三部・承太郎
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「バク」という架空の動物がいる。
そいつは肉や果物、野菜に穀物などを口にするのではなく、眠りに入っている人の夢を喰らって生きるのだという。
架空の生き物なのに「生きる」と言うのには語弊があるだろうが、しかしこの話においては「生きる」という表現で間違いはないのだ。
とにかく、そいつは生きていた。
人間の夢を喰らい、今日まで生きてきた。
地上に住む生物に等しく与えられる生命を持って、姿を持って、自我を持って。
長い髪の毛を緩く編み込んだ女は微笑んだ。
桜の香りが承太郎の鼻孔を掠めた。
「今日はどうしたの、元気がないわ。もしかして、また夢見が悪かった?」
「おれに元気がないと、決まって夢のせいにするな」
「だって、昔はそうだったじゃない。幼かった頃のあなたが教えてくれたのよ、怖い夢を見たんだって・・・・・・。覚えてない?」
「知らないね。それこそ夢だったんじゃないのか」
「あっそう」
机の上に左腕を乗せて頬杖をつき、年甲斐にもなく唇を軽く尖らせて不貞腐れたフリをしたイサミは、あーあ、と言葉を続けた。
「今のあなたにも、あの頃のように可愛げがあれば、もっと素直に教えてくれたのかしらね」
「くだらねえな」
承太郎は一蹴した。
あまりにもくだらない冗談だと思ったからだ。
「先に言っておくが、夢占いなら遠慮しておくぜ。知り合いに腕の立つ奴がいるんでね。そいつの方が当たる」
「へえ、承太郎が占いを信じるなんて意外。てっきり、女の好きそうなことだから男のおれはやらん!とか言うタイプだと思ってた。ごめん」
「・・・・・・てめーが、おれをそんな目で見ていやがったとは知らなかったぜ。これだから嫌になるんだ。人を見た目で判断する奴がいるってーのはよ・・・」
承太郎とて占いが嫌いなわけではない。
ただ無意味に行うことに意欲的でないだけで、おみくじのように、運試しにとに手を出すことくらいはある。
「信じてないでしょうけど、わたしの占いだって存外、当たるんだから」
「ふん。それこそ眉唾もんってやつだな」
「なによ、失礼なやつね」
イサミは手持ちの鞄に手を突っ込んでカードケースを引っ張り出すと、机上へトランプを滑らせていった。
見慣れた三色を基調としたカードが二人の間に境界線を引くようにして並べられた。
「どうせわたしは半人前ですよーだ!承太郎なんか、もう構ってあげないんだから!」
「おいおい。そうヤケにならなくてもいいだろ」
承太郎は椅子に深く腰掛けると脚を組んで、ついでに腕も組むと、見るからに疑わしそうな目線をそれらに送った。
男のかんばせが、ふ、と薄く笑みを浮かべた。
そこにはからかいの情が含まれていたかもしれない。
「そこまで言うなら、ご自慢のその腕で、てめーの未来でも占ってみるんだな」
「わたしは自分を占わないって決めてるの。これ鉄則」
これは変えることのできない規則、法則なのだと彼女は言い張る。
しかしそんなものはただの建前だと、承太郎はとっくの昔に見抜いていた。
本音を隠すための脆い策。
幼子にすら見透かされた策など、あってないようなものなのに。
成人を間近に控えた者が相手なら尚更、意味を成さないというのに。
彼女は、塗りたくったメッキを今さら剥がすことはしたくないらしい。
会えば事あるごとに過去を振り返りたがるイサミの根本までは、承太郎も理解できていない。
唯一、自信を持って言えることがあるとするなら、彼女が自身の未来に否定的だということだろうか。
他者と比べて懐古主義が過ぎるため、当初はその姿勢に、まるで前へ進むことを遠ざけたがっているような、奇妙な印象を受けたものだ。
承太郎は改めてこう思う。
そういつまでも過去を振り返って、いったい何になるというのだろうか。
無論、思い出は大切だ。
大人になるにつれて汚れていく心身と違い、子供の頃の宝物のように、思い出はいつまでも綺麗なままで承太郎の心の中に在り続けている。
さりとて、場合によっては振り返らなければならない事くらいは、承太郎だって十二分に理解している。
過去の経験を先へ活かすことも大切だと考えるからだ。
しかし大切なのは、これからの道を見据え、切り開いていくことではないだろうか。
承太郎からしてみれば、イサミの生き方には良しとしない点が大きく在った。
彼女も二十歳を超えた立派な女性だ。
将来を共にするパートナーが、そろそろ現れてもなんら不思議ではない。
だからこそ前を向くべきだ、承太郎はそう強く思った。
――おれはなにを考えているんだ・・・。
はっとして、承太郎は思慮の海から意識を戻した。
視界の隅でイサミが大きく伸びをしている。
つい説教じみたことを考えてしまっていたことに、深く息を吐いて気分転換を図る。
彼女は承太郎より年上ではあるけれど、歳は4つほどしか離れていない。
だが現在思春期真っ只中な男と、それも二人きりという油断ならない空間にいるというのに、相変わらずの暢気さには何度拍子抜けさせられたことか。
そんな事はお構いなしに、目の前で欠伸なんかしたりして、かなり呑気している女のことなど、考えたところで・・・・・・。
再度、気分転換のために窓の外を見やった。
昼下がりの明るい空を白い雲が泳ぎ、太陽に向かい背筋を伸ばした向日葵が水滴と相まって煌々と輝いている。
なんとも爽やかな夏だ。
「・・・夏だと?」
遠くの方で、ひぐらしが鳴いている。
「どうかした?承太郎」
椅子から立ち上がった承太郎にイサミが声をかけた。
イサミは占いをすることに飽きたらしく、器用にも大きなトランプタワーを完成させていた。
承太郎が机に手をついた衝撃でばらばらと崩れ落ちていくトランプの向こう側で、イサミは懐かしいものを視るかのように微笑んだ。
金木犀の、仄かに甘い香りが肺に滑り込んできた。
「外、綺麗だね」
「なにを」
言ってやがる、という言葉を唾液と共に飲み込んだ。
窓の向こうには暗闇が広がっていた。
いや違う、これはただの暗闇では。
「天の川が見えるでしょ。綺麗よね。こんなに綺麗な星空は、都会じゃなかなかお目にかかれないから、なんか得した気分だわ」
イサミの瞳に星の光が反射して見えた気がした。
承太郎は戸惑いを隠せなかった。
向日葵畑が広がっていたはずの景色から一転、光まばゆく無数の星屑が庭に生い茂る草木のように、腕を伸ばせば届きそうな距離から二人を優しく照らしている。
室内の照明はいつの間にか消えていた。
冬の匂いがする。
気がつけば、吐く息が視覚できるほどに室内が冷えていた。
「なにかおかしいなんてもんじゃあねえぞ。くそ、どうなっていやがる・・・・・・季節がころころ変わるなんて、これは・・・新手のスタンド使いのしわざなのか?そうでなけりゃあ説明がつかねえ・・・!」
「承太郎」
異変を嗅ぎとり、焦りを感じる自分とは相反して落ち着いた姿勢を貫くイサミに、承太郎は確かな違和感を覚えた。
しかしそれを問い質すのは後だ。
「イサミ、他の部屋に移るぞ!ここは危険だ!じじいたちと早く合流しねえと――」
「聞いて、承太郎。今のあなたならもう大丈夫」
イサミは子供に言い聞かせるように、安心させるように、聖母のように、優しさを込めた口調で承太郎に話しかける。
「これからもやっていけるわ。ねえ承太郎」
「イサミ?」
突如、閉じていた窓が勝手に開き、肌に刺さるような冷たい風が吹き込んできた。
トランプカードが風で室内を舞い上がる。
イサミの唇が言葉を紡ごうと動いた。
しかし声は風の音に掻き消されてしまって、承太郎の耳には届かない。
「くっ」
勢いに乗ったカードがすぐ目の前を過ぎったので、承太郎は咄嗟に腕で顔を隠した。
風が止んだ途端、部屋の中は静かになった。
しん、としている。
聞こえるのは一人分の呼吸音だけ。
承太郎は注意深く周囲の安全を確認しながら体勢を戻した。
「いない・・・・・・。おいっ!返事をしろイサミ!かくれんぼなんざ、してる場合じゃあないのは分かってんだろ!」
承太郎は、風と共にいなくなった女を見つけようと部屋中を見回した。
ところが不思議なことに、それらしき姿は欠片も見当たらない。
彼女の私物である鞄もなくなっていた。
「そういえば」と、承太郎は無意識に呟いた。
「・・・悪夢を、食べるスタンドとか言っていたな・・・・・・」
そう遠くない過去に彼女と交わした会話が薄っすらと蘇る。
旅の道中のことだ。
イサミが自身のスタンドについて話したことがあった。
それがいつだったかは明確には覚えていない。
それは明日の天気について会話するような、なんてことのない日常会話に織り交ぜられていたような気がする。
イサミが持つスタンドの姿は、実在するバクという動物そのものを模していた。
そこにファンタジーさの欠片などない。
他の動物と比べてやや面長の顔に、ピンと伸びた先の丸っこい耳と、かなり短めな尻尾、そして猪のような蹄。
白黒の毛皮に覆われた、ずんぐりむっくりな胴体が特徴的な、しかしそれでいて平凡でいて非凡な性質のスタンドだった。
『わたしのバクは悪い夢を食べて、代わりに良い夢を見せるスタンド。意識がはっきりしている人間の相手は不得手だし、はっきり言って足手まといになるかな。でも、相手がちょっとでもうたた寝していたなら、無理やり夢に引きずり込んで、深層心理を探って、とびきりの悪夢をプレゼントできるよ』
二度と見たくないようなやつを、ね。
イサミがウィンクを飛ばして言うと、誰かがごくりと生唾を飲んだ音がした。
夢の中では精神が無防備な状態だから、きっと成す術などないだろう。
各々が苦虫を噛み潰したような顔つきをしていたが、中でも、見るからにぞっとした表情を浮かべていたのは花京院だったのは印象深かった。
『安心して、みんなには許可なく憑かないから。悪い夢なら食べてあげるし、リクエストがあれば、それに沿った夢も見せてあげられるけど……。その場合、わたしと意識を共有することになるから、その点だけは気を付けてね。お互い記憶は残らないくても、後味が悪くなるのは嫌じゃない?』
イサミは、「それから」と続けた。
『射程はなし。対称の精神に憑いて回るから、何処へでも行ける。ただ、事前に指示内容を決めておかなきゃいけないのがネックかな。一度くっついたら、この子は死んでも離さないよぉ~~』
口許を指先で隠して、ひひひ、とイサミは意地の悪い笑みを浮かべた。
死んだことなどないくせに、よくもあんな冗談を吐けたものだ。
「・・・少しずつだが、思い出してきたぞ」
承太郎の中の穴だらけだったジグソーパズルが急速に、本来の形を取り戻していく。
「そうだ、おれは、おれたちはエジプトに行った。そして、そこで・・・・・・」
嫌な汗が垂れた。
信じられないことだ。
だがまさに今、自分はそれを体験しているのではないだろうか。
いや、体験している、確実に。
思い出してしまったからこそ、自分の置かれている現状をようやっとのことで理解することができた。
「イサミのやつ、なんてちぐはぐな夢を見せやがる・・・。もっとまともな内容があっただろうよ」
彼女は、イサミは、エジプトの旅の道中に命を落としていた。
他の仲間と同様、遺体の回収はとっくに済んでいる。
埋葬の手続きは両親と話をつけてからになるが・・・・・・。
承太郎は確信した。
死の際になってイサミが、承太郎の精神の奥深くにスタンドをとり憑かせたのだと。
それも相手に気づかせないように自然な動作で。
遺された者の夢を、心を護るためにとでも考えたのだろうか。
今の今まで、彼女の精神が常に傍にいてくれたことを思い知らされて承太郎は打ち震えた。
一言では形容できない感情が全身を駆け巡り、眩暈さえしそうだった。
原因が分かった以上、この空間でできることはない。
誰かが自分を起こしてくれるのが早いか、はたまたスタンドの効力が消えるのが先か、それまでこの夢は続くのだ。
「もう、夢を見せてはくれないのか」
承太郎がぽつりと呟いた。
これに応える者はいない。
夢を操るスタンドならば、もっとうんと都合の良い夢を見せてくればいいものを。
それができないのは、スタンドだけが一人歩きしているからか、それとも。
ギイ、と背後の扉が開く音が聞こえ、承太郎は振り返った。
思いのほか早く迎えが来たらしい。
「・・・・・・この夢ともお別れだな」
今回は誰かが自分を起こそうとしてくれているようだが、イサミがこの世にいない今、スタンドが消えるのも時間の問題だろう。
次また夢で逢えるとも限らない。
既にあの時、さよならは済ませた身だが、まさか、また再び言う時がくるとは思ってもみなかった。
承太郎は窓の外を見やった。
いつかの夜に仲間と焚き火を囲んで眺めた、静かな月夜と砂漠がそこに広がっていた。
「・・・良い夢をみせてもらった。じゃあな、イサミ」
承太郎はドアノブに手をかけ、扉を潜り抜けようと足を踏み出した。
その時だ。
『承太郎』
はっとした承太郎が、潜り抜ける直前に窓の方へ向き直った。
思わず息を呑んだ。
月夜に照らされたイサミが砂漠の中に立っている。
彼女の両脇には、かつての仲間の姿もあった。
懐かしい面々に気持ちがほとばしりそうになる。
『長生きして、幸せになってね』
『承太郎なら大丈夫。未来を切り開いていける』
『目には見えなくても、わたしたちの心はいつもあなたの傍に』
『みんな、あなたの幸せを願っているから』
じゃあね、と笑う仲間の姿がひどく眩しくて、承太郎は滲む視界を誤魔化すように目を細めた。
彼らを最後に見た記憶が優しく塗り替えられていく。
次第に浮上していく意識。
瞼越しからでも眩しい陽光に目を細めた承太郎は、かかっていた前髪を鬱陶しそうに指で払った。
「やっと起きよったわい。もうすぐ日本に着くから、降りる準備をしておくんじゃ・・・・・・承太郎?」
訝しげな視線を寄越してきた祖父が、承太郎の顔を見るなり、物言いたげな顔つきに変わった。
「なんだ、じじい。おれの顔に、何か付いているのか」
「・・・・・・いや、何でもない。お前はもう少し寝ていなさい。着いたら起こしてやろう。年をとると、ついせっかちになってしまっていかんわい」
ジョセフは帽子を深く被り直すと、つばをさらに下げて顔を見せないようにした。
「・・・じじい」
「・・・なんじゃ」
つばの隙間から、エメラルドの瞳が隣を見やった。
「花京院と・・・・・・イサミの家に行く時は、おれもついていくからな」
「・・・ああ」
二人はそれ以上の会話をしようとしなかった。
いつか近いうちに、祖父にもあのことを話しておこうか。
夢の中で見た光景を瞼の裏に描きながら、承太郎は思った。
悪夢というディナーを食べ尽くし、食後のデザートを遺してくれていた彼女のことを。
そいつは肉や果物、野菜に穀物などを口にするのではなく、眠りに入っている人の夢を喰らって生きるのだという。
架空の生き物なのに「生きる」と言うのには語弊があるだろうが、しかしこの話においては「生きる」という表現で間違いはないのだ。
とにかく、そいつは生きていた。
人間の夢を喰らい、今日まで生きてきた。
地上に住む生物に等しく与えられる生命を持って、姿を持って、自我を持って。
長い髪の毛を緩く編み込んだ女は微笑んだ。
桜の香りが承太郎の鼻孔を掠めた。
「今日はどうしたの、元気がないわ。もしかして、また夢見が悪かった?」
「おれに元気がないと、決まって夢のせいにするな」
「だって、昔はそうだったじゃない。幼かった頃のあなたが教えてくれたのよ、怖い夢を見たんだって・・・・・・。覚えてない?」
「知らないね。それこそ夢だったんじゃないのか」
「あっそう」
机の上に左腕を乗せて頬杖をつき、年甲斐にもなく唇を軽く尖らせて不貞腐れたフリをしたイサミは、あーあ、と言葉を続けた。
「今のあなたにも、あの頃のように可愛げがあれば、もっと素直に教えてくれたのかしらね」
「くだらねえな」
承太郎は一蹴した。
あまりにもくだらない冗談だと思ったからだ。
「先に言っておくが、夢占いなら遠慮しておくぜ。知り合いに腕の立つ奴がいるんでね。そいつの方が当たる」
「へえ、承太郎が占いを信じるなんて意外。てっきり、女の好きそうなことだから男のおれはやらん!とか言うタイプだと思ってた。ごめん」
「・・・・・・てめーが、おれをそんな目で見ていやがったとは知らなかったぜ。これだから嫌になるんだ。人を見た目で判断する奴がいるってーのはよ・・・」
承太郎とて占いが嫌いなわけではない。
ただ無意味に行うことに意欲的でないだけで、おみくじのように、運試しにとに手を出すことくらいはある。
「信じてないでしょうけど、わたしの占いだって存外、当たるんだから」
「ふん。それこそ眉唾もんってやつだな」
「なによ、失礼なやつね」
イサミは手持ちの鞄に手を突っ込んでカードケースを引っ張り出すと、机上へトランプを滑らせていった。
見慣れた三色を基調としたカードが二人の間に境界線を引くようにして並べられた。
「どうせわたしは半人前ですよーだ!承太郎なんか、もう構ってあげないんだから!」
「おいおい。そうヤケにならなくてもいいだろ」
承太郎は椅子に深く腰掛けると脚を組んで、ついでに腕も組むと、見るからに疑わしそうな目線をそれらに送った。
男のかんばせが、ふ、と薄く笑みを浮かべた。
そこにはからかいの情が含まれていたかもしれない。
「そこまで言うなら、ご自慢のその腕で、てめーの未来でも占ってみるんだな」
「わたしは自分を占わないって決めてるの。これ鉄則」
これは変えることのできない規則、法則なのだと彼女は言い張る。
しかしそんなものはただの建前だと、承太郎はとっくの昔に見抜いていた。
本音を隠すための脆い策。
幼子にすら見透かされた策など、あってないようなものなのに。
成人を間近に控えた者が相手なら尚更、意味を成さないというのに。
彼女は、塗りたくったメッキを今さら剥がすことはしたくないらしい。
会えば事あるごとに過去を振り返りたがるイサミの根本までは、承太郎も理解できていない。
唯一、自信を持って言えることがあるとするなら、彼女が自身の未来に否定的だということだろうか。
他者と比べて懐古主義が過ぎるため、当初はその姿勢に、まるで前へ進むことを遠ざけたがっているような、奇妙な印象を受けたものだ。
承太郎は改めてこう思う。
そういつまでも過去を振り返って、いったい何になるというのだろうか。
無論、思い出は大切だ。
大人になるにつれて汚れていく心身と違い、子供の頃の宝物のように、思い出はいつまでも綺麗なままで承太郎の心の中に在り続けている。
さりとて、場合によっては振り返らなければならない事くらいは、承太郎だって十二分に理解している。
過去の経験を先へ活かすことも大切だと考えるからだ。
しかし大切なのは、これからの道を見据え、切り開いていくことではないだろうか。
承太郎からしてみれば、イサミの生き方には良しとしない点が大きく在った。
彼女も二十歳を超えた立派な女性だ。
将来を共にするパートナーが、そろそろ現れてもなんら不思議ではない。
だからこそ前を向くべきだ、承太郎はそう強く思った。
――おれはなにを考えているんだ・・・。
はっとして、承太郎は思慮の海から意識を戻した。
視界の隅でイサミが大きく伸びをしている。
つい説教じみたことを考えてしまっていたことに、深く息を吐いて気分転換を図る。
彼女は承太郎より年上ではあるけれど、歳は4つほどしか離れていない。
だが現在思春期真っ只中な男と、それも二人きりという油断ならない空間にいるというのに、相変わらずの暢気さには何度拍子抜けさせられたことか。
そんな事はお構いなしに、目の前で欠伸なんかしたりして、かなり呑気している女のことなど、考えたところで・・・・・・。
再度、気分転換のために窓の外を見やった。
昼下がりの明るい空を白い雲が泳ぎ、太陽に向かい背筋を伸ばした向日葵が水滴と相まって煌々と輝いている。
なんとも爽やかな夏だ。
「・・・夏だと?」
遠くの方で、ひぐらしが鳴いている。
「どうかした?承太郎」
椅子から立ち上がった承太郎にイサミが声をかけた。
イサミは占いをすることに飽きたらしく、器用にも大きなトランプタワーを完成させていた。
承太郎が机に手をついた衝撃でばらばらと崩れ落ちていくトランプの向こう側で、イサミは懐かしいものを視るかのように微笑んだ。
金木犀の、仄かに甘い香りが肺に滑り込んできた。
「外、綺麗だね」
「なにを」
言ってやがる、という言葉を唾液と共に飲み込んだ。
窓の向こうには暗闇が広がっていた。
いや違う、これはただの暗闇では。
「天の川が見えるでしょ。綺麗よね。こんなに綺麗な星空は、都会じゃなかなかお目にかかれないから、なんか得した気分だわ」
イサミの瞳に星の光が反射して見えた気がした。
承太郎は戸惑いを隠せなかった。
向日葵畑が広がっていたはずの景色から一転、光まばゆく無数の星屑が庭に生い茂る草木のように、腕を伸ばせば届きそうな距離から二人を優しく照らしている。
室内の照明はいつの間にか消えていた。
冬の匂いがする。
気がつけば、吐く息が視覚できるほどに室内が冷えていた。
「なにかおかしいなんてもんじゃあねえぞ。くそ、どうなっていやがる・・・・・・季節がころころ変わるなんて、これは・・・新手のスタンド使いのしわざなのか?そうでなけりゃあ説明がつかねえ・・・!」
「承太郎」
異変を嗅ぎとり、焦りを感じる自分とは相反して落ち着いた姿勢を貫くイサミに、承太郎は確かな違和感を覚えた。
しかしそれを問い質すのは後だ。
「イサミ、他の部屋に移るぞ!ここは危険だ!じじいたちと早く合流しねえと――」
「聞いて、承太郎。今のあなたならもう大丈夫」
イサミは子供に言い聞かせるように、安心させるように、聖母のように、優しさを込めた口調で承太郎に話しかける。
「これからもやっていけるわ。ねえ承太郎」
「イサミ?」
突如、閉じていた窓が勝手に開き、肌に刺さるような冷たい風が吹き込んできた。
トランプカードが風で室内を舞い上がる。
イサミの唇が言葉を紡ごうと動いた。
しかし声は風の音に掻き消されてしまって、承太郎の耳には届かない。
「くっ」
勢いに乗ったカードがすぐ目の前を過ぎったので、承太郎は咄嗟に腕で顔を隠した。
風が止んだ途端、部屋の中は静かになった。
しん、としている。
聞こえるのは一人分の呼吸音だけ。
承太郎は注意深く周囲の安全を確認しながら体勢を戻した。
「いない・・・・・・。おいっ!返事をしろイサミ!かくれんぼなんざ、してる場合じゃあないのは分かってんだろ!」
承太郎は、風と共にいなくなった女を見つけようと部屋中を見回した。
ところが不思議なことに、それらしき姿は欠片も見当たらない。
彼女の私物である鞄もなくなっていた。
「そういえば」と、承太郎は無意識に呟いた。
「・・・悪夢を、食べるスタンドとか言っていたな・・・・・・」
そう遠くない過去に彼女と交わした会話が薄っすらと蘇る。
旅の道中のことだ。
イサミが自身のスタンドについて話したことがあった。
それがいつだったかは明確には覚えていない。
それは明日の天気について会話するような、なんてことのない日常会話に織り交ぜられていたような気がする。
イサミが持つスタンドの姿は、実在するバクという動物そのものを模していた。
そこにファンタジーさの欠片などない。
他の動物と比べてやや面長の顔に、ピンと伸びた先の丸っこい耳と、かなり短めな尻尾、そして猪のような蹄。
白黒の毛皮に覆われた、ずんぐりむっくりな胴体が特徴的な、しかしそれでいて平凡でいて非凡な性質のスタンドだった。
『わたしのバクは悪い夢を食べて、代わりに良い夢を見せるスタンド。意識がはっきりしている人間の相手は不得手だし、はっきり言って足手まといになるかな。でも、相手がちょっとでもうたた寝していたなら、無理やり夢に引きずり込んで、深層心理を探って、とびきりの悪夢をプレゼントできるよ』
二度と見たくないようなやつを、ね。
イサミがウィンクを飛ばして言うと、誰かがごくりと生唾を飲んだ音がした。
夢の中では精神が無防備な状態だから、きっと成す術などないだろう。
各々が苦虫を噛み潰したような顔つきをしていたが、中でも、見るからにぞっとした表情を浮かべていたのは花京院だったのは印象深かった。
『安心して、みんなには許可なく憑かないから。悪い夢なら食べてあげるし、リクエストがあれば、それに沿った夢も見せてあげられるけど……。その場合、わたしと意識を共有することになるから、その点だけは気を付けてね。お互い記憶は残らないくても、後味が悪くなるのは嫌じゃない?』
イサミは、「それから」と続けた。
『射程はなし。対称の精神に憑いて回るから、何処へでも行ける。ただ、事前に指示内容を決めておかなきゃいけないのがネックかな。一度くっついたら、この子は死んでも離さないよぉ~~』
口許を指先で隠して、ひひひ、とイサミは意地の悪い笑みを浮かべた。
死んだことなどないくせに、よくもあんな冗談を吐けたものだ。
「・・・少しずつだが、思い出してきたぞ」
承太郎の中の穴だらけだったジグソーパズルが急速に、本来の形を取り戻していく。
「そうだ、おれは、おれたちはエジプトに行った。そして、そこで・・・・・・」
嫌な汗が垂れた。
信じられないことだ。
だがまさに今、自分はそれを体験しているのではないだろうか。
いや、体験している、確実に。
思い出してしまったからこそ、自分の置かれている現状をようやっとのことで理解することができた。
「イサミのやつ、なんてちぐはぐな夢を見せやがる・・・。もっとまともな内容があっただろうよ」
彼女は、イサミは、エジプトの旅の道中に命を落としていた。
他の仲間と同様、遺体の回収はとっくに済んでいる。
埋葬の手続きは両親と話をつけてからになるが・・・・・・。
承太郎は確信した。
死の際になってイサミが、承太郎の精神の奥深くにスタンドをとり憑かせたのだと。
それも相手に気づかせないように自然な動作で。
遺された者の夢を、心を護るためにとでも考えたのだろうか。
今の今まで、彼女の精神が常に傍にいてくれたことを思い知らされて承太郎は打ち震えた。
一言では形容できない感情が全身を駆け巡り、眩暈さえしそうだった。
原因が分かった以上、この空間でできることはない。
誰かが自分を起こしてくれるのが早いか、はたまたスタンドの効力が消えるのが先か、それまでこの夢は続くのだ。
「もう、夢を見せてはくれないのか」
承太郎がぽつりと呟いた。
これに応える者はいない。
夢を操るスタンドならば、もっとうんと都合の良い夢を見せてくればいいものを。
それができないのは、スタンドだけが一人歩きしているからか、それとも。
ギイ、と背後の扉が開く音が聞こえ、承太郎は振り返った。
思いのほか早く迎えが来たらしい。
「・・・・・・この夢ともお別れだな」
今回は誰かが自分を起こそうとしてくれているようだが、イサミがこの世にいない今、スタンドが消えるのも時間の問題だろう。
次また夢で逢えるとも限らない。
既にあの時、さよならは済ませた身だが、まさか、また再び言う時がくるとは思ってもみなかった。
承太郎は窓の外を見やった。
いつかの夜に仲間と焚き火を囲んで眺めた、静かな月夜と砂漠がそこに広がっていた。
「・・・良い夢をみせてもらった。じゃあな、イサミ」
承太郎はドアノブに手をかけ、扉を潜り抜けようと足を踏み出した。
その時だ。
『承太郎』
はっとした承太郎が、潜り抜ける直前に窓の方へ向き直った。
思わず息を呑んだ。
月夜に照らされたイサミが砂漠の中に立っている。
彼女の両脇には、かつての仲間の姿もあった。
懐かしい面々に気持ちがほとばしりそうになる。
『長生きして、幸せになってね』
『承太郎なら大丈夫。未来を切り開いていける』
『目には見えなくても、わたしたちの心はいつもあなたの傍に』
『みんな、あなたの幸せを願っているから』
じゃあね、と笑う仲間の姿がひどく眩しくて、承太郎は滲む視界を誤魔化すように目を細めた。
彼らを最後に見た記憶が優しく塗り替えられていく。
次第に浮上していく意識。
瞼越しからでも眩しい陽光に目を細めた承太郎は、かかっていた前髪を鬱陶しそうに指で払った。
「やっと起きよったわい。もうすぐ日本に着くから、降りる準備をしておくんじゃ・・・・・・承太郎?」
訝しげな視線を寄越してきた祖父が、承太郎の顔を見るなり、物言いたげな顔つきに変わった。
「なんだ、じじい。おれの顔に、何か付いているのか」
「・・・・・・いや、何でもない。お前はもう少し寝ていなさい。着いたら起こしてやろう。年をとると、ついせっかちになってしまっていかんわい」
ジョセフは帽子を深く被り直すと、つばをさらに下げて顔を見せないようにした。
「・・・じじい」
「・・・なんじゃ」
つばの隙間から、エメラルドの瞳が隣を見やった。
「花京院と・・・・・・イサミの家に行く時は、おれもついていくからな」
「・・・ああ」
二人はそれ以上の会話をしようとしなかった。
いつか近いうちに、祖父にもあのことを話しておこうか。
夢の中で見た光景を瞼の裏に描きながら、承太郎は思った。
悪夢というディナーを食べ尽くし、食後のデザートを遺してくれていた彼女のことを。