1話 あの日見た背中
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一九六三年、十月――――……
夏が終わり、茹だるような暑さの続いていた京の都も、ようやく少しずつ過ごしやすい気候になって来た。
朝早く起き出して店先に出た千歳は、うっすらと白んできた東の空を仰ぎ見て、目を細める。
今日も、一日が始まろうとしていた。
澄んだ空気を思い切り吸い込み、僅かに残っていた眠気を吹き飛ばす。
「――よし、今日も頑張ろう!」
千歳は気合いを入れると、着物の袖をたすき掛けにしながら、店の中に戻った。
――千歳が京に来たのは、今から二年前――…
その前は、江戸の料理茶屋“柳屋”で働いていた。
幼い頃家族を失い、行く当てのなかった千歳は、縁あって柳屋の主人・甚一郎と、その妻・マツに引き取られ、育ててもらった。
その為ごく自然に料理を学び、柳屋で働いていたのだが、店の景気が右肩上がりに上がる一方なので、京に柳屋の暖簾下として新しく店を出そう、となったのが、二年前の事である。
そうして出来たのがここ、京でも最近有名になって来た料理茶屋“藤屋”だ。
新しい店を作るため、江戸の店は甚一郎の一番弟子に任せ、甚一郎、マツ、千歳、そして奉公人の伊織が、はるばる京へやって来たのだった。
何もかも一から段取りして構えて行くのは大変だったが、皆の努力の甲斐もあり、藤屋も名を馳せてきた所である。
京での生活にも慣れ、常連のお客さんも出来、幸いな事に順調な毎日を送っていた。
千歳はしん…とした店の炊事場に行き、今日の料理の仕込みと、使用人らの賄いも一緒に作り始める。
七歳で柳屋に引き取られ、それから甚一郎、マツに、料理の腕を仕込まれた。
料理は好きだし、何より誰かがホッと笑顔になって美味しいと言ってくれるのが嬉しい。
千歳がそんな事を思いながら野菜を切ってると、後ろから明るい声が聞こえて来た。
「おはよう、千歳。今日も早いねえ」
「マツさん、おはようございます」
千歳は包丁を動かす手を止めて、少し後ろを振り返り、すらりと背の高い細身の女性を見上げた。
マツは藤屋の女将として、主に店の管理に携わっているが、こうして早めに起きて、仕込み作業も手伝ってくれる。
明るくて気さくで、優しい、千歳の母親代わりのような存在だ。
「昨日も遅くまで片付けしてくれてたんじゃないかい?」
マツは気遣うように言いながら、袖を捲って準備する。
千歳はゆっくり首を振って、手元に視線を落とした。
「いいえ、伊織も手伝ってくれたので、そんなに遅くにはなりませんでしたよ」
「そうかい、ありがとうね。伊織といい、あんたといい、働き者で助かるよ」
マツの口癖のようなその言葉に、千歳はふふっと微笑んだ。
伊織は千歳より二つ年下の男の子の奉公人だ。
千歳が柳屋で生活を初めてから五、六年後に奉公に来た事もあり、千歳の弟のような存在である。
だが年の割にかなりしっかりしているので、千歳が助けてもらう事もしばしばだ。
今は、毎日の彼の仕事である食材の買い出しに行ってくれている。
マツは仕度が終わると、千歳の隣に立って、米を洗い始めた。
「本当に、千歳たちが居てくれて良かったよ。あんたたちがいなけりゃ、この藤屋もこんなに早く大きくなりはしなかっただろうさ」
「そんな、買い被りすぎですよ。私はただ、好きで料理を作ってるだけですから」
しみじみと言ったマツに、千歳が笑って答えると、マツはゆるゆると首を振る。
「いや、料理の腕だけじゃないよ。千歳は素直だし、柳屋でもあんた目当ての客が付くくらいだった。
外の人間が嫌いな京で、江戸の人間たちが上手くやっていけるもんかと心配してたけど……今やここでも、あんた目当てに毎日客が列をなしてるじゃないか」
「それは……」
千歳はここ数ヶ月の店の様子を思い浮かべて口籠った。
お客は毎日昼時前から列をなして、昼を過ぎて落ち着くまでは、ゆっくり水を飲む暇もない位忙しい。
夜は夜で、お酒を出している店でもあるし、それなりに混雑する。
純粋にここの料理が好きで通ってくれる客も勿論いるが、中にはマツの言う通り、千歳目当てに通って来ている客がいるのも確かだった。
そんなお客さんの大半は、千歳と何か会話して食事を楽しみ、満足して帰って、また来てくれる。それはすごく嬉しいし、有難いことだ。
だが京は不逞浪士も多い街。
中には酒に酔った勢いで、千歳に無理矢理お酌をさせようとしたり、しつこく絡んでくる男もいる。
京に来て丸二年経ち、千歳も十七になった。段々とそういう客のあしらい方も分かっては来たが、相手はあくまで客なので、対応には気を付けなければいけない。
けれどいざとなれば………―――
自分の身は自分で守らなければいけないし、自分がこの店を、この人たちを守らねばならない……と、千歳はいつも思うのだった。
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