あんスタ(過去編)
すれ違ったその人に違和感を覚えたのはなぜかはわからない。後ろ姿を少し目で追っただけじゃ違和感の正体が見つかるわけもなくすぐに視線を進行方向に戻した。
同じ学校なんだからきっとそのうち関わり合うだろう。
こういうときの俺の勘は案外外れない
【紅紫一年・春】
ああ、やっぱり外れなかった。
部屋から飛び出して駆け込んでいった横顔が険しく、どうにも体調が悪そうで、追いかけていったその先。普段から頻繁に使われてる教室があるわけじゃないため利用者が少ないここは珍しく一番奥の個室が閉まっていた。
室内には聞けたものじゃないくらい嘔吐をする苦しそうな声と、吐き出されたものが落ちる水音が響いてる。
気づかないふりをして出ていくこともできただろうけど、あえて触れようと思ったのはこの間の違和感の正体に気づいたからだ。
こんこんと扉を叩いてから息を吸う。
『大丈夫ですか、気分が悪いんですか?』
途端に静まり返った個室内。扉の向こうからは物音一つ聞こえてこなくて逆に不自然で、もう一度ノックすれば小さな声が漏れた。
ひゅ、ひゅっと聞こえ始めた息の音に思いっきり扉を蹴る。
『聞こえますか!早くここを開けてください!』
「は、ひゅ、」
開けられる様子もないことに息を吐いた。
『ちっ……俺の声が聞こえますか』
「ひゅ、だ、れ」
『あなたの名前も知らない通行人ですよ。だから安心してください』
「お、れっふ、はっしんじゃ、」
『大丈夫です。死にません。』
「こわ、は、っ」
『絶対に死にません。大丈夫、俺がいます』
「は、は」
苦しそうな呼吸音が嫌に耳について、ゆっくり声をかける。
『いいですか、もう一度言います。それくらいじゃあなたは死にません。だから、俺の声にあわせて息をしてください』
「ん、」
『まず息を吸いますよ、いち、に、さん、とめて。はいて。もう一回。いち、に、さん、とめる。はいて』
「は、ふぅ、」
『上手ですね。その調子です。もう一回しましょうか。ゆっくり、いち、に、さん、とめて、はいて』
「ひゅ、……ふ、はぁ」
聞こえ始めたまだ正常とは言えないけど落ち着きを取り戻しつつある呼吸音。心の中でため息を吐いた。
『大丈夫、大丈夫。上手に息ができてますよ。気をしっかり』
「ん、はぁ…はぁ…」
『そう、上手です』
少し待てば扉の向こう側からどさりと音がして、戸が軋んだ。
「は、…ふぅ……あり、がとう」
『お気になさらないでください。…もう、大丈夫そうですね』
落ち着いたらしく、聞こえてきた声はこの人の人物像と同じように少し低くて知的に感じる。
「………迷惑を…かけた…」
『まさか、迷惑だなんてそんなこと思ってませんよ』
黙ってしまった向こう側。
冷静になって鼻につき始めた饐えた臭いに状況を思い出して足を引いた。
『出過ぎた真似をしてすみませんでした』
「……本当にすまない、助かった」
『いいえ。…―ハンカチを置いていくので、よろしかったら使ってください。それでは失礼しますね』
答えを待たないでその場を離れた。
一日経って、なんの気なしにあの手洗いに向かうと一番奥の個室が閉まっていて、足音にか気配が揺れた。
こんこんとゆっくりノックをすれば向こう側で息を吸う音がする。
「…なんとなく、ここにいたらまた会う気がしていた」
『偶然ですね、俺もです。…今日は大丈夫ですか?』
嘔吐音も過度の呼吸音も聞こえないそれに扉の向こう側でその人は笑う。
「今日は問題ない」
『そうですか、それは良かったです』
定期的に清掃員が入り使用者が少ないにしてもトイレであることに違いはないのに扉越し、穏やかに会話してることが少し間抜けに思える。
開ける気はないのか扉の施錠は外れないし、俺からそれについて問いかける気もなくて笑えば向こう側で小さく笑った。
「不思議だな。顔も名も知らない相手とこんなところで笑い合うなんて」
『知らない相手だからこそ話せることもあるってことなんじゃないですか?』
「…なるほど、一つ勉強になった」
くすくすと笑い声が聞こえて本来こんな笑うキャラじゃないだけに意外性を覚えてしまう。しばらく笑っていたかと思うと声が小さくなっていき静かになる。
扉が軋んだ音の後に呼吸音が届いた。
「一つ、何かの縁だと思って…聞いてはくれないか?」
『何をです?』
「ああ。」
息を一つ、二つ繰り返して小さな声が響く。
「文通を、してくれないか?」
時代錯誤の提案にまばたきを繰り返してしまう。俺のそんな感情に気づいてるわけもなく言葉は続く。
「ここで縁を切ってしまうのは勿体無い気がしてな…」
『…………』
「もちろん、無理なら断ってくれ。そもそも見ず知らずの俺の頼みを聞く道理もない」
少し悲痛そうに聞こえる声はもしかしたら幻聴なのかもしれない。
無意識のうちに噛んでしまってた唇を解いて息を吸う。
『…すみません、手紙は苦手で、……代わりと言っては、あれですけど…携帯の番号置いていきます。よかったら連絡ください』
「っ、……―ありがとう」
震えた返事にすとんと何か胸の中に落ちて、紛らわすように瞼をおろしたあとに連絡先を書いた紙を流しに置いた。
見下ろしたスマートフォンのライトが点滅してる。電話らしく光りながら揺れるそれに今日は誰からの連絡かと画面に目を落とせば未登録の番号で、一瞬躊躇ったもののひとつの可能性を持って通話を押した。
『はい、もしもし』
「……こ、んばんは。夜分にすまない」
聞いたことのある声にああやっぱりなんて頷いて心の中だけで息を吐く。
『まだ遅くないですよ、お気になさらないでください。…電話は新鮮ですね』
「そう…か?…普段も直接会っているわけではないだろう?」
戸惑うような声に少し天然なのかもしれないなんて思ってソファーに腰を下ろす。
向こう側も静かで、きっと自室でゆっくりしてるんだろう。
「まさか、本当に繋がるとはな」
『ふふ、嘘を書いたと思ったんですか?』
「…少し、疑ってはいたな」
軽い雰囲気で笑うその人は随分とリラックスをしてるのか声も柔らかい。
『俺も、連絡が来きて驚いてます』
「……そう、か。俺も連絡してることが幻みたいだ」
狐につままれてるのかもしれないなんて苦笑をしたと思えば向こう側で布のこすれる音がして、時計を見れば頂点を指すかささないかのそれなりにいい時間だった。
『夜は、きちんと眠れていますか?』
思い立った言葉を吐き出してしまっていて、彼が息を詰めたことに失言をしたかと苦虫を潰してしまったような気分になる。
少しの間をおいて、息をする音がした。
「…あまり」
『……―どうしてですか?』
「うまく…寝入れないんだ」
小さな小さな返事にやっぱりこの人も同じかと察してまぶたを一度下ろす。
『これは経験則なんですが、人と話してると眠くなるらしいですよ』
「……ほう」
『もしよかったらお話を聞かせてください。眠くなったら切ってもらっていいです』
「…俺の、話か…?」
『別に個人を特定したいわけでもないので貴方の話に限らず結構ですよ。話が思い浮かばないのなら俺が話しても構いません』
「………俺が、話したい」
『なら俺は聞き役になりますよ。あ、きちんと布団の中に入って横になりながら話してくださいね』
「ああ、そうだな」
布団をかぶり直したのか布がこすれる。その間に淹れてすっかり忘れてたコーヒーを飲めばぬるくなってた。
ついでに手を伸ばしてパソコンを目の前に置く。音が聞こえないようにタイピングをしていれば向こうも準備ができたのか静かになった。
「…―話すぞ」
『はい、どうぞ』
「…いざ―話すとなると、何を話していいのかわからないな…」
『なんでもいいですよ。俺はちゃんと聞いてますので』
「…………俺には、幼馴染がいるんだが、」
不自然な間のあとに始まった言葉。ぼそほそと続く話は病弱だという幼馴染の話で、入退院を繰り返してるとか、最近は比較的元気だけど目が離せないとか、幼馴染というよりも保護者のような目線で話してる。
適度に相槌を打ちながらコーヒーで喉を潤していれば向こう側の声は少しずつ小さく、ゆるくなっていってた。時計を見れば通話をはじめてから一時間を過ぎていて、深夜が相応しい時刻だ。
「―…それ、で………、―…」
『はい』
「……―」
もはや言葉にもなっていない向こう側からの音に耳を澄ませていればそのうち寝息が聞こえ始めて、三分様子を見たあとに通話を切る。
二時間弱の通話時間が表示された画面に一度目を閉じてから立ち上がった。
次の電話はいつ来るだろう。
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同じ学校なんだからきっとそのうち関わり合うだろう。
こういうときの俺の勘は案外外れない
【紅紫一年・春】
ああ、やっぱり外れなかった。
部屋から飛び出して駆け込んでいった横顔が険しく、どうにも体調が悪そうで、追いかけていったその先。普段から頻繁に使われてる教室があるわけじゃないため利用者が少ないここは珍しく一番奥の個室が閉まっていた。
室内には聞けたものじゃないくらい嘔吐をする苦しそうな声と、吐き出されたものが落ちる水音が響いてる。
気づかないふりをして出ていくこともできただろうけど、あえて触れようと思ったのはこの間の違和感の正体に気づいたからだ。
こんこんと扉を叩いてから息を吸う。
『大丈夫ですか、気分が悪いんですか?』
途端に静まり返った個室内。扉の向こうからは物音一つ聞こえてこなくて逆に不自然で、もう一度ノックすれば小さな声が漏れた。
ひゅ、ひゅっと聞こえ始めた息の音に思いっきり扉を蹴る。
『聞こえますか!早くここを開けてください!』
「は、ひゅ、」
開けられる様子もないことに息を吐いた。
『ちっ……俺の声が聞こえますか』
「ひゅ、だ、れ」
『あなたの名前も知らない通行人ですよ。だから安心してください』
「お、れっふ、はっしんじゃ、」
『大丈夫です。死にません。』
「こわ、は、っ」
『絶対に死にません。大丈夫、俺がいます』
「は、は」
苦しそうな呼吸音が嫌に耳について、ゆっくり声をかける。
『いいですか、もう一度言います。それくらいじゃあなたは死にません。だから、俺の声にあわせて息をしてください』
「ん、」
『まず息を吸いますよ、いち、に、さん、とめて。はいて。もう一回。いち、に、さん、とめる。はいて』
「は、ふぅ、」
『上手ですね。その調子です。もう一回しましょうか。ゆっくり、いち、に、さん、とめて、はいて』
「ひゅ、……ふ、はぁ」
聞こえ始めたまだ正常とは言えないけど落ち着きを取り戻しつつある呼吸音。心の中でため息を吐いた。
『大丈夫、大丈夫。上手に息ができてますよ。気をしっかり』
「ん、はぁ…はぁ…」
『そう、上手です』
少し待てば扉の向こう側からどさりと音がして、戸が軋んだ。
「は、…ふぅ……あり、がとう」
『お気になさらないでください。…もう、大丈夫そうですね』
落ち着いたらしく、聞こえてきた声はこの人の人物像と同じように少し低くて知的に感じる。
「………迷惑を…かけた…」
『まさか、迷惑だなんてそんなこと思ってませんよ』
黙ってしまった向こう側。
冷静になって鼻につき始めた饐えた臭いに状況を思い出して足を引いた。
『出過ぎた真似をしてすみませんでした』
「……本当にすまない、助かった」
『いいえ。…―ハンカチを置いていくので、よろしかったら使ってください。それでは失礼しますね』
答えを待たないでその場を離れた。
一日経って、なんの気なしにあの手洗いに向かうと一番奥の個室が閉まっていて、足音にか気配が揺れた。
こんこんとゆっくりノックをすれば向こう側で息を吸う音がする。
「…なんとなく、ここにいたらまた会う気がしていた」
『偶然ですね、俺もです。…今日は大丈夫ですか?』
嘔吐音も過度の呼吸音も聞こえないそれに扉の向こう側でその人は笑う。
「今日は問題ない」
『そうですか、それは良かったです』
定期的に清掃員が入り使用者が少ないにしてもトイレであることに違いはないのに扉越し、穏やかに会話してることが少し間抜けに思える。
開ける気はないのか扉の施錠は外れないし、俺からそれについて問いかける気もなくて笑えば向こう側で小さく笑った。
「不思議だな。顔も名も知らない相手とこんなところで笑い合うなんて」
『知らない相手だからこそ話せることもあるってことなんじゃないですか?』
「…なるほど、一つ勉強になった」
くすくすと笑い声が聞こえて本来こんな笑うキャラじゃないだけに意外性を覚えてしまう。しばらく笑っていたかと思うと声が小さくなっていき静かになる。
扉が軋んだ音の後に呼吸音が届いた。
「一つ、何かの縁だと思って…聞いてはくれないか?」
『何をです?』
「ああ。」
息を一つ、二つ繰り返して小さな声が響く。
「文通を、してくれないか?」
時代錯誤の提案にまばたきを繰り返してしまう。俺のそんな感情に気づいてるわけもなく言葉は続く。
「ここで縁を切ってしまうのは勿体無い気がしてな…」
『…………』
「もちろん、無理なら断ってくれ。そもそも見ず知らずの俺の頼みを聞く道理もない」
少し悲痛そうに聞こえる声はもしかしたら幻聴なのかもしれない。
無意識のうちに噛んでしまってた唇を解いて息を吸う。
『…すみません、手紙は苦手で、……代わりと言っては、あれですけど…携帯の番号置いていきます。よかったら連絡ください』
「っ、……―ありがとう」
震えた返事にすとんと何か胸の中に落ちて、紛らわすように瞼をおろしたあとに連絡先を書いた紙を流しに置いた。
見下ろしたスマートフォンのライトが点滅してる。電話らしく光りながら揺れるそれに今日は誰からの連絡かと画面に目を落とせば未登録の番号で、一瞬躊躇ったもののひとつの可能性を持って通話を押した。
『はい、もしもし』
「……こ、んばんは。夜分にすまない」
聞いたことのある声にああやっぱりなんて頷いて心の中だけで息を吐く。
『まだ遅くないですよ、お気になさらないでください。…電話は新鮮ですね』
「そう…か?…普段も直接会っているわけではないだろう?」
戸惑うような声に少し天然なのかもしれないなんて思ってソファーに腰を下ろす。
向こう側も静かで、きっと自室でゆっくりしてるんだろう。
「まさか、本当に繋がるとはな」
『ふふ、嘘を書いたと思ったんですか?』
「…少し、疑ってはいたな」
軽い雰囲気で笑うその人は随分とリラックスをしてるのか声も柔らかい。
『俺も、連絡が来きて驚いてます』
「……そう、か。俺も連絡してることが幻みたいだ」
狐につままれてるのかもしれないなんて苦笑をしたと思えば向こう側で布のこすれる音がして、時計を見れば頂点を指すかささないかのそれなりにいい時間だった。
『夜は、きちんと眠れていますか?』
思い立った言葉を吐き出してしまっていて、彼が息を詰めたことに失言をしたかと苦虫を潰してしまったような気分になる。
少しの間をおいて、息をする音がした。
「…あまり」
『……―どうしてですか?』
「うまく…寝入れないんだ」
小さな小さな返事にやっぱりこの人も同じかと察してまぶたを一度下ろす。
『これは経験則なんですが、人と話してると眠くなるらしいですよ』
「……ほう」
『もしよかったらお話を聞かせてください。眠くなったら切ってもらっていいです』
「…俺の、話か…?」
『別に個人を特定したいわけでもないので貴方の話に限らず結構ですよ。話が思い浮かばないのなら俺が話しても構いません』
「………俺が、話したい」
『なら俺は聞き役になりますよ。あ、きちんと布団の中に入って横になりながら話してくださいね』
「ああ、そうだな」
布団をかぶり直したのか布がこすれる。その間に淹れてすっかり忘れてたコーヒーを飲めばぬるくなってた。
ついでに手を伸ばしてパソコンを目の前に置く。音が聞こえないようにタイピングをしていれば向こうも準備ができたのか静かになった。
「…―話すぞ」
『はい、どうぞ』
「…いざ―話すとなると、何を話していいのかわからないな…」
『なんでもいいですよ。俺はちゃんと聞いてますので』
「…………俺には、幼馴染がいるんだが、」
不自然な間のあとに始まった言葉。ぼそほそと続く話は病弱だという幼馴染の話で、入退院を繰り返してるとか、最近は比較的元気だけど目が離せないとか、幼馴染というよりも保護者のような目線で話してる。
適度に相槌を打ちながらコーヒーで喉を潤していれば向こう側の声は少しずつ小さく、ゆるくなっていってた。時計を見れば通話をはじめてから一時間を過ぎていて、深夜が相応しい時刻だ。
「―…それ、で………、―…」
『はい』
「……―」
もはや言葉にもなっていない向こう側からの音に耳を澄ませていればそのうち寝息が聞こえ始めて、三分様子を見たあとに通話を切る。
二時間弱の通話時間が表示された画面に一度目を閉じてから立ち上がった。
次の電話はいつ来るだろう。
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