あんスタ(過去編)


「ぼくはしゅうもれいも、わたるも、なっちゃんも、みんながげんきでいてくれるのがいいんです」

誰もが目を留めるような美しい笑み。それに違和感を覚えたはずなのに言葉が見つからず唇を結べば、その人はそれ以上何も言わなかった。


【紅紫一年・秋】


走って、走って、

息が上がるのも気にせず走ればその人は学園から一番近い海沿いの、防波堤の上にいた。

『深海さん!』

上がった息が苦しくて喉を通る空気が痛い。それでも叫ぶように呼べば背を向けていた深海さんはゆっくりと振り返って俺を見据えた。

「……ほくはさがさないでほしいと『いった』はずですよ、はくあ」

無表情に近いその顔は普段のその人を知る人からすれば別人にも思えるだろう。

つい先日、他の奇人と同じように討たれたこの人の様子がおかしいのは気づいてた。けれどこの人なら大丈夫だと、この人はとても強いから壊れないと俺はどこかで思っていたらしい。

目の前の深海さんはあの日と変わらず美しいけれど儚く、今にも消えてしまいそうだった。

『……僕が貴方の言うことを聞く義理はありません』

「…ひどいこうはいです」

泣きそうなのに笑う。口角だけ上げた歪な表情に心臓が握られたように痛くて悲鳴を上げてしまいそうだ。

唇を噛んで、言葉を選んでゆっくり吐き出す。

『貴方はこれから何をする気なんですか?』

「…………ぼくはもう、『つかれて』しまいました」

感情が削げ落ちた声。察していたとはいえ直接答えを突きつけられれば目を逸らすことはできない。

柔らかな後れ毛が海風に煽られて舞う。傾いた日に照らされた海も空もオレンジで、舞い上がった髪だけが淡い水色に光ってた。

「ぼくは『かみ』でも『あくにん』でもありません。それなのにどうしてまつりあげられたり、『ころされたり』しないといけないんですか?」

嘆いているのではなく、憤っている。そんな初めて見る姿に思わず目を見張って息を飲めば眉根を寄せたまま深海さんは首を傾げた。

「………ぼくが『しぬ』ことでまわりが『しあわせ』になるというのなら…ぼくの『しあわせ』は、どこに『ある』んですか?」

縁から零れ落ちた涙が頬を伝う。

「ぼくは『しあわせ』になってはいけないんですか?」

『……………幸せになってはいけない人間なんていませんよ』

「それならどうしてぼくは『ころされた』んですか!」

胸元で右手を握りしめて叫んだ深海さんにかける言葉を迷う。

「ぼくはただみんなと『しあわせ』にすごしたかった、それだけなのにいつだってぼくの『ねがい』はとどかない…っ!」

この人が穏やかで、柔らかな笑みの底でどれだけのものを飲み込んで自分を犠牲にしてきたのかはわからない。きっとあの笑顔に嘘はないけれどこの涙だって嘘ではないはずだ。

生き神として制限の多い日々を送っていた深海さんの処刑になにも感じなかったわけじゃない。俺が目を逸らしてある間にこの人だって泉さんや斎宮さんと同じくらい苦しんでいて痛みから壊れていってたんだろう。

『たしかに、今まで貴方の願いが聞き届けられたことは少なかったと思います』

「…………」

『貴方は箱庭に押し込められ飼われ、今度は晒されて手折られた。貴方の想いも願いも無視したこの世界に嫌気が差すのも当たり前だと思います』

仄暗い瞳を見据えてみるけど目があっている気はしない。今までの深海さんからは考えられない曇った瞳は、話しているこちらのほうが不安になるほど底が見えず重い。

苦しくなる胸に呼吸を意識してまっすぐ深海さんを見据える。

『ですが、どれだけ貴方が消えたいと願ったとしても僕は今目の前で消えようとしている貴方を見過ごす訳にはいきません』

「………『なぜ』ですか」

眉間に寄せられた皺に感情を押し込めて、笑みを浮べた。

『それが僕の願いだからです』

「……………『かってなこと』をいうんですね」

怒りを混ぜた表情。冷たい声に心臓は痛みを感じたけど繕った笑みはそのままに手を伸ばす。

『ええ。僕はとても勝手なんです。ですから貴方がいくら死にたがっても死なせてはあげません』

「……『けんか』をうっているんですか?」

『いいえ、まさか。僕は貴方と交渉したいんです』

冷静さを欠かないようしっかりと呼吸をして、目を逸らさず見据える。

『俺が今後、貴方の願いを叶えます』

大きく揺れたペリドットと同じ色の瞳。期待と疑心に満ちたその目に口角を上げたまま息を吸って、吐き出す。

『願いを叶えます。ですから、貴方は俺がいいと言うまで消えないでください』

「……それは、いまのぼくの『ねがい』はかなえてくれないことになりますね」

『はい。それでは交渉する意味がなくなってしまいます』

「…………きみがそうまでしてぼくを『とどめる』りゆうはなんですか?」

見極めるような鋭い視線が刺さる。潮風が肌にまとわりつくように俺達の間を抜けて、一度目をつむってからゆっくり開いた。

変わらず俺をみつめてるその人に笑みを浮かべる。

『今、貴方に消えてほしくない。ただそれだけです』

「………いみがわかりません」

納得がいかなかったようで眉根を寄せて声を低くする。これも、今までも、どれも今日は初めて見る表情ばかりで少しだけ込めてる力を抜いた。

『……貴方は、失意のまま消えてしまうにはあまりに勿体無い人だと思ってます』

「…………」

『これは俺のただの願望ですから、貴方を無理やり引き留めるだけの力はありません。けれど俺は、貴方のように綺麗な人が居なくなるのはもう見たくない』

「……………きみもぼくを『もとめる』んですか?」

『求めると言えばそうですし、違うとも言えます。俺は貴方に望んでいる訳じゃ無い。ただ、今の状態で貴方に消えてほしくないから貴方の願いを叶えるんです』

表情が戸惑ったものに変わる。言われていることの意味を理解しようとしてるのか妙な間が置かれて、噛み砕ききったのか再び俺を見据えた。

「ねがいをかなえる、ですか……。きみは、ぼくに『いきてほしい』のではなく、ぼくをとおしてみている『そのひと』がきえてほしくないんですね」

頭を殴られたときと同じように目の前が一瞬ぐらつく。心臓が痛くなって息が苦しく、それでも笑みを崩さず見据えればどこか悲しそうに微笑んだその人は頷いた。

「ぼくを『もとめないひと』はすくないけれどそんざいしました。けれど、きみほどに『ぼくじしん』をみず、ほっしてこないひとは『はじめて』です」

悲しみと喜び。相反するはずの感情を伴って微笑む深海さんはとても美しく同じ人には見えない。本当に神様のようだ。

「きみはほんとうにぼくの『おねがい』をかなえてくれるんですか?」

『俺が叶えられる範囲ならば』

「ふふ、それなら『あんしん』です。きみに『じょうげん』はありませんから」

傾ききった陽に空は紫色になり、星がきらめき始めてる。淡いはずの星の光を背に深海さんは嬉しそうに笑った。

「ここまでいわれてはしかたありません。せっかく『すてきなかみさま』があらわれたんです。いますぐ『きえる』のはやめます」

『ありがとうございます』

「……はくあ」

ほっとして息を吐くより早く、俺の名前を呼んだと思うと柔く笑んで足を踏み出した。

「ひとつめのおねがいです」

『え、』

防波堤は一mも幅はないはずで、そんなところで大きく踏み出したその人の足は宙を踏み重力に従って落ちる。

「ぼくをうけとめてください」

『っ』

落ちてくるその人の言葉を聞き入れるより咄嗟に手を伸ばした。防波堤はあまり高くない。だからといって俺よりも背丈があるその人が重力を伴って落ちてくれば腕にはもちろんそれなりの体重がかかり勢いを殺すために一緒に倒れ込んだ。

「ふふ♪」

『……なんで楽しそうなんですか……びっくりしましたよ、もう。……ちゃんと受け止めましたよ?』

「はい。そうですね♪」

人の上に座り笑う深海さんは涙を溢していて、降ってきた水が顔に落ちてきて冷たい。

「きみはほんとうに、ぼくなんかよりも『かみさま』にちかいそんざいですね」

『俺はそんなだいそれたものじゃありませんよ』

「ふふ。じつはつぎの『おねがい』もきめてあるんです」

『急ピッチですね。なんでしょうか?』

ごそごそとブレザーを手探って、はいと取り出したのは日常生活にてよく見る刃物の一つで、目を瞬いていると俺の手を取ってそれをもたせた。

「ほんとうはこれでくびでもさそうとおもってたんですがもういらなくなってしまいました」

『…………思いとどまってくださってよかったです』

「これはさすものじゃなくてきるものですからね。はくあ、つぎの『おねがい』です、きいてくれますか?」

ぼたぼたと落ちてくる涙は留まる気配がない。

だけど憑き物が落ちたように年相応どころか実年齢よりも幼く、あどけなく笑うその人に頷いて耳を傾ける。

『はい、なんですか?』

渡されているそれごと手を握られて、引き上げられる。自身の首筋に手を持っていくその行動に背筋が冷たくなって、刃先が宛てがわれた。

「かみをきってください」

『………今ですか?』

「はい、いま、ここでおねがいします」

薄暗く手元も定かじゃないのに正気の沙汰とは思えない。

少し考えてから頷いて、空いている右手を地面に置き体制を整えてから反対の手に鋏を持った。

『正面から切るんですか?』

「ここからうごきたくありません」

『………後で整えさせてくださいね』

「わかりました♪」

長い後れ毛に触れて、真正面で未だ涙を溢しながら笑うその人を見据える。

『長さに要望はございますか?』

「きみのすきなながさにしてください」

『……文句言わないでくださいよ?』

「だいじょうぶです。『しんよう』していますよ、はくあ」

右手に持った鋏を開いて閉じる。嫌に耳に響くその音の後に指先に触れていた髪が風に持って行かれて消えた。

「…………ふしぎです」

髪を切り進めていくうちに溢れる涙か減って、ほとんど切った頃に今まで黙っていたのにぽつりぽつりと言葉をこぼし始める。

「かみのけなんてすうぐらむにもみたないはずなのに、きみがきってくれているおかげでどんどんこころが『かるく』なっていきます」

『……錯覚ですよ』

切り終わったから手を下ろす。それでも言葉は止まらずに虚ろな目が隠されるように瞼が降りて、額を合わせた。

「ぼくのかみはいきがみの『しょうちょう』みたいなものですから、きっといまかみさまのぼくが『しんだ』んでしょうね」

『…前髪は後で切りますね』

「ここにいるのはもういきがみではなく、ただの『しんかいかなた』なんですね。…ああ、とても『いき』がしやすい」

すっかり短くなった後れ毛。今までとは違う表情はどれも見たことのないものなのに何故か安心して、倒れ込んできたその人の腕が背に回ったから俺も背に回して優しく叩く。

「かなしいんです、はくあ。でも、どうしてかとってもうれしくて、」

『深海さん、貴方はもうただの人です』

「ぼくはもう、かみさまでもかいぶつでも、ばけものじゃなくていいんですか?」

『はい。ただの人なんですから、普通に友達と遊んで、喧嘩して、好きなときに勉強して、ご飯を食べて、眠ればいいんです。誰かの願いを叶える必要も象徴である必要もありません』

「ぼくは、ただのひと」

『海が好きなのも、太陽が少し苦手なのも、それは神だからではなく貴方の好みで個性の一つです。これからは思うように生きて少しずつ世界に適応すればいい。斎宮さんとも日々樹さんとも、貴方が望むのなら、一緒に元気に楽しく生きればいい』

「、はい」

頷いた深海さんの背を撫でながら空を見上げる。真っ暗な空に煌々と光る星。肌を撫でる海風がすっかり冷たいけれどたまにはこういうのも悪くないだろう。

波の押し寄せる音が大きく聞こえて目を瞑る。どれぐらい背を撫でていたのかはわからないけれど小さなくしゃみに目を開いて髪を撫でた。

『風邪を引いてはいけませんから、そろそろ室内に向かったほうがいいと思いますよ』

「ん、そうですね…」

緩慢な動作で頷くと背に回っていた腕がおりて距離を取る。暗いながらも目が慣れているからか向かいにいるその人の顔はよく見えた。

泣いたからかとろりとしたペリドットを緩ませてまた額がぶつかった。

「はくあ、つぎの『おねがい』です」

『はい』

「きょうからみっかかん、いえのひとはしゅうかいのかんけいでだれも『いない』んです」

『そうなんですか』

「それにぼく、いえのかぎをさっきうみに『すてて』しまいまして」

『え?』

「『かえる』ところがないので『ねどこ』をよういしてください」

いい笑顔を見せるその人に頭が痛い。

俺を便利屋かなにかと勘違いしてるんじゃないだろうか。頭を押さえてから息を吐いた。

『髪も整えないといけませんし、近くに事務所の寮があるのでそこに行きましょう』

「さすがですね♪そうなればさっそくいきましょう♪」

あっさりと上機嫌のまま俺の上から退いた深海さんにため息をついてから立ち上がる。

『貴方は行動派ですよね』

「ぜんはいそげといいますからね♪」

服についた砂を払って整えたところで手が取られた。弾むような軽やかな足取り。聴こえてくる鼻歌は聞いたことがあるような、ないような、記憶に定かではなかったけど今まで見てきたいつよりも柔らかく手を握り返した。

『深海さん、こっちです』

「はーい♪」

返事だけは素直なんだけど。少し目を離すと興味が向くままに歩き始めてしまうからその都度息を吐いて先導する。

“生き神の深海奏汰”が死んだと本人がいくら言ったとしても、人は何かに縋らなければ生きていけない。一度信仰したものを捨てることは稀だし、神の方から消えたとなれば憎悪の対象になるだろう。

ポケットの中で揺れる携帯をそっと取り出してメッセージを返す。

明日から更に忙しくなる。



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