金田一少年
唐突だが、俺の学生時代、付き合っていた友人の話をしようと思う。
俺には同学年で話す相手はいなかったけれど、先輩と後輩に一人ずつ懇意にしている人間がいた。
先輩は一つ上、俺が一年の頃に二年だった明智先輩だ。なぜ出会ったかはよく覚えてはないけど、気づけば音楽室で三日に一回は会う仲になってた。
後輩は二つ下、俺が三年になったとき入ってきた一年生。こっちは明智先輩の時とは違って音楽室で会ったと断言できる。
明智先輩も卒業し、音楽室に入り浸るのは俺一人になってしまった。
外に咲いてた満開の桜は当の昔に雨風に耐え切れず散って、ごっそりといなくなった三年の代わりにだいたい同じ人数のフレッシュな一年生が入ってきて、校内は三月より前と同じくらいに騒がしい
俺は特に難しい曲が弾けるわけでもないのにピアノ前の椅子を陣取るのが日課になってた。
特に誰も来ないこの教室はとても静かで、防音もそこそこだから気まぐれで歌っても外に聞こえない絶好のスポットである。
そもそも明智先輩がいなければ俺は入学から三年間ここを我が城に出来たんだけど最後の年にしてようやくこの城が手に入った。
ピアノに体を預けて目を瞑って鼻歌を歌う。
子犬がはしゃぐような軽やかなメロディのその曲は、そういえばあの人の前で歌ったことがなかった気がする。
上履きの足音が聞こえてきて、ハミングを止め外に耳を向けた。
躊躇いのない足音はこっちに近づいてきていて、この教室の前で止まる。ちゃらりと鍵の音がして鍵穴に差し込まれた。
なんの抵抗もなく回された鍵はがちゃっと音を立てることなく、外の人が一瞬固まってから鍵を抜いて扉を開いた。
扉は俺から見えないのできっと向こうも俺が見えてない。そもそも俺は目を瞑ってるんだから見えるも何もないけどそのはずだ。現に、足音は出入口で止まってたのに中に入ってきた。
「鍵の締め忘れとは随分と不用心な…」
静かで冷たい声が聴こえる。
足音はこっち側に用があるのか少しずつ近づいてきて、かたんと音をたてた。
息を呑むような音がして、目を開ける。
烏みたいに黒い、寝癖やスタイリング剤とは無縁そうな髪と、内面の真面目さと冷静を表すような黒い瞳。
しっかりと目が合って、笑った。
『こんにちは』
彼は一瞬で警戒の色を濃くして、俺の制服の襟ぐりに留めてあるピンを見た。
「こんにちは、先輩」
警戒心の強い子だなぁと挨拶しながら思う。
ポーカーフェイスはなんちゃらの基本とかいうどこかで聞いたことのある言葉を思い出しながら、俺をじっと観察してる彼にまた笑いかけた。
『弾きたい?』
「…いえ、先輩が先にいらっしゃったようなので遠慮しておきます」
『いいって、気にしないで。俺弾いてなかったし』
帰ろうとする彼の袖を引いて俺の代わりに椅子に座らせる。
俺は少し悩んでから音楽室を出て行った。
初対面の名前も知らない人がいたらきっと弾きにくいだろうと思ってのことで、ただそれだけだ。
「こんにちは」
今日は先客がいた。
息でも潜めてたのか、ピアノも弾かずにピアノの前に座って入ってきた俺を見て笑ってる。
『こんにちは。今日もピアノ弾きに来たんだ』
「いいえ」
『ピアノ弾かないのに来たの?』
「先輩も弾いていなかったですよね?」
さらりと返されて目を瞬く。これは一本取られたってやつなのだろうか。
この子と話してると去年の三月に卒業していった人を思い出す。烏のようなこの子と白鳩のようなあの人は、顔、髪色、仕草、どれも似てないのにどうしてだろう。
『それじゃ、何しに来たの』
「先輩とお話をしに」
とてつもない物好きもいたものだ。
瞬きを一回してへーと答えながらピアノからさして遠くない椅子に座る。
一ヶ月前まで毎日のように座ってたのに、ここからの景色はずいぶん懐かしく見えた。
『何話す?』
「自己紹介からはどうですか」
“たかとおよういち”
字はどう書くか知らないけど、そう名乗った彼は予想通り、というか胸元のピンの示す通り一年だった。
「先輩は?」
『…そのうちわかると思う』
適当に濁したのには特に理由はない。
ただ、あの人と似てるこの子なら、なんとなく名前を言わずとも知られてそのうち名前で呼ばれる気がしたから無駄を省いただけだ。
そういえば明智先輩は、学年が違うはずなのにいつのまにか俺の名前知ってたなぁなんてほんのちょっと懐かしむ。
あの人今頃大学で警察になるための勉強してるのだろうか。卒業生として顔を出してくれたら挨拶くらいはしてもいいかもしれない。
たかとおくんは俺の名前にそこまで興味なかったのか、特に引きずることもなく“先輩”と俺を呼んで違う話に続ける。
内容はどうしてか、学校のことではなく音楽のことだった。
「先輩は楽器を嗜まれてるんですか?」
『んー、ピアノをほんのちょっと』
俺とは違って丁寧な言葉遣いは聞いていて悪い気はしない。
敬語の中の尊敬語をうまく使ってる言葉は俺の適当な敬語と比べようもないくらい完璧で、このまま面接試験受けさせたら即クリアできるだろうレベルで頭の中身の出来が違うのかなぁと思う。
「クラシックがお好きなんですか?」
『音楽のジャンルは隔てないけど…最近の曲はあんまり。ただ、歌いやすいのが好きかな』
「先輩、歌うんですか?」
『たまに、口ずさむくらいだけどね』
ちょっと混ぜたフェイクに気づいてないのか、気づいてるのか、ほんのり笑ったたかとおくんは滑らかに話をシフトチェンジしていって、気づけば主題はたかとおくんの趣味のマジックとやらになってた。
『今もなにか仕込んである?』
「いいえ、ここには勉強するために来ていますので」
ああ、嘘だななんて思いながらそれは残念と笑う。放たれた言葉に混ざった陰りの匂い。この子は生粋のマジシャンというか奇術師というか、そんな匂いがするのだから今だってマジックの一つ二つできないことはないはずだ。
『いつからマジック練習してんの?』
「小学生の頃からです。幼い頃に見たマジックショーに感銘を受けまして」
ほほー。なんて頷き、話すうちにすっかり固まってた首の筋肉をまわした。
パキポキと音がして、慣らし終わったからそのまま上半身を窓に向けて机に伏せる。
「飽きてしまいました?」
『んーや、楽にしただけだからも気にしないで』
ここにピアノの音が聞こえてきたらそれはもうとてもと言うくらいに一ヶ月前の再現なわけで。
よく考えたら彼は受験シーズンの11月から2月までも、自由登校の3月も俺が行く時は音楽室にいたけどいつ勉強してたんだろう
この子だけでなく、あの人もやっぱり俺と出来とかいうやつが違うのか。こんな身近に出来のいい人を集めなくてもいいのに。
『たかとおくんは将来マジシャンになるの?』
「…さぁ、どうでしょう。」
きゅっと眉根を寄せたたかとおくんの顔に疑問を抱かないわけではなかったけど、そんな突っ込んで聞くほど仲良くもない。埃みたいな薄暗い臭いがしてそっかと流した。
「先輩の進路をお聞きしても?」
『まだ決まってないねー』
机に伏せたまま答えたから相手がどんな顔をしてるかは見えないけど想像はつくわけで、たかとおくんはきっと物珍しそうにしてるんだろう
硬い靴底の響かせる音が少しずつ近づいてきてることに目をつむって、どうせならと口を開く。
『たかとおくん、なんか弾いてよ』
「今ですか?」
『そ。たかとおくんがどんな感じで弾くのか気になった』
さぁさぁ、と急かすとほんのちょっと迷ったように視線を落としてピアノに手を伸ばした。
蓋を開けて、敷いてあった布をとって指を置く。
すぅっと息を吸ったたかとおくんは白く細い指で鍵盤を叩き始めた。紡がれていく音にはどこか耳に馴染みがある。この曲は、よく彼も弾いてた覚えがあった。
外を歩いてた足音が止まって中を覗く素振りを見せる。
そりゃあ、卒業した人の弾いてた曲が流れてきたら驚くだろう
視線を外してまた机に伏せる。小さくも大きくもない音はもちろん煩くもなく、心地良い音色に瞼をおろした。
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