づいたの?」
『一人で部屋にいたら扉がノックされて、開けたら猫がいたんだよね。最初は気づかなかったんだけど人使ってわかってから職員寮に行ったらセメントス先生に先生を託されて今に至る感じ』
「なるほど…にしても、先生も心操も本当に猫なんだね…」
すっかり疲れたのか眠たそうにしてる人使と、口田くんと話しているけどにゃーにゃー言ってる先生。なんとなく手を伸ばして顎の下を撫でればそのうちゴロゴロと鳴き始めて耳郎さんがスマホを構え写真を撮った。
「緑谷と爆豪は知ってるんですか?」
『ん?んー、たぶん先生たちは知ってるかもしれないけどそれ以外はわかんないなぁ』
「もしかして箝口令とか敷かれてる?」
『どうだろ?セメントス先生には何も言われなかったからいいんじゃない?』
「ならクラスラインに上げて大丈夫かな」
『平気だと思うよ?』
数回画面を操作した耳郎さんはすぐに携帯を置いて、じっと人使を見つめた。
「心操、触ってもいい?」
「にゃ」
『いいっぽいね』
「やった」
腰を少し上げて俺の近くに座り直した耳郎さんに、人使はちらりと見てその場で伏せる。流石に女子の上に座るのは抵抗があったらしく、耳郎さんも察してか手を伸ばして触れることにしたらしい。
「はぁ~ほんとふわふわ。幸せ~」
『耳郎さん猫好きなの?』
「動物全般割と好き」
『そうなんだね』
人使がゴロゴロと喉を鳴らしながら目を細めて、耳郎さんがまたスマホを構えようとして固まった。
「うわ、通知ヤバ」
『さっきの写真?』
「緑谷と爆豪と轟が連投してる。荒らしかよ」
『三人とも元気だなぁ』
「これ口田の部屋って言ったら絶対突撃されるやつ」
『賑やかすぎると困っちゃうね』
笑ったところで洋服を引かれて顔を上げる。口田くんがそっと差し出してくれたのは紙で、さっきまでメモを取っていたものをそのままくれたらしい。
丁寧な文字で書かれてるそれを目で追っていって、なるほどと頷く。
『二人で行った訓練場の隣で練習してた子同士の個性がぶつかってて、可能性はそれくらいと。それじゃあその人たち探さないといけませんね』
「にゃあ」
短い鳴き声は先生からで、先生はのそのそと歩くと真横まで来て、とんと軽やかに舞い上がる。飛び跳ねたと思うより早くまた肩に一瞬重みが走って、頭の上に熱が乗った。
『なんでまた頭…?』
「にゃぁ」
口田くんはにこにこと笑って頷き、通訳はない。代わりに耳郎さんがスマホをこちらに向けて写真を撮られた。
人使も大きくあくびをして目を閉じてしまい、先生も頭の上でだらけ始める。ぺたりと触れた腹の感覚にどうしたものかと息を吐いて、耳郎さんも楽しそうに写真をさらに撮る。口田くんがにこにこと笑いながら手を伸ばそうとして、ばんっといきなり響いた音に目を瞬いた。
瞬時に頭の上から熱が引いて、人使も体を起こす。二人が口田くんのベッドの下に逃げ込んだところで扉の方を見ると肩で息をしてる出久と焦凍、その後ろに勝己が見えた。
『びっくりした…。三人とも、開ける前にちゃんとノックしなさい。口田くんに挨拶は?』
「兄ちゃん!!」
「出留、こっちの寮に来てたんだな」
「……ごめん。邪魔すんぞ、口田」
「話聞いたの爆豪だけか…」
耳郎さんが呆れたように息を吐いて飛び込んできた出久に巻き込まれないよう距離を取る。出久が俺の膝の上に乗って抱きつき、横に焦凍が座って、勝己は近くに立ったまま目を細めた。
「…で?どういう状況だぁ?」
『口田くんに相談しに来てたとこ。耳郎さんには道案内してもらった』
「写真見たよ!猫連れてたね!!」
「迷い猫か?」
「出留と猫なんて写真が送られてきたから何事かと思ったわ」
『あー、なるほどね?』
「流石に全部話すのはあれかなって」
『うん、ありがとう』
耳郎さんの心遣いに感謝しながら出久の頭を撫でて三人を見る。
「出留、猫はもういないのか?」
「兄ちゃん!僕も見たい!」
輝いて見える焦凍と出久の目。勝己はどっちでも良さそうに俺を見据えてて一度出久を下ろし、ベッドの下を見る。
『人使』
「にゃあ」
「「え、」」
招けばするりと飛び上がって腕の中に戻ってきた人使に、出久と勝己が固まる。焦凍は目を瞬いて首を傾げて、奥からちらりと黒色の毛が見えた。
視界に入れるなり宙を舞い、また頭の上に乗った先生に焦凍がぱちぱちとまばたきを繰り返して首を傾げる。
「随分と懐かれてんだな」
『懐かれてるというか仕方無いからって感じじかなぁ』
降りてくる気配のない先生に苦笑いを浮かべると出久が肩を震わせた。勝己も顔色を変える。
「ににににに兄ちゃん、さっきそっちの猫を人使って呼んでたよね??え、聞き間違いじゃなきゃその子心操くんってこと???」
『うん、人使』
「…………まさか、そっちの黒猫…」
『そ、先生』
「「…………………」」
「先生??」
一人状況の飲み込めてないらしい焦凍が首を傾げて、口田くんと耳郎さんが猫と俺の顔を見比べているうちに足音が近づいてきた。
現れたのはセメントス先生で今後について話される。昨日の授業でいたという生徒のことは教師側で調べてくれるらしく、俺達は待機を命じられ、猫二匹が腕の中に残された。
『一人にするのは流石に危ないからって言われても、俺も猫の面倒見たことないし大丈夫かな…?』
「…よければ、こちら…どうぞ」
そっと差し出されたのはルーズリーフの纏められたファイルで、不思議に思いながら受け取りページを開く。中は手書きの文字が並んでいて猫との友達のなり方と綴ってあった。
『え、いいの?』
こくりと頷き、口田くんがそれとと追加して袋を差し出す。同じように中身を見ればおもちゃらしく苦笑いを浮かべた。
『人使と先生が遊ぶかはわからないけど…ありがとう。すごく助かるよ』
「困ったら、いつでもメールください…!」
応援してますと両手を握って一生懸命話す口田くんにありがとうと返して、荷物を持って二人と帰る。
出たときのままの部屋の中に二人を放して、いくつか準備を終えてからメモを読み、大まかに把握したところで渡された袋からおもちゃを取り出した。
「にゃ、にゃっ!」
『やばっ、すげぇ俊敏な動きすんなぁ』
「にゃ〜っ!」
ばしっと掴んだおもちゃを口の中に入れてガジガジとかじり始めたから諭しながら取る。今は性質が猫寄りとは言え自我はあるようだし、口の中に食べ物以外を入れるのは良くないだろう。
おもちゃを気に入ったのは人使で、先生はのっそりと俺の足の上に寝転んでる。
人使が水を飲む。流石に専用の皿はないため食堂から少し深めの皿をいくつか借りて、水を入れておいた。ついでに買って来てくれたというキャットフードはいつ出せばいいかわからず封をしたまま横に置いてある。腹が減ったら意思表示してくるだろうしその時開ければいいだろう。
遊び疲れたのか水分補給を終えた人使も俺の足元に戻ってきて先生とは反対側に寝転んだ。
『お疲れー』
「んみゃぁ」
右手に寄り添ってきた人使の顎の下を撫でて、ゴロゴロという音を聞きながらぼーっとする。かけておいたアラームにはっとして手元を見た。
『二人ともお腹は?』
「にゃあ!」
「にゃ」
体を起こした人使とぺしりと尾を俺に叩きつけた先生。多分食べるということらしく二人が俺の上から退いたからキャットフードを取りに行く。
皿を二人分、パウチから一人前ずつ絞り出して両手に皿を持つ。床に置くのは難だしとテーブルに置いた。二人はじっと皿を見たあとにふすりと息を吐いて、ぺしぺしと尾でテーブルを叩く。
『別のものがいいですか?』
「みゃ」
首を横に振った二人にどうしたものかと考えて、水も横に添えてみたけど違うのか首がまた横に振られた。にゃあにゃあと何か訴えてきてる人使に先生も同じ目をしてきていて、口田くんから借りたノートを見てみるも答えはありそうにない。
「にゃあ」
「にゃー!」
『んー、難易度高けぇ…』
頬をかいたところで先生が近寄ってきて俺の右手に鼻先を寄せた。
『ん?』
何回も鼻先を押し当てるから手をどうにかしたいのはわかるけどやっぱり謎すぎて、そのうち人使も寄ってきて前足でぺしぺし叩かれる。手を浮かせれば今度は額で押されて皿にまで導かれた。
『えーと?』
「にゃー」
鳴いて、ちょこんと皿の横に座る。俺と目を合わせるなり口を開けて動きを止めたからもしかしてと一度立ち上がりスプーンを二つ持ってきた。
座り直して、一口分掬ってみせる。
『合ってます?』
「「にゃぁ」」
『そっすか』
先に食えと言わんばかりに先生は一度テーブルから降りて俺のももの上に戻ってくる。掬った分のキャットフードを人使に近づければ口が開いて舌が見えた。
舐めるようにして一口分、口の中に含んだ人使は味を確かめるように動かして飲み込む。口の周りを舐めて俺を見るから首を傾げた。
『おいしい?』
「にゃーん」
『そっかそっか』
緩く動いてる尻尾にまずくはないのかなと安堵してまた口元にスプーンを寄せる。結構なペースで食べ進める人使にあっという間に皿は空になった。人使は水を飲んで、ティッシュで口元を拭えば欠伸をして俺のももに戻ってきて寝転んだ。
今度は先生がテーブルに乗って、口を開けるからスプーンを替えて同じように運ぶ。人使よりもゆっくり食べた先生は水を飲んで、口を拭った。
二人がのっそりと優雅に食休みしてるからその間に来ている連絡を返したりニュースの確認、ついでに明日の授業準備も済ませてだいぶ遅めの時間になっていたからタオルを取った。
『俺風呂入ろうと思うんですけど、二人は…』
「「にゃあ」」
『入りますよね』
タオルを置いてメモを持ち上げる。口田くんのメモは初級編の友達のなり方から始まり、ご飯のあげ方、風呂の入れ方、これほどいたれりつくせりだとお礼はしっかりしないといけないだろう。
猫は自分で体をきれいにしてるからあまり風呂にいれなくても平気らしい。とはいえ、臭いがついたりしたときは風呂にもいれるそうで、人間と同じシャンプー、コンディショナーで洗ってオッケーの文字に俺が使ってるので大丈夫かなとタオルを多めに用意して風呂場に向かった。
足元についてくる二人を踏まないよう気をつけながら脱衣所を開けて、ズボンの裾をまくり上も半袖のシャツに替える。浴室への扉を開ければ二人が中に入っていった。
「にゃ」
「にゃあ」
『何言ってるかわかんないんだよなぁ』
口田くんの存在が恋しい。水気のない室内に扉をしっかりしめて、シャワーヘッドを取る。湯船に先端を向けてこら温度調節も兼ねお湯を出し、手に当てながら確認していく。人肌くらいの温度になったところでお湯を桶にためて、二つ分溜まったところでシャワーを止めた。
『どうぞ入ってください』
そろりと右の前足をお湯につけた二人。温度は問題なかったのか人使はさっさと桶の中に入って縁に顔を出して目をつむり、先生はゆっくりと静かに入ってその場に座った。
『じゃ、先生からお湯かけますねー』
「……にゃあ」
世話になることに抵抗があるとでも言いたげな渋い返事に笑って桶に手を入れる。手のひらで掬うようにお湯を取って体にかけ、優しく毛を撫でていく。
『痛くないですか?』
「にゃ」
目を瞑って尻尾をゆるく動かす。怒られてないからこのぐらいの力加減で問題なさそうだ。
しっかりと毛を濡らしたところでシャンプーを取って手のひらで軽く泡立ててから毛につける。口田くんによると顔は濡らさないように、人の地肌と同じく爪を立てず体を洗ってあげるとあったから細心の注意を払いながら手を動かした。
指の腹で揉むように毛と、その下の体を洗っていく。人よりも随分と柔らかくて小さいそれに苦戦しながらなんとか表面を洗って、見える範囲が泡だらけになったことで手を止めた。
『あー、先生』
「にゃ」
『お腹の方も洗ってよろしいでしょうか…?』
「……………」
忘れてたとでも言いたげに固まった先生に人使も思い出したように耳を震わせて目を開ける。二人は顔を見合わせた後に諦めたのか人使はまた目を閉じて入浴に勤しみ、先生は不服そうに短く鳴いて顔を上げた。
『あざっす』
「………にゃ」
背中を手のひらで支えて反対の手で腹を撫でるように洗う。さっきまでとは違いじっとこちらを見てくる先生に緊張感を覚えながらなんとか全身を洗って元の体勢に戻した。
『お疲れ様でした』
「……………」
疲労感のある先生の雰囲気に苦笑いを溢しながら声をかけて泡を流していく。桶の水を替えながら全身の泡を落として、もう一度お湯を溜めて今度は先生に浸かっていてもらう。
『人使ー』
「にゃー」
おうよとでも言ってるのかゆるく返事をして顔を上げた人使に泡をつけて同じように洗っていく。先生よりも毛が短い分泡立つのも早く、事前に先生が洗われてるのを見てたからか背中側がある程度終わったところで体勢を変えてくれた。
『ありがと』
「にゃ」
同級生の好か、ある程度気を許してくれてるらしく緊張感は少ない。先生と同じように尻尾まで洗ってから流して、コンディショナーも交互に終わらせた。
『タオル、タオル…』
先生は半身浴に興じてるらしく反応しないから先に人使を抱える。水を軽く絞って、タオルで包んだ。
湯船の縁に座って足の上にタオルと人使を乗せ、水気を取っていく。少しずつ柔らかくなっていく毛は俺と同じに匂いがして、先生を一度見てからドライヤーを用意した。
『乾かすよ』
「んみ」
目を瞑ったのは毛が入らないようにか。勢いの少ないブロー用の温風で設定して風を出す。ぴくぴくと耳が動くのは音の大きさのせいかもしれない。
出久の髪を乾かすときと同じように直接風があたらないように空気を送り込んで、全身がある程度乾いたところでドライヤーを置いた。
『どう?』
「にゃ〜」
機嫌が良さそうに鳴いた人使はタオルから抜け出すとリビングの方に歩いていって、浴室に視線を戻せば未だ先生は湯に浸かってた。
『もうちょい浸かりますか?』
「にゃ」
縦に動いた頭に俺もわかりましたと頷いて、もう一つの桶に湯をため直して先生に移ってもらう。先生の入った桶を湯船側に移動させて、洋服をさっさと脱いでお湯をかぶる。
「にゃ?」
『すぐ終わるんで浸かっててもらえると助かります』
「ん」
また顎を桶の縁に乗せた先生に頭を洗う。先生がどれくらい長湯するかは知らないけどなるべく手早く、行程をいくつか飛ばして洗い、タオルで自分を拭いて服を着た。
水の垂れてくる髪はタオルを首からかけて押さえて、先生を見る。眠るように目を瞑っている姿に手を伸ばした。
『先生』
「……………み」
『先生?』
小さな返事にそのまま先生を持ち上げる。四肢が脱力してる感覚とぺたんとした耳に目を瞬いた。
『え、大丈夫ですか?』
「…にゃ」
『のぼせてる?え、水?先に口田くん呼んだほうがいいやつ??』
先生をタオルで包んでリビングに向かう。カーペットの上で毛繕いしていたらしい人使が顔を上げて俺と先生を見るなり慌てて動き始め、水の入った皿をこちらに押してきた。
『助かる』
床に座って胡座をかいた足の上に先生を乗せる。右手でメモを持ち、左手で近くにあったストローをとった。皿にストローをさして本来口をつける部分を親指の腹で押さえて持ち上げる。
『先生、口開けられますか』
「み…」
頭を支えながら小さい口を人差し指で開けて、親指を離して水を流し入れる。舌が動いて水を飲むから何回も同じことを繰り返していれば人使がリモコンを踏んで温度設定を変えてくれた。
水は要らないのか首を横に振られたからストローを置いてタオルで包み直す。
『すみません、先生』
水気を取りながら覗き込めば少しぐったりしてるものの眠たそうな視線が俺を捉えて左前足が動いたと思うと俺の鼻を押さえた。
「にゃ」
『?』
「にゃー」
『えーと?口田くん呼びますか?』
「にゃ」
最後に首を横に振って手が離れる。目を瞬いていればさっさと拭けと言わんばかりにタオルに体を押し付けるから手を動かすことにした。人使の時と同じようにしっかり水気をタオルに移した後に水分補給を挟んでからドライヤーをあてる。
先生のほうが毛が長いから時間をかけて乾かし、ドライヤーを止める頃には先生が疲れたのか膝の上で手足を投げ出してた。
『お疲れ様でした』
「にゃ」
「にゃあ」
人使も鳴き、たぶんお疲れ様ですと伝えたのだろう。先生が返事をして、尻尾を上げて下ろす。
二人の毛並みを確認した後に携帯を見ればそれなりに遅い時間で、入浴で普段より大幅に時間を喰っていたらしい。
先生をクッションの上に下ろしてから二人には危ないからと端にいてもらう。さっさと布団を敷いて掛け布団と毛布も用意し、別にもう一枚毛布を用意してソファーに投げた。
敷いた布団の近くに預かっておいた二人の服が入った袋を置いて振り返る。
『時間も時間なんで、そろそろ寝ますよ。準備できたんでこっちにどうぞ』
「にゃー?」
とてとてと歩いてきた二人が布団に乗る。小さめの毛布を掛けて、立ち上がろうとすればぱっと二人が起き上がって俺を見た。
「にゃあ」
「にゃっ」
『ん?』
「にゃー」
『これはまた何言ってるわかんないやつか…』
今日だけでもう何度目かもわからないそれに息を吐く。あまりに二人がにゃあにゃあと鳴いているから口田くんヘルプを本気で考えたところで人使に袖口が咥えられて引っ張られる。
一生懸命布団に入れようとしているらしい様子に合点がいって首を横に振った。
『俺はソファーで寝るよ』
「にゃあ!!」
口を大きく開いて鳴いたせいで袖が離される。にゃあにゃあまた怒り始めた人使と、非難げな目を向けてきてる先生に頬を掻いた。
『二人で布団使えば良くないですか?』
「「にゃ」」
不機嫌そうに短く鳴いてぺしりと床に尻尾を叩きつける。
『かと言って俺だけ布団で寝るのも…』
「にゃあ」
「にゃ!」
『あー、何言ってるかわかんねぇ…』
口田くんを通して説得してもらおうにも時間も微妙で、もし眠っていたらと思うと申し訳ない。これ以上迷惑をかけるのは本意ではなく、先生と人使をソファーで寝かせるのは俺の気が引けた。
にゃあにゃあ言ってる人使とじっと物言いたげにこっちを見てくる先生。そのうちべしべし膝を叩き始めた人使に仕方なく抱え上げて顔を見た。
『二人で布団で俺がソファーで寝るか、三人で布団か。どっちかしか認めないよ』
「……み!」
目を瞬いた人使が大きく頷く。先生も満足そうに頷いた。
「にゃあ」
『と言っても二人がどっちに返事してるのかこれだとわかんないんだった。えーと、それじゃあおやすみなさい…?』
「にゃっ!」
人使を下ろして二人に布団をかけようとすれば先生がべしりと俺の手を叩いて人使が不服そうに鳴く。首を傾げれば先生の尻尾が腕に絡んで起き上がった人使が俺の服を咥えて引いた。
『…………これは三人で寝るってことで?』
「「にゃ!」」
『あ、うっす。失礼します』
布団に入ると右側に人使、左側に先生が横になって丸まる。布団を軽くかけてからリモコンで電気を消して明日の予定を再確認しながらアラームをかける。合わせて来ていたメッセージを返してれば寒いのか右肩あたりに人使が乗ってきて、左脇腹あたりに先生が触れた。
『っ……?』
苦しい気がして目を開ける。まだ少しだけ暗いカーテンの向こう側に日が昇ってないことは察して寝ぼけていてぼやける視界で苦しい原因を探す。
左側、腕から胸と腹にかけて重たいそれをじっと眺めて、黒色の影に先生かと当たりをつけてから重さの原因である先生の大きさに目を瞬いた。
即座に反対側を見るも人使はまだ猫の姿で右側、胸のあたりにいてよく眠ってる。
なぜかわからないけど先生だけ先に戻ったらしく、血流の滞りのせいか少しだけ痺れてる左手で先生に触れた。声を出すと流石に人使が起きるかもしれないから肩を揺らせば先生は一度顔を押し付けて、短く呻いたあとにちょっとだけ顔を動かして少し上を見る。
寝ぼけてるのか据わってる眼で俺を見てくる先生に苦笑いを浮かべた。
「なん、だ…?」
『先生、おめでとうございます。戻ってますよ。人使が起きる前に服着たほうがいいと思います』
「……?」
数秒の間の後、目を見開いた先生が起き上がる。長い黒髪が揺れて肩に落ちて、先生は自分の手足を見ると顔を顰めてから用意してあった服に手を伸ばした。
「すまん」
『謝られるようなことしてないんで気にしないでください』
身じろいだ人使を抱え直して撫でる。ぐるると小さな声が響いてまた眠りについた人使に着替え終わった先生が横に座り直した。
「いつ戻ったかわかるか?」
『謎です』
「そうか」
先生は自分の体や手足を見て息を吐く。
「心操はまだ戻ってないんだな」
『戻る条件も謎なのでなんとも言えないですけど、なんとなく、この感じならすぐ戻りそうですよね』
すぴすぴと寝息を立ててる人使の耳は猫らしくよく動く。先生が気まずそうに目を逸して立ち上がった。
「俺は報告に行ってくる。また朝に戻ってくる予定だが大丈夫か?」
『かしこまりました。お待ちしてます』
黒色の洋服を着込んだ先生が迷い無く部屋を出ていく。
会話をしたから目が冴えてしまって、相変わらずすぴすぴと眠る人使の頭を撫でる。もぞもぞと動いたと思うとまた顔を押し当ててきて、撫でているうちにまた眠ってしまった。
感じた重みに目を覚ます。息苦しさで起きるなんて既視感に視線を迷わずそちらに向ければすやすや眠る人使がいた。
まだ先生は戻ってきてないらしいから声を出して肩を揺らす。
『人使、起きて』
「ん〜」
多少ぐずったあとにゆっくり瞼を上げる。寝ぼけてるらしいその様子にもう一度肩に触れて笑った。
『おはよ』
「………はよ…いま、なんじだ…?」
『今は六時半だね。てか、それよりも気にするところない??』
「…ん?」
目元を擦った人使は自分の手を見てからがばりと音を立てて起き上がる。
「戻った!!」
『うんうん。よかったなぁ』
「本当に、もう戻れなかったらどうしようと思った…!」
『そうしたら家の子にして可愛がったよ』
「冗談だとしても緑谷と爆豪と轟に殺されそうだからそういう話はやめてくれ」
真顔になった人使に目を瞬いてから洋服を指す。人使の着替えが終わる頃に扉がノックされて、返事をすればどこか眠たそうな顔の先生が現れた。
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