あんスタ
いつかと同じように、頭上から降り注いできた液体にまたかとため息を吐いた。同じことの繰り返しに芸がないなと目を瞑る。
今度は何の臭いもしないからただの水だったようだけど、冷たいことに変わりない。張り付いた前髪を上げた。
「?」
『、』
途端、目の前に現れた視界いっぱいの黄色いそれに言葉を詰めてしまった。ターコイズみたいな目が不思議そうに俺を覗き込んで首を傾げてみせる。小さな子供みたいな動きに反応が遅れた。
「変です。今日は雨が降ってなかったと思うのなー?」
『…ああ、うん、今日は快晴だね。これは別に雨で濡れたわけじゃないよ?』
「水浴び?」
『そう、そんな感じ』
なるほどと手を叩いて笑うものだから釣られて笑みを浮かべる。ネクタイを見る限り一年なのは間違いないが、一年は関わり合いが全くと言っていいほどないせいで正直この子が誰かわからない。
「は!初めて会った人には挨拶をします!はじめまして!」
『うん、はじめまして』
「きちんと返事をもらえました!挨拶は大切なのな!」
独特のルールで生きているらしくなんとも掴みあぐねてしまう。それでもなんとなく笑顔を作ったまま口を開いた。
『元気に挨拶ができてとてもえらいね』
「はい!シショーが教えてくれました!宙はきちんと約束を守ります!」
にこにこと笑うから、色味も相まって懐かしい。
心の奥底に固まってたモノが溶けるような、そんな感覚がして、なんとなく手を伸ばして頭をなでればその子はとても嬉しそうに笑う。
「いい人なー!」
『ふふ、だといいけどね?』
「はい!おニーさんの色はとっても柔らかくて優しいからおニーさんはいい人!」
『うん?』
不思議な言葉に目を瞬くも気づいてないのか気にしてないのか、嬉しそうに頭を撫でられるその子は、はっ!と目を丸くした。
「おニーさんびしょびしょです!風邪引いたら大変なのな!この時期はまだ寒いから冷やしちゃだめってシショーが言ってました!」
師匠というのが誰のことなのかは全くもって検討がつかないけど、随分としっかりした人らしく自由奔放なこの子の手綱を握ってるように、教育しているように思える。
慌てるこの子にそうだねと返して、また落ちてきた前髪を上げ直した。
『このままにしておくわけにもいかないから、着替えるよ』
「おニーさん着替えあるのかー?」
『うん、部室にね。心配してくれてありがとう』
「わ!部室!おニーさんは何部ですか!?」
『僕は天文部だよ。君は?』
「はい!宙は部活には入ってないのな!えっと、天文部の部室は天文台と聞きました!お星様を見るのが好きなんですか?」
きらきらと目を輝かせるその子は本当にあの子にそっくりで、思わず頬を緩めて髪を撫でる。
『嫌いじゃないよ。君も星を見るが好きなの?』
「お星様はとっても輝いていて、見ていると楽しいです!」
『そっか…なら、好きな時に星を見に来てね?』
「本当ですか!?行きます!」
ぴょんぴょんと跳ねてたその子は俺の手を取った。
「では向かいましょう!」
『うん?今?』
「はい!おニーさんのお着替えもしなくちゃいけないし、シショーのお仕事が終わるまで宙には時間がたっぷりあります!」
誘った手前、喜んでいるこの子の願いを潰えさせるのは忍びなくて頷く。握られた手をどうしたものか首を傾げてからそのまま歩き始めた。
人目を避けながら遠回りをして部室に向かう。
手を繋いでいなければあっちこっちに視線を奪われてどこかへ行ってしまいそうなこの子と会話をしながら進んだ。
「天文部ってどんなことをしてるんですか?」
『うーん、時間があるときに集まって好きなことをしてることが多いかな…?裁縫したり、料理したり、もちろん星を見たりね?』
「お料理?!天文台にキッチンあるのか?!」
『うん、簡易キッチンがね?』
「すごいすごい!おニーさんが作るのか?」
『僕も作るし、お茶だけならみんなも淹れるかな。特に黄蘗…えっと、部員の中には自分で食べるお茶菓子を用意することもあるよ』
「部員さんはどんな人なんですか?」
『そうだね…部員…たとえばシアンは星よりも本が好きでよく読書をしてるかな。黄蘗はお菓子が好きだからよく何か食べてることが多いね?』
「へぇ!おニーさんの周りはとってもカラフルなのな!」
『名前が…かな?まぁ、普通に考えればカラフルかもね?』
思いもよらない着眼点に本当に不思議な子だと笑みが浮かぶ。シアン、黄蘗と聞いてカラフルなんて、博識なのか知識が偏ってるのか、かわいいななんて思う。
「シアンさんはおっきくて強い青!」
唐突に特徴を上げ始めたその子に目を瞬く。会ったことでもあるのかと口を開こうとすれば、にこにことしたまま言葉を続けた。
「きはださんは小さいけど元気いっぱいなのな!」
『う、うん、そうだね…?』
「おニーさんの大切なお友達は、赤色と、緑色と…それと………?」
どうしてかじっと俺を見つめる。覗かれているような感覚。目の色が揺れて、濁る。
「金と…銀?」
『え?』
色は色でも、あげてたものとは全く違う単色。ひどく、細かく、揺れてる目。笑みのなくなった表情は今までと全く違かった。
「ぐちゃ…ぐちゃ、壊れた金の黄色と、冷たい、銀の青色」
『な、にいって』
「おニーさんは、塗り潰されて、色が、なくなって、」
“壊れた黄色”と“冷たい青”心当たりのすぎるそれに冷や汗が垂れて唇が震える。
この子は、一体
『どこまで、知って』
虚ろになった瞳から、ぼろりと水がこぼれた。
「どうして!そんなの、苦しいのな!」
そのままわんわんと声を上げて泣きはじめたその子にはっとする。柄でもなく戸惑ってしまい、膝をついて頭を撫でることにした。
苦しくなった胸に息を吐いてから笑みを繕う。
『え、っと、どうしたの?落ち着いて?』
「……あ、え?!春川くん、どうしたんですか!?」
ぱたぱたと駆け寄ってきた足音に顔を上げれば、目を丸くした一年の、たしか泉さんの後輩くんがいて、持っていた本を床に置き俺と一緒にその子をあやした。
「ええ、と。んんん、」
不慣れなのか困ったように眉尻を下げている。
「偽るのは、苦しいのに、」
「え?」
「苦しい、助けて」
「どうしたんです?怪我ですか?」
「うぇ、っ!」
ぼろぼろと意味有りげな言葉をこぼしながら小さい子どもらしく泣いてたその子は、えぐえぐと声をつまらせて、俺を見た。
「おニーさん、は」
『え?』
「どうして、」
「春川くん?」
「…_ほんとは、“あか”なのに」
『っ』
ぱっと手を引いて立ち上がる。
涙で濡れ滲んだターコイズは哀れみやらなにやらゴチャまぜになって俺を見ていて、心臓が掴まれたように苦しく、頭の中が真っ白になった。
「えっと、あの…?」
状況が読み込めていないのか困り眉で首を傾げたその子に、理解していても本能が勝ってしまい背を向けて走り出していた。
気管を音を立てて空気が通る。それでも足を止めてはいけない。
ばんっと劈くような大きな音を立てて開いてしまった扉に中にいたみんなの目が突き刺さって、何も言わずに後ろでに扉を締めてその場に蹲る。
走ってきたこととは別に、すごく、息が苦しい。
『ひゅ、はっ、』
「はくあ!?」
「はーちゃん?!」
慌てたような木賊と黄蘗の声。足音が聞こえて背に手が乗せられる。
「……はくあ、ゆっくり、ゆっくり、俺らと一緒に息すんで」
「よく見ろ。はくあ、俺を真似するんだ」
頬を包まれて顔を上げられ、視界いっぱいに飛び込んできた青色。じっと見据えられながら息を吸って、吸って、不意に優しく撫でられる背と呼吸音に気づいて息が止まった。
『は、げほっはぁ、……ふ、…ん…』
急に戻ってきた周りの音に噎せてから閉じてしまってた目を開ける。不安そうに揺れる黄蘗の瞳。一定の速度を保って俺の背を撫でる木賊。シアンは俺と目が合うなり穏やかに笑った。
「はくあ」
『……シアン、ごめん、ありがと…木賊も、助かったよ…黄蘗、心配かけてごめんね、泣かないで』
「あんま無理すんなや」
「はぁぁちゃぁぁんん!!」
飛び込んできた黄蘗を受け止めて頭をなでていれば隣のキッチンから出てきた柑子がゆるく笑んで膝をついた。
「はくあくん、喉が渇いていると思いますよ。よろしければどうぞ」
『ありがとう』
差し出されたカップに注がれた琥珀色の液体を飲みこんで、息を吐けば頭が撫でられる。視線を上げればシアンの手が俺の頭に乗せられていて、いつの間にか木賊は背中側から向かい側に移動していてしゃがんでた。
「ほんで、なにそんな泡食っとったん?」
「もしかしてやなことされたの?」
「どいつだ」
「なんなりとお申し付けください、はくあくん」
『うん、そういうわけじゃないから落ち着いてね』
目が笑っていないシアンと柑子を宥めてその場に腰を下ろす。深く息を吐いてなんだろうねと言葉を探した。
『何か、されたってほどでもないんだけど…ちょっと俺が過剰反応しちゃったというか…』
瞳を潤ませてる黄蘗と不審がってる木賊の頭を撫でてから仕方無しに立ち上がる。一緒に立ち上がった黄蘗の制服を整えてから表情を繕った。
『少し仮眠室にこもってもいいかな。何かあったら声かけるね』
「…、…うん」
「……ああ、わかった」
あからさまに肩を落とした黄蘗やシアン、心配そうに眺めてくる柑子と木賊にごめんねと言葉を吐いて右側にある扉に手をかける。そのまますぐに閉じて、ふらふらと部屋の隅にあるベッドに近寄り体を投げ出した。
スプリングの程よくきいたマットレスが体を受け止めて跳ねる。同時に濡れた制服が張り付いて着替えてもいなかったと思い出した。でも今からシャワーを浴びれる気もしなくて、手も使わずに靴を脱げば落ちた音がしたから散らばってることだろう。手近にある枕を寄せて腕の中にしまいこんだ。
『俺は、俺。ボクじゃ、ない…』
だから、誰もその名前で呼ばないで
いつの間に眠っていたんだろう。もしかしたら、気を失っていたのかもしれない。扉の向こう側が騒がしい気がして目を開けた。
溜まっていたらしい涙を乾いてる制服でぬぐってから体を起こす。
何かを否定して拒絶しているらしいシアンと柑子の硬い声。黄蘗の声はしないけれど木賊の心配そうな声が聞こえる。誰かはわからないけれど憤っているらしい来訪者を食い止めているようで、喧騒は少しずつ近づいてきていた。
まだ少しだけ苦しい胸を押さえて息をする。何度も深呼吸をして立ち上がった。
脱ぎ散らかしてしまっていた靴を履いて、扉を開ける。
「、はーちゃん」
扉の前にいたのかすぐ近くで驚いたように目を丸くした黄蘗は不安そうに俺を見上げている。頭を撫でてからまっすぐ前を見れば俺に気を取られた柑子とシアンの合間を抜けて彼が目の前に立った。
「もちろん、顔、貸してもらえるよね?ウチの宙を泣かせたの、君だろ」
隠すことなく眉根を寄せて怒りを顕にしている逆先に癖にもなっている笑みを繕う。
『……よりにもよって、君のとこの子か』
「今すぐ、部室に来い」
『うん』
「はくあ、」
踵を返して扉に向かう逆先にみんなの瞳が不安そうに集まった。
歩きながら一人ずつの頭を撫でて扉に向かう。最後に木賊の頭も撫でて扉に手をかけた。
『傷つけちゃったのは俺だから、ちょっと話してくる。すぐ戻ってくるからみんなはゆっくりしててね?』
「………ん、早う帰ってこいや」
唯一返事をした木賊に笑って部室を出る。外には今にも掴みかかってきそうなくらい苛立っている逆先が待っていて俺を見るなり歩き始めたからついていった。
無言で廊下を抜け、階段を上る。部室というのは逆先が所属するゲーム研究会の拠点のことらしく、目的の場所にたどり着くと扉の鍵を解いた。
先に入った逆先に続いて足を踏み入れる。ゲーム機の散らばる部屋の中。探すまでもなく中心に近いその場所に座り込んでいたその子は宙を眺めていて、目元は赤かった。
「宙」
逆先が声をかけて肩に触れれば大きく身体をはねさせて目を瞬く。視線が俺を捉えるなり立ち上がった。
「おニーさん!」
『あの、』
「おニーさん!ごめんなさいなのな!」
「は?」
開口一番に謝ったその子に逆先が拍子ぬけたように目を見開く。また泣きそうになっているその子は俺の服を握った。
「宙は、おニーさんが優しいからいっぱい話しちゃいました。勝手に喋って、いっぱいになって泣いて、シショーがおニーさんを怒ったのは宙がきちんと説明できなかったからです、ごめんなさい!」
「そ、宙?どういうこと…?ゆっくり話せる?」
理解が追いつかなかったのは俺だけじゃなく逆先もらしく目を瞬きその子の頭を撫でる。
「宙はまた失敗しました。おにーさんがお話してくれるのが嬉しくて、いっぱい話したら色がたくさん見えて、おにーさんが見てほしくないところまで感じて、怖くなって泣いちゃいました」
「………それで、泣いてるところに朱桜くんが来て、紅紫が逃亡したと?」
「んん、宙がいけないことを言ったから、おニーさんは身を守ったんです」
何か繋がったらしく納得したような表情を見せた逆先は、けれど眉根を寄せたまま俺を見据えた。不服そうながらもごめんとつぶやいて、その後に息を吐く。
「紅紫、…宙には、色が見える」
『え?』
「言葉自体にも、たとえば感情や匂いもすべてを色として感知できるんだ」
嘘ではないだろう逆先の言葉にすとんと何かが落ちる。繋がった点に笑みを浮かべた。
『…………それは、………そっか、君は黄色いのに、あおなんだね』
「は?」
息を吐いて噛んでいた唇を指先で抑える。切れてはいないけどほんの少し痕になっていてそのうち治るだろうとその子の髪に触れて目を覗きこんだ。
『…僕こそ、無理させたみたいでごめんね。吐き気とか、めまいとか…苦しかったりはしない?』
「はい、もう大丈夫な。びっくりしちゃっただけ………_そっか、おニーさんの銀の青色は、宙と同じだったんだ」
『……うん』
柔らかな髪は指に絡まることなく解ける。言葉を悩んでからでも、と目をつぶった。
『ごめんね。……これは触れてほしくない部分なんだ。あの子達のことは、話さないでくれるかな…?』
無理な要求だと蹴られるかもしれない。それでも言わずにはいられなくて目を開けるとその子は表情を緩める。
「そうだったのか…。宙こそ、おニーさんの中に踏んじゃってごめんなさい」
『気にしないで。……でも、謝れて良い子』
「挨拶とお礼は大切って教えてもらったのな!」
『そうなんだ?』
「だからおニーさんにもごめんなさいとありがとう!」
明るく笑った表情は本当にあの子達のようだ。胸の痛みが引いていく感覚にポケットに手を入れて、持っていたそれを取り出す。
『えっと、春川くん?』
「宙でいいのな!」
『そっか。僕は紅紫はくあ。………宙くん、甘いものは好き?』
「はい!宙は甘いものが大好きです!」
『よかった。手貸してもらえる?』
頷いてお願いすればためらいなく差し出された左手に置く。濃いピンクの紙に包まれたそれに宙くんは大きな目を瞬いて匂いを確認した。
「チョコレート!」
『うん。仲直りの証。もらってくれるなな?』
「はい!」
弾けんばかりの笑顔。そのまま嬉しそうに跳ね回る。足元の荷物を踏まない器用さに笑って眺めていれば宙くんは跳ねながら声を張った。
「シショーのお友達はとってもいい人なのな!」
「友達ではないよ、宙」
ため息まじりに首を横に振り、睨むように俺を見る。最初つれて来られた時よりは幾分マシになった目つき。嬉しそうな宙くんと俺を見比べて腕を組んだ。
「今回は僕の早とちりでひっぱり出してゴメンね」
『泣いてる子を置いてったのは事実だから…僕こそ、君の子を傷つけてごめん』
「そこに関しては全くダ。朱桜くんが宙を宥めて連れてきてくれなかったらどうなってたことだか」
『朱桜くんには今度しっかり謝ってお礼するよ』
後で泉さんに連絡しておいてアポを取ろう。ポケットから携帯を出そうとして、まだ少し濡れている布に苦笑いが浮かぶ。全く、どれだけ自分はいつも通りじゃなかったんだろう。
「紅紫」
逆先のちょっと硬い声。じっと見つめられて顔を逸らされた。
「今度宙を泣かしたら容赦しないからネ」
『うん、肝に銘じるよ』
「おにーさんっ!」
跳ね回っていた宙くんが戻ってきて俺の手を取る。さっきもあったような気がするそれに目を瞬くと心配そうに首を傾げられた。
「まだ冷たいです。着替えなかったのか?」
『ああ、ちょっと…でも、そろそろ着替えないといけないね』
「風邪を引いたら大変なー!」
『うん。ちゃんと温まるよ。心配してくれてありがとう』
髪を撫でて顔を上げる。いまいち内容が理解できていなそうな逆先に笑いかけた。
『宙くん、素直で良い子だね』
「………手、出したら許さないヨ」
『ん?僕はどんな節操なしに見られてるんだろうね』
「事実」
あまりに不機嫌そうな顔をするから苦笑して、揺れる携帯にそろそろみんなの限界を感じた。
早く戻って着替えないと、また風邪を引くかもしれない。
.