あんスタ
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エントランスのカードキーとパスコード。部屋入り口の二重ロックを手早く外したところで扉を開けて押さえる。慣れた様子で一番に入っていった瀬名くんはまっすぐリビングに向かい電気をつけ、家主より先に荷物を置くとネクタイを解いた。
「しろくん、俺ソイラテねぇ」
『なら手伝ってください』
家主はキッチンに立ったところでため息をつく。
初めて入ったらしい奏汰くんと宗はきょろきょろと周りを見てどうしたらいいのかわからないらしく入り口のところで立ち尽くしていた。
「アンタたちなにやってんのぉ?さっさと上着脱いだら?」
『ハンガーがあるのでそれに掛けてください。他にも欲しいものや、わからないことは泉さんに聞いてくださいね』
カウンターキッチンから声が聞こえる。水の音の後になにかの電子音。もしかしなくとも湯を沸かしてるのだろう。
ぽけっとしてた奏汰くんはゆるく笑んで両手を合わせた。
「そうですね、おうちにかえったらてをあらいましょう!」
「先に上着脱いじゃいな。はい、掛けて」
「……瀬名は随分と詳しいのだね?」
「何回か来てるし、この家物自体はそんなに多くないから。はい」
二人にハンガーを渡して、ついでに俺にもハンガーが渡されたから脱いだコートとブレザーをかける。そのままラックに掛けて、揃って洗面台へ向かった。
瀬名くん、奏汰くん、宗、順番に手を洗い抜けたばかりの廊下を歩いて戻る。すぐ右手にあるキッチンには飲み物を用意しているらしいそれが立っていて、何故か目についた。
「何か手伝えることはあるかのう?」
『お気遣いありがとうございます。でもお客様なんですからどうぞくつろいでいてください』
手を止めて、目を見て微笑まれればそれ以上何も言えない。頷いてソファーに座る瀬名くんたちのもとに足を運ぶ。
「整頓されているのだね」
「物がないだけでしょ」
「すっきりとしたおうちですね〜、でも、ちょっと『さびしく』みえます」
促されるまま三人用のソファーに座る。リビングを見渡す二人に、瀬名くんはつけたテレビのチャンネルを変えながら相槌をした。
「…モノクロかと思っていたけど、ウッド調なのだね」
以前、俺も感じた部屋の違和感。宗が首を傾げると同時に影がかかった。
『僕の趣味ではないですから』
おまたせしましたとテーブルにカップが四つ並べられる。
一つだけ色が違っていて、いつだかに見た覚えのある銀に水色のラインが入ったマグカップを取った瀬名くんは息を吹きかけて口付ける。客人用なのか癖のない白の陶器には紅茶が注がれていた。
『あ、紅茶でよかったですか?』
思い出したように首を傾げられ全員が首を縦にふる。それはよかったとミルクと砂糖も用意して、瀬名くんの隣に腰掛けた。宗は角砂糖をひとつ、俺はミルクをほんの少しだけ足してコーヒーを飲んでいるとソイラテを置いた瀬名くんが足を組んだ。
「お腹すいたんだけど。いつできるわけ?」
『…座ったばかりなんですけど……?』
肩がつきそうなくらいの距離で言葉をかわしため息をつく。
『皆さん、お腹はすいてますか?』
「おさかなさんが『まちどおしい』です♪」
「急くほどでもないから皆に合わせるぞ」
「僕は時間を決めているからその時間内に口に入れれば構わないのだよ」
『そうしたらもう作りはじめますね』
特に異議がなかったのか、座ったばかりのソファーからカップを持って立ち上がった。
トレーと一緒にキッチンに向かって、そうだと少し遠くから声がかけられる。
『泉さん、暇ならデッキとパソコンくらいなら使って大丈夫なんで皆さんで時間つぶしててください』
「ん」
ひらひらと手を振り短く返した。キッチンから水音と何かが置かれる小さな音が聞こえる。包丁の音が聞こえてきたところで瀬名くんはつむっていた目を開いて、飲んでいたソイラテから口を離した。息を吐いたと思うとカップを置いて立ち上がる。
慣れたようにテレビの横にあるパソコンに電源をつけて、その横にある機材にも電源を入れると几帳面に並べられたケースを手に取った。そのうちの一つを取ったと思うともとに戻して、テレビだけチャンネルを切り替える。
「さわって『へいき』なんですか?」
「しろくんが良いって言ったんだから問題ないよ」
電源の入ったノートパソコンを持ち上げてソファーに戻ると膝の上に乗せた。コンピューターに目を輝かせるのはすぐ機械を壊してしまう奏汰くんとあまり触れることのない宗で、それを横目で眺める。
瀬名くんは俺達を見て呆れたように息を吐いた。
「アンタらそんなに機械疎いんじゃ、撮影されたの見たことないでしょ」
「生徒会が撮っているもの以外でかね?」
「そう」
立ち上がったパソコンは初期設定のウィンドウで、いくつかのファイルとブックマークが並び、そのうちの一つをクリックした。
慣れた手つきで進んでいき、画面を切り替えていく。そのうちお目当てのものを見つけたのかファイルをクリックした。
少しの間のあとに音楽がスピーカーから流れる。合わせるようにテレビに映ったのはまだ昔の衣装を着ている仁兎くんだった。
「仁兎、仁兎!ああっなんて可愛いんだ!!」
ぱっと表情を明るくした宗はテレビの前に張り付いて、奏汰くんは不思議そうに瞬きをする。
「はじめてみる『あんぐる』ですが、これは『だれ』がとったものですか?」
「しろくんたち」
「………はて、ライブは撮影禁止じゃった気がするがのう…?」
悪用を防ぐため、決められた役職の人間以外が撮影することは校則で禁止されてる。その中で初めて会った時からその許可を持っているわけではなかったはずのそれに首を傾げる。瀬名くんは俺も知らないとパソコンに目を落とした。
「バレないようにやる方法なんていくつでもあるんじゃない?結構いろんなの撮ってるみたいだからまだ他にもあるよ。ほら」
差し出されたのはタイトルが並ぶ画面で日付とおそらくその時の催し名、参加者の名前がつけられてる。目を輝かせた奏汰くんが顔を上げて俺を見た。
「れいとわたるが『かんげいかい』でおどったのもとってあるみたいですよ!」
「…なんじゃと?」
「つぎはこれをみましょう♪」
「待っておくれ奏汰くん、もう少し皆の意見を聞いてから決めんか?」
「ぼくは『かんげいかい』がいいとおもいますよ?」
「俺は何でもいいよぉ」
「わ、我輩にも他に何があるか見せておくれ」
「好きに見れば?」
差し出された画面は比較的古いものが多いのか一、二年前の日付が多い。二年前となればまだ入学したてのはずなのにどう撮影したのだろうか
あの頃頂点だったValkyrieや会長として大きめの舞台に引き摺りだされていた俺、渉。時折奏汰くんやチェス時代の瀬名くん、月永くんの演目も並んでいる。スクロールしていけばfine.のライブも残っているようで凪砂くんと日和くんの名前もあった。
「瀬名!他にはないのかね!?」
いつの間に終わったのか、Valkyrieの動画から違うユニットの動画に変わっていた。パソコンを持つ瀬名くんに突っ込んだ宗。瀬名くんは眉根を寄せて、ついでに奏汰くんも瀬名くんに近寄った。
「仁兎が見たい!」
「ぼくは『かんげいかい』がいいです~!」
「あー!もう!近寄らないでよ!ちょーうざい!!」
各々の主張が強い。瀬名くんが怒ると同時に音が消えた。
「あれ?とまってしまいました…?」
心配そうにテレビの方を見て首を傾げる奏汰くん。手元に視線を落とした瀬名くんは画面を見て目を丸くしてた。
「変なの押したかも?」
瀬名くんの声とほぼ同時、流れ出した軽快な音楽と可愛らしい三人の男の子が相応しいような子供の映像。なにかのCMなのか、お菓子のパッケージを持っているそれはうちの学園の生徒ではなさそうだった。
「あれ…?」
奏汰くんは瞬きを繰り返したあとに短く唸って、ああと手を叩く。
「この『しーえむ』、みたことがあります。すごくかわいくて『すき』でした♪」
「ああ、たしかに覚えている。…僕はあまりテレビを見る方ではなかったけど、町中でも流れていたし、ポスターもあって…なにより、仁兎には及ばないがどれも可愛らしい顔立ちをしていたのだよ」
「なつかしいですね♪」
十五秒にも満たないCMはあっさりと終わり、次の動画が再生される。さっきのは本当になにか間違えてたのか、次にはまだ創立したての紅月の動画が流れた。
「おお、蓮巳くんが若いのう」
「鬼龍も凄み過ぎでアイドルの顔ではないのだよ」
言葉はきついのに視線は外さない。じっと画面を見て鬼龍くんを追う目に素直じゃないと首を横に振る。
「いずみ?」
「……なに?」
「どうしましたか?」
「何もないけど?」
パソコンを持つ瀬名くんは視線が落ちたままでかといって手が動いているわけでもなく操作しているようには見えなかった。どこか心配そうな表情の奏汰くんに瀬名くんは二度頭を小さく振って、右手を動かし何か押した。
「懐かしいねぇ」
「うわぁ…、ごろつきじゃないですか…」
流星隊パープルと名乗る三毛縞くんに奏汰くんが肩を落とす。楽しそうに笑った瀬名くんの視線が一瞬逸れて、その先を追う。キッチンには調理中のそれがいるのに変わりなくて、どうやらイヤホンをつけているらしくこちらのやりとりを見ている様子はなかった。
俺が視線を戻せば瀬名くんはもうパソコンの方を見ていて小難しい顔をしている。
「、瀬名くん」
「なぁに」
表情と声があっていない、あまりに柔らかな返しに言葉が詰まってしまって目を逸らした。
「えーと、2winkやTricksterの動画はないのかえ?」
「どうだろ?…でもせっかくならゆうくんの舞台も見たいねぇ」
急に鼻歌でも歌いそうなほどに声を弾ませて指を滑らせる。目当てのものを見つけたのか上機嫌のままキーを叩いた。
『泉さんの手の届くところには何も置かないようにしないとなぁと改めて思いました』
家主は料理を持ってテレビを流れるTricksterの動画に大きく息を吐く。原因は見ている動画で、瀬名くんが遊木くんのところで騒いだ結果、ついていくことのできなかった宗と奏汰は二人して隅に追いやられていた。
「ふふ、時間つぶしにはちょうどよかったねぇ」
ご満悦といった表情に、ため息をついたそれは出来上がったらしい料理をテーブルに並べ始める。
魚に気づいた奏汰くんが目を輝かせて椅子に座った。宗も戻ってきて、瀬名くんは動画を止めて元のチャンネルに戻す。
何度目かになる往復を終わらせて、テーブルに皿が並んだ。
「とってもおいしそうです~♪」
「いい香りだね」
二人は笑みを零して、瀬名くんは目を通したあとに頷く。リモコンを拾ったそれも席について首を傾げた。
『ご飯時にテレビはつけておく派ですか?』
「ぼくはごはんをてーぶるであまりたべたことがないので、みなさんにまかせます♪」
「僕はよく影片や家族がお笑いなどバラエティを見ているからそれを流していることが多いね」
「我輩は凛月がいれば凛月に話しかけているからテレビはどちらでもいいんじゃが…凛月はいつもテレビに目を向けていて会話をしてくれぬ」
「それ無視されてるんじゃない?」
『とりあえずつけときましょうか。今ならバラエティも色々やっているでしょうから』
適当にチャンネルを定めたのかバラエティが流れ始める。特に見ていなくとも音が流れているだけで賑やかな空気になってる。
「いただきまぁす♪」
「いただきます」
箸を取り笑んだ奏汰くんは早速魚に手を伸ばし、瀬名くんは小鉢に用意されたお浸しから食べることにしたようで口に運んだ。宗も静かに手を合わせた後に豆腐に手を伸ばした。俺も蒸し野菜を摘んで、全員が手を付けたことに安心したように最後の一人も箸を取った。
「はくあ!おさかながとてもふわふわです!」
「味も丁寧で好みだよ」
『ありがとうございます』
二人の賞賛にはにかんでお茶に手を伸ばす。喉を潤してグラスを置いたと思うと真ん中にまとめて置いてある調味料の器から醤油差しを取って瀬名くんに渡す。流れるように受け取った瀬名くんはお浸しを食べきり、空いた小鉢に醤油を掛けて返した。一連の流れを眺めて目を瞬く。
渡した側も、渡された側の瀬名くんも、なんの合図もしていなかった気がするのにどうして疎通できたのだろうか
「はくあ、ぼくもおしょうゆかしてください♪」
『はい、もちろんです』
気にしている人間はいないのか、奏汰くんは醤油差しを受け取って魚に垂らすと返す。宗も上機嫌で箸を動かしていて、息を吐いた。
気にしすぎては、こちらの身が持たない。
夕餉も終わり、片付けをする。皿をまとめて運べば慣れた手つきで片付けて、一息ついたところで宗と立ち上がりコートを取れば首を傾げられた。
『あれ?泊まっていかないんですか?』
きょとんとしたのはキッチンではなく別室からリビングに戻ってきた家主で、洋服らしきものが抱えられてる。瀬名くんは呆れたように息を吐いた。
「アンタ麻痺してるねぇ」
『そうなんですか?』
「えっと、おとまりかいをして、きみは『めいわく』じゃないんですか?」
『迷惑ならご飯も了承しませんよ?』
目を瞬いたそれの言い分にこちらも首を傾げてしまう。
微妙な空気感につけたままにしてるバラエティが流れていて俺達の様子にか視線を落とした。
『もしかして……晩ごはんと風呂と泊まるのはセットじゃないんですね…?』
まごうことなき真実に俺と宗は息を吐き、奏汰くんと瀬名くんは笑う。
「それは誰に教えられた常識なのだよ?」
『黄蘗と木賊です…』
「だまされていませんか??」
『うーん、光さんもそうだからてっきりそうなんだとばかり…?』
「流されてるねぇ」
『泉さんもそうじゃないですか』
「帰るの面倒なんだもん」
瀬名くんはひらひらと右手を振ってリビングに隣接する扉をあけてる。確かそこは客室ではなく私室だった気がするけれど誰も気に止めない。
一人減ったことで視線は真ん中に集まって、頬をかいた。
「んん、……であれば、夕飯にお邪魔した時点で宿泊も込みだったというわけじゃな?」
『ええ』
迷い無く頷かれてこちらが戸惑う番だった。俺と宗が迷う中、奏汰くんは目を輝かせて表情を綻ばせる。
「はくあ!ぼく『おとまり』したいです!」
『はい、大丈夫ですよ。お風呂は順番なので、えっと』
「俺が一番ねぇ〜」
私室から洋服を片手に出てきた瀬名くんはリビングを抜けて廊下を歩く。先程手を洗うために利用した洗面台がある方に向かった瀬名くんはたぶん扉を閉めた。
『仲良く二番目を決めてくださると助かります』
奏汰くんに洋服を渡して、そして宗にも渡す。いつの間に連絡を取ったのか携帯を片手に受け取る宗に仕事がえらく早いと思った。
風呂順を決めるため奏汰くんと宗が仲良くじゃんけんを始めて、にこにことそれを眺めていたと思うとこちらに振り返った。
『朔間さんはどうですか?朔間くんも待っているだろうし、帰られますか?』
ぱちぱちと瞬きをしながら返事を待たれる。家にいるかもしれない凛月は確かに心配で、連絡を入れるために携帯を取り出す。何度触っても慣れない携帯に文字を入れて送信した。
じゃんけんに勝った奏汰くんが先になったらしく、宗は手持ち無沙汰なその間に仁兎くんの動画をもらえないかと交渉してる。しっかりというかちゃっかりしている奴だ。
握りしめていた手の中の携帯が揺れて目を落とす。今日は衣更くんと久々のお泊り会だったらしく家にはいないとあっさりとした返信が来てた。
顔を上げて、仕方なさそうな表情で動画を切りとった写真を保存してるそれの服を引く。小さく握った裾に気づかれるか怪しかったけどきちんと気づいたようで俺を見る。目があって、咄嗟に手元に視線を落としてしまった。
『いかがなさいました?』
「………いま、凛月から連絡が返ってきて、……それで、…」
言葉を待ってるらしく見つめられるから頭の中が真っ白だ。浴室のほうが騒がしくてどうやら上がったばかりの瀬名くんと飛び込んだ奏汰くん、宗の口論が起きてるらしい。
唇を結って、噛まないように気をつけて、息を吐いてから顔を上げる。
「わ、我輩も、泊まって良いか、のう…?」
ぱちぱちと赤色の瞳を隠すように瞬いてふわりと柔らかく笑んだ。
『もちろんです。ふふ、なんだか賑やかで楽しいですね』
「う、うむ、」
掴んでしまっていた裾から手を放して、笑顔を直視できずに目線を落とす。
目の前で見てしまった柔らかい笑顔とか珍しく弾んでる声とか、我が家とは違う、包まれるような香りが心臓を掴んでしかたない。高鳴りすぎて今にも心臓が口から出そうなくらい緊張してる。
『朔間さんはこちらを利用してください』
動悸をおさえてる間に用意してくれたらしく洋服が渡される。スウェットっぽい吸水性が良さそうな布地。俺に渡してくるくらいだからサイズは問題ないんだろう。
いつの間に出てきたのか、熱心にスキンケアをする瀬名くんの隣で濡れた毛先を頬に貼り付けて笑う奏汰くんがいて、浴室から宗が現れた。
『朔間さんもどうぞ』
「…そうじゃな、借りるぞい」
『はい、ごゆっくりどうぞ』
誘導されるままに浴室に足を踏み入れる。整理整頓された脱衣所。続く浴室内も整理されていて少し見れば中身はすぐわかるだろう。多分ここに置けばいいのだろうおあつらえ向きに空いたスペースにもらった服を置いて広げる。
落ちた袋に目を瞬いて拾い上げた。
『あ、朔間さん』
聞こえてきた声に肩を跳ね上げて少し声を裏返らせれば特に気にした様子無く言葉が返ってきた。
『下着は新品なので安心してくださいね』
「ぐふっ」
『?』
向こうで聞こえた足音が不自然に止まったような気がしたけど拾い上げたばかりの袋に入った布地に頭を打ち付けて、息を吐き平常心を取り戻す。
大丈夫だ、新品のほうが使用済みと言われるよりも良いだろう。
一人頷いて洋服を脱ぎさり、先に入った瀬名くんと奏汰くん、更には宗のものであろうハンガーにかけられたブレザーに倣って俺も制服をかけ、ワイシャツやらは多分ここに入れろってことらしいかごに、なんとなく畳んで入れた。
レッスン終了後にシャワーを浴びたとはいえ、風呂に入るのとはわけが違う。スッキリとして温まった体に心は軽く、水気を拭き取り用意されていた服を着る。タオルを首にかけて浴室からリビングに戻ればちょうど聞こえていたドライヤーの音が止んだところだった。
『チェックはお願いしますね』
「ん。アンタもさっさとお風呂入ってきちゃいな」
『はい』
座って鏡を見る瀬名くんと、ドライヤーを置いたそれからして髪を乾かしていたらしい。宗は眠いのか、さっきまでは見なかったはずのクッションを抱え鼻先を埋め、二人がけ用の小さめのソファーに座っていて、対して奏汰くんは鼻歌を歌いながら大きなソファーに座りテレビを見てる。
『泉さん、皆さんを先に部屋に案内してもらってもいいんですからね?』
「斎宮がガチ寝しそうならそうするよぉ」
追いやるように手を払った瀬名くんにそれは俺の横を抜けて浴室に向かう。かすかに扉が閉まる音が聞こえて、奏汰くんと目があったから足を進め腰を下ろした。
「『きちんと』かみをかわかさないとかぜをひいてしまいますよ、れい」
「そうじゃな。……奏汰くん、なにか面白いものはやっておるのかえ?」
「はくあがさっきの『つづき』をつけてくれたので、それを『みてる』んです」
よく見たテレビにはKnightsが映ってる。それは月永くんと瀬名くんと鳴上くん、そして凛月に朱桜くんまでいて比較的新しいライブの動画らしかった。
「ほう、先ほどとは違うんじゃな」
「はい、これはすべてことしのものだそうです。みてください、みんな、とっても『たのしそう』です」
美しい笑顔。紅潮した頬。弾けた汗が輝いて自然と力が抜ける。Knightsの次はfineが映って、いつのものなのか天祥院くんもいて四人の揃った姿のfineでしっかりとした演目を見せていて、互いに目を合わせては笑顔を見せてた。
先程観たfineは凪砂くんと日和くんのダブルトップに補佐をする青葉くんがいて、どこまでも違う。
「たった一年…されど、一年…か」
「…あのころの『ぼくたち』はこんな『しあわせなみらい』、あるなんておもっていませんでしたね」
まだまだ幼い、拙いところもある姫宮くんを渉が手を引いて、伏見くんが後ろを支えた。その先で待っていた天祥院くんが手を差し伸べる。こんなにも柔らかく笑っている天祥院くんはあのままの夢ノ咲では絶対に見ることができなかったはずだ。
遠い目をして淡く微笑む奏汰くんは一体今なにを思っているか。逸らされてる瞳は酷く凪いでいて唇を結ってから微笑むことにした。
「全てに蓋をするのは悲しいが、わざわざ掘り出して晒す必要もなかろう。我輩、奏汰くんのライブが見たいのう。今の流星隊の動画はないのかえ?」
「……ふふ、はくあが『たくさん』よういしてくれてますよ」
差し出されたパソコン。覗き込めば時空列に沿って様々なユニットの名前があって、もちろんそこには流星隊もUNDEADも並んでいる。
アレが何を思ってずっとライブを撮りつづけているかなんて俺にはわからないが、それが今の奏汰くんの笑顔に繋がっているのならまた、俺はアレに感謝することが増える。
返したいものばかり増えてしまってどうしようか
奏汰くんは俺のリクエスト通り、流星隊のライブを流した後にValkyrie。 そして、どうしてかUNDEADも流して、続いたのは少しばっかしアングルの違う映像だった。
「わぁ♪」
かかった音楽はどうにも耳馴染みない。じっと見据えていれば明るくなったステージ上に五つの人が浮かんで、笑顔で舞台を歩き始めた。
「なぁに?confectionery?」
すでに寝落ちしそうな宗の隣に座った瀬名くんはまだ歌い始める前だというのに誰のライブか把握したらしい。歌い始めた彼らを見てどこか穏やかな表情をしてる。宗は一瞬顔を上げて、テレビに視線を移すとまたクッションを抱いて口元を覆ったけれど視線はきちんと画面に向けられてた。
そういえばさっきも瀬名くんはあっちの小さめのソファーに腰掛けていたし、以前来たときも彼処に座っていたけれど特等席なのだろうか。
画面に視線を戻す。練習を積み重ねたのだろう、位置移動が激しいにもかかわらずぶつからない五人。踊る前提としては動きが多いダンスに掠れること一つない歌声。
全体を映すようにしているせいかそこまでアップではないけれど全員が笑みを浮かべていて、あのロボットと例えられている椋実くんが、表情を貼り付けている柑子が、仏頂面の多い木賊くんが、喜怒哀楽のはっきりしている檳榔子くんと同じぐらい可愛らしく、はっきりと笑っていた。
観客を見ているのだろうけど、時折四人の視線が集まる。それは真ん中であったり、端であったり、場所移動の中で動く中心でどこにいても彼らの支柱なのであろうそれは、美しく笑っていた。
「しろくんたち可愛いねぇ」
「はい。とってもたのしそうです♪」
奏汰くんと瀬名くんが笑いあって、宗は見えている目元を和らげる。俺もなんでか自然と表情を緩めていて、気づかない間に口角を上げていた。
背徳で絡めとるUNDEADとも、忠誠心で特別感を煽るKnightsとも、破天荒な流星隊や独特の空気感で圧倒させるValkyrieとも違う。どちらかといえば革新的なTricksterや巻き込み型の2wink、Rabbitsに近い、あらゆる垣根を超えて昇華させる、多幸感を与えるパフォーマンス。
「圧巻だな…」
声をこぼしたと同時に、ぷつりと唐突に暗くなった画面に目を見開く。近くから聞こえてきたため息に顔を上げた。
『深海さん、こっちのファイルは触らないでくださいって言いませんでしたか?』
困ったような表情のそれは風呂から出てきたばかりらしく服は着ているものの髪は濡れていて時折毛先からは集まった水滴が垂れてる。
「ちゃんと隠しておかないしろくんが悪いよね?」
「もっとみたかったです」
『夜も遅いのでもう終わりですよ』
ぐずる奏汰くんに切り上げてパソコンにロックをかけた。奏汰くんは頬を軽く膨らませたもののすぐに俺に向かって楽しかったですねと笑うから頷く。
立ち上がった瀬名くんは手を伸ばすとそれの首にかかってるタオルを取り上げて頭に乗せると包むように水分を吸収しはじめた。
『泉さん』
「はいはい。俺がやってあげるからいい子にしててねぇ♪」
ごきげんなのを隠そうのもせず声を弾ませてる。俯いておとなしく頭を拭かれるそれは何も言わず、瀬名くんの鼻歌だけが流れてた。
しっかりとタオルに水分を移して、小瓶から手のひらになにか出すと伸ばして毛先につけていく。くせ毛なのか柔らかそうで少し跳ねてる黒髪に白い指先が絡むのはとても妖艶というか、淫靡に思えてしまって仕方ない。
「また髪柔らかくなってるねぇ」
『……そうですか?』
「最近買ったオイル、合いそうだからしろくんにあげるよ」
『…ありがとうございます』
リビングで行われるやりとりにすでに半分眠ってる宗はやっぱりどこも同じなのかと溢して、奏汰くんは二人を見てにこにこしてる。
「いずみ、『おにいさん』みたいですね♪」
「ふふ、いい響きだねぇ」
どこまでも上機嫌な瀬名くんはそのままドライヤーを用意して、出てくる熱風を髪に丁寧にあてていく。
水気が飛んでふわりと風に舞い始めた髪は見慣れたものに近づいていっていて、スイッチを切り替えた瀬名くんは先程よりも少し落ち着いた音のする風を髪にあてた。全体に風をあてて、電源を落とす。ドライヤーを置くと指先で髪に触れて、満足そうに頷いた。
「はい、終わり」
『ありがとうございます』
首元の毛だけ少し触ったと思うとすぐに手を離して笑う。
「しろくん、やり残したことはない?」
『仕込んでありますから大丈夫です。すみません、お待たせしました』
首を傾げた瀬名くんに笑顔を返して、そのまま部屋を割り当てていく。瀬名くんは以前と同じく家主と同室。俺を含めた三人は個別に部屋が割り当てられるはずだったが奏汰くんはすでに片足を睡眠の沼に突っ込んで寝かけている宗と同じ部屋がいいと意見したために以前俺と薫くんが借りた部屋に二つベッドを用意することになった。
余った俺は家主と真向かいに位置する部屋が宛てがわれて、眠る宗を運び終えたそれは息を吐いてから俺と奏汰くんを見た。
『大体用意してありますが、もし更に必要なものがあれば室内のものを自由に使ってください。喉が渇いたりしたらキッチンも気兼ねなくお使いくださいね』
欠伸する瀬名くんと部屋に入ったのを見送り、それぞれ宛がわれた部屋に向かう。
扉の向こう側は大きめの窓とそれを遮るカーテン。ベッド、デスクが置かれていてメイキング済のベッドに飛び込む。ふわりと体を受け止めたベッドからは柔軟剤かなにかの洗剤の香りと、更にほんのりとした香水の匂いがする。
この家はどこにいてもこの匂いがする。
枕に顔を埋めて息を吐いて、仰向けになる。借りた服のポケットに入れたままだった携帯を取り出して、サイドテーブルを見る。探すまでもなく置かれていた充電器はあまりの用意周到さに微妙な顔をせざるをえなくて、手に取り携帯に差し込んだ。
点いた画面に時刻が表示される。一般的に言えば遅いけれど、俺の中では普段よりもだいぶ早いその時間。宗や規則正しい生活をしていそうな瀬名くんならわかるが、俺はまだ、眠る気にはなれない。
なんなくベッドから降りて部屋の中をぐるりと見渡す。遮光カーテンを開けば薄いレースのカーテンがかかっていて、壁についたスイッチで室内の照明を落とせば淡く光が差し込んだ。
しっかりとかけられていた鍵を解いて、窓を開ける。ひんやりとした冬の夜風が吹き込んできてそのまま足を進めてベランダに出た。
腰よりも少しだけ高い塀に手をかけて力を込め浮き上がる。浮かせた足を塀にかけてまたがり、両足を外に出したところで腰を押し付けた。
夜風は身に染みるほどではないけど、肌を撫で付けていく風はやはり冷たく、風呂上がりで上がっていたはずの体温が奪われていく。目を閉じて風を受けていればこの家に来てからあれだけ不安定に揺れていた気持ちも収まりをみせてきていた。
この家は、心臓に悪い。どこにいても包まれているような感覚がして落ち着けない。
借り物の洋服を握りしめて、皺がはっきりとついてしまう前に手を離す。
瀬名くんは実家のように寛いでいたし、奏汰くんと宗は友人の家に来たような感覚だったようだからこんなに揺れているのは俺だけなんだろう。ああ、なんて情けない。
かちゃりと、小さく音が聞こえた左を向けば、リビングのそのまた向こう側から現れたそれは俺を見つけて首を傾げた。
『そんなところにいると危ないですよ』
家主に言われては仕方なく、塀から降りてベランダの床に座れば少し離れたところに同じようにそれも座り込んで、ゆっくり息を吐いた。白い息が空に溶けて消えていくのを眺めてると小さく笑う。
『今日は少し、疲れましたね』
言葉の割にどこか楽しそうな横顔は始めて見る表情で折角落ち着いたばかりの心臓が大きく跳ねて強く律動する。
しばらく宙を眺めていたと思うと不意に視線をおろして、目があった。肩から巻くように大きめの毛布を羽織っていたそれは右手を広げて首を傾げる。
『寒いでしょう?入りませんか?』
招かれた毛布の中。少し考えてから近づき、身を寄せれば小さく笑われた。
『今日の貴方は大人しいですね』
「……お主は気味が悪いくらい優しいのう」
『俺はいつでも優しいですよ?』
にっこりと笑って背に腕が回される。肩からかけられた布団は背を通して俺の前で押さえられて、いくら大きめの毛布だろうと男二人で入るには少し手狭だった。
「…我輩の基準がおかしいのか、お主の基準がおかしいのか…」
『貴方でしょう?』
「ふ、どうじゃろうな、今日一日で。お主の常識が違うとわかったからのう」
『貴方までそれ引き摺りますか?』
苦い顔をしたそれは衣装合わせの時のことを指しているとしっかり把握したようで口角を上げる。俺の表情に息を吐いたと思うと目を逸らした。
『なら、今日だけ。今日だけ、俺はおかしいんです』
凪いだ目で空を見上げる。けれど全く星を見ている様子もなく詰りそうになった息を吸って、言葉と一緒に吐き出す。
「それは…どういう意味じゃ?」
『………風邪みたいなもので、ちょっとだけ崩れている…普段とは違う状態。それが今の俺です』
「…………風邪を引いたのなら、暖かくして眠れば治るが…お主のそれは、何をしたら治るんじゃ?」
ゆっくりと落ちてきた視線は俺を見上げて、至近距離で眺めた瞳は月明かりに照らされ深く煌めいていた。
『少しだけ…俺に付き合ってくだされば、日が明けるまでには。』
何がこうさせているのだろう。包み込まれてるのは俺のはずなのに酷く不安定に見えて捕まえていなければ今にも消えてしまいそうに感じた。
「そう、か。それは我輩で良いのか?」
『はい。貴方がいいです』
すんなりと頷かれて、ぶわりと熱が顔に集まって唇を噛む。叫び出しそうになるから息を呑みこんで、三度目でようやく唇を解いた。
「何を…しようかのう?」
『貴方の話を聞きたいですね』
「……お主に付き合うのに、我輩の話をするのか?それは些か主旨がズレておらぬか?」
『へぇ。貴方は俺の話なんか聞きたいですか?』
ぱちぱちと瞬きをした後に首を傾げる。小さな子どものような表情。瞳の奥にどろりとした熱を押し込めたような色をみつけて、息を吸う。
ここで引いたらいけない。ここで引いたら最後、もう二度と近づくことはできない。
なんとなくそんな予感がして、少しだけ開いていたわずかな隙間を縮めるように身体を寄り添わせた。
「お主が、良いのなら」
『…………………』
「聞いても………いや、我輩は………俺は、お前の話が、聞きたい」
夜風に晒されて冷え切っていたはずの耳先まで熱が集まってるのか、体中が熱いけれど言い切って目を瞑る。
暫しの沈黙。嫌に静かな辺りに独りのような気持ちになるけれど回されている腕と寄り添った体から伝わる熱が微かに俺以外の存在を示してる。
痛いくらいの静寂と反応がないことに緩んだのか鼻がツンとして、涙が集まっている気配がする。一世一代のなけなしの勇気は、伝わらなかったのか。
涙が溢れる一歩手前。再度抱え直すように右腕が動いて寄り添わせていた体が更に近づく。とくりとくりと穏やかな心音を左耳から拾って、瞬けば涙が落ちた。
『俺の人生は失敗の連続なんです』
聞こえてきた声は心音と同じくらいに穏やかだ。
『取り返しのつかない失敗の先にあったのは、大切だったものが存在してた記憶。俺の記憶にはきちんと遺っているのに、世間が選んだのは、あの子達がいなかったことにする歴史。あの子達に向けるはずだった賛美それらを全て、どうしてか俺への賞賛に成りかえて、世間は俺を褒め称えました』
顔を上げてはいけない気がして、それでも右手を伸ばしてそれの服を握る。
『不思議ですよね。あの子たちは俺の全てだったんです。それなのに…まだ存在していたかったはずのあの子が消されたのに、あの子達がいなくても…俺の世界は回っていて……俺はただ惰性で生かされていて…碌な仕事も出来ないてないのに周りは褒めるんです』
不思議ですよね、と最初と同じ言葉で締める。回されてた腕が少し震えているのに気づいていたけど俺が何をしたらいいのか全くわからない。
ただ聞いていることは伝えたくて小さく頷けば息を吸う音がした。
『俺はあの時、すぐにでもあの子達の元に逝こうと思っていました。けれど、光さんが俺を繋いで、泉さんが俺と約束して、…この学園に入って、やっと死ねると思ったらみんながまだ早いなんて処刑場から遠ざけるんです』
自嘲気味に笑ったから息を呑んで、ゆっくり開く。
「………お前は愛されてるんだな」
『…愛?いいえ、これは枷で、呪いです』
「どうしてそう思う」
『誰も彼も、俺がした約束を…契約を中途半端に投げ出そうとしたから怒ったんです。俺だって、契約違反は許しません』
「………なら、お前の言う枷は…呪いは、今どれだけお前を囲ってるんだ」
初めて触れた核心に逃げられないよう手に力を込め直して問いかける。
話をするといったのは本気だったんだろう。少し考えるような間を置いてからまた息を吸う音がした。
『泉さん、シアン、黄蘗、柑子、斎宮さん、木賊…深海さん、蓮巳さん、日々樹さん、影片、乱さん、巴さん、遊木くん、月永さん、逆先、宙くん、七種さん……ああ、こう並べてみると案外少ないですね』
おそらく古いものから並べ立てたのであろう。学年も入り混じった名前はどれも聞き覚えがあって、逆に、多すぎるくらいだった。
「その全員が…お前と契約を結んでいると?」
『一部は軽い約束ですが、まぁ、そうですね。………全ての呪いを解くまで俺はあの子達のもとに逝くことは許されません』
「……お前はそれを解きたいのかよ」
『………呪いを“解きたかった”。それが今の俺です』
「どうしてそう思うようになったんだ」
『…………………』
今まで饒舌さが嘘のように静かになる。聞こえる心音はやはり穏やかでそれが現状と噛み合わなさすぎて気味が悪い。
冷たく、強めの風が吹いて、思わず体に力を入れれば伸ばされた右腕に力が篭って胸に耳が押し付けられた。
『………こんなこと、言って許される訳がないのはわかってるんです。でも、』
小さく言い訳する子どものように言葉を溢して、苦しそうにを吐き出した。
『呪いで雁字搦めの今が…少しだけ、心地いいと思ってしまって……今は、呪いを解くことが、怖い』
「…………いつからそう思い始めたんだ?」
『いつから、だったんでしょう……あの場で死ぬはずだったのに生き伸びてしまったことで少しずつ狂っていったのは確かで………貴方に言い訳をするみたいですが、あの頃の俺も、既にマトモじゃなかった』
「それは…俺を手にかけた話か?」
『…そうですね』
惜しむような色が混ざり始めた声に一度目をつむる。今でもあの日のことは鮮明に、一秒の欠けもなく思い出せる。
「…………あの頃のお前が狂っていたなら、俺も狂ってた。お互い様だな」
それが動揺したように体が揺れたのは、包まれていることでダイレクトに伝わった。再び妙な間が置かれる。
『出来ることなら貴方にはずっと俺を憎んでいてほしかった』
「………詰めが甘いって言われんだろ。殺されても仕方ないようなことをするくせに妙に優しくて、甘くて……てめぇにああいうことは向いてねぇんだよ」
二呼吸。その後にため息をつかれた。
『………………朔間さん、ストックホルム症候群って知ってますか?』
「俺が…それだって?」
『ええ。厳密に言えば少し違うのかもしれませんが……今の貴方は俺にこれ以上酷いことをされないように、有りもしないいいところを見つけて俺のやることを良いことだと、自分のためだって思い込もうとしてるんです。………貴方は高潔で、聡明な人だ。だから、俺がしたことの非道さをきちんと理解して糾弾できます。今一度振り返って、そして俺を断罪してください』
耳に馴染む声は言うことがひどくて仕方ない。
あの日俺が伝えたことは全てなかったことになっているのか。それが気の迷いだと、精神的なストレスによるものだと片付けられてしまうのは殺意が湧くほどに苛立ちを覚えるし、同じくらい、哀しかった。
「いつか檳榔子くんには言ったが、俺は人を憎むのが好きじゃない。それでもお前のことは死んでほしいくらいに酷いやつだと思ったのは確かだ」
『はい』
「顔を知っているかどうか記憶に怪しい、初対面とほぼ同じ相手に組み敷かれて、強引にヤられて、死ぬほど怖かった」
『はい』
「外された腕の、押し広げられた穴の、叫んで枯れた喉の、食いしばって噛み切った唇の痛みも、全部、覚えてる」
思わず強くなってしまった手のひらの力に握りしめてる服へ深く皺が寄ったのを感じる。声が震えるのは色んな感情がこみ上げてきているからで、奥歯を噛みしめてからまた口を開いた。
「なんで俺がこんな目に合わなきゃいけないのか理不尽さに腹立ったし、愉しそうなお前の声も殺意を煽って、でも段々、こんなことになってんのは俺のせいじゃないかとも思って……もう何が正しいのか、自分の気持ちのはずなのに整理が全くつかなかった」
耳を胸から外して起き上がる。降ろされた腕。距離が開いたことで風が入り、今まであったものがなくなるのは寒く感じた。
「お前が、てめぇが、俺を生かした。お前はそれを悔いてんのか」
見据えた瞳はやはり凪いでいて光がさしていないように見える。ほの暗く燻っているような、鈍い瞳の色はあの強さは見当たらないけれど白い肌に填められた赤色は宝石のようでとても美しかった。
『………貴方が生きていることに後悔はありません。でも、きっと、俺なんかが無駄に手を出さなくとも貴方は生きれたんです。あんなことをする必要がないくらい、貴方は周りの人に求められていた』
「お前に依頼したのも俺の周りの奴だっただろ」
『そうですね。それぐらいあの頃は全員が良識ある判断を出来なかった』
携えられたのは対人用の薄い笑みで唇を噛む。
もう一度、砕かないといけない。たとえ俺の想いが常識の範疇に無かったとしても伝えないと収まりがつかない。
噛み切ってしまいそうになっていた唇を解いて呼吸をする。言葉をまとめて、目の前のそれを見据えた。
「………………俺は、お前に生かされたことをこれまでないくらいに感謝してる」
『、』
「あの時代に終止符を打ったのが、仲間を…俺を救ったのが、お前で、本当に良かったって心の底から思ってる」
『……それは、』
「何度だって言うが俺はお前を長く憎んだけどその分依存してた。お前が来ない日は何もかもが怖くて棺桶から出ることだってできないくらい弱ってた。それを形はどうあれ、この世界に繋ぎ止めて、生き返らせたのは他ならないお前で、………俺は、」
手を握って、閉じてしまった目を開く。
「俺を繋いでくれたのがお前で、良かったって、感謝してる。ちゃんと貰ったぶんを全部返したい」
『…………意味が、よくわかりません』
「俺を救ったお前が消えるなんて許さねぇ。だから、出来ることなら…俺がお前に返すまで、俺はお前の枷になりたい」
『………………』
初めて表情が崩れる。丸くなった瞳に力が緩んだのか少し開いた口。視線が戸惑うように揺れて即座に唇が結ばれた。きつく閉じられた口元は悩んでいるのか、迷っているのか。俺達の間を風が流れるけれど身動ぐことなく視線は交わらない。
『おかしいでしょう…』
逸らされているのではなく迷っている視線。自然と俯いたそれに手を伸ばして頬に添え、包むように持ち上げる。
「苦しいときに、自分が救われたんだから今度は助けてくれた相手を救いたいって思うのは、おかしなことか?」
『これが美談だったならば…それもありでしょうけど……俺は貴方に救ってもらうような価値も権利もありません』
「………価値か権利があればいいのかよ」
『俺にそんなものがあるのなら』
縋るような目をしてるくせに決して手を伸ばさない。思わず歯噛みをして、目を覗きこんだ。
「俺をお前は救ったんだから、お前には俺がきちんと生きてるか見届ける権利がある」
『…なにを…今更…?』
「言っとくが俺はまだ進路を決めてねぇ。唐突に学園卒業目前に死ぬかもしれねぇぞ?」
『…………貴方はそんなことしないでしょう』
「生きる意味がないなら、別に消えたっていいだろ」
『良い訳がありませんよ』
「お前は消えたがってんのに?」
『、それは…』
「……………なら…今、ここで約束しろ。俺が消えないようにしっかり見守れ。その契約を破棄して死のうとするなら俺はてめぇが死ぬことを許さねぇ」
瞬き。泣きそうに表情が歪んで、その後に瞳が光を浴びて輝く。嬉しそうに笑ったその顔は歪だったけれど初めて見る笑顔に心臓が高鳴る。
『期間は?』
「卒業式の翌日まで」
『対価は?』
「俺の存在。力を貸すことも体を貸すことも厭わねぇ」
揺れた視線が逸らされそうになるから頬に添えている手に力を込めて、腰を上げる。そのまま顔を近づけて唇を合わせればすぐ目の前に見開かれた瞳があって、ずっと赤色だと思っていた瞳は深く濃い、ピンク色だった。
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