暗殺教室

スキップをするというほどでもないが、足取り軽くぱしゃぱしゃとアスファルトを踏み締めリズミカルに歩く。

水溜まりも避けずに歩いていると踵を踏んでいる靴に水が染み込んでいった。

少し冷たい。

感じはするものの気に止めるわけでもなく歩き続けていると後ろから水溜まりを踏んだ盛大な水音が聞こえた。

「清水っ、はえーよ」

追い付いてきた前原陽人は横に並び、元は僕の傘を差し出す。

「家近いんなら途中まで一緒に帰ろーぜ。つか、傘のこの柄なんだよ」

殺せんせーと潮田渚たちはどうしたのか気になるもののあの様子では今頃綿密な作戦をたてているのだろう

『その傘は今年の1月頃に行っていた野菜ジュースを飲もうキャンペーンの紫野菜賞の懸賞品である傘だ。お気に入りなんだよそれ、ユニークだろ?少し大きいし中々だよね。
それにしても、身長180センチメートル前後の男子が一つの傘に入るのは些か滑稽にも見えるが…そうだね、クラスメイトと一緒に帰るなんて滅多にしたことないからこちらこそ是非。一緒に帰らせてくれ前原陽人。君と少々話したいこともあったからね』

二人で傘に入り歩きだす。
先程までの笑顔はどこへやら、彼は眉間にうっすらと皺を寄せ唇を噛んでいた。

今にも泣きそうな表情だ。

そんな傘をもつ前原陽人の右肩が雨に濡れているのには最初から気づいていた。

『君は天性のフェミニストかなにかなのかい?いや、この場合これは言葉の誤用だ。気遣いができる優しい人間だね。たしかにそれはとても大切なことだが、傷を抉るようで悪いけれど君は今日、今さっき、人の醜い部分を垣間見て理不尽な目に遇ったんだ。代わりと言ってはなんだが、少しくらい我が儘を言ってみたらどうだい?というよりも人に頼ったらいいと思うんだ。きっと杉野友人や潮田渚を筆頭に菅谷創介や磯貝悠馬、その他残りのクラスメイトたちだって頼ってほしいと思っているんじゃないか?
僕もあまり人に物事を頼んだりしないけれどたまにお願いすると何故かとても嬉しがられるよ。君もそうだよ前原陽人。頼るのが嫌ならお願いしてみたらどうだろう。一度人に言ってみると楽になるらしいよ?』

傘の取っ手を持ち彼のほうへと傾ける。

前原陽人は目を見開いた後に眉を八の字に下げた。

『今日は雨が強いからね。少しくらい濡れていたって不審ではないさ。僕は何も見ていないし野暮な殺せんせーも今はいない。勿論クラスメイトたちも。ああ、これは独り言だからね。
さて、雨が強くなってきた、これはしかたない。雨がちょっとでも軽くなることを願ってそこの公園で雨宿りでもしようかな』

均衡を保っていた雨脚は急に強くなり傘にあたる雨の音もばちばちと大きくなっていっている。

『急いでいないなら君も一緒に雨宿りでもするかい?前原陽人。』

誘ったことに大した意味はない。ただ一人で雨宿りなんていうとは味気ないからね

公園といっても遊具はほとんどなくただの広場である。 遊具で事故が多発すのは遊んでいるから仕方のないことでもあるけど総撤去はないのではないか。お陰でこの公園はただベンチと自動販売機が端にあるだけ、木々が回りを囲む自然と融合している。中心だけ木を刈られたようにも見えるが。

首を縦にも横にも振らない前原陽人に僕は笑って傘を持つ彼と歩きだす。

正直いって僕はもうびしょびしょなわけなのだから今更雨宿りなんて意味もないんだけどね

葉の生い茂る桜の木の下に立ち雨を避ける。

毛虫たちが落ちてくる可能性を考慮し傘は開いたままだ。

傘に落ちる水の頻度は少なくなったが一回一回の量は増えた。

ぼたぼたと落ちる雨音。

目線だけを隣の前原陽人に向ける。

唇を噛んだ前原陽人の瞳からは堪えきれず溢れた涙が頬を伝っていた。

彼はまだ中学生だ。それは僕もだけれどね、多感な年頃だし泣きたい時だってたくさんあるだろう

ぼろぼろと零れる大粒の涙に僕は彼から視線を外し落ちる雨を見つめる。


殺せんせーたちは一体どんな報復作戦を考えているのだろうか





声を圧し殺してただただ涙を流す前原陽人はずっと泣いていた。

傘の柄を両手で握り伝う涙を拭うこともしない。たしかに泣いているときに目を擦ると細菌が入って炎症を起こすと聞いたことはあるがこれはどちらかというと拭うことを忘れているようにも見える。

泣きかたまで子供らしくないね

じっと見ていたつもりはないのだけれど前原陽人と目が合ってしまった。 その瞬間彼は溢す涙の量を一気に増やす。

目が溶ける。みたいな言い回しがとてもよく似合う。

思わず手を伸ばし頭を撫でていた。

折角キューティクルでサラサラな髪が雨と泥で少し指にかかった。

「しみ、ずっ」

堰を切ったように溢れる彼の涙の流れる頬を撫で拭う。

「女、てこえーわっ俺…っ」

やっとここで彼の年相応の表情を見た気がする。

彼の持っていた傘を受け取り僕は微笑む。

手は止めないまま口を開く。

『そうだね。たしかに彼女は僕でも引いてしまうくらいに豹変したよ。でもそれは摂理だよ、人は皆仮面を被っているものだし人が変わるのはしかたないことではあるね。君だって好きな人には良く見られたいから格好のいいところや長所だけを見せるだろ?でもそれは自分を押し殺すことだ。必ずどこかで皺寄せが来てしまう。よく家のなかでは親や兄弟からとても誉められる子供がいるが学校では問題児。なんて言うのをよく聞く話だ。
君が今涙を流しているのは我慢してきたことの皺寄せだよね。人は泣くことでストレスを軽減させると科学的にも証明されている。たしか平均して全体の40%。だから君が今泣いているのは決して恥じることでも間違いでもないよ。この場合、忘れてしまうのは経験とならないから良いわけではないけれど、引き摺らないことは大切だ。これで人間不信に陥るのは多いが、君はそうならないと僕は考えているよ。君には先程一緒に怒ってくれた潮田渚や杉野友人、茅野カエデ、岡野ヒナタ、いつも学校で時間を共有している菅谷創介、中村莉桜、赤羽業、他にもたくさんの友人がいるよね?君の回りには優しい人で溢れている。だから君も優しいんだろうね、僕は少々羨ましいよ、君が。
ちょっと励ますつもりだったのに話がずれてしまった。僕には人を励ますってあまり向かないようだね。
言いたいのは無理に笑みを取り繕うことはないってことだよ。すぐに元気になる必要はない、今は泣いてまた落ち着いたら笑えばいいんだ』

本当にこのような言葉をかけるのが僕に向かない
どうしても無駄に関係のない話ばかりしてしまうね

前原陽人は呆けてから眉間に薄い皺を寄せたまま涙を流し、大丈夫だと口角を上げようとして失敗し唇を噛む。

彼の髪をすく。
止める術を知らないのか流れる涙はまだ止まらない。

「な、ちょっ、と肩貸してくんね?」

『勿論。びしょびしょだがそれでよければ好きにどうぞ。』

とんっと彼の体重が僕にかかり服に染みこんだ水が肌を伝う。

前原陽人の顔が耳に近寄り押しきれず漏れた嗚咽が届いた。

手を彼の背中へ回し等間隔で撫でるように叩く。

多分、彼の涙はまだ止まらない気がした。




前原陽人の涙が止まったのは降り注ぐ雨が本当に弱くなる頃だった。

彼は息を吐くと僕の服を握っていた手を後ろに回してきた。傍から見たら抱き合っているようにも見えるだろう

『前原陽人、どうかしたのかい』

「…知ってんか、ハグすんとストレスが軽減されんだってよ」

『……聞いたことはあるよ。1日30秒弱のハグで脳内物質のドーパミン、セロトニン、オキシトシンが分泌されるんだっけ。それによりストレスの三分の一解消されるらしいね。』

僕は脳医学についてあまり詳しい訳ではないしこの情報も不確定要素の多い話だけれど

前原陽人は「そーゆーこと」と回している腕に更に力を籠め肌を密着させてきた。

「落ち着くわ…」

『うん。そうかい、それはよかった』

人間思い込みが重要であるとは聞くけどたしかにこれは落ち着くね

ただ、耳元で喋られると息がかかって少々むず痒い

30秒といわず三分は経った気がするのにまだ離れる様子のない前原陽人に、悪い気は別にしない。

子供をあやす訳ではないが彼の背中を撫で叩く。

「子供扱いかよ…」

不満そうながら笑いを含んだ声色が耳に届いた。

『不服そうだね。僕は君を子供扱いをしてるわけじゃないよ。対等であり尊敬もするクラスメイトだと認識している。ただこの行為にいたったのは君がこの方が更に落ち着くんじゃないかと思ったんだ』

「………清水って…」

躊躇い気味に彼は口を開きまた閉ざした。

なにが言いたかったんだろう

ちょっとの間続きを待っていたがもう話す気はないようで僕の肩に顎を乗せている。

耳元に微かな呼吸音と雨の降り注ぐ音だけが聞こえて風流だと思う。

いや、呼吸音はあまり関係ないけれど。

ぐちゃっと雨でぬかるんだ土を踏んだ音が意識を浮上させる。前原陽人も気づいたのか体を強張らせた。

「……昴さん?」

全くもって僕というのはつくづく運がない。

鼓膜を揺らすテノール寄りの声は聞き覚えがとてもある。

幸い僕たちの姿は傘が遮りなにをしているのかまではわからないだろう

とんとん、と硬直している前原陽人の背中を優しく叩きながら小さく口を開く。

『君にはあまり関係のないことなんだがとても面倒なことになってしまったんだよね。恐らく僕といたのが君とわかると今後の君の生活に悪影響を及ぼしてしまいそうなんだ。僕が彼としゃべっているあいだに顔を見られないように公園を抜けてもらっても良いかい?傘は使ってくれて構わない。君を家まで送り届けようと思ったのだけれどこれでは無理そうだ。この埋め合わせは今週中にでも君が時間空いていればさせてもらえないかな。勝手なことを言ってすまない。』

彼は一瞬回していた腕の力を抜いてからもう一度力を籠めてきた。

心なしか歯を軋ませるような音が聞こえた。

「…明日、一緒に飯食いいこうぜ。それで、チャラな」

『ああ。それでよろしく頼むよ。ありがとう前原陽人』

ぽんぽんと彼の頭を撫で髪をすき手を離す。

「ぜってーすっぽかすなよ、楽しみにしててくれな」

最後に思い切り、きついくらい腕に力を入れられた。

前原陽人は腕を離すと傘を受け取り深くさしたまま駆け出していく。

「ぇっ」

急に走り出した前原陽人に彼は惑う。

僕は彼に声をかけ逸れていた気を戻す。

『やぁ。こんな時間にこんな場所で会うなんて珍しい。それはそうと僕は今傘を貸してしまってね。もう既に服は濡れているんだがよかったら傘にいれてくれないか?僕としては君と一緒に帰ったことがあまりないからたまにはそんなのも良いんじゃないかと僕は思う』

「…よくわからないけど…僕も昴さんと一緒に帰りたいです」

ふわりと頬を薄紅色にさせた彼に、僕は少々口角をひきつらせた。




前原陽人は無事に帰れただろうか






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