ヒロアカ 第一部
小さな音を立てて帰ってきた出久に泣きやんだばかりの母さんが勢い良く顔を上げる。そろりそろりと足音を殺して廊下を歩いて、静かにリビングに顔を出した。
「出久!!」
「ご、ごめんなさい!!」
頬に貼られた大きめの絆創膏と汚れた制服。視界にいれるなりまた泣き出しそうになった母に出久は慌ててリビングの中心まで足を進めて謝る。
見合うように向かい合って椅子に座ると母は息を吸う。無茶をしたことに対して叱り、そして人を見捨てられないその優しさを褒め、無事であったことに母は泣いた。
子供同士の喧嘩とはわけが違う。個性が世に出回ってからと言うもの、人の命は軽く消されてしまうのは常識であり、我が子がそんなことになることがあればきっと母さんは壊れてしまうだろう。
子供同士の喧嘩でも不安定になる母に今回のこれはかなり堪えたのか普段よりも長めに話をして、表情を緩めた。
「おかえり、出久」
「……た、ただいま!」
頭を撫でられて笑った出久。母はご飯はいるかと聞いて首を横に振った出久に眉尻を下げた。
「ならお風呂に入ってゆっくり休みなさい。出留も」
『はーい。出久〜』
「うん!」
黙ってソファーに座ってた俺を呼ぶから立ち上がって出久とリビングを出る。私室から洋服を取って風呂に向かえばすでに出久は中にいて制服を脱いでいるところだった。
「あ、ブレザーやぶれちゃってる…」
『明日は俺の制服来ていきな』
「え、でも」
『俺はパーカー着て行く。ほら、こんなことで出久の内申に響いたらしょうがないっしょ?雄英に行くんならマイナスは無しにしよう』
「………うん、ありがとう」
『ん』
ブレザーを洗濯物のかごとは別のところにかけてはにかむ。俺も制服を脱いで、二人で浴室に入り込んだ。
ノズルを捻って水を出す。すぐにお湯になったシャワーを頭からかぶって下がった前髪を後ろになでつけ、シャワーヘッドを取り、出久に向けた。
「ん」
頭を下げて受け入れる出久に右手で髪を撫でてお湯で洗っていく。一度シャワーヘッドを置いてシャンプーを手に取り髪につけて泡立てた。ふわふわとした出久の髪は普段と違い煤や砂のせいでか泡立ちも指通りも悪い。すぐさまお湯で流してもう一度シャンプーをつけた。
「そんな汚い?」
『んー、いつもとは違うかな』
二度目でようやく泡立ち、もこもことした白い泡が浮かぶ。色とボリュームが相まって羊のような見た目に満足し、もう一回自分の髪を濡らしてシャンプーをつける。さっさと洗ってすぐに流し、出久の泡も流して、緑色のボディタオルに石鹸をつけて渡せば出久はいつものように自分の身体を洗うから俺も赤色のタオルで同じように洗う。
洗って、流して、少し広めのバスタブに溜められたお湯に入る。昔からの流れとはいえ中学三年生が二人。最近は工夫して入らないと狭さが気になるようになってきた。ちょっと前までは向かい合って足を伸ばしても入れたのに、今じゃ同じ向きになって入ってるし、俺は足を曲げる必要がある。
「兄ちゃん」
『んー?』
恒例のごとく出久のうなじを眺めていると声がかけられて緩く返す。出久も足を折っているのか、膝を抱えていて背中が丸くなってた。
「今日はごめんなさい」
『なにが?』
「兄ちゃんとの約束、破っちゃった」
『あ~』
「………結局僕、怒られただけで役に立てなかったし…」
ぶくぶくとお湯に言葉が沈んで後は聞こえない。非力さを嘆いているようにも見えたけどなにか少し違う気がして、ひっかかるものの手を伸ばして今にも沈みそうな頭に触れた。
『危ないことをしたのはよくない。でも、勝己が危険な目に遭ってるのを見過ごすような子は、きっとヒーローになんかなれない』
「、」
『いくらなんて言ったって、勝己はたぶん出久のことを一番のライバルって思ってる。ライバルは助け、助けられ、ついでにお互いを高め合う存在なのが基本じゃない?』
「かっちゃんはきっと、僕のことそんな風には…」
『負けてないって、俺のほうが凄いって、勝己はよく出久に言うだろ?それ出久のことを意識してるって意味だと俺は思う。勝己が出久の何を見てそう思ってるのかは本人じゃない俺にはわからないけど、勝己は出久のなにかに負けそうだって、勝てないって思ってる部分があるはずだ』
「……………かっちゃんは何でもできて、すごいんだ…どれだけ憎まれ口叩くいじめっ子でも、かっちゃんは本当になにやっても許されるくらい才能に満ちあふれてて実力もあって、……そんなかっちゃんが僕の何を見てそんなふうに思ってるのかなぁ…」
『さぁね。それは勝己にしかわからない。気になるなら聞くしかない』
顔を上げて、仰け反るようにして倒れてきた上半身。頭頂部が俺の胸に当たって止まり、逆さまになってる大きな瞳が俺を見つめた。
「かっちゃん、絶対僕には教えてくれないよ」
『勝己は素直じゃないからねー』
「……かっちゃんのことを素直じゃないで済ませられるのは兄ちゃんだけだよ…」
呆れたような力のない声は室内に響いて溶ける。なんとなく笑って水の垂れる頬に触れた。
『いつか本音で話し合って、小さな頃みたいにまた仲良くなれたらいいな』
「うーん。そうなったら僕、五体満足に生きて帰ってこれるかな…?」
『……大丈夫大丈夫。命まではとられないはずだから!』
「五体満足のところは触れないんだね!お兄ちゃんってば素直すぎるよっ!!」
出久が叫ぶと、少しの時差があって浴室の扉が勢い良く開かれた。
「お風呂場で騒がないの!ご近所さんに怒られちゃうでしょ!!」
驚きから前傾姿勢になった出久にお湯が揺れて、目を閉じてから笑う。
『ごめんなさーい、気をつける』
「そそうだよね!ごめんね母さん!」
「………はぁ。もう。仲良しなのはいいけど逆上せる前に出るのよ?」
元気そうな姿に安心したのか出久を見つめたあとに表情を緩めて扉を締めていく。熱気のこもっていた浴室内の空気が一気に冷え込んだ気がして、温くなりはじめてるお湯を手で掬い出久の肩にかけた。
『それじゃあそろそろ数えて出ようか』
「うん!」
元の姿勢にもどり、体の力を抜いたらしい出久の背中が胸につく。
「いーち、に〜、さーん」
声変わりをしてもまだまだ高い出久の声が幼い頃と同じように間延びしながら数を読み上げる。
『よーん、ご〜、ろーく、なーな』
「はーち、きゅーう」
『じゅう』
ゆっくり十秒。お風呂を出るときのルールを今日も守って二人で湯船から上がり、シャワーを軽く浴びて浴室を出る。
出久は緑色、俺は赤色のタオルで体を拭いて服を着る。寝るだけだからと半袖のシャツとスウェットを穿いて、洗面台に並んだ歯ブラシを取って歯を磨く。
『ふぁーあ』
口を濯いで欠伸をこぼせば隣の出久も同じことをして、体はどうやらもう眠りにつきたいらしい。
『ん〜。おやすみ、出久〜』
「おやすみぃ…」
目元を擦る出久が部屋に入ったのを見送って、隣の部屋の扉を開ける。その瞬間に破裂音にも似た大きな音がしたから驚いて顔を上げれば閉まったばかりの隣の部屋の扉が開いていて出久がこちらを見ていた。
『い、出久?』
「あ、あのね、兄ちゃん!」
『うん、?』
「その、ちょっと明日朝早く行かないといけないから学校は別々に登校にしよ!」
『あ、うん、いいよ?』
「ありがとうっ!おやすみ!」
『おやすみ…?』
さっきとは違い静かにしまった扉に目を瞬いて、首を傾げてから部屋に入った。
欠伸を零しながら目を擦る。顔を洗って歯を磨いて、リビングに入れば母さんがキッチンに立ってた。
「おはよう、もうできるよ!」
『ありがとう。おはよう』
促されるまま席について隣が空いてることに首を傾げる。
『出久は?』
「それが朝ごはんも食べないで家出てっちゃって…今日学校で何かあるのかしら?」
知ってる?と不思議そうにしながら大きめの皿を置いた母に首を横に振った。
『いーずーく』
「…………」
『出久ー?』
「ぁ、え?!」
驚きのあまり椅子をひっくり返しそうになった出久の背を支えてもとに戻す。授業を聞いている様子はなさそうだけど、一応と言わんばかりに開かれた教科書とノート。書き連れねられているのは数字の羅列でこれは歴史の授業だったはずだ。
『大丈夫か?』
「う、うん、大丈夫…ちょっとぼーっとしてて…」
一体何時間目からぼーっとしてたのか。この様子だと今日一日の授業は頭に入ってなさそうで、教科書とノートを閉じて重ねる。
『飯は食べない?』
「た、食べる!あ、でもお弁当」
『出久のも持ってる。よし、じゃあ食べようか』
笑って髪を撫でれば何故か細かい砂が指につく。手を離して、立ち上がった出久と廊下を歩きながら手についた砂を指の腹で擦る。これは海の砂か。どうして出久が砂浜にいたのか気になる。
普段と変わらず屋上に向かいいつもの隅の方に腰掛ける。渡されていた出久の分の弁当と、自分の分を取り出して広げる。
母が作り上げた今日の弁当の中身はハンバーグらしく、出久が目を輝かせて笑った。
「いただきます!」
『いただきます』
お腹が空いていたのか、いつもより少し早く箸が進んでる。それでもちゃんと噛んでいるらしく頬が膨らんでいて、あっさりと自分の分を食べきった出久の少し物足りなそうな顔を浮かべる。付け合せのポテトサラダとプチトマト。ハンバーグとご飯を二口分欠けさせた弁当箱を交換した。
「兄ちゃん?」
『朝ご飯食べすぎちゃって、残すのもったいないからよかったら食べて?』
「ありがとう!」
元から少食ではなかったけど、出久がこんなにたくさん食べるなんて珍しい。好物を食べてにこにこしてる出久可愛いなんて思いながら水筒からお茶を注いで飲む。もう一杯注いで、弁当箱を置いた出久に渡した。
「ぷは…っ。ごちそうさまでした!」
『ごちそうさまでした』
弁当箱を閉じて片す。口を拭いて出久は一度伸びをすると俺を見つめる。何か言いだけな、秘密を口にしたそうな表情。それでも言葉を吐き出す様子はなくて、気づいていないふりをして目を逸らした。
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