一部
アリシア
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この頃の私はイギリスの町に対して大げさなイメージを抱いていた。
例えるなら「宝の山」だろうか。
人や荷馬車の往来が盛んなだけあり、珍しいお菓子に綺麗な服、本や食器などが、手に届く届かない関係なしに出揃っていたからだ。
探せば他にもっと大きい街があるとはいえ、世間知らずの、それも田舎娘の思考力といえばこの程度のものだろう。
週に一度、市場で作物を売りに来る日でも、夜になるまでに村へ帰らなければいけなかったから、自由に町を歩き回るなんてことはできなかった。
だけど今だけはちがう。
書店に並べられた小説を店の人に内緒で頭のページだけこっそり読んでみたり、レースをふんだんに使ったドレスを、ガラス越しに熱心に眺めていても良い。
道路を颯爽と駆け抜けていく、馬車に乗った貴婦人に小さく手を振って、見えなくなるまで見送っても、父は文句を言わずに着いてきてくれた。
振り回して申し訳ないと思う反面、純粋に嬉しい気持ちが勝った。
ところが楽しい時間というのは、あっという間に過ぎ去るもので。
喫茶店の壁がけ時計の長針が15時過ぎを指す頃。
私たち二人は、冷たい紅茶と出来たてのスコーンを味わっていた。
「まずい、もうこんな時間だったのか」
時計に気がついた父が、忙しない様子で椅子から立ち上がった。
私はというと、それどころではなく、恥ずかしい話、口の中のスコーンを飲み込もうと一生懸命になっていた。
べつにがっついていたわけではない。
これでもある程度の食事のマナーを心得ているつもりだ。
だから、そう、タイミングが悪かっただけ、これだけは信じて欲しい。
「約束の時間に遅れては失礼だ。先に外で待っているから、アリシア、それを食べたら出てきなさい」
カバンを片手に店をあとにする父の背を眺めながら考える。
約束、時間、失礼、なるほど。
ここにきてやっと目的がはっきりしてきた。
父は誰かと会う約束をしていたのだ、しかもそれは私を含めて。
従って、私も町に連れて来なければならない。
そこでもっとも効率的なやり方が、まあ、今回の気分転換という名目での外出になったのだろう。
カップに残してあった紅茶で、半ば流し込むようにしてスコーンを飲み込む。
はあ、と、自由になった口で人知れず一息ついた。
もう少しゆっくりしたいけれど、あまり父を待たせるわけにはいかない。
私は自分の背よりも少し高めの椅子から転げ落ちないよう、慎重に降りようとした。
降りようとしたところで、突然、誰かから声をかけられた。
「ずいぶん美味しそうに食べてたね」
「!」
声のした方、隣の席を見やれば、知らない少年が微笑んでいた。
汚れ一つない、質の良さそうな服をきちっと着込んでいる。
服装や身なりから察するにあたり、たぶん上級階級の出身者なのだろう。
さらさらした黒髪の隙間からのぞく、涼しげなエメラルド色の瞳が印象的だ。
「君、見たことない顔だけど、この近くの子じゃないだろ。旅行者かい?」
「・・・・・・・・・」
「あっ」
私はゆっくり椅子から降りると、そのまま黙って店の出口を目指して走りだした。
つまるところ、彼の問いに無視を決め込んだのだ。
相手が自分より上の立場だと分かっていての、あえての無視。
父に知られれば、きっと叱られるに違いない。
そしてたったの時間後に、改めてこの愚行を後悔することになるなんて、この時の私は微塵にも思っていないのだった。
「行ってしまった・・・」
行き場のない右手が宙ぶらりんになる。
急に声をかけたのがいけなかったのだろうか?
それとも彼女が普通に恥ずかしがり屋だったせいなのか、どっちみち、女の子に対しての扱いがまだまだな証拠だ。
自信をもって近づいてみただけに、ちょっぴり気落ちしそうになる。
「本当の紳士になる道は遠いや」
あの子と話している間、テーブルに放置したままだった紅茶にゆっくりと口をつける。
熱くもなく冷たくもない、微妙な温さが舌の上に広がった。
「あの子の名前、アリシアって言ったっけ」
彼女と相席していた男性が確かそう呼んでいた。
また会えたなら、今度は上手く話ができるといいな。